虹の意味




「きょう、あそこあたりにね、そりゃあ見事な虹がかかったんだよ」
女が窓の手すりから片腕を差し伸ばした。
淡く塗られた爪の指すその先には湾を挟んで遠く岬が見えた。
夜明け前の薄暮れ、月が白く空に溶ける頃。
「−−−虹が?」
「あぁ、そうとも。今朝、雨が降ったろう?阿仁さん知ってるかい」

そういえば降っていたかもしれないな、と漠然と思う。
あの男の刃が虚空を裂いたときに、何かの飛沫が弾けたのはそれでは雨粒だったのかもしれないな、と。
「ここいらの言い伝えではね、」
女が微かに唇を綻ばせた。
「−−−あァ、」
軽く続きを促す。
女がまたちらりとわらった。良かった、阿仁さん別に気分を害したンじゃあないんだね、と。
そして膝をまた僅かに崩すと手すりに片腕を伸ばし顎を預けていた。

「虹はね、天の掛け橋なんだよ」
「どういう意味だ、」
「空には神様が住んでてね、」
つ、と。月の辺りを見上げたのだろう、髪が肩を滑り落ちていた。
「死んだ人間も空に帰る、そのときにね。虹が橋になるンだよ、だから」
虹がかかったときに死んだヒトは空に帰れるんだ、と女が振り向き微笑んだ。

「ヒトなんざ、いつだって死ぬだろう」
「そりゃあね、だから空へ帰れるヒトは善人なんだってサ」
今朝の虹はそりゃあキレイだった、と女が言葉にし。
だけど毎日毎日見えるものじゃないだろう?だからね、と柔らかな声が続く。
「虹がかからないときは、鳥に連れて行ってもらうのさ」
鳥葬か、と思い当たる。

「ねぇ、阿仁さん」
なんだ、と眼が返し。
「昼過ぎには凪ぎがやむだろうから、きっと出られるよ」
「そうだな、」
窓の下に広がる海を見詰める。
「変わった楼(イエ)だな、ここは」
「崖の上に立ってるからかい?」
「……あぁ、」
波が砕ける音が下から競りあがってくる。

「妓が逃げないかと思ってるんだろう」
くすくすと女が笑った。
す、と男が肩を軽く竦めた。
「この楼のおかあさんは優しいヒトでね?」
女が眼差しを水面に刹那あわせた。

「身投げしても、見逃してくれるのさ。海から上がらなかったら家の借金は帳消し、上手く逃げ延びたのならそのまま、鱶に食われたならね―――」
隻腕の女が、肘下から空ろな長い袖をゆらゆらと泳がせてみせた。
「もう一度戻りたいなら、入れてくれるのさ」
この島の周りには鱶が多いからね、アタシみたいなのは珍しくないンだ、と。
「だけど、島の者以外にアタシと遊ぼうっていう男はいやしなかったのに、」
阿仁さんは変わったお人だね、と女が深い灰翠の眼を煌かせた。

「イイ女だからな、」
短い返答に。
「変わったお人だね、阿仁さん」
女もまた嬉しそうに小さく笑った。
「ねぇ、気を悪くしちゃイヤだよ?」
細い指先が鈍く光る金を揺らしていった。

「−−−阿仁さんも、イイ男だね」
きっと綺麗な七色が橋になるンだろうねェ、と眼を細めて見せていた。
「要らねェよ」
男も目元だけで笑って見せた。



                           □ ■ □ ■ □



「なぁ、見てくれ!!なあ!!」
舳先から随分と慌ててトーンの高くなった船医の声が船に響いた。
午後と夕方の間の時間、それぞれに皆がそれなりに時間を自分のために使っている頃合だった。
「なあああ!はやくはやく!!」
ここまでこの船医が声を大にして主張するのも稀であるから、そこここから皆が声の元へ集まってくる。
「ほら、ほらあれ―――!!」
小さな背を思い切り伸び上げて腕が指し示した先にあったのは。

「へえ!見事な虹ねえ―――!」
ナミが目元に手で影を作り見遣る。
「キレイだなぁ!」
船医がナミの足元で酷く嬉しそうに笑った。

「あら、本当。副虹も見えるわね」
ロビンが口端を綻ばせた。
「ふくこう??」
船医が見上げてくるのを捕らえ、ロビンがすい、と虹を指した。
「主虹の外側、そうね、半径51度のところを良く見て。虹がみえるでしょう」
「お。色が反対じゃねぇか?」
これは狙撃手であり。
「赤から内側へ向かって、橙、黄、緑、青、藍、紫」
見える?とナミが船医の方を見遣っていた。
美味そうだ!!と砂糖菓子でも思い出したのだろう、船長は底が抜けそうなほどの笑みを乗せていた。

「なぁ、虹のふもとには何があるんだ?」
船医が丸い目をナミにあわせ。
ナミがにこりとわらった。
「あれはね、光学現象だから」
「こうがく、」
「水滴に光が―――」
「虹のふもとにはな!たどり着ければ夢が叶うという―――」
狙撃手は声を張り上げる。
やれやれ、とでも言う風情で料理人は女性向けに冷たい飲み物を差し出し。
「ヤロウドモ」にはトレイごと手近にあった小卓に飲み物を置いていた。
「へえ!」
船医は感心したように声を上げ。
ナミはグラスに口を着けていた。
ロビンはそんなナミに小さく笑う。

「そうだ!そこまで辿りつければどんな夢もな!叶うんだって言い伝えがおれのいた―――」
「へええ!!」
「やあ、あれ美味そうだなあ〜!」
例によってばらばらなりになぜか船長も混ざって三重奏になっている。

「虹、ねえ?」
料理人は小さくナミとロビンに微笑みかけた。
「反射虹も見えてるの、コックさん、わかる?」
ロビンがふわりと笑みを浮かべた。
「うん?ロビンちゃん、目が良いんだ―――」
サンジが蒼を細めて虹を見詰める。

「その方向じゃないわ、」
す、とサンジの顎先に指が触れ。虹とは別の角度に顔を持っていかれる。
やはり、手だけが自分の喉もとから覗くのにサンジは苦笑しながら従い。
「虹が水に反射して出来るのよね、」
ナミも眼差しを投げる。
「あぁ、ほんとうだ、」
唇からタバコを取り、サンジも3本目の薄い虹を見詰め。

そのときに、三重奏に新しい音が加わった。
剣士にしてみれば、飲み物を飲んだなら船医の真ん丸目に捕まっただけのことだったのだろうけれども。
「−−−ァ?」
「虹!!なぁ、ゾロ!ほら!」
「−−−あぁ、虹だな」
「あの根本には何があると思う?」
きらきらと瞳に邪気が皆無だ。

とん、と剣士が飲み干したグラスを卓に戻し、僅かに視線を虹に遣り。
一言だけ言い残し、また船尾へと戻っていっていた。

「虹か?死体があるんだ」

さも、アタリマエといった口調だったので船長を除く全員が瞬間、瞬きした。
帆が風を孕む音が奇妙に耳につき。
「それは食えねえなあ!」
けらけらと船長が笑い。
食うな、と例によって四方から音声と実体を伴った突っ込みが入れられ、酷くあっさりと告げられた明るい中にも捩れた夢めいた情景は薄れていっていた。

「しょうがねぇバカだな、ありゃァ―――」
笑いとばし上機嫌な船長の声が響く中、サンジは、タバコを唇に挟んだまま呟いており。その視線はまっすぐに船尾にあわせられていた。
「コドモを無駄に脅してンじゃねぇよ」



                             □ ■ □ ■ □



「−−−ア?」
ゾロがグラスの縁越しにサンジに目を合わせた。
「昼間のハナシ、」
「何かしたか、」
心底、心当たりが無いような声にサンジが溜め息を吐いた。

「だぁから。無駄にガキを脅すな、っての」
「脅す?」
「虹のふもとには死体があるって言ってたろ、このバカが」

「あぁ、そのハナシか」
「そう」
「実際、在ったンだから別にいいだろ」
「−−−は?」

「斬ったヤツが倒れていた辺りから、虹が掛かった」
時間軸も季節もなにもかも飛ばした事実だけをゾロが言葉にする。
それをなぜか、自分がいとも容易く理解できることにサンジは少しばかり面映くなる。
「言い伝えだと、虹はタマシイを空へ返す橋、とか言ってたか。橋なら人柱も要るのかもな?」
だから、虹のふもとには死体がある、と。
片手をひらりと一閃させていた。

「どこまでも物騒なヤロウだなァ、てめぇ」
あんなキレイなもの見といてソレかよ、とサンジが眉を引き上げて見せた。
「虹の彼方には幸いが在る、とか言い出したらそれこそどうしようもねぇだろ」
に、とゾロが口端を吊り上げる。
「フン。世のために即効そのイカレアタマに蹴り落とすな」


「なぁ?」
翠だけがサンジに合わせられた。返答の代わりに。
「どの虹のふもとにも死体は一つ?」
「さぁな、」
薄い唇を啄ばむ。

「ただ、」
僅かに唇の間に空間が生まれ。ゾロが言葉にした。
「後にも先にも、あれほど色味の冴えたのは見たことが無ぇかもな」
「そっか、」
サンジが呟き。また深く唇をあわせていった。
「おまえが斬った相手から生えたンなら、そうかもな」

「アリガトよ」
「褒めてねェよ、ばぁか」
「”そっか”」
声がぷつりと途切れた。後には布の擦れる音が微かに、波に揺らぐ光に混ざりこんでいった。