〜 月今宵めくら突き當り笑ひけり 〜




記憶がある、むかし。
なにかの、帰り道。夜。隣りを歩いていた大人が、上機嫌で詩を口にしていた。
いま思い返してみれば。
出稽古の帰りだったのかもしれない、ほんの僅か、その風情が酒精を帯びていたような気もする。
見事なまでの月夜。
頭上には、黄金色の盆が煌々と冴え渡る。


―――…ヘ、ギオンをよぎる朧月夜こよひ逢う人みなうつくしき


ふ、と突然。
耳についた、詩の終り。
何の詩だろう、と思った。
夜道、しろく道が月に浮かび上がり。
問わず語りに
とおい、とおい東の国の詩なんだよ、と隣りの大人が影を作って言った。

ふわり、と金木犀の香りが漂った。
帰り道、町外れに佇む木。金色の小さな花が宵闇に香りを登らせていた。
香りに。通り過ぎ様、目を凝らした。なにかがいる、と思った。
隣りの大人は。ああ、そういうこともあるかもしれないね、と穏やかにわらった。



だって、今宵はほんとうに良い月が出ている



翌朝。いつも通り過ぎていた木が意識にずっと残り。
そうっと、まだ家の誰もが眠っているような時刻に外へ出た。まっすぐに、外れまで進んで行き。
木の下、明け方の空に。自分を包むようにまた、香りが降りてきた。
ふ、と。感じたのは衝動。

枝の下の地面へ手を付いて。土を握り締めた。
指先、ひやりとした。露に濡れた地面を石を拾って穿った。
繰り返し、そして。


出て来た。


白い小さな、骨。
細い白い手の形。濡れたような黒土の中に。



肩の後ろで。さらりさらりと髪の流れる音が聞こえた。





それ以来。
月夜に、花の香りがすることがある。
例えば
だれもいないはずの部屋に、香りだけがすう、と通り過ぎ。
ああ、まただ、と。こどもだった自分はそれでも思っていた。また、なにかが来た、と。


年月が経ったいまも。
そういったものの気配は硬貨の表裏のように、ふぃ、とその姿を自分の前によぎらせては消えて行っていた。
街中であったり、それは他に寄る辺のない、夜の海の真ん中であったりもした。
ただ、変わらずあるのは。あまい花の匂いに他ならず。

いまも。

さらり、と杯を干しては、見るとも無く目線を上げた。光を落としこむものが丸く天空にある。
落ちる影が、青い。水の中のような。揺れる水面から、ゆらりと立ち昇るように
花の香りが漂った。

「あァ、折角だけどな。酒の相手は……来るからいらねぇよ」
ぽそりと。薄い唇が半ば皮肉めいて言葉に乗せた。
遠くも無い距離の扉が、ゆっくりと開いた音を耳にして。
耳に慣れた独特のリズム、詩うような呼吸。

「……よ。おれも混ぜろ、」
さらり。空気が揺れる。
「あぁ、」

すう、と青の影を薄く切り裂いて、細身の姿が視界に入ってきた。

ふい、とその片方の眉が跳ね上がるのをゾロは目にした。けれど、口は開かなかった。
「なぁ……?花の匂いがするか―――?」
夜半の海の真ん中で。あるはずのない香りが漂う。
「ミカンの花のわけ、ねえよな」
口中で呟くようにして。首を傾けていた。
「おれの気のせいか……?」

「いや、金木犀だろう」
あ、というカオがサンジに浮かぶ。
「そう、ソレだ。桂花。」
「……ケイカ?」
桂花、っていうんだ、この花は。おれはその名前で知ってた、と続ける。
フラグラント・オリーブ、って呼び方もあったはずだぜ、と。

「けど、なんでその花の匂いがするんだよ」
ま、とはいえ。海には不思議が付き物か、とサンジがわらいかけ。
返された言葉に、笑みが途中で唇に張り付いた。
「ユーレイだ。」
「……ハ?」
金木犀の木の下に埋められていたオンナのユーレイが、たまに来る、そうゾロは言い。

すう、と甘い香りを吸うように深く呼吸し、サンジが少しだけわらった。
そうかよ?と言って。
それから、自分も杯を取り上げ酒を注ぎ。

齎された言葉を気にした風も無く、「桂花」の話を一頻り続けていた。
曰く、桂花を白ワインに3年浸して作る酒は香りも芳醇で美味な上に何百年もムカシに発明されたんだ。
曰く、この香りを茶葉に染み込ませたヤツは香りも色も黄金色だと産地では賞賛される。
花言葉はたしか、高貴な心、だったか?あっはっはーおれみてえじゃねえの、等々。

「よくもまぁ、次から次へとどうでもいい話ができるな、」
ゾロがぽつりと面白がってでもいる口調で告げ。
「てめえの辛気くせえユーレイ話を拡げてやってんだろうが、感謝しやがれ」
月に蒼く光を被せる髪がつらりと流れる。
「―――そうだな、」
「アァ」


静けさが落ち。ゆらりと。桂花、金木犀の香りがひろがる。
く、と冷えた指先を、手の甲にじわり、と添えられ。
指先に僅かに力が落としこまれるのをゾロは感じ。喉の奥で笑を殺し、口端で薄くわらった。
ふわふわと香りが漂う。


「―――オンナか、」
「あぁ。きっとな」
「なんでわかる、」
「オマエ、死んでから花の下で立ちてえか……?」
サンジが薄くわらったのが伝わる。
「―――いや、」
「だろう」
応え、手はそのままにゾロも薄く笑みをはいた。


「月見か。―――キレイな女(ひと)だといいな。いい月夜だ」
さらり、とまた髪が半顔を流れ。
「あぁ、いい月だ」
ゾロも、杯を持ったまま、応え。
さら、とまたほんのりと熱を移された指先。甲を撫でたのを感じた。
目線をあわさずとも、お互いの顔に浮かんでいる表情は。空気を介して伝わり。



「あ……、」
サンジの声。あわされた蒼。
透明な杯の底。
黄金色に月に浮かぶ小さな花が、たしかにあった。