Innumerate





バァカ、と言われた。
まぁ、いつものことだ、放っておく。ああそうかよ、と大抵は投げ返す返事も保留した、何故か。
言ったら言っただけ、返事をすればしただけ、
「疲れる」
ぼそ、と。口から落ちた単語があった。
ア……?あぁ、そうか。
そうだよ、おれァ疲れてンだよ身体は元からすこぶる健康だが脳味噌が疲れてンだよ、悪ィか。
ばーかばーか、バカの輔、とんきち?や、トンチキ。とまた言われた。
バカの輔?ダレだそりゃ。
トン吉?どこの間抜けだよ、そりゃ。
何だっけか、ホラ、あの天気予報の歌。ガキの頃に聞いた覚えが、あー…アレは、ウン?
まーぼーか、あっちは。違ったな。
おれの脳味噌は疲れてンだ、まともに動くはずがねぇ。
アタマの中で呪いの文句じみた店主の声が再生されていく、あぁ、よしてくれ、って後悔してももう遅かった。


『おお、ニーサンたち、買い出しかい?ふん、ふん……ほほー、結構な量必要なんだねえ。よし、じゃあ大サービスだ、ニーサン!』
『ほう?なんだよ、おっさんどんなサービスって?』
クソコックがに、と笑う。
『やあ、なんてこたァねえよ。いつもはウチのかみさんが売り上げの計算するんだが、昨日からばーさんの世話にちっと留守しちまってな?で、おれはからきし数字が弱ェ、で、弱ってたんだよ』
『ふぅん?』
ちら、とクソコックが山盛りのなにやら色とりどりの野菜の横に突きたてられた札を見た。
赤字で、『大売出し』と書いてある。
『やあ、実はな。そこの野菜、いつもは一個80ベリーの高級品さ、それを昨日から65ベリーで売ってるんだがね。一昨日より確かに大売り上げ日は47個多く売ってな?売り上げも2080ベリー多くなってんだよ。
けどよ、野菜の数も大売出し日の売り上げもおれぁうっかり手帳に書いて無くってさ、マイってンだよ、今日の分の売り上げとももう混じってるからてんでわからねえ。かみさんに怒鳴られちまう。なあ、ニーサン、それをおれに教えてくれたらウチの店のモンは全部半額でいいぜ!』

それをクソコックの隣で聞いていた自分には、ただの呪文にしか聞こえなかった。
『ほーう?半額か!そりゃ豪勢だなおっさん!』
『だろう!ニーサン!オレァ学はねェが男気はあるんだぜ!』
『よしゃ、その話乗った!』
妙に盛り上がっている店主とクソコックをただ、しれ、と見ていたのだったが。
いま思っても、なぜ自分がそれに巻き込まれたのか釈然としない。
『オイ』
きらん、と蒼がイキナリ煌いた。
イヤァな予感がした。
『ゾロ、おまえがおっさんに教えてやれ』
『……ア?』
『おれァちらっと市場と他の店回ってくっから。その間。頼むなー?』
ひらひら、と手を振ってクソコックはすったかいなくなり。
妙に期待してまるっきり、ボール投げを待つ犬みてェな面したおっさんが、目の前に立っていたのだ。手帳を片手に。

『ありがてぇ!ニーサン、ここはひとつ頼むぜ!』

これは、とゾロは呻吟した、もちろん心の中で。
思い出したくも無いガキの頃の幻視が揺らぐ。
ぱし、と幼馴染の掌に額を加減なくおまけに容赦なく叩かれた感触までも。
『ゾロ、はい。もう一回考えて』
稽古の終わった道場の隅で、机をはさんで座っていたガキが2人。
『つるは……4匹で。かめは1匹だ』
『ちがうッ』
ぱしーっ。
『でまかせで言わないの。考えなさい』
しゅくだい。さんすう。”つるかめ算”。
『鶴と亀があわせて5匹いるのよね?じゃあ5匹全部が鶴だったら足は何本?』
『20本』
ぱしーーーーッッ。
『ばかッ。それは亀が全部だったらでしょ!』
『……あ。』
『ゾロはほんとうに算数が嫌いなんだね……』
最後には、幼馴染の目が憐憫を帯びていた、確かに。


『ニーサン……?』
知らず、どこか遠い涅槃間際まで意識が飛んでいたのか、店主がゾロの前で手をひらひらと動かしていた。
『あ?おう』
ぱし、とゾロが瞬きした。つるかめ算の幻視。
アタマの中で幼馴染の声が繰り返される。
『ぞろはほんとうにさんすうがきらいなんだね』
あぁ、大ッ嫌いだな、そりゃもう。
とはいえ。ぱしんぱしん叩かれたおかげでどうにかこうにか落第はしなかったが。
普段は極力使用しない脳味噌の一箇所を揺り起こす。

『あー…と。足は……』
『は?アシ?』
店主が首を傾けるのを手で制す。
『もとい。元々が80ベリーっつったか?オヤジ』
『おう、そうとも』
80ベリーが47売れたなら、3760ベリー、とソラで計算する。
海賊狩り、などしていたから暗算はかなり実は優秀なのだが、本人も回りもそれをあまり知らない。
つーことは?15ベリー安くしてこのオヤジは幾つ売ったかってぇと……
売り上げの差額を、アシでってああ違うな。差額を15で割るのか?
ア?亀で割るんだったか?や、亀はいねぇ。

サンジがご機嫌で荷物を片手に帰ってくるころには。
どこかげっそりとした元海賊狩りの算数嫌いと。
『おお!112個売れてたのか!で、7280ベリーなのか、ありがとうよ、ニーサン!!』
うっきうきと手帳に計算結果を記す店主がいたのだ。


「なぁー、バカの輔」
だからそれはダレだっての。
無視していたら、結構な打撃が背中の真ん中に来た。油断していたから、足が2歩分乱れた。
「相変わらず無駄に身体能力高ェな、おまえ」
そう嘯く声がしやがる。
「折角のアイの不意打ちが、たった二歩かよ、オイ」
あぁ、そうだな。視界ほぼゼロで両腕大荷物で塞がってオマケに肩にも何かのでけぇ塊がぶらんぶらんいくつも吊り下げられてる割には二歩で上等かもな、オラ。半額だからって何もこんなに買い込むな、アホコック。
アタマの中で返事が出来上がる。
「そこ、右」
―――フン。
視界の端を、白い輪っかが過ぎる。
ほわん、と煙を唇から逃して、サンジがにかにかしているのは、見ないでも判る。あれがそのまま途中から解れて矢印になって右を差してもおれは驚かねェぞ。
つうか。ヒトの背中を膝蹴りするんじゃねェ。
反撃するか?ここは一つ。
とはいっても、まあ正直に思ったままを言うだけ、なのだが。

「なぁ、クソコック」
「うーい?クソは一個ヨケイネ、私は素晴らしいコックサンあるョ、冬眠明けニーサン」
「冬眠だァ?」
「そー、マリモはこの時期凍った湖の氷が溶けてあぁ、春だねー。って知るんだろうが。てめえの生態くらいてめぇで知っとけ、アホ」
「こンの北京ダック」
「おァ?!何だおいそれぁ!てめえにまだソレ作ってねぇぞ、ってハイ?!」
暗にアヒル呼ばわりされたことに今になって気付いたらしい。
ついでにいえば、ぎゃあぎゃあと喧しい大荷物の二人連れ(一方的に一人が多量に)を、港町の住人たちがどこかほほえましく見守っているのを当の本人たちは気付いていないが。それに見た目もカッコカワイイ、と海沿いの街のオンナノコたちは喜ぶ。

「あー、悪ぃ、」
ふい、とゾロが顔を上向けるようにした。荷物の僅かの隙間からサンジに眼を合わせている。
「あン?」
すぱ、とまた煙がこんどは、クエスチョンマークめいた形を模っていく。
それを眼の端で捕らえて、「やっぱりな」とゾロが妙に得心していたが。
いまはとにかく、言う。反撃だ。反撃にもならねェが、実際。まあ言われっぱなしはおれの趣味じゃねェ。
などとまあ、そんなことをゾロは思っていたが。
「袖がずり落ちてきてて。ちっと具合悪ぃんだよ、直してくれ」
肘近くまで袖を捲り上げていた薄青のジャケット。
それの袖が手首近くまで荷物で擦れて下がってきているのは事実だ。おまけに途中で妙に捩れて具合が悪い。
「はァん?」
ぎろ、とサンジが睨むようにするが。


『ハダカの上にソレ着ンな!』
喚いたサンジだったが、逆に「ロビンちゃん」とあろうことか「ナミさん」にまで、『あら、そのままでいいじゃない。』と反対されて黙ったのは今朝の話だ。
『ビーチリゾートなんだし』
そう言って、ロビンちゃんはチョッパーの帽子を軽めの白のソレから、いつものピンクのにとりかえさせて、にっこりしていた。
そしてナミさんが、小悪魔プリティな笑顔で付け足したのだ。
『ついでに誰か誑しこんでも夕方には出航よ、ゾロ』

―――フン。このクソ剣士。本能でこういうカッコしやがるから性質が悪ぃ、っての。
ぶつぶつと文句を脳内で零しながらもサンジが前に回り、雑にぐいぐいと袖を引っ張り上げていた。
まあ、とはいえ?
確かに手首まで落ちてきてたらちったァ暑いよな確かに。しょーがねーなー、ったく。
おれみてェに最初ッから袖はナシで行け、バカ。ここはあっちィんだからよ。
胸板見せびらかしてる場合じゃねえだろ、ってんだボケ。
ぐいーっと最後にもう一度、白のダブルラインの入ったそれを引き上げたときに。バカの肘の内側に、長く薄っすらと残る掻き傷を見つけて、不覚にも煙に咽そうになった。

心当たりが、アル。
……やっべェ。むしろ、アリアリだ。
ソレを何時間か前にがっつり付けたのはジブンなのだ。

ば!と手を離し。
そのときに、荷物の隙間がでかくなって。バカの輔の顔が覗いた。きれーに。
これが月ならいっそ中秋の名月、ってな具合の覗き具合だが。

「なぁ、」
声がした。
「あ?」
返しておく。
すい、と。翠眼が細まった。んん?これはろくでもねぇこと何か抜かすときの……

「おまえ、」
さあ、気を入れとけ、おれ。
驚くなよ。いいか、このクソ剣士は偶に妙なことぬけしやがるからおれはうかつにも――――


「黄色、似合うな」


どかん。

そう音がしそうに、クソコックの顔が一瞬で赤くなるのを見届けると、算数嫌いは満足してにやりとわらった。
アリエナイことに片腕に大荷物をどうやって移したのか、空いた腕がしっかりと相手をとっ捕まえ。




夕方までまだ間はしばらくはあったので。
ぎゃあぎゃあ喚いていたと思ったらイキナリ静まり返り。忽然と消えてしまった二人連れはその後どうなったかは、街の住民たちの関与することでは無いのだけれども。
出航前にロビンとナミが交わした目配せが、全てを語るかもしれない。









FIN




第346話の表紙にすっかりやられて突発小話。