18.
石鼓路
珠江路
金銀路、
チャ―リー・トウキョウの店があって
そのさきを右に折れれば
歪海路
呪文のように道順をサンジは確認し、そして誰もいない部屋の扉を閉じた。

するり、と狭い入り口を抜けてその姿が現れたとき、"花の咲くように微笑む"なんてね現実の世界で
拝めるとは思ってなかったわ、とナミは苦笑し。近づいてくるサンジに「いらっしゃい、」と声をかける。

ヴィンテージのジーンズに、ボタンホールが赤で縫い取られている黒のピーコート。ピュアホワイトの
V字襟のカットソー。少し襟元がゆるいようなのは・・・・おそらく。
ゾロが一緒ならば絶対にさせないようなスタイル。その素っ気無いほどのシンプルさが逆に本人の持つ艶を
強調してしまっていた。本人は無自覚でも、こんなにも"触れなば堕ちん"風情など醸し出されていたならば、
誤解をするなという方が難しいかもしれない。

ああなるほどね、あいつはやっぱりどこまでもイヤミな男。とナミはうそぶく。その"イヤミな男"が一緒の時の
サンジはナミが見た限りでは大抵、悪趣味と洗練とモードのギリギリのラインで楽しんででもいるかのような
スタイルだったから。そのおかげでこのむやみな色香は逆に中和されていたのだと、いま思い当たる。
平たく言えば、"高嶺の花"。"あんな男"に全身で懐いているようなサンジはいっそ清々しいほど享楽的で
刹那的に見えた。まるで、この首都の申し子のように。

「サンジくん!きょうもカワイイわね、よくぞここまで無事に来れたじゃない?」
「ミス・ナミの方が遥かに綺麗」
くしゃ、と目許がなくなってしまうような笑みで言ってくる。

「それ、ゾロの?」
「はい―――?」
とん、と自分の胸元を指しナミは、に。と唇を引き伸ばしながら、インナー、と言った。しかし、ハイ、と
何でもない風に返されてしまっては「ご馳走様」とでも言ってやりたい気になるが、きっとこの相手には通じない。

「また帰ってないのね、あの行方不明男は」
「きょうで、4日目ですね」
ちらりと目線が泳ぐ。
よっか!!と少し離れた場所から吃驚したような声が上がった。
おれ、ナミにそんなに会えなかったら死ぬ!と。
「チョッパー、ゾロはあんたをウサギ型にでもしたのかしら、」
ナミが小さく笑う。
「シツレイでしょ、サンジくんはあんたみたいなウサギじゃないんだから」
「おれはトナカイだよ!」
憮然とした風な声に、ナミとサンジは顔を見合わせるようにして笑いを抑える。

でもごめんなーと慌てて走り寄ってくる小さな毛の塊に向かってサンジが声に出して笑い。
いいって危ないから走るなよ、と続けた。それに、と笑みを含んだままの蒼がナミに逢わせられ。

「おれは、死ぬほどさみしいっていいますし。会えないと、」
そして小さくサンジが言葉に上らせた。
「あら」
ナミが、つるりとした質感の光をのせる唇を引き上げた。
「ずっと放っておかれると。顔を見なかったりするとね、ゾロが出かけたままで」
「サンジくん、」
はい?と側までやってきたチョッパーの毛並みを撫でていたサンジはナミに顔を戻した。

「そういうとき、あなたどうしているの?ずっと待ってるの?あいつのこと」
「ここに来ているでしょう?」
ネコの仔がわらうような笑みが浮かぶ。
「ねえ、私あなたのおかーさんじゃないのよ?」
そんなこと、わかってますよ、とまたふんわりと笑い返された。

ゾロが"ノー・ナンバー"を引き取って手許に置いている、とコーザから聞いたときには、驚いた。
処分もされずにある程度の年齢まで「生存」できていた理由といえば、大抵一つしかなく。
綺麗なコ?と聞いた自分に、コーザが珍しく複雑な表情を寄越した事を思い出す。
そして、ルフィには言うなよ、とだけ言った。
「アイツ、バカのくせに勘が良いからな。即行で戻ってきて"ゾロの事ブッとばす!!"とか仕出かすぜ?」
「"海賊"が?首都に戻ってくる?」
けらけらと笑い出した自分に。
「アクロポリスの3馬鹿の1人だからな、やりかねねえんだよ」
残りの2馬鹿の見当はついたわ、と笑う自分に。ようやく、まあ美人だよ、とコーザは返した。

美人っていうより。と、自分たちの会話を思い出しながら、チョッパーをからかい半分に抱き上げようと
しているサンジに眼を戻し、ひどくアンバランスなんだわ、とナミは思う。

「ねえ?ミス・ナミ、」
サンジは微かに首を傾けて、カウンターの後に座るナミの前に立った。
「"ナミ"でいいって、言ってるでしょう?あと。丁寧語は禁止ね、トモダチなんだから」
ナミが笑みをのせ言ってくるのに、僅かに困ったような表情を浮かべ。
じゃあ、ナミさん、あのさ、とサンジが柔らかな声で呼びかけてくる。



「ゾロはどうして、おれのことを抱かないんだろう」
「え?」
ナミの、アーモンド型の目が見開かれる。

「ええと。だから。おれと寝てもつまらなそうにみえるのかな?」
う。とナミのノドで液体の詰まる音。そしてカップを置いた。瞬きを数回。
そんなナミの様子にさらに首を傾けるサンジの半顔をさらさらと金糸が流れ。
「なんでそんなこと知りたいの?」
「非常に重要」
言葉の軽さとは裏腹の影が、人工眼球の蒼より綺麗な水晶体をちらりと掠める。
「そうねえ」

上から下まで改めて点検する目。
「まあ、あなたって細いわりにきれいにうすーく筋肉ついてて十分セクシーだし。背中とか
いい感じで抱き心地よさそうだし、そのそそられる顔くしゃくしゃに泣かせてみたくなるし。
カオもカラダも肌も手もきれいで充分たのしそうじゃない?」
「そっか」
ふっと息をはいてサンジは言った。

「よかったら、実地でお試しでもする?」
ナミが、にやりと最後に付け足す。
くすんと小さく笑い、ナミに目で"いい?"と許可を取ってから
「"アホぬかせ、バァカ"」
とってつけたように、サンジが言った。

「じゃあ、」
ふと、密かに影がその表情を過ぎる―――微かな、痛みの色。
「おれのこと、やっぱりどこかで汚ェと思ってるのかな、」
はじめて、「その意味」を知ってから覚えた、体の内側から引掻かれるようなイタミ。
いつからか、呼吸をするように当たり前のように思っていた。それしか、知らなかったから。
相手の望むままに応え快楽を与えれば、連れて行かれずにすんだから。
 
「そんなこと、」
ナミは、首都にやってきてからのゾロしか知らなかった。滅多にテラに戻ってこない自分の恋人が、
「ハラの底から信頼」している友達だということしか。そのルフィが、あいつはタカラモノを失くしたんだ、
といつか言っていた。その失くし物についてなど自分は調べてみる気はなかった。本能が感じとって
いた、ブラックボックス。
「だって、ヤツはあなたにキスの仕方教えたんでしょう」
あごの先だけ動かして、肯定の返事。
「そんなことを気にするようなヤツじゃあないし、正直だからあの男はヘンなところ。もし、
あなたになにか含むことがあればそれこそ。そんなパーソナルなこと死んでもしないわよ」

「じゃあ、―――ペナルティなのかもしれない、」
「・・・・・え?何の、」
「わからないけど。なんとなく、そんな気がする」
目が伏せられ、その表情が隠される。立ち上がったナミの指先が黄金の髪に指し入れられた。
「ねえ、奥に行かない?なんだか立ち話じゃ落ちつかないわ。チョッパー、店番よろしくね?」
「うん、ナミ。任せて!」
いつの間に気を利かせたのか、何処かの棚の間から元気な声が返ってきた。


「ふうん、自信がない、って?ヤツ、そんなこと言ったんだ、」
ナミがグラスを空にする。このキイワードを引き出すのに、ワイン3本を要した。
問い掛けられた方はソファに半ば埋まるようにして、そうだよ、と返した。
「あいつ、女癖悪いわよね、」
女性の扱いに関しては多分サイアク、とサンジも失笑しグラスに手を伸ばしかけ、それを途中で止める。
「でも、誰も文句言わないわよね。ね、キスうまい?」
「お試しをご推奨いたします」
に、と唇端をサンジは引き上げ。
「じゃあ、きっと他も上手よね」
・…ナミさん、女のヒトがそういうことを、とか言いながら赤くなってしまったサンジに向かい
笑みを浮かべ淡々とナミが続ける。
「テクニカルプロブレムじゃなかったら、メンタルなものでしょ」

「でもねえ、サンジくん?メンタルな真相なんて、大抵"シラヌガホトケ"ってモノじゃないの?」
ナミは心配気に眉を寄せる。
「多分。でも、だからこそ知りたいとは?それが例えロシアンルーレットでも、ギロチンの刃を落とすことに
なっても、ほんとうを知りたいと思ったことは?」
「思わないわよ」
ナミはきっぱりと否定する。
「私があのヒトの事を待っていられるのは、どこにいても気持がまっすぐこっちを向いているのがわかって、
あのヒトの心がきれいだからなの。でも、ゾロのことはわからないわ、私とかにはただ適当に優しいだけだから。
正直いうと、サイアクの男よね」
手を伸ばしてサンジの肩に軽く触れる。
「コーザ、知ってる?」
「もちろん、」
「彼すごく驚いてたわよ?ゾロがあなたを家に住ませたこと」


最後に寄ったバーでナミは言った。セックス抜きで気に入られてるなんて自慢になりこそすれ悩むこと
じゃないわ。今時そんなの中々お目にかかれないのに、と。
それとは何か違うんだ、とサンジは言ったけれど、何処が違うのかはどうしてもうまく説明出来なかった。
「ねえ。大事にされているとは思わないの?」
ナミのきれいに手入れされた爪がサンジの髪の間を何回か滑る。

「あんな、頭がどうにかなりそうなキスだけされて、放っとかれる方が辛い」
わずかにナミの声に驚きが混ざる。
「うわエッチ。さすがゾロ」
茶化されて力が抜ける。

「ナミさん、おれは。大事にされてなんかいない。こんなのはただの生殺しだ」
あらら、とナミは華やかに笑いだす。でも好きなくせに、と。
「そんなのとっくにゾロはわかってるわよ。それが、あの男の酷なところね。ひどい男」
そっと言ったナミの、柔らかい手がサンジの頬を撫でた。

「おもちゃだよ、まるっきりAL扱いだ」
もう一度ため息をついてサンジはつぶやく。
いや、AL以下だ。ゾロは、おれの顔を買っただけなんだよ、と続けるサンジの頬にナミは唇を寄せ、
自分の頬を軽くあわせた。

「会えないとさみしい、顔をみると苦しい、キスするともっとかなしい」
参りますよね、と。あかるく笑ってみせる。
「ねえサンジくん。それ、」
ナミが受け取った。
「あなたゾロのこと、"すき"なのよ」

「――――スキ?」

そう。あなたはね、ゾロのことが好きなのよ。
ナミの唇が言葉をのせた。



扉を開ける前に、目をきつく閉じる。
そして静かな気配に迎えられるのに、長く息をつく。
「ゾロ、何処にいるんだよ―――?」
おれはあんたの顔がみたいだけなのに。

おれが要らないのなら、そう言ってくれさえしたら
おれはいつだって簡単に、息なんかしないのに。
いなくなっても良いのなら、いつだって「還る」。
でも、たまに。あの眼が、見てくれていることもあるから

―――わからなくなるんだ。



19.
「やっぱり、いないか」
固く閉ざされた鉄の門に、吐息をついている自分に気付いた。冷たい鉄に額を押しあてる。
ゾロ、と唇が形作る。今朝遅くにやってきたミセス・ケリーから微かに花の香りが漂ったから。
もしかしたらこの場所にいるのかと思ったけれど。

さらさらと、冬にしてはあたたかい風がサンジの背後を吹き抜ける。
随分とたくさんのことがわかってきた、サンジは思う。
何種類もの笑顔と実はよく変わる表情や、少しくだけた口調が自分や限られた友人にだけ向けられること。
人間関係の境界の引き方。たくさんの「女性」の影。どこまでも優しくて、同時に残酷なこと。「ひと」に対する体温の低さ。視線や長い指、触れてくるだけの唇や時折交わされる遊びでは済まないキスが自分に引き起こす波を、
さらりとゾロが流してしまうこと。


適当に車を捕まえシティにまで戻ってはきても、知らず、溜息ばかりをついていた。
アンティークタイルを貼った卓に、陽に透けてシャンパンの沫が黄金の影を落とすのをただ、眺めていた。
何度かナミとも来ていたここは。センターより少しはずれた場所にあり、静かで気に入っていた筈なのに
ちっとも気分が良くならない。部屋に戻るのとどっちがマシだろう、そんなことを考え始める。

あんなに隙だらけでも、厄介ごとに巻き込まれていないのは多分にナミの助言によるのだろうと、少し
離れた場所で偶然その姿をみつけたコーザは笑みを刻む。「あの行方不明男が一緒じゃなくても、
外に行く時は一緒の時みたいな格好にしなさいって言っておいたのよ。あのコ、危なっかしくて」自分に
向かって眉をひそめて見せたナミの言葉を思い出す。

その言い付けをきちんと守ったらしいのに、また笑みが自然と深くなる。アイボリーの薄手のニットに、
白のモールスキンのパンツ、性質の悪いことにデザインはカジュアルな、ファーが襟元とウラから覗く白の
バックスキンのジャケットの前を全部はだけて、不機嫌な顔を作っている。
確かに、これじゃあウカツに声もかけられないな、と。

ちっくしょ場所変えだ、とサンジが立ち上がりかけたちょうどそのとき、ぽん、と肩を叩かれた。
見上げると、一度見たら忘れられないゾロとはまた別種の端整な貌が、「待ったか?」とでも言わんばかりに
自分を見下ろしていた。

ふい、と目線を逸らす。
「あ。」と不満そうな声が落ちてきた。
「こいつ。おれのこと無視しやがるし」
目を戻したら、機嫌よくにーこりとするコーザ。
「怪しい人間とは、口をきくなと言われています」
整いすぎた人形顔で、つら、とサンジが言って寄越す。
「ハ?おれがアヤシイか……?」
素直に驚いた顔をしてみせる相手に、サンジが僅かに笑みをみせる。
「アヤシイ人間の筆頭に入ってる」
「……サイアクだなヤツは」
肯定も否定もせず、サンジは笑みを深くする。

その表情を目にし、いいか?と向かいのイスに手をかける。どうぞ、とサンジも軽くうなずく。
「お仕事では?」
「あーイイんだよ。普段はおれ用無しなんだ。上が居ないほうが危機感あるだろ」
思いがけず人好きのする笑顔をコーザは浮かべる。

「しっかしおれに見つかるとはな。これも運命と思って可哀相だがあきらめろ」
なにを、と言ってくるのをあっさり流し
「恐いカオしてないで奥行って飲み直そうぜって、お誘い」
言って立ち上がると、勢い良く飲みかけのフルートグラスを隣りの卓に置いた。
「ほら、こいって」
「いい。エンリョしとく」
横に立ったコーザを座ったまま見上げてサンジが言い。
意外なことに、にこやかぁにコーザが微笑した。


「強引すぎる。無茶苦茶だ、あんた」
サンジは最奥のカウンターに寄り掛かった。断った直後、おい、ちょっと待てっと言って自分から歩きだすまで
座ったままのイスごと3メートル近く引きずっていかれた。そう、この男はやはりロクデナシの親友だった。
「なに飲む?」
気にした風もなくコーザは言った。
「さっきの続き」
「シャンパンは悪酔いするから。別のにしておけよ」
「あんたは何飲んでたんだよ?」
「ズブロッカ」
「うわ、」
顔を顰める。
「たかがこれしき」
に。とする男。
どことなく、似ている気がするのは声のせいだろうか。それとも笑い方だろうか。

しばらくして自分の前に置かれたグラスの中身は好みのリピーターだった。
サンジが見ると、少し得意そうに相手は片眉上げる。
「あのバカのかわりに、少し違うけど似たようなモンだから十分なれてるだろ」  
「代わりなんて要らない。何言ってるんだか」
「長い人生たまには壁に向かってもの考えるより当人と話すより、ヒトに話した方が良いときもあるだろ。
ヤツの代りにきいてやってもいいけど、その盛大な溜息の訳。おれの方が常識人だと思うぜ?」
「あのさ、何が哀しくてそんなプライヴェートなこと話さなきゃいけないんだよ?」
「バッカだな!量より質だよ付き合いなんてのは。現にもうおれのこと実は嫌いじゃないだろ」
睨み付けられても知らん顔をして続ける。こういうところが、似ているのかもしれない。

「その根拠の無い自信はどこから来るんだ?」 
コーザは驚いたカオをつくってみせる。
「だってもっとおれと一緒にいたいだろ?」
「あんた、死んでいいよ。そこで」
隅をサンジが指差す。
ひどく明るい笑い顔が返ってきた。
「どうでもいい話たくさんしてやるから、そう言うなって」

確かに、居心地が良いのは時間が経つうちに認めざるを得なかった。
ナミとはまた別の、何か。

「なあ、たとえば。おれが最初に拾っていたら何か変わっていたと思うか、」
「思わない、」
うつむいたままサンジが言う。
「あんたを最初に見たとき。苦しくならなかった。だけど、ゾロは。初め、声だけ聞いて。
後で顔を見たときも、苦しかった」
くるしい、ね、と。ぽつりとコーザが言った。

「そんなに好きか」
「うん。生きている意味を考える程度にはね」
即答に、コーザは思わず片眉を引き上げる。
「あんにゃろ。強運ヤロウが」
よし、大ノロケ大会しようぜ。おれと比べてどこが良い?言いながら、コーザが笑みをのせた。
「ぜんぶ。」
意地の悪い笑みがサンジの口許にも浮かんだ。

「うわ。それはイヤミだ」
「本気だよ。あと―――目だな」
「め?」
「コントラストのきつい、眼。あんな碧は初めて見た」
コーザは微笑んだ。まあなぁ、あいつ昔っから眼で人殺せるもんな、と。

サンジはマドラーでライムを押し潰した。
「でも。おれを見るときは、たまにガラス玉みたいになる」
「フン。それは・・・・・・」
はあっ、と大きく吐息をサンジはつく。
「なんだそれ」
「ためいき」
「そんなこたぁ、わかってます」
「あのさ、」

サンジはコーザの肩の後ろを見て、言う。
「たまに。自分の後ろに誰かいるんじゃないかと思うときがあるんだ」
「ユーレイか?」
自分の額に十字を切ろうとしてくるコーザから上体を引き、眼を伏せる。
「あるいは、過去という名の亡霊」
くしゃりと髪を乱してくる手の感触に、ふいに涙がこぼれかけた。
ぽんぽん、と軽く手をあてられ。やがて横にいた姿は立ち上がり。

しばらく間をおいて戻ってきたときにはミネラルウォーターの入ったグラスを音もなく
置いて、傍らに立つようにしていた。大丈夫か?と言って。
問われて小さく頷くのを確認すると、そっか、と安堵したかのように言葉にする。

「じゃあ、"おとーさん"はもう行くけどな、おまえはいい子だからもう少しここにいろよ?」
サンジはコーザを見上げる。
「じつは、だ」
目許が笑みを含んで崩れる。
「さっき、あのバカから連絡入ってさ。おまえがいないってえらく動揺しまくってたぞ。本当は
内緒でデートしたかったんだけどな、居場所教えてやった。だから逃げるなよ?」

自然にコーザはサンジの頬に手を添える。
そのまま手を耳許まで滑らせ。サンジは表情を変えない。
自分のモノ口説くときより、おれ真剣だよ。はたと思い当たり小さくコーザは笑い、そして続ける。

「なあ、おまえさ」
「なんだよ」
コーザは、あのロクデナシが"これ"に対して「お手上げ」状態になる理由が、もう十分わかった。 
ココロがざわついてどうしていいかわからなくなるのだと。いまみたいに目の前で睨み付けられたりすると、
愛しさみたいなものが、どうしてくれんだよってくらい、溢れてくる。

「妙に抱きしめたくなるな、クソ生意気なのに」
サンジはまだ髪に差し入れられたままの手をぱしんと払う。
「ゾロが本気じゃなかったら、おれまで惚れそうだな」
「フザケロ、」
「まあなぁ、おれたち大バカ野郎だから。ヤツと上手くいったら、おれと浮気しような?」
言って、あ、と思うより速くサンジの頬にキスする。電光石火。美事にコーザは微笑み、
サンジが口を開くより早く彼の後ろから声がした。

「コーザってめ…」
「よ、早いな!」
ゾロの手を軽く押さえてコーザは言う、笑いながら。わざとやったな、と自分を軽く睨む相手に故意に
気障ったらしくもう一度笑みを作ってみせる。
「またな、返してやる」
言うと、優雅に長身はドアへと向かった。

「ゾロ、」
俯いたままの自分を覗き込んでくる翡翠色。
「さみしかった、」
指先まで貫かれるようだと。髪に手をそっと差し入れられるその感触に、唇を噛みしめる。
「―――悪い」
「死ぬかと思った。息、できなくて」
わずかに引き寄せられる。
「だから。置いていかないでくれ、」
長く吐息をつき、伝わってくる熱に眼を伏せる。
「出よう、」
するりと、指先が流れる。


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