3

フェアバンクスにやってきたFBIのエージェントは、以前一緒に仕事のしたことのあるシモンズではなく、ギブソンという名前の男だった。
そしてそのギブソンの相棒は前にも一緒だったモリソン捜査官。そのお陰もあってか、死体を見付けても特に警察に引き止められることもなければ、FBIに絡まれることもなかった。
警察とは仲良く手を繋いでお仕事もする仲だったから、現場に来る連中は皆顔見知りだ。
『アンタも部下と釣りで休日とは、お粗末な休暇だな』
そんな一言を去り際に貰うくらいだ、だから調書にさえ付き合ってしまえばそれっきりになるのだろう、と考えていた。アレックスの管轄は税関と国境警備であり、ありきたりの殺人は管轄でないからだ。
しかも、国境警備といっても空港や倉庫の方がテリトリィであって、海から遠いフェアバンクスでは沿岸からも遠い。カナダからも遠いからそうそう大きな事件は起きず、大概密輸関連でしか事件は起きない。
しかもフェアバンクス空港でのセキュリティは空港の警備専門スタッフが行うから、抜き打ち検査でも実施しに行かない限りはテリトリィと呼べるほど常に出入りしている場所ではなく、税関職員も上の方になるとこまごまとしたことは多くても大きな仕事はあまりない。
そんなわけで、FBIのギブソンとモリソンが挨拶がてらにアレックスのオフィスにやってきたのは、地元警察が死体の身元をほぼ特定した翌日だった―――死体の人間は一度銃の不法所持で捕まったことがあり(しかし友人≠フ預かり物と解って不起訴になっている)、どうやらロス在住の人間らしかったからだ。(州を越えての犯罪になったので、FBIがお出ましになった、というわけだ。)
しかも、別件のスピード違反で掴まったオトコの車から白い魔法の粉のパックが出てきて。取り調べのために警察署内に連行された時に、たまたまホワイトボードに貼り付けてあった遺体の写真に目を遣り。
『うーわ、』
そう明らかにオイシイ反応を示したものだったから、これはもしかしたら大掛かりな麻薬関連事件になるのではないかとFBIのやる気を引き出していったのだ。
これはますます自分の出番はないな、と思って安穏と構えて通常の仕事に戻っていれば、遺体の名前がほぼ断定されたと報告されたついでにFBI捜査官のギブソンに呼び出された。
ロシア人の麻薬密輸入業者が絡んでいるかもしれないから確認に少し付き合え、というわけだ。
以前別の事件でオーシェイという名のFBIエージェントを含む数名が殺される事件もあったので(その事件は解決済みだが)、特に忙しくしていなかったアレックスは少し早めに仕事を切り上げて市内にある警察署へと向かった。
夕方とはいえ、真夏に近いこの時期は白夜に入っているので日照時間が21時間あり。その結果、なにもかもがだらだらと引き延ばされて続きそうではあっても、実際は時計にコントロールされた生活を送る現代人だらけの街中は、まだまだ昼最中のような明るさの中でもある程度の忙しなさに包まれていた。
当然、勤務を終えて帰ろうとする警察署の人間とも鉢合わせることになり。アレックスがモルグに到達するまで、予想以上に時間がかかっていた。
「ジェントルメン、」
挨拶代わりにギブソンとモリソンに挨拶をすれば、頷きが返され。遺体が安置してある場所から少し離れたオフィスに通された。
「連絡の取れた家族がこっちに向かっているんでな」
そうギブソンに告げられ、ああなるほど、とアレックスが頷いた。それで上のフロアの部屋ではなくこっちに通されたのだと理解する。
「パイクはよく覚えてましたね」
アレックスが安置室のほうを見ながらスピード違反で捕まった麻薬ディーラーの名前を言えば、モリソンが肩を竦めて返した。
「身形のいいビジン≠セからだとよ」
「はン」
捜査協力の見返り≠ネのか、遺体に関する情報が記載された資料を手渡され、ぱらぱらとそれを眺めた。
クロード・フォンデンベルク、28歳。家族構成、弟が一人。
生まれはロサンゼルス、高校は卒業していて、定職についた経歴は残されていなかった。
銃の不法所持での逮捕は、高校を卒業して直ぐ後。
後は車の違法駐車とスピード違反でチケットを切られている以外は、綺麗なものだった。
二枚目のページを捲り、アレックスは書類から顔を上げてギブソンを見遣った。
片眉を跳ね上げた理由は、銀行の預金状況が記載されていたからで。それには不可解な履歴が残されていた。
「11月頭に4万2千ドル残して全額引き出し?」
アレックスの言葉に、ギブソンが皮肉めいて笑った。
「相当頭がキレる犯人か、よほど仲が良かったのどっちかだな」
モリソンが肩を竦めた。
「4千ドルが家賃で自動引き落とし。3千ドルが弟の口座へ振り込み。うち千ドルが学費積立に回されている。それが凡そ半年分だ」
アレックスが眉を寄せると、ギブソンが遺体置き場のほうを顎で示した。
「見つけてやって欲しかったのか、雪が溶ければどのみち見付かると踏んで、それまでの足止めとして残しておいたのか。どっちにしろ嫌な相手だ、もし本人が引き落として自ら手渡したのでなければ」
アレックスが目を細めた。
「殺害されたのは?」
「昨年の11月だ。遺体の状況からは殺害の日にちまでは特定できていないから、金を引き落とした人間が犯人かどうかはまだ不明だ。銀行のセキュリティ・カメラのデータも提出してもらったが、まだなんとも」
ギブソンの回答に頷いて、その資料は返した。
「それでオレに確認して欲しいものは?」
「ああ、こっちの資料です」
そして、モリソンに手渡された資料をぱらぱらと捲りながら訊かれた質問に答えていく。
まるっきり無関係と思われる人間や、関連があってもおかしくない、と思われる人間が資料のファイルに混ざっていて。私見ですが≠ニ断りながら、それぞれに対する印象も述べておいた。
クロード・フォンデンベルクの殺人に関与している可能性の度合いも含めて。
そんなことをしている間に随分と時間が経っていたのか、ドアをコン、とノックする音が響いて三人揃ってドア口を見遣った。
顔見知りの女性職員が、遺族の方がお着きです、と告げてくるのにギブソンが頷いていた。
「あっちに通してくれ」
「はい」
女性がドアを閉めて戻っていき、ギブソンがすいっと視線を投げ遣ってきた。
「キミは目端が利きそうだな。一緒に立ち会って貰って、弟の印象も判断してもらおうか」
「オレが」
僅かに目を見開けば、モリスンがドアを開けながら返してきた。
「クワンティコに来るつもりがあったら連れて帰って来い、と局長から言われているよ、ディレクター・ブルックス」
その言葉に、アレックスが局長に昇格するに当たって推挙してくれたFBIの局長の顔が頭に浮かんだ。そして、先に遺体安置室で待っていたギブソンに告げた。
「いまくらいの権限が許されれば考えるかな」
「は!いい断り文句だ」
ギブソンが口端を吊り上げ。それから、す、と表情を無≠ノ戻した。かつんかつん、と足音が近づいてくるのが、微かに響いてきたからだった。

                                      4

空気が違う、とジュリアンは知らない街の飛行場に降りて思っていた。
そして飛行場のゲートを出たところに停められていたセダンのドアの前で立ち竦んだなら迎えに来てくれていた警察官にバックシートに荷物を積み込むように乗せられて、窓の外に広がる見たことの無い景色にも意識を動かされず。気がつけばセダンは石造りの建物の前に停まっていた。
肩を軽く押すように促されて初めて、クルマから降り。後は視線をずっと1メートル先のリノリウムの床を見て歩いていた。
先に立って歩く警察官の制服が奇妙に思える。その分厚い背中と、腰の銃に目がいきそうになる。無線機を掛ける黒革のホルスターが光を照り返すことと。
警察署に足を踏み入れたのも、警官と向き合うのも、銃を間近で見るのも、すべてが初めてのことだった。
電話を受け取ってから、頭の中心はずっと金属音が止まずに、フェアバンクスに向かう飛行機の中では吐き気がした。
電話の音が響いてくる、どこかから。警察署っていうのは、映画と一緒なんだナ、とどこか離れたところからジュリアンは思っていた。喧騒と、電話と、人の出入りがひっきりなしで。
警官が顎で指す方向へ、顔を向ければいつのまにかざわめきが遠くなっていた。さっきまでとは階層が違うようだったけれども、エレベータに乗ったのか、階段を下りたのかもはっきりとはわからなかった。
入りなさい、と促されて頷き。開かれた扉から見えた中の様子に科学のクラスの実験室かと一瞬思う。細長いテーブルが幾つか並んでいた。
けれど、その一番奥を見て、それがテーブルであるはずもないことを知った。
白衣とマスクのニンゲンが2人いた。トレイの乗った台と、丸い座面のスティールの椅子と。
こく、とジュリアンが息を飲み込んだ。
ステンレスの「テーブル」の上に長く置かれているものがあった。シートが被せられている。白衣の影に隠れて台の上部は死角になっていた。知らず、ポケットに隠していた掌を握りこむ。
「確認をしてもらえるか」
急に声が届いて、ジュリアンがびくりと肩を揺らし。視線を声の方にゆっくりとあげればダークスーツの男が立っていた。
ギブソン捜査官だ、と名乗った相手にジュリアンが目を伏せて微かに頷き。ポケットの中で細かく震え始めた掌をきつく握り締めるようにした。
捜査官の後方にも人陰が見えた。
ギブソンの声が静かに響くのがただの音になって流れ込んでき、ジュリアンが視線を靴先に落としてから、決心したように白衣のニンゲンの方に歩いていき。DNA検査がなんとか、と言われた。
頷けば、マスクをした白衣のニンゲンが淡々とサンプルを摂取していき。その間ずっと、ジュリアンは台にかけられたシートを見詰めていた。
青白い。
白衣の裾がひらひらと遠ざかっていき、台の側に残っていた年長のマスク姿がジュリアンにもっと側に来るように静かに促し。
ジュリアンの靴音だけが冷えた空間に聞こえ、次いで、シートのずらされる布音がした。
「―――クロード、兄です」
呟くように告げる声は酷く平坦で。確かに、間違いありません、と唇を割って出てくる言葉は滑らかだった。
兄の顔は思い出せるはずであるのに、ブランクになった。
思考が総て持っていかれてしまった、視線の捕えたものに。
クロードの声も。
いまは思い出せなかった。目の前で横たわる、青白い人型が兄であるのかと人は訊いた、そして自分は―――――
それが、兄だと。認めた。
ポケットから手を引き出して、ゆっくりと伸ばし。頬の側で、近づけただけであるのに指先と横顔の間の僅かな空間が冷えた。
それでも、そうっと触れ。
石を思わせる硬さと触れたことのない温度に指先が跳ね上がりかけるのを押し止めて、ジュリアンが呟いた。
「クロード、先にひとりでこっちに来るなんて、ずるいよ」

                                  5

ギブソンが主導でクロード・フォンデンベルクの弟に質問を浴びせていくのを耳に捕らえながら、分析してみる。
17歳、名前はジュリアン、ハイスクールのシニア。
兄と最後に会ったのは2年前のクリスマスで、電話は半年前に貰ったのが最後だったという。
兄は貿易関係の仕事で忙しくしているのだとずっと思っていた、と、震える声で応えていた。
電話が繋がらないことも、半年以前にもよくあったらしく。今度もそれほど奇異には思わず、それでもメッセージはサーヴィスに残していた、と。
このコドモがまるでケージで大切に飼われてきたハムスターやギニピッグのように無害に見えた。
震え、悲しみと驚きに捕らわれ、自分が何を答えているのか本当はよくわかっていないのだろう、それでも問われるままに懸命に答えを口にしている。
遺体で発見された兄は厳しい顔をしている男だった。運転免許証の写真で見る限り、整った目鼻立ちをしていて、それこそ十中八九誰が見てもビジン=Aけれども情に流されることのない目をしていた。必要以上に浮世の苦さを知っているニンゲンの目。
浮かび上がる性格はクール、そしてドライ。そして狡猾。
兄弟二人きりになって、兄は弟を溺愛していたのだろう。オノレの  仕事≠曝すことなく、弟を大切にして。
そんな弟は、まだミルクの匂いがしてきそうな印象を受けた。
自分が17であった頃や、きっと兄であるクロード自身が17であった頃とはカケラも似ていないだろう、フラジャイルで甘い感じがした。
言うなれば純粋培養、しかも特にベビーフェイスだということもないのに、17歳という実年齢より余程幼い表情をしていた。
目だけはそれなりに苦労していることを反映し、寂しさに満ちていた ―――慢性的らしい。
す、と視線を上げてきたモリソンを見上げ、首を一度だけ左右に振った。否、このコドモは関係者に非ず。
モリソンが小さく頷き、アレックスは目を細めた。
これでアレックスの仕事は終わりだった。晴れて管轄外≠ニなるこの事件から遠のいてもいい筈だった。
ギブソンが静かに、けれど強い声で弟に訊いているのが聞こえた。
「DNAの照合が終われば、遺体を引き取ってもらって結構だ。ここの墓地に収めるにしろ、家族の墓に持ち帰るにしろ、必要な手配はここの職員が行う。もし家族の墓地に納めるのであれば、冷凍で空輸するか、骨にしてから持ち帰るかを考えておいてくれ」
「―――え、」
心細い声が訪ね返すのに、ギブソンが目を細めた。輸送、空輸、そういった死者≠ニしての兄の扱いに馴染めていないのだと解って、僅かにギブソンが表情を和らげた。
あの、と弟が僅かに息を飲んだ。
「クロー……兄は、なぜ亡くなったのですか」
すい、とギブソンがボードに張られていたレントゲン写真を指差した。
「直接的な死因は、肺と腹部に銃弾を撃ち込まれたからだ」
ふる、と弟が首を横に振る。
「いえ、あの……なぜ、こんなことに……?」
すい、とギブソンが片眉を跳ね上げた。
「まだ調査中で多くは言えないが、少なくとも観光客として強盗に狙われたのではないと断言しておこう。申し訳ないが、キミのお兄さんにはこうした結末を迎えるに足る理由があった、と」
きゅう、と唇を噛んだ弟の肩を、モリソンがそうっと握りこんでいた。
ギブソンが静かな声で続けた。
「こちらに滞在中は、窮屈かもしれないがいつでも私たちに居場所が解るようにしておいてくれ。できればきちんとしたホテルに泊まって身の安全を確保しておくように。直接的に狙われる理由はないが、万が一ということもある。出歩く時は十分に周囲に気をつけるように」
困惑した表情で見上げた幼い顔が今にも泣き出しそうに歪んでいるのが見え。こういった瞬間に一人で居るのは辛いな、と。自分の父親が事故で死んだ時のことを思い返して、アレックスは僅かに眉を顰めた。
不意にギブソンが胸を抑え、失礼、と言って部屋から出て行った。直ぐに携帯電話を取り出して、何やら話し始めている。
モルグのスタッフはこれで話は終了だ、と言わんばかりに、更に奥の小部屋へと入っていった。
モリソンがギブソンの行動を捉え、視線を相棒に投げ遣るのを見遣った。
「モリソン、行くぞ」
そう言いながらギブスが戻ってきて、弟の直ぐ前で立ち止まった。
「ミスタ・ジュリアン・フォンデンベルク、遠い所をご足労だった。捜査に進展が出そうなので私たちはこれで失礼するが、ホテルに落ち着いたら私のセルにメッセージを残してくれ。DNAテストの結果が解り次第、ご報告する。お兄さんのご冥福を祈っているよ。なにか思い出すようなことがあったらいつでもコールしてくれ。では」
きゅ、とコドモの腕を握ったギブソンが、足早にモルグを出て行く。軽く会釈したモリソンも、直ぐそれに従った。
アレックスも、ここに留まる理由は何一つない、と出て行こうとし。けれど、明らかに震え始めたコドモがたった一人でこの寒い部屋に取り残されることに気付いて、息を吐き出した。
ここの署内のスタッフは見当たらず、検死官助手も戻ってくる気配はなく。
参ったな、と頭を軽く指で掻けば、不意にアレックスの存在に気付いたかのように、コドモの視線が跳ね上げられた。
涙が溢れそうに盛り上がったブルーアイズが、驚きに見開かれるのに息を吐き出した。
「ホテルまで送るよ。もし、もうここを離れてもいいんだったら」
そうアレックスが言うや否や。視線をアレックスに合わせたまま、コドモが双眸から涙を転がり落としていた。
荒い息継ぎは聞こえるものの、嗚咽を零すこともなく。ただ上げられない声の変わりに身体を震えさせて、まんま迷子の子供のようだった。
う、と盛大に泣かれたことにアレックスは一瞬うろたえ。けれど、そうっと腕を伸ばしてコドモの身体を抱きしめた。スポーツ好きのコドモではないのだろう、細い体が腕に納まり。一瞬遅れて腕が背後に回され、ぎゅう、と縋ってきたのが解り。次の瞬間、うぅうう、と低く唸るようにコドモが嗚咽を零し始めるのを聞いた。
泣くな、とは言えず。泣くんじゃない、とも言えず。
アレックスは腕の中で泣きじゃくるコドモの背中を何度も撫で下ろしながら、小さな頭に僅かに顔を寄せた。
自宅から離れた遠いアラスカの地で、たった一人の兄を亡くしたばかりのコドモがきちんと泣いてしまえるように、アレックスは暫くは動かずにいてやろう、と決めた。ホテルのチェックインまで付き合ってやれば、あとはなんとか立ち直れるだろう、と。
一人で泣く時間も必要だが、一人になってしまっても独りでないということを知るのは重要なことだから。
自分にその役割が回ってきたのは決して望んだ結果ではないものの ―――あと数十分くらいなら、このコドモに割いてもいいか、と覚悟を決めた。
それ以上は、アレックスの管轄≠ナはなかった。
いくらコドモでも―――これからずっと一人で生きていかなくてはならないのだから。添える誰かを見付けられるまでは。

                                  6

電話を受けたすぐ後にしばらく泣いた気がしていたけれども、それ以降はずっとジュリアンは涙を零すことをせずにいた。身体が自動的に動いて、頭も離れたところで働いているような気がしていた。
フェアバンクスの警察署内でもそれは同じことだった。
それが、初めて普通に話しかけられて、しばらく泣いて。収まったころに廊下に連れ出された。
FBIの捜査官の後方に立っていた人物だということはわかる、けれど名前が抜け落ちていた。安置所にいた人たちのなかでは一番、年が若かったような気がする。
その人物に促されるままに、ジュリアンは警察署を出て広いパーキングスペースにいた。
何台か停まっているなかの、濃い青をしたSUVにまっすぐその人物が足早に歩いていくのに少し歩調を速めてついていく。
「乗りな」
肩からずり落ちそうになっていたバッグを引き上げなおし、顎で示すようにされたソレのドアを開け、高い車体に乗り込んでいた。
「あの、ありがとうございます」
示されたシートが助手席で会ったことに、多少戸惑い。バッグを足元に下ろしてから、ベルトに手を掛けたなら、決して低くは無いけれど耳に良く通る声が届いた。
その口調が、気遣いと同時に線をきっちりと引いているのが感じられて、ジュリアンはますます申し訳ない気分になっていた。
「ホテルだが。適当な―――そうだな、一晩90ドルくらいのところでいいか?」
「あ、」
そういえば、家にあった現金をとりあえず慌てて財布に突っ込んで来ていたことを思い出した。クロードが笑って、地震が起きたら困るだろ、と家にいつもあった千ドル程度の。
担任に家族の急用で長期で休む旨を伝えて、5日に迫っていた卒業式には出られそうもないと告げて。荷物を作る間に、デイジーに事情だけを説明して空港に向かっていたから。
そして、チケットを買ってすぐにアラスカ行きの飛行機に飛び乗ってしまったから。追加で現金を下ろすのをすっかり失念していたことをジュリアンが思い出していた。
ふ、と隣の人物の動きが止まったことに、ジュリアンが目を合わせて、ええと、と口ごもった。
「え……と。あの、ご迷惑をおかけしてしまうんですが、」
「あン?」
酷く短い返事を、首を傾けるようにして寄越してくる人物は、スーツ姿の捜査官たちとは異質に思える。服装からしても、ダークスーツではなく、アーミー仕様のブルゾンにブラックデニムだった。
「銀行、か。ATMマシンのあるところ……先に連れていっていただけませんか、え……と、キャッシュ、いま500ドルくらいしかなくて。クレジットカードも、無いですし―――」
「あー……」
「ほんとうに、すみません」
「この時間だから銀行は開いてねえぞ」
「え?」
言葉に、ジュリアンが首を傾げ。まだ明るい窓外を見遣った。
「――――――あ」
そうか、これが白夜っていうものなのか、と漸く思い当たり。
「あぁ、すごいな、本当にまだ明るい」
そう思わず呟き、
「慣れるまでは寝づらいかもな」
と返された言葉に頷いていた。



「――――――あの、ごめんなさい」
わざわざ連れてきていただいたのに、とジュリアンが声をますます細くしていた。
「はン?」
助手席のドアを開け、乗る込む前にジュリアンが言った。
「系列が違うみたいで、マシンが通らないんです」
「あー、」
眉根を寄せた人が、カードを見せてみろ、と告げてくるのにそのままカードを引き出して、カリフォルニアの地域銀行のソレを手渡す。
足元から寒気が押しあがってきて、小さく肩を竦めるようにすれば、クルマに乗るように促され。口中で礼を呟いてから、シートに収まりなおすようにしていた。
「あの……ですから、ホテルとかじゃなくていいです、モーテルとか……」
視線が合わせられ、眉が引き上げられるのに、慌てて首をジュリアンが左右に振る。
「いえ、あの。ギブソン捜査官の仰っていたことを無視するとかじゃなくて―――」
相手のニンゲンが、頭を掻き。そのしぐさが苛立ちを表すのか、それとも面倒だと思っているのか判別がつきかねて、ジュリアンが軽く恐慌を内心で起こしていたなら。
「シートベルトしろ」
「え?」
ジュリアンが瞬きした。
「寝る場所がどこでもイイって言うなら、サービスは一切無いが安全だけは保障できるオレの家でもいいな?」
「――――――え、」
言葉の意味が漸く理解できたジュリアンが一瞬返事に詰まった間に、もうクルマは走り出しており。
「あの……でも、ご迷惑じゃ。ご家族とか、あの―――」
どうしよう、と酷く動揺する。
「普通はこういうことはしねえから、滅多にないラッキーだと思っておけ。シングルのオトコの一人住まいだから、快適さはどうこう言うなよ」
「あの、でも」
「あン、」
す、と視線だけを寄越され、う、とジュリアンが言葉に詰まる。
「でも……ギブソン捜査官が―――長くて10日くらいかかるって……」
そんなに長い間お世話になるわけには、と語尾が消えていきかける。
突然、事実がまた突きつけられたからだった。火葬か遺体を空輸するか、と尋ねられたことも。
瞼の裏が急に熱くなった気がして、ジュリアンが目元を拳で押さえた。細く、長く呼吸し、息を整え。痛むように思える心臓の辺りが落ち着くのを待ち、やっと言葉を続けていた。
「ご迷惑では……」
「昼間は仕事で居ないからな、10日のガマンだ。ギブソン捜査官が出歩きは止めとけって言ってたってことは、オレのとこなら目くらましになって丁度イイ。あっちが用が出来たらオレの家まで行けばいいんだし」
「がまん、」
すみません、ほんとうにご迷惑おかけして、とジュリアンの声が心細気に揺れた。気儘な一人暮らしに、わけのわからない闖入者を受け入れるのは酷くメイワクに違いない、と容易く想像がつく。
「家、市内じゃねえからな」
言外に、滞在されることをガマン≠キるわけではない、と告げられて一層恐縮してしまう。
「あの、なるべく、お邪魔にならないように、しますから」
ほんとうに、ごめんなさい、と俯き。
「はン?」
「いえ、あの……はい」
項垂れるようだったジュリアンが、急に頭を掌で掻きまわされて、疑問符だらけの顔を上げれば。
「家の中で走り回ったり、真夜中にきゃーきゃー大声で叫んで窓ガラス割ったりしなきゃいいさ」
そう至極真面目な横顔が告げた内容に、瞬きする。
「え―――ソレ、」
じわりと心臓の裏側が温かくなった気がした。固く縮こまって干乾びていたソレが。
「しないです、そんな」
ほんの僅かの間、頭に乗せられていた片手が浮いていき。
「だったら構わないさ」
ジュリアンが、小さく頭を下げる。
「ほんとうに、ありがとうございます、あの……ジュリアン・フォンデンベルクです」
「アレックス・ブルックスだ。この辺りのCBS局長をしている」
握手しようと手が差し出され、ジュリアンの冷えた手がそれに応え。
「ブルックス局長、おせわになりま―――」
ふ、とアレックスの表情が微かな笑みに和らいだのに、ジュリアンが首を傾げ。何か自分がヘンなことを言ったかどうか、逡巡していた。
「アレックスでいい」
そう短く返され。窓外にはまだ暗くならない明かりの中に、緑がどこまでも広がっており。見たことのない景色を、ジュリアンが初めて意識した。
アレックスの横顔の向こう側にも同じように拡がる景色が流れて行き。
年長の人を名前で呼ぶことに、微かな戸惑いも覚えながら、小さく唇に音を登らせていた。








XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
こんな感じで共同生活が始まってくのである。