涙で前が見えない





「夜半。」



―――クソ。

もう何度目になるかわからない、小さな呪詛の言葉を上らせるとサンジは

水の流れる先に自分の手をさらし、指にまとわりついていた残り血を洗い流す。

獣のものとは違い、いつまでもそれはひどく血液本来の匂いを残していた。



チクショ。きちんと血抜きしたハズなのによ―――。

いらいらと指を擦り合わせ、ゆっくりと水に拡がっていく紅い流れに

自分の心の底がざわり、と。波立つのを感じる。



雑に縫い合わされた傷口に押し当て、血を吸い込んで重くなった布を

水で洗ったのは、キノウだ。



そうなった経緯を初めて聞かされ。

後ろから、何かに掴まれたかと思った。口を開きかけた虚無に、髪が逆立つかと思った。

―――足元に、突然覗いた「怖れ」。



“ああ、そうだろうよ。テメエの命はテメエ一人のモンだろうぜ。”

怒りに任せてそう言った自分に。

素直に。ガキみたいに素っ気無いほど吃驚した目をして、自分をみつめ返してきた

ヤツのかお。それを見た瞬間に。

「負けた、」と思ったのだ。



一言でいうならば、―――不覚。

想いをかけすぎた方が負けだとか、ダレが決めたんだ?

恋の駆け引きだとか。そういったことが総て通じない。あんなもんに惚れちまった自分が

バカなんだ、と唇を噛みしめる。俺は、アマイコイノカイラクが、すきだった筈なのに。

おかしくなる。いつの間に、世界はひっくり返っちまったんだろう?




ああ、まただ。視界が。

霞む。

―――クソ。




いつのまにか水で満たされているようになってしまったシンクが目に入る。



もう、いっそこうなったらヤケだ。



乱暴にカオを突っ込んで、水で視界を曇らせる。同化させるように。








「月明かり。」



最初に躯を重ねた時から。

ふ、と。相手が何かに固執しているような気がしていた。

それは自分だろうと思うほど、自惚れてもいなければ、おめでたくもない。

夢のほかは何にも執着が無いような男が、唯一、こだわっているもの。

その正体のわからないモノに自分が苛立ちを覚えている。



おもしれえな、と。どこか他人ごとのように思っていた。



夢の話をして、よく笑い、怒り。そしてまた笑い出す。上等すぎるその笑い顔を

惜しげもなく晒し。そんなヤツを大抵すこし離れた場所からみている。そんな時の

自分の内側には、どうも慣れない感情が居場所をみつけている。



恋―――?

その単語に我ながら、ゾロは唇に笑みの影をのぼらせ。



違うな。

出会いがしらの、「晴天の霹靂(へきれき)」。全部を、もっていかれた。

こっちだろ、

そんな結論を導き出し。

明るい月明かりに思考を手放して、眠りが自分をゆっくりと抱きとめるのに任せていた。



けれども。



耳の底に、音が混ざる。

ぱしゃん。

それはひどく小さな音ではあったが、何かが意識を覚醒させる。



月とは別の灯りが、洩れているのはキッチンの他は無く。

音の出所も、甲板の下の海からではないだろう。

ゾロは柔らかな眠りに何の未練も無く立ち上がる。








「そのさき。」



扉を開けたら。

なにやら肉や他の材料がきちんとボウルに納められ、「仕込み」とやらが終わった状態で

並べられた横で。

バカが入水自殺未遂を間抜けなシンクで仕出かしていた。

ああこいつは夜中に一体ナニをやってんだ??と絶望にも似た滑稽な思いにかられ。



薄い肩を掴んで、水から引き上げる。

ゆらゆらと幻のように、黄金の髪が水に拡がる様で。

軽くむせる相手の頭に乱暴に手を固定し、無理にでも自分に向き合わせる。

額に濡れてまとわりつく髪を指先でかきあげると、ゾロの指に滴がつるつると伝い落ち。



「なにしてんだ、てめえ?」

はあ、とゾロが溜息をつく。

「頭、冷やしてたんだよ」

サンジも、ぼそ、と言い返し。

「その前に死ぬぞ」

フン、と小さく音に出し。手の加護から、身を捻るようにして自分の頭をサンジは自由にする。

「てめえこそ、こんなトコで何してる」



頬をつたい、顎をたどり、首筋へと、襟元へと水滴は流れていき。

無音の間。

ぽたぽたと、水を含み鈍い色に変わった髪の先から床板へと水滴の落ちる音さえ

聞こえてくるかのような。



これじゃあまるで、勝負前の睨み合いだと、ゾロは思う。意志をもって、語らない。

刃を交える前から圧するように視線をあわせ、そのときから既に命の奪い合いは始まっていく。

こいつは、何かを賭けようとしているのだろうか、と。



やっと、無言のせめぎあいを僅かに掠れた、それでも耳に心地よく流れ込んでくる声が崩した。



「俺はてめえにだけは負けたくねえんだよ」

抑えられた声は。逆にその静かさに語尾が焼き切れるようで。

ゾロはかける言葉を失くす。

「なにいってやがる・・・?わけわかんねえぞ、おまえ」



まるで、理解できない。

やっと近づいたかと思えば、姿は揺らいで遥かに。

シンキロウ、昔憶えた語彙が意識の表層に現れる。

無いはずの街の影が、遥か湖水に浮いていた事。そう遠くは無い昔、自分のみた景色。

幻。

苛立ちがゆっくりと、自分を侵していくのを感じ取る。



おもしろがっている余裕など、いまの自分には無いと。

ゾロは、はっきりと理解する。



「負ける、って。何のことだ」

水滴をしたたらせたままのサンジのカオが一瞬、歪み。

ただ、自分を静かにみつめてくる。頬を流れたのは、髪から伝わった滴。




「俺がほしいのは。足場なんだよ。てめえと対等に向き合えるソレが、ほしいんだよ」




外で聞こえるのは、何の音だ、

帆が、風をはらむ音か?それとも、自分の中を吹き荒れたこの嵐にも似た―――。

引き起された内の感情にゾロの瞳が一瞬、閉じられ。

開かれるのと同時に、サンジは耳にする。




「それでも俺は。おまえを欲する。止めるんじゃねえぞ」




その声に。

自分のまわりの総てが、息をひそめる。視界がまた霞み、歪み。

「―――クソ、」

それでも視線は逸らさなかった。最後の意地と、「あがき」。

拒むことなど、とうてい出来ないから。それでも。



ちからなく降ろしていた左手をいきなり捕まれ。

ぎくりと肩が思わず小さく跳ねる。

そのまま、口許までもっていかれ、薬指の付け根に乾いた唇がかるく愛撫を

するように触れてきた。




「足場が欲しいのなら、やるよ。おまえに、俺の背中を、やる」




あぜんと。

バカみたいにただ。声の先をみつめようとしても。だめだ。















涙で、前が見えない。