「……フン?」
いつもの通り、深夜に最後の「夜お茶」をしに来ていたオキャクが帰っていき、閉店後にコンスタントに不快にならない程度の賑わいを保っていた店内をつらりとゾロは見回した。たまに(本人談)未だに奥のカフェカウンターから踏み出す一歩を間違うと途方に暮れることもあるが、正規雇用されてから半年もあっという間に過ぎてしまえば「慣れてきた」場所はまだざわめきの余韻が感じれらた。バリスタは丁寧に仕事を終えると最後のカップを棚にきっちりと仕舞っていた。
そして涼し気な声が、ごくろうさま、と届いた。このあたりもいつも通りのことだ。ただいつもと違うのはーーー
まだ黒の半エプロンをしたままでじっと腕を組んで見遣る先にはずっと閉じられっぱなしの銀色の扉があった。あの扉にくり貫かれた丸窓から中を覗き込めば一体「天才」は何をしていやがるんだろう、とうっかり透視術でも得とくしそうな集中具合だった。
ここ何週間か、この店のオーナーである「天才パティシエ」は最後のスウィーツが世の中の美食家連中が卒倒した「美しさ」でフィニッシュを施されてからも出てこようとはしない。

「なにしてやがるんだ?」
とはいえ、自分を避けているわけではないらしい。とまだコイビトにはなりきっていないのか、それとももううっかりヤケクソなのか、非常に微妙な「天才」の言動をつらりと思い返した。
きらわれてはいないだろう、なぜなら、未だに毎朝迎えに来ている(ふ、と目を離すとカフェまで道を失うからだ)、開店準備の合間に軽く唇であのキレイな形のひたいだとか、少しばかり神経質そうな変な眉のあたりに触れても、ふにゃ、と機嫌よく笑うし、あの素っ頓狂な素直さで毎度毎度、バックオフィスで着替えるゾロのダブルカラーのカフスをにこにことしながら嵌めているのだし。
それが、だ。少し前までは閉店後も新作のアイデだのが浮かべば平気で何時間でも篭もりっぱなしでも何かと大騒ぎをしてゾロを呼び込んでいたのだ。あの銀色の扉の内側、「世にも稀な宝石」だの「味覚の奇跡」だのといわれるものが作りだされる場所に。
ところが、だ。ここ何週間か、あの扉はまったくもって開かない。
あの扉の内側にはおいそれと入っていけるものでもない、とゾロは思っている。なぜなら、あの場所はあの頓珍漢なようでいてその実おそろしいほど真摯な性質のあの人間が大事な何物かと向き合って(パティシエのミューズが一体何なのかはジブンの関知することでもない、とゾロは思ってもいた)いるのだから、他者がそう易々と入り込めるような場所でもないのだろう、と。

だから、コン、と外から丸窓をノックすれば、「ひゃあ!」だの「ぎゃあっ」だの聞こえ、「まだ入ってくんナ!」と天才が叫ぶものだから、「もうオレは帰る」と言ってしまいたいところを何とか押し込んで、ソファに座っているのが最近の常だった。
「−−−きょうもおつかれさま」とバリスタが静かな笑みと一緒にゾロの前にエスプレッソのデミタスカップを置いていってくれることが、最近それに加わった。
「オーナーを待つのかな」
頷いて返せば、また微笑まれ。
「そう、おやすみ」
カツ、と靴音も涼やかにバリスタも帰っていき、店内に自分だけが残ることになってもなぜだかあの「天才」を残しては帰れない気がするので、扉が開くのを待っているようになった。あの中から出てきたサンジがソファにいる自分を見つけて、げっそりしたカオをしていたくせにそれが、ぱ、と何段階も飛び越して一気に明るくなるのをみるのがとても好きだからだった。
スランプ、というわけでもないのだろう、けれど。なにしろ、溢れるようにアイデアとイメージが浮かんでくるものだから「二度とは無いであろうその一瞬一瞬」とやらを求めてそれこそお客が国を越えてやってくるのだから。

何をそんなに必死になってやってるんだろうな、とゾロは思って、まぁいいか、と思考を切り上げた。スウィーツに関してはジブンはドのつく素人であるしこの場所が機嫌よく回っていて、サンジ自身の気分が良くなるようにしてやれることが、まぁジブンに出来る最大限のことだろうと思っているから。それに、その方面には自分のほかに最適な人材は見渡す限り、いないだろうと確信してはいた。
それこそ殺人的に慌しかった先月も、コイビトに大切に思っていることも伝えなおした。当のサンジ本人が急に赤くなったかと思えば蒼白になり、一瞬後には茹でエビみたいに真っ赤になって、あれだけ饒舌なヤツが黙り込んでただ首にしがみついてきたのは、ハナの頭がムズ痒くなるほど「シアワセ」になったりしたほどだから、自分といるのが苦痛というわけではないんだろうな、と楽観していた。もともとゾロは楽観的な人間だった。一風変わった運命論者ともいえる。「物事はなるようにしかならない」。もちろん、ただ漫然と何かが起こるのを待つ気はさらさら持ち合わせていなかったけれども。
だから、サンジがあの扉から出てきたらまたいつものように髪をくしゃりと握って、軽く抱き込んだらさっさと家に帰るか、と思っていた。実際、あの天才の言動が少々「アレ」なのは今にはじまったことじゃないしな、と大層おおらかだった。

****

概ね、サンジはとても自分は幸福な人間であると思っていた。
直感と情熱と愛情の赴くままに作り上げるものは賞賛をもって歓迎されて。もしほんの一握りのだれかに喜んでもらえてもまったく差し支えない、同じように幸福だろうなと思っていたし、ささやかに(とはいえジブンの目の届く範囲で)イートインでのみ提供する店はちょっと予想もしていなかったほどの盛況ぶりではあった。あるいみ、聖地めぐりの一環にでもされた感もあった。
祖父のレストランでとびきり美味い珈琲を淹れていたヘッドウェイタも自分の店に移ってきてくれていたし(老後の趣味ですかね、と笑っていた)、おまけにフェティシズムの域にまであっさりと達しているギャルソン制服マニアでもあったジブンのまさに理想系ともいえるスタッフも、ほんのちょっとした偶然から働くようになって、人生こんなに好調続きでどうしようってな!な具合だったところに(その理想のギャルソンが地獄から来た迷子男であっても、どうにか店内だけは迷わなくなって)、自分にとっての理想系からポロリと好きだと告げられて頭のなかがメレンゲをぶちまけたようにふにゃふにゃになった。マカロンじみた色彩だった、おまけに。

とても、とてもシアワセでそりゃあもうぶっ飛んだ。ぶっ飛びすぎて返事が、『−−−あ、そう』であったほどに。
『あァ、』
と理想のギャルソンがまっすぐに口元を引き結んだ。ミドリ眼、なんだか動物の目みてぇな色だなと常々サンジが見惚れかけていたそれがキュ、と瞳孔を狭めていくのを見つめていた。
『---で?』
とギャルソンが返してきた。
『へ?』
『”あ、そう”っていうのは返事じゃねぇだろ』
いわれてみれば確かにその通りだったのでサンジもそのまま頷いた。そうしたならギャルソンのミドリ目が急に近づいてきて、あぁ瞳孔の縁はきれいな鳶色なんだな、と思っていたならキスをされた。そのあとのことは覚えていない。雨の日曜の午後であったことは覚えている、その日のカシスのジェレの柔らさも。
好きだよと言うことはとてもシアワセでサンジはこのうえもなくすきだったけれども、好きだよと言われることも、ことさら、むずむずとくすぐったいような、ちょっと叫びだしたいような気分になるんだなぁと天才だけに少し特殊な感受性を持ち合わせている自覚の無いパティシエは日々、それ以来感じ入ってはいるのだった。

そして、クリスマス休暇などというものを2人で過ごしてみたなら、思春期をもう一回やり直したような按配になった。くっくと笑いあってベッドに潜り込んだまま額をつき合わせているのも楽しかったし、思い切り抱き込まれて眠るのもシンセンだったし、大きなトラだかケモノだかを抱えて眠っている気分になるのも楽しかった。要は、人生の新しい扉が開いたからといって幸福度合いが増すだけであったのだーーーそりゃ、多少はびっくりしたけど、と。そうサンジはここ数ヶ月を振り返っていた。

だから概ね、とてもとても幸せだったのだ、二月がくるまでは。

忙殺、という単語とは無縁に、このシーズンも満足のいくスウィーツを作ることはできた。そりゃ、自分でも感動するほどの美しいものたちを幾つも。現に、世界有数のショコラティエも恭しくかつうきうきとフォークを口元に運んだとたん、震えだし、一口味わったなら言葉を失い、同行していた編集者と手を取り合っていたほどだった。サーブしたのは、「シンプルすぎる」ほどのフォンダンショコラだったけれども、計算されつくしたモノほど、簡素な趣であるのだとその御大を涙させた。

ーーーところが、である。ここに事態は一変する。
一月を過ぎ、二月を過ぎ、三月にもなろうかというのに、大事なひとり、のための一品を作れずにいた。まるで魔法にかかったようになにもかもがぴたりと停止してしまうのだ。高等数学のテキストを見せられた幼児並みに途方に暮れた。いや、こどもの方が余白に絵を書き込めるだけ、マシかもしれなかった。
途方に暮れて、店の常連であり、コイビトの叔父でもある人物に電話してみたなら、哲大の向こう側から寄越された返事は『ハッハ!オマエの指にチョコレート塗って咥えさせろよ!』であり、バカじゃないのかとサンジは叫んだのだったが。このまま追い込まれたなら、実行してしまいそうな己をサンジは自覚していた。

「やべぇよ、ゾロォ、」
と相当情けない風情で銀色の扉を見遣った。あの向こう側には今日も自分を待ってくれている存在があり
、愛情ばかりが湧き上がり続けるのにソレとインスピレーションが結びつかない。
天才パティシエ、生涯初のひょっとしなくても危機であった。
カンジンなただひとりに作ってやりたいものに限ってブランクだ。ジブンがモノを創り出すとき、それはスベカラク全ての人に届けばいいと思っていて、急に誰かに限定されてしまったから動かないのかといえばそうでもない。以前にも特定の人物や機会(例えばこのうえもなくカスタードの好きな某国の王子のための一品、であるとかほかにも何回かそういったこともしてきた)のためにも腕を奮っていた。
「いっそチョコレート風呂にでも浸かるか?」
とコイビトの叔父以上に思考がソッチに行きかけている始末だった。
はああ、とサンジはきらきらと整然とボールに積み上げられているカシスとラズベリーの光を弾く彩を見つめて、またため息を吐いた。

******

フィ、とゾロが時計に目を落としてみれば、針は12時を回っていた。
リミットだな、と呟き、そしてまっすぐに扉へと目をやった。あれはまだ、開く素振りさえ見せない。
「−−−−っとに、何してやがるんだかな、」
く、と眉根を寄せて呟いてはいても、その目もとにはひっそりと笑みの影があった。静かに扉側まで歩いていき、丸窓をノックする。イキナリ扉を開けて、サンジを驚かせたりしないように。

扉を開けてみれば、大理石の台の前でどうやら腕を組んでいるらしい後姿があった。ひどく真剣に何かを見つめているらしい、背後で扉が開いたことにも気付かないようだった。
「ーーーよぅ」
「−−−−ひゃっ」
「うん、ひゃでも何でもいいけどよ……って、ア?」
整然、としていた作業台を見やる。そこはいつも整頓され一定のリズムを持って様々な「道具」が並んでいるけれども、今日はソレが使われた形跡は無く、美しく整えられた材料がぴかぴかと眩しいばかりだった。
「なにも作ってなかったのか」
あるのはメモや書置きばかり也。
まぁいい、とゾロはまだ目がまん丸に見開かれているコイビトに近づき、そのふわふわとした柔らかなキイロの頭を捕まえて、後ろ頭ごと引き寄せた。
「あのな、サンジ」
「ーーーウン?」
まっさお目が一層、見開かれるのが「カワイイ」。抱きしめたくて仕方なくなる、だから衝動のままに抱きしめてみる。ふわ、と甘い香りがする。決して甘いもの好き、というわけではないけれど何だかほかりと心臓の裏側があったまる匂いだ、と思いながら。

「オメデトウ」
「――――へ?」
「誕生日だってのになにしてンだかな、オマエ」
からかい混じりに告げて、軽く額に指先を休ませるようにする。
「メシでも食いにいこうぜ、おれの奢りで」
そう続け、青眼を覗き込むが、ただそれがいっそう見開かれていくばかりなのに僅かに首を傾げた。
「ン?」
サンジはといえば、ジブンの誕生日のことなど完全に意識から追い出されていた。だから、言葉を促すように首を傾げられても言葉を失くして見守るほか無かった、ほんの瞬きほどの間のことであっても。そして次の瞬間には額のぶつかる勢いで精一杯、抱きしめ返していたのだけれども。ハハ、とゾロのわらうのが聞こえた。
「けどおれ……おまえにまだ何もやってないのに」
食べさせてないのに、と気の毒なほど項垂れてしまった相手の様子に、どこか笑みを残したままの目が続きを促すのに、サンジが粋を短く一つ呑み込んだ。
「ヴァレンタインのヤツ」
「―――――ア?」
ぎゅ、とゾロの眉根が寄せられた。
う、とサンジがますます困った表情になった。

「ハン?それなら一番最初にオレ食ったじゃないか」
「―――へ?」
「や、だから」
何かを記憶から探り出すように一瞬視線が天井に向けられたけれども、またすぐにゾロはまっすぐに目をあわせ、ジブンの額に人差し指を押し付けるようにした。
「2月に入ってすぐ、すげぇ勢いのおまえに呼ばれたんだよ」
ここに、とゾロが続ける。
そうだっけ?とサンジは記憶が重なりすぎてあやふやだった。いつも、比較的常に、「すげぇ勢い」でゾロを呼ぶので。
「“すげぇぞコレ!!”って叫んで何か赤いのおれの口に放り込んだろ」
「……あ」
いわれて思い出した。指先で摘めるほどの赤いキューブがライトをきれいに照り返して、その内側に包み込まれたショコラの柔らかさを透かすように艶やかに光っていたことを。
ラズベリーとカシス、さまざまな香辛料とエキゾティックスパイスを混ぜ合わせて練りこみ、天然の色素だけで深い赤に染め上げてコーティングした試作品は。コストと手間が掛かりすぎる上に、ショコラとしての仕上がりが上等すぎて単品でサーブするしかないほどであり、けれどそれではパティシエとしての矜持が微妙に邪魔をして、結局はその一回だけでお蔵入りとなっていた、まさに幻の一品モノだった。
「美味かったぜ、あれ」
いままで食ったなかでダントツに美味かった、ありがとうな、と。
あっさりと酷く素直に告げられてしまえば。
そのうえ、にかりとわらった相手にもう一度目元にキスなどされてしまえば。
そういえば、そんなこともあったような、と情報過多のなかから思い出し。いやたしかにあのサンプルはあの一回きりしか作らなかった、と確信する。そのときも、これは紛れも無い傑作だと大騒ぎで呼んで食べさせてーーー

「---なンだよ」
ひゃ、とサンジが急に笑い出し始めたものだから、ゾロが眉をゆっくりと引き上げた。
「そこはわらうとこじゃないだろうが」
「……や、そうじゃなくて、」
と、そこまで言うのが精一杯でそれよりも力任せに背中に回していた腕を締め付けた。
「誕生日だったんだ?おれ」
「忘れてたか」
「――――あー、すっかり」
まだ上機嫌にわらっている相手の後ろ頭に掌を添えて軽くその金いろを掻き混ぜながら、なんとなくジブンまで気分が良くなっていることをゾロは自覚していた。眉間に皺を寄せて、何かしらに対して懊悩しているような顔をみるよりはこのようがよほどイイ。
「なぁ、」
「んー?」
ふにゃふにゃとしたままの笑い顔で見返され、ゆっくりと言葉にした。
「明日も、一日空けとけ?」
「あ、予定?」
そう、とゾロが頷いた。
「あーいてるって!」
「フン?」
この天才を可愛がり、あるいは慕っているニンゲンはジブンの叔父を(悔しいことになぜか縁者だ)筆頭に、たくさんいるので「当日」の夜は何かしら連中が一騒ぎ起こすに違いないだろう、と踏んではいた。そのプランがジブンに一切流れてこないことに善からぬ予感がしていたけれども、この様子だとサプライズモノというわけでも無さそうだった。
「そ、通常通りに営業して、機嫌よく労働という名の華麗なる人生の遊びをこなし!でもってだな……」
滔々と流れ始めてしまった言葉の波をかるく手で掻き分ける仕種をつくりながら、ゾロが言った。
「よし、じゃメシ食いに行くぞ」
あ、と空気を呑み込むように一旦息を押しとめてから、ひょい、とサンジが目を丸くした。
「威張ってんなぁ、迷うくせに」
くく、とサンジが喉奥でわらう。
「迷わねぇよ」
そう応え、とん、と今度は唇に唇で触れなおした。
「―――ほらな?」
間違わねぇだろ、と間近で緑目が煌いたのに、サンジがひどくしあわせな誕生日だなと小声で言って返し。
明日こそ、なにかとびきり至上な一品を出してやろう、とこっそりと心に誓っていた。なぜなら、頭のなかが色のイメージで溢れそうだった。旋律に乗ってあとからあとから。




――――HALF STEP--------