Bystander



                                     1.
唖然とした。
年端もいかない子供、そう他人からは思われても仕方ない実年齢の割には「いろいろと」肩に乗っかりそうな重たげな
体験、とやらをしているにもかかわらず、思わずサンジは唖然としていたのだ。

昼の時間帯を過ぎて、最後の客をヘッドウェイターが丁寧に送り出し厨房がどうにか静かになる頃合がある。
「まかない」を自分に作らせろと声を大にして訴えてみても、気がはやいお子様だ、に始まる気の良い罵声と太い
腕から繰り出される手加減や遠慮の無い平手や拳が頭上に落ちてき、それを潜り抜けながら何ともレパートリーの
多様な罵詈雑言を学習しながら返せるようになり、賑わいが更に大きくなり。最後には最高責任者に甲板へと放り
出される、これが常だった。
そして放られる方は、いまにみてろよ!とそこは素直に子供じみた捨て台詞つきなのだ、空中で。背後で扉が音を
たてて閉まり、そこで始めてふう、とサンジは息を大きく吐き出す。今日は負けた、だけど明日は勝算があるんだか
らな、と閉ざされたドアに向かって思い切りハナに皺を寄せて見せる。
このレストランは海上にあるのだから、周りは空と海しかない。時には、客の乗った船が遠くを滑っていく姿をしばらく
眺めることもある。

空と海の間には微かな色の境目があり、そして。海と空には毎日違う色があることを自分は絶壁の上で知った、
そんなことも偶に思うこともある。10歳にも満たない自分ではあるけれどもそんじょそこいらのガキと同じだと思ったら
大間違いだぞ、タココック、と厨房の連中を思う事もある。が、大抵は海の遠くの点を見詰めていた。空と海と、あとは
その間を抜ける風、それを目で追っていた。なぜなら、色は毎秒事に変わっていくから。

けれど、今日は。
船べりにもたれて海を眺めていたならば、目の下にいきなり非日常が落ちてきたかと。

「えーっと、梯子かロープ下ろしてくれねぇかな?」

ぽかり、と。海面から人の頭が浮かんで言って来た。
あっけらかん、と。どこか突き抜けた声。


                                     2.
「やあ、たァすかったぜー、おチビさん!」
引き下ろしたロープを難なく登り終え、けらけらと笑いながら水浸しで告げてきたのはまだどうみても大人と認識される
のが怪しい線上にいるような男だった。
自分に向けられた不審気な子供の眼差しをさらりと流し、ゼフのおっさんのメシ食いたくてさぁ、と唇を引き伸ばして笑う。
早く呼んで来てくれるかなあ、とのんびりとまた笑っていた。
顎からぽとりと水滴が垂れる。
この不審者に何かを言い返す前に、通常からは長すぎるサンジの不在に古参のコックが甲板に顔を出した。
そして、目の前の光景に一呼吸を置くや置かずで。
「キヤガッタカこのアホ海賊が!!」
響いた怒声が歓待めいて聞こえる。
「おう、あったりまえ。なー、おっさんいるんだろー」
「バカが来たのか!」
先のコックの大声にもう一人がまた甲板に出てくる。
「へえ?だぁい歓迎じゃねえの!――こっち移ってもあんたら相変わらずこっええ顔!」
けらけらとまた男が笑う。
海上レストランなんざ面白そうだろうがよ!と笑いながら古参のコックが手に持った大判のナプキンで男の濡れた頭を
ぐしゃぐしゃと乱していた。
オーナー!ともう一人が中へ呼びかける間もなく、また扉が開き。
乱れて額に落ちかかる髪の間から、すいと男が奇妙に明るい印象の翠の眼をサンジに合わせ、その目許が笑みに
細まった。

「―――来たのか、小僧」
短い一言をゼフは目の前の男に告げ。
「あと3人くらい来るよ」
ハラペコの海賊ー、そう歌うように返していた。陽射しを受けて濡れた髪が深紅に映る。
海賊?と口にこそ出さなかったがサンジが思わず男を見遣る。この、初めて見る男の纏う風情からかけ離れて思える
生業。

また船から一抜けか、であるとか。どうしてそう最後の何分かがおまえは待てねぇんだ、であるとか。じゃあ残りのあの
バカ共のボートもそろそろ見える頃だな、であるとか。
ゼフの口ぶりからすると、この「海賊」はゼフが通り名、赫足、で呼ばれていた頃からの知り合いではあるのだろう、と
サンジも見当をつけた。
「ああ、見えてきましたぜ」
コックが海原を近づいてくる小振りなボートを指差し。
ボートより泳ぎが速いってどういうことなんだよ、とサンジが呆れて呟いた。

けれどその潜められた声を、この年若い「海賊」は聞き逃さなかった。
「なあ、あれあンたのひ孫?!」
ひゃあ、なんだョ隅に置けないねえと鮮やかな赤の髪をした男が大げさに笑い顔を作り。蝶でもとまりそうな指先が
サンジをひらひらと示す。
「しばらく見ねェ内にいよいよイカレタか、小僧。アレはな―――」
「おれはここのコックだ!」
割って入った子供の高い声に、若い男の眼がきらりと光ったように見えた。
「---へえ…!さすが赫足のひ孫だな、気が強ぇー、」
てめえ、こら。とゼフの低い声が底に笑みに近いものを過ぎらせて告げる。
「ヒトの言う事なんざハナっから聞きゃしねぇのはかわらねェか、シャンクス」
ほんの刹那、大人連中の方を見遣っていたサンジの視界に白のコック服に透けて以前の、海賊であった様がゼフの
姿に重なり、瞬きを一つしていた。
ああ三人見えますね、とコックが近づきつつあるボートの乗員を知らせてくる。
「で、アイツは来るとして―――後のはどれだ」
「んー?厳正なる運任せの結果、目出度く同行させちゃったのは、アレとルゥとヤソップ」
「フン、」
ゼフがハナで笑ううちに、なにやら賑やかな声が波間をかなりの速度で滑るボートから届いてきた。

手馴れた風に乗り込んできた三人のうち、飛び抜けて長身の男が先の若い男に、半ば呆れた風にどこか面白がる
ように『ほら、預かり物だ』と長剣を渡してから、ゼフに向き直り。その男に向かいゼフが小さく言葉をかけるのを、厨房
へと戻されながらサンジが聞き取っていた。
「本船じゃいまごろ息抜きか?」
すい、と話し掛けられた男は片手を上向けてみせ、それに近いかもナ、と口端を引き上げていた。
そしてサンジの中へ消えかける姿を見咎め、そのまま、濃灰の瞳をゼフに物問いた気にあわせていたが。
「ヤメロ、ベックマンてめえまで」
言葉より先に否定されて、男が小さく笑っていた。
巨漢、としか表現できない男もコック連中となにやらわあわあと親しげであるし、編み込んだ髪の印象的な男もこの場を
面白がっている風情は隠さず。この男たちもひらひらと親しげにサンジに手を振って見せていた。

なんだかわけわかんねェ連中が来た、そう厨房でサンジは外の様子を一瞬思い返したが、すぐに夜の営業に向けて
動き出した厨房に意識の全部を持っていかれていた。---すくなくとも、両手が忙しなく動いている間は。


                                     3.
「なんの騒ぎだ、」
朝のまだ早い時間に、ゼフが甲板に立つベックマンに声をかけた。
「あぁ、おはようございます。ご厚意、ありがとうございます」
にこ、と穏やかな笑みが男に浮かんだ。
毎回毎回ボートでどこかに停泊させている船まで往復するのは面倒だろう、とのことで、この風変わりな客たちは特別な
処遇を受けていた。つまりは、レストランに逗留中のバラティエ内の船室使用許可だった。
その逗留二日目の朝は、半ばゼフの予想通り穏やかには始まらなかった。
「で、あのクソガキ共は何を騒いでいやがる」
「泳ぎの練習―――のようですね」

波間に向かってまっすぐに細長い板がデッキから伸びていた。頼りなげに撓む板の上、デッキ側には重石代わりに
巨躯の男、ルゥが立たされており。服を着たままの飛び込みと泳ぎの遊びだか勝負だか判別しかねるものをしている
ようだ。編み込みの髪を後ろで一つに縛ったヤソップも少し離れて立っているところをみると、無理やりにか合意なのか、
審判にでも任命されたのだろう。
上機嫌なことがその風情からもありありと分かるシャンクスはといえば、やはり一度は飛び込んでいるのか、前日のよう
に濡れている。サンジはいうまでもない、ゼフが甲板に出てきた頃には既に海面に向かって跳躍した後で、波間に顔を
だしていた。

「ほーら、オイデオイデ。これに掴まれ」
ロープが投げ落とされ、それをサンジが掴んだのだろう、はいよう、とルゥがするするとロープを引き上げていた。
「なかなか上出来じゃねぇの」
船べりにどうやら片足を掛けた子供に向かって、にかり、とシャンクスが笑い。手を差し出す。
それに捉まろうと子供が素直に手を伸ばし指先が触れた刹那、にぃいい、とシャンクスの顔に浮かんでいた笑みが
種類を変え。サンジがオノレの素直さを呪詛する頃には。
ぱ、と手が離され。
「ギャア。バカ死ねクソ赤髪…っ!」
とサンジは賑やかだったが、ざばん、と背中からかなりの距離を落ちまた着水していた。
シャンクスはといえば、船べりから下を覗き込みげらげらと笑ってる。
「ああ、悪い悪い、おまえ素直だからさあ、つい、なあ!」
「つい、なあ、じゃねえぞ、この赤毛ッイカレ能天気ッ」
会話から察するに、引き上げ直前の落下は先のが初回ではないらしい。
「三度も引っかかるかなあ、あーあ、おっまえマジでかーわいいねえ、サンジ!」
シャンクスの言葉からすると、この落下は三回目なようだ。

「はン。クソガキがいっちょまえのガキらしい顔して笑ってやがるじゃねェか」
懸命に抗議する子供に味方したのか、ヤソップがシャンクスの背中を軽く小突き、僅かにバランスを崩した姿を指差し
サンジが何事か言って大笑いし。
ゼフがそれを遠くで見て苦笑していた。
けれど直ぐにルゥの分も併せて3音声になった笑い声にシャンクスも盛大に何か言い返し、復讐の手は3人全員に
及んでいた―――つまりは。サンジもヤソップも、ルゥ、そして重石を失った板までもが海へと蹴り落とされていたのだ。
僅かに隣へ眼差しを投げ、ベックマンも小さく笑った。
「“あの通り、トモダチの少ないコなのでどうぞよろしく”」
男のとってつけたような保護者口調に口元で笑いをねじ伏せるが、ゼフも今度は短い笑いを漏らしていた。

海面から人間も板も直ぐに引き上げられたところを見ると、まだしばらくは泳ぎの練習は続くようだった。
「惜しまれる客でいられる内に、お暇いたしますよ」
ライターの点火音がし、ゼフが傍らに静かに立つ男に眼差しを投げた。
唇に煙草を挟んだ男が深い灰の眼を微かに細めて笑みの代わりにしてみせる。
「3日以上ここに留まれば、船に戻ってから食事の度に少しずつ落胆するでしょうから」
「フン?あの小僧がその程度のコックで妥協してるってのか」
「いいえ、実は先日―――失くしたばかりで」
それで余計にこちらへ伺うと言い出しましてね、と煙を大気に返していた。
続けざまに、水音が二つ続いた。僅かな静寂が訪れる。
「クソガキ、」
「ハイ…?」
ゼフにとっては船長も副船長も「ガキ」なのだ。

「おまえらはまだこの辺りの海域に残りやがるのか」
「しばらくは」
「パイカー、って島がある。いまならここからもそう遠くねえ」
「ええ」
静かな返答が続きを促す。
「腕は良いが、てめえの足下がいつも動いてねえと落ち着かないって野郎だ。軍艦にも客船にも飽きたとかって此処へ
来たが。動き具合が足りなかったみたいでな」
なるほど、とベックマンが呟いた。ある程度の期間は海上レストランといえど停泊して営業するのだから。
「―――パイカー…はそういえば。浮島でしたね」
「あぁ、海流に乗ってな、流れてやがる。ヤツならおめらみてえなクソガキに似合いかもしれんな」
「朗報ですね、ありがとう」
「なぁに、海賊なんざ早く追い払いたいだけだ」
に、と顔を見合わせて傍観者たちは唇を引き上げていた。

早朝からの止むことのない歓声、などというものは大人ばかり、それもかなり強面の面々、が集まるバラティエでは
珍しいことなのだろう、時折他のコックたちも甲板を覗いては、皆一様に僅かに笑みを浮かべて中へ戻って行っていた。




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