---Ricochet---
「どうしたの、あなた?」
ドアを開けた俺にむかっていきなりナミが言った。
「ユーレイでも見たようなカオしてる」

伸ばされてきたナミの手が。ふと宙に浮いた。それで、初めて意識した。その手を自分が避けようとしていたことに。 僅かに、眉が引き上げられたけれど。スローモーションのようにナミはやわらかく笑みをつくり。

「ねえ、コーヒー飲みたいわ。良い香りがしてる」
そう、言葉にのせてくれた。

だから俺は、なんの説明もしなくてよかった。そして、そのことにひどく安堵している自分がいるのを 感じていた。ひろく開けられた窓から差し込んでくる日差しに負けないほど強く光を跳ね返すその瞳に。 俺は嘘なんてつけないから。

ダイニングのテーブルでビビの準備が出来るまで、滞在中の計画や今回のプログラムについて なんかを ナミと向かい合って座り話すうちに、少しずつ身体の奥に留まっていた緊張が溶けていった。

「じゃ、いってきます」
ヤツが見送りに出てこないのに最後にそう言ったビビにも、笑みが戻っていた。 頬にキスをした。
「良い旅を」
「ありがと。あと、いろいろ。ごめんなさい」
くすんと照れたように小さくわらうビビに。もう一度、つんと尖ったハナのあたまにキスをした。そのまま、細くてやわらかな身体を抱きしめた。
手の中の小鳥。不安になるほどの温かさと 躊躇うほどの鼓動の速さ。ガラスのかけら。抱きしめる。大事だと想う気持に、偽りは無いのに。

「ん、もー。永遠のお別れじゃないんだから。たった3週間でしょ、この甘やかし男は!」
ナミが俺の頭に軽く手をあて、両頬にキスして笑みをつくった。
「なのに、どうして泣かすの?」
そう言って、目を微かに細めた。さら、と髪をすべりナミの両手が頬をかすめ離れた。
「ちゃんと預かるから」
そう言って、ひらひらと手を振って、ドアが閉じられた。

「いってらっしゃい。」 閉じられたドアに向って声に出してみた。


「どうしたんだ、おまえ?」

2回目のコーヒー煎れてるいまごろになって出てきていきなり言う。
「なにがだよ」
俺の返事に僅かに不機嫌そうな顔になるけれども。
「だから。寝てないのか?」
「ア?」
てめえのせいだ。

する、と目の下を指のたどる感覚で、あっさりと、コイツの手を受け入れていたことに気づかされた。
「クマができてる」
顔を背けるようにして、ほっとけ、と呟くのが精一杯で。

「あ、と。そういえば、ビビは?」
「あのなぁ、」
向き直る。隣で眠ってた恋人が起きだして、身支度して、スーツケース持って出てったら普通は目が 覚めるだろ、普通は?オマエは寝てたのか?ビビ、これのこと起こさなかったのかよ。

「明日から、海外研修講義でロシア行き。このあいだ言ってただろ?で、今日はナミのとこに泊まり なんだよ。二人とも一緒に行くから」
「おまえは?」
「俺はビビたちとは専攻が、ち・が・う・ん・だって。これも前に言ったけどな、てめえ聞いてねーんだろ」
「そっか」
腕が伸びてきて、手からコーヒーを取っていった。
「あ。ヒトの飲むなっていつも言ってるだろ」
はいはい、とか言いながらカップを持ったまま裸足でバスルームまで歩いていく後ろ姿。ヴィンテージのジーンズにTシャツひっかけた、見慣れた。ビビと同じくらいに。 しばらくして遠くシャワーの音が聞こえてくる。

非常に、穏やかな日常の再現。何だかいい具合に騙されたような気がしないでもないけれど。その後ろ姿に免じて昨夜のコトは忘れてやることにした。 度の過ぎた冗談、で片付けてやる。悪ふざけ、だ。あるいは性質の悪い八つ当たり。
だから、余計なことは考えずにビビ不在の3週間を過ごすことに決めた。そうしていて、もしかしたら。 ビビの帰ってきたときにこの場所の空気や時間が少しでも巻き戻されて いればいいと思ったから。 たとえ悪あがきでも。せめて、ビビを苛むモノだけでも薄くなるように。

だから。 バスルームのドアを外から叩き。
「 おーい。なに喰うー?」
と聞いた。いつものように。そうしたら、電話のベルが鳴った。
「はい、」
「おはよう、ダーリン。」
切った。また鳴り出す。 バスルームのドアをまたノックする。水音に紛れて、何でもいい、とか声が返ってくるけど。
「ヘンシツシャから電話!!」
水音が止まる。
「は?」
「赤毛のヘンシツシャ!!おまえ出ろ」


「あのな、きょう、」
イニングのイスを引き、ヤツが言った。
「”Farallo”で一緒にメシ食おうっていってる。”おまえらまさか断らないだろうなこの俺様のお誕生日プレ祝いを!”とかいって」 「なんだそれ?」 「俺がしるか。シャチョウメイレイだとか言ってた。馬鹿だな、あれ」
それでもヤツは小さくわらい。

しばらくしてゾロはアトリエに出かけて行き、俺は休み前の最後の講義に出て。薄らぎはしても 意識の何処かがまだ 尖っているのは感じていたけれど。それでも夜適当な時間に外で落ち合って、 食事なんぞオーナーと3人ですることになった。

だから。
店のウェイティング・バーでオーナーと二人してゾロを待っていた。 ちらほらとどこかで見たような顔が、かるく言葉を交わしていく。社交はオーナーに任せてブラックオリーブ に集中していた。俺の知り合いじゃないし。ヒトのこと値踏みするような目でみるヤカラなんぞ、お近づき にもなりたくない。そんな様子は隣りに伝わるのか、子供だなぁと歌うように小さく言われた。 待たされてるからご機嫌斜めなのか、とか笑って付け足して。

結局20分以上遅刻しやがった。それでもヤツの入ってきた気配はわかったから、「きた、」そう言って横を振り向いたとき思いがけず いつも浮かんでいるヒトをはぐらかすような笑みの気配がその顔から消えていて。 「サンジ?」
「ん?」
「―――いや、いい」
けれどそう言った頃には昔から馴染み深い、いつもの表情に戻っていた。

「遅ェ。」
前に立ったヤツにお得意のセリフをわざと返してやったら。
「ウルセ。」
とん。と軽くこめかみのあたりを指先でおされた。おまえが面倒くさい注文するからだ、と。その手には長方形の包み。
「お。シャトー・ラゴメリイ?あったか?」
95年、そう言ってにやりとし。
「シャンクス、」
ゾロに呼びかけられた本人はどうみても何か企んでるような笑みを浮かべている。
「オメデトウ。これ、俺たちから。若いけど、良い年のだから。ところであんたいつが誕生日なんだ?」
「ああ!当分先だけどな、ま、小さい事は気にするな。」
わはははーっと豪快に先に笑われちまったら、怒る気も失せる。


「ちょっと外いってくる、」
そう断って一旦中座した。外でタバコ休憩してまで吸いたいか?と言ってくる オーナーの呆れ声を背中に聞きつつ。そういうもんなんだよ、と思いながらも、店に戻ったときすぐ眼に 入るコーナーはやはり二人のいる場所で。ふうん、としばらく入り口の方から眺めていた。この店の凝りすぎているくらい豪奢なインテリアにしっくり馴染んでる。二人とも見栄えは上出来だもんな、確かに。
ウェイターに水を頼んで、テーブルに戻ろうとしたとき。



ヤツが振り向いた。そして、



かすかにわらってみせた。やさしい。 隔たれた空間がそのままつながるような。 ざわめきが波のように引いていきあわせるように、 す、と。いままで、何処かに澱のように残っていた 強張りが俺の中から砂に吸い込まれていくように―――なくなった 。
そしていつのまにか側まで来ていたヤツが俺の手からタバコを抜き取って外へ出て行くのを。 その後ろ姿をバカみたいに眼で追いかけそうになって、現実に戻った。

「時代に逆らう連中だな」
そうオーナーは席に戻った俺に言い。
「若い証拠だよ」
と言い返し。
「ガキめ」
とやり返された。 そしていきなり

「おまえ、もしかして。いつもこんな風なのか?おい、」
呆れた風に言ってきた。
「なに?意味わかんねえ」
はあっと盛大にため息なんぞついてみせられても。
「押し倒されたっていって俺に泣き付いてきても。俺はあいつの味方だからな。いまから言っておく」
「なっ―――」
ワインを吹きこぼしそうになる。
「昔みたいな無防備な顔を。あいつにだけみせてるのに、どうせ気付いてないだろう?」
「・・・・シャンクス?」
「だから、プリンセスだって言うんだよ」
からかい混じりに、それだけ答えると。 テーブルへ戻ってくるヤツを見つけたのか、軽く顎で示すようにすると、にっとわらってみせた。
「あいつも。あんな風に笑える奴だったんだな。初めてみた、知らなかったよ」


癪に触るけど実際、夕食は楽しかったしワインも料理も申し分なかった。
ゆっくりと時間を過ごして、別れたときには相当遅い時間になっていたけれども。ちょうど良い具合に アルコールも入って、少し冷たい風も夜の散歩にちょうど良かったから昔飼っていたイヌの話とかそういった ばか話をしながらそのまま、近くもない距離を歩いて戻った。瀟洒な家の続く通りは夜は人影が無くて。
霧があたりに 降りてきていた。霧の中を抜けるのは子供の頃から好きだった。 要は、充分機嫌が良かったんだ。

「ビビの、もどってくるのいつなんだ?」
「・・・・またヒトの話を聞いてねーな」
「ああ」
あっさりと言って寄越し。
「3週間後」
そうか、とゾロは小さく呟いて。
「じゃあ、その間は。俺はしばらく家にでも戻ってる」
「そっか、」
「ああ」

「おまえもくるか?」
不意にヤツが言った。
「なんで俺が」
「それもそうだな、」
に、っといつものように笑い。
「でもまぁ、メシでも作りにきてくれよ」
「ナニ甘えたこと言ってやがるんだ、オマエは」
ごつ。とけっこう真剣に、拳を隣を歩いている頭めがけてぶつけ。

「食いたきゃ、てめえが来い」
そう言ったら。瞬間、素の、まっさらの顔をされたから。俺のほうが逆に真顔になった。
それでも、それはほんの僅かな間で。 「そうだな、」と。 もういつもの意地の悪いヒョウの仔みたいな笑い顔が戻っていた。

「でも、おまえ。明日から一人で大丈夫か?」
「俺のこといったい何歳だと思ってんだ、てめえは?」
いや、べつに見たまんまでいってるんだけどな、とか余裕で返してくるヤツに。 どの口がそういうことをいうかねと、ぎぃっと頬をツネリ。
「やっぱりクソガキじゃねえか!」
とヤツが俺の手を捕まえて嘆息し。その勝ち誇ったカオ、やめろ、と 笑い声混じりに続けた。


機嫌の良いまま、じゃオヤスミ、と普通に言えたから。今日は眠れるかもしれない、そう思った。

だけど 忘れていたんだ、 もうずっと


それでも夢はいつもつかまえるんだ、ということ。






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