*53*

 ルーシャンがぼんやりと瞬きをした。気がつけば、灯りを着けずにいた室内は真っ暗で。もう一度ゆっくりと瞬きをした。窓外に広がる幾つもの灯りに。
 知らず、詰めていた息を吐き出し。四肢が強張り固まるようなことにも漸く意識が追いついていた。どれくらいの間、ここにいたのだろう、と。僅かに身じろぎする。冷え切った空気が肺に入り込んでき、体の内側から薄く氷の膜の張ったイメージがちらりと過ぎった、一瞬。
 膝に額を落し、息を長く吐く。
 それが寒さに震えることも、どうでもよかった。灯りを着けるために立ち上がることもしたくない。
 眼の奥が鈍く痛んだ、涙でも零していたのかもしれない。静かに視線を引き上げ、ソファに背中を預け直した。暗がりの中に、別のイキモノのように白のストールが床にだらりと長く伸びているのが、浮き上がって見えた。
 わけがわからない、と微かな悲憤めいたものに凪いでいた感情が揺らぎかけ、けれどもそれも重く沈んで行った。
「此処」が住み慣れた自室である、とどうしても思えなかった。
 切り離された、と思った。
 世界の全てから。

 喉奥から掠れた声が漏れた。
 死にかけたイキモノみたいだ、と自嘲する。この、血の泡が混ざっていそうな吐息は確かに聞いた覚えがあった。
 ソファのアームをきつく握り。更に洩れそうになる嗚咽を噛み殺すようにする。
「―――――――あぁ、そうだ。バス……」
 呟く。
 座ったまま、コートから腕を抜き。そのまま立ち上がるようにすれば、抜け殻じみてソレがソファに残され。見下ろしたルーシャンはコートを引き摺るように手元に引き寄せると、ふ、とその手を止め。灯りも着けないままベッドルームに向かい、淡い色をしていたニットとトラウザースを脱ぎ落して着替え。「着ていたもの」をコートと一緒に拾い上げ、ホールを抜け出ていった。
 静まり返った廊下に、人の気配は無く。淡い照明が灯されているだけな中をエレヴェータホール側までゆっくりと歩いていく。
 そして、奥まったところに設けられたダストシューターの金属製のドアを引き開け。片腕に抱えていた、馬鹿馬鹿しいほど贅沢な衣類を一式、まっくらな穴に滑り落としていた。
 一瞬だけ、あの気難しそうな仕立て屋の姿が脳裏に浮かび、ルーシャンはけれども特に何も感じなかった。
 代価は支払われ、けれど美しく仕立てられたものは不運なことにその価値を踏みにじるニンゲンの手に渡っただけだから。暗い筒の中を艶やかな白が音も無く滑り落ちていっていた。
 重い鉄製のドアが閉じられる音が廊下に長く響き。その音がただ不快だった。
 自室へと歩いて戻る間も、苛立ちめいたものが燻り続けてた。
 後ろ手にドアを閉め、息をヒトツ吐き。
 少しはなにかが軽くなるかと思えたことはただの希望めいた憶測でしかなかったことに唇を咬み。

 バスタブの縁に座りながらタップを捻る。水の流れ出す音まで耳につく気がし、ルーシャンが眉を顰めた。
 何一つ、自由にならないように思える。自身が思考することを拒んでいることもわかる、すべてのことが遠い。
 バスタブの側面を踵で軽く蹴った。陶器の冷たさが伝わってくる。
 とん、とん、と何度かリズムを打つようにし。縁に座り込み、蹲るような自身の滑稽さに笑おうとした。
「バカみてぇ、」
 そう呟き、適当に羽織ったシャツを床に脱ぎ落とした。
 そのとき、落とした視線の先に手首に嵌った蛇を見つけた。白金と金の絡まりあった二対のソレ。その重みさえ知らずに馴染み、着けている事さえ意識になかったものに改めて気付き。びくり、とルーシャンが肩を跳ね上げた。
 そして次の瞬間には手首から外そうと腕輪に手をかけ、力任せに引き上げようとし。幾度も手の甲の半ばまででそれが留まるのに舌打ちする。
 丁寧に刻み込まれた鱗の紋様が肌を擦り血が滲むことにも躊躇うことをせず、引き上げ。留まった場所で腕輪を引き回し、ルーシャンが痛みに僅かに表情を歪める。けれど、蛇は抜けてはいかずに、また胸奥から憤り。途方にくれたように、表情を歪め涙を零す自身の姿が湯気に曇り始めた鏡に映し出され、ルーシャンが腕を浴槽に手酷く打ちつけた。けれども、酷く耳障りな音が上り、骨が痺れるように痛むだけで、金の蛇は形も変えずに腕に纏わりついていた。
 痛みが駆け上がるのに唇を引き結び、憤りにまかせて立ち上がったルーシャンは手近にあったピューターのカップを鏡に向かって投げつけ。ガラスの砕ける音と一緒に、その中心から亀裂が入り、洗面台の上に割れ落ちていく。
 ルーシャンの裸足の足元にも割れた破片が飛んでき。一瞬、それで手首を切り落として腕輪を外してやろうかとさえ思う。
 唇を噛み締めたままフェイスボウルに腕をまた打ちつけ、喚き散らしたくなる衝動を何とか押さえこみ。
タップを締めて荒れたままのバスルームを後にしていた。ベッドルームまで行く間にトラウザーズも脱ぎ落し、冷え切ったベッドに潜り込み。裸足の足裏が鼓動にあわせて鈍く痛むようなことを無視した。
 鏡の破片ででも、切っているようだった。足指の辺りまで不快に滑るのを無視し、それが流れ出した血であっても汚れるのはリネンだ、と割り切る。これくらいの切り傷で死ねるはずもない。身体を丸めるようにして外界から逃げ出す。
 身体の震えは一向に収まらず、頭はますますマトモに動くことを拒否し。
 ルーシャンは、ブランケットのなかで目を開いた。
 自分は何かを呪詛している、そういえばずっと。なにをだ……?
 ゆっくりと、閉ざされたなかで視線を動かし。片手で、左の甲を引き毟った。
 呪詛しているのは、自分自身に対してで。そのことが酷く遣る瀬無かった。そして馬鹿馬鹿しかった。三文芝居より最低だ、と。

 時間の感覚がとうにおかしくなっていた所為か、次に目が覚めたときはまた暗くなっており。目を瞑ったのはほんの数十秒の間だったのか、それとも何時間も過ぎていたのかさえ曖昧で、ルーシャンが僅かに口許を歪めるように引き上げていた。
 空腹だ、と思った。
 鳩尾の辺りが熱かった。
 冷蔵庫を開ける気はしなかった、微かに鳴り続ける電話の音が聞こえていたから。
 それに、開けたとしても食べ物の類は入ってなどいない。
 グラスを引き上げ、バーカウンターから適当に一本引き出した。
 ラベルを見ればウォッカで、ハハ、とルーシャンが枯れた笑いをひっそりと漏らした。
 それをならびに戻し、隣の瓶を引き出す。今度はジンだった。
「―――――――少しはマシか?」
 氷もなしにストレートでショットグラスに注ぎ。飲み干し、それがすうっと滑り落ちていく熱さに僅かに眉を顰める。
 朝がくるまでは、これで誤魔化せそうだ、と。呟き。部屋にタバコの買い置きの無いことに舌打ちしていた。
 いま、電話に出て。タバコをもってこいと言ったならあの優しいバカはマンハッタン中のタバコでも買い占めて文字通り飛んでくるのだろうけれども、自分が欲しているのはそういった構われ方などじゃない、と思いながら。



 朝になり、ゆっくりとルーシャンは立ち上がると、空いてしまったボトルをテーブルに残したままシャワーを浴びに行き。乾いてこびり付いた血を落し、熱すぎるように思える湯を頭から浴びながら長く息を洩らし。タップをCOLDの方に回しなおしていた。
 一気に身体が冷えていくことに却って安堵する。
 かち、と歯が鳴り。
 バスローブを被りなおして浴室をで、小さく毒づいた。
「あれだけ飲んだってのに……ちっとも酔えない」
 酒でダメならコーヒーでも、とどこかのおせっかいな赤毛が聞いたなら叱ってきそうな言葉をぽつりと洩らし。明るさを増してきた窓外にルーシャンが視線を投げた。
 冬の近付いた所為で薄く曇った、彩度の低い光があった。
「戻ってきて」からちょうど二日経っていた。
 感覚が奇妙に捻れる、神経の束が一本ずつ、解けて千切れていっていそうだった。

失くすことがとても苦手だ、とルーシャンは思いながらドアを閉じていた。ロビーへと続くエレベータのボタンを押す。どこか上階から鉄の箱ががしゃりと降りてくる音が静かな廊下に響いた。
 亡くすことも苦手だ、だけどいなくなることには無頓着だった、とも自覚する。
 いなくなっても大抵のモノは戻ってきていたし、例え同じモノが戻らなくてもそのモノの隙間はすぐに別のものが埋めていた。自分から何かを追いかけたり、必死になって取りすがることは、したことがなかった。いままでは。
 がしゃん、鉄の扉が開き、思考を切り離す。
 コーヒーとタバコ、と呟き。まだ比較的朝早いせいでドアマンのいないガラスの扉を押し開け、冷え切った外の空気を肺に吸い込んだ。
 指先が焼かれる気がした。
 あぁ、サングラスでも持ってくるんだった、と思いながら視線を足元に落とす。
 眼の奥が痛い、陽射しの所為で?
 そして目を落し、あ、と口許を引き歪めてた。おれはバカか、と。
 これ、棄てるの忘れてたじゃねえか。

 部屋をでるときに無意識にフロアから拾い上げ、そのまま何も考えずに二重に首元に巻いていたストールに今さらながら気付き。歩いて五分ほどの距離にあるデリまで向かう間にあったゴミ箱にそれをするりと落としていた。
 あの、と不意に声が後ろからし、ルーシャンが振り向けば。スクールバスの集合場所にでも向かうのか、子供がいた。
「おにいさん、落としたでしょ」
 差し出された手が「捨てた」それをしっかりと握っており。
「落し物はダメなんだよ」
 そう自慢気に、にこりとわらっていた。
 くしゃりと縺れたようなブルネットの髪をとん、と撫で。苦笑してルーシャンがそれを受け取った。
「ありがとう、」
 にこ、とまた子供が笑い、スクールバッグをどこか重たそうに下げながら、それでも足早に通りを走っていっていた。
 短く息をついて、もう一度それを巻き、デリに向かう。

親しくなるほど通っていたわけでもない店だったから、偶に来る客が現われたからといってとくに何も思わないだろう、と気負わずにドアをあけ。ひどくのんびりとしたベルの音に苦笑したくなる。
 カウンターの内側に、常と変わらずに茶色のベストを着た店主が座っており。その前を通ってミルクのカートンを引き上げかけ、ふいと気が変わる。
 あの場所にいた所為で忘れかけていた、自分はいつだってコーヒーはブラックだったじゃないか、と。
 ロイヤルミルクティーじみたものばかり飲まされていたからな、と不意に笑い出したくなる。
 まっすぐにカウンターまで戻り、店主にタバコを1カートン頼み。その間に何種類かケースに入れられている豆の中からローストの濃いものを選び、茶色のパックをセットしケースの底をスライドさせ。豆の落ちていく音に紛れて店主が、「ひさしぶりですねえ」とどこか驚いた風にいってくるのに眉を片方引きあげる。
 トン、と底板をスライドして戻し。パックを針金の入ったテープで留めながら、そうかな、とルーシャンがわらって返した。

 そして、そのまま視線をガラスの嵌った入り口のドアに向かって流したとき、ルーシャンが目を見開いた。
 す、と一瞬。くすんだ金色が過ぎったのが見えた。
 とっさに扉へ走り寄り、通りへと半ば身を乗り出すようにし。視線を前後に忙しなく動かし、どこにも似たような人陰の無いことに瞬きする。
 ブロンド、それだけが視界を過ぎったのに。
 なくしたひとの―――――――。キィワードだけでこんなにも動揺する。
 あの存在のわけなどがない、とわかっていても……こんなにも必死な自分自身にルーシャンが目元をきつく拳で抑えた。
 ダメだ、と思った。認めてはダメだ、と。
 けれどそれと同時に、諦めなどできないことも解ってしまった。あいしていた人は、離した腕の先からするりと零れ落ちていってしまった。もう誰の手も届かないところに。
 弾かれたように身体が反応した。思考より先に。そんなわけがない、と知りながら。
 いま、誰を探したか、と言えば。
「―――――――ジョーン、」
 ルーシャンが低く声を押し殺した。
 アナタじゃなかったよ……、そう途方に暮れたように呟き。
 そして、嗚咽が止まらなくなる。
 ドアに背中で縋り、そのままずるすると床に座り込むように身体が崩れる。

「なぁミスタ、」
 店主の声が遠くで聞こえた。
「―――――――ご、めん…すぐに、」
 身体を引き起こそうとし、ルーシャンが答え。
「違う。ミスタ、奥で休んでいきなさい」
 ゆっくりと身体を引き起こされ、ルーシャンが濡れた頬を上げれば。カウンターのその更に奥の扉から、店主の妻が心配そうに顔を出しているのがちらりと見えた。
 嗚咽が零れかける。
「そんな風な時に出歩いてはいかん、ミスタ。親しいひとを、亡くされたのかな。さあ……奥の暖かい場所で、少し休んでいきなさい。悪いことはいわない」
 ぅ、と喉奥で音を立てるそれを押し殺し、拳で目元を覆えば、柔らかな声が聞こえ。カウンターを抜けて、店の奥の私室に通される。
 途中から腕に添えられた柔らかな手に、びくりと身体が僅かに跳ね。そのまま促されるようにイスに座らされる。
 小さなダイニングテーブルがあり、奥まった居間からはつけっ放しのテレビの音が聞こえていた。

 異質だ、とルーシャンが思っていた。この、こじんまりとした温かさと混ざり気の無い好意と。
 す、と。頬に何かが触れる。
 程よく使い込まれたコットンの少し硬い感触が幾度も頬を拭っていくのに、20年近く昔に遡るかと思う。
 目元を押さえ込み嗚咽を殺していたルーシャンの頬が濡れていくのを、黙って店主の妻がタオルで拭っていた。背中を擦り降ろしていく掌の感触が伝わり、また嗚咽が零れかける。
 なぜ、哀しいのかわからないと思っていた、今朝までは。
 けれど、いまではわかる。
 自分は、あの存在に恋してたんだ、と。どれだけ愚かであれば気が済むのか、自身を呪いたくなっても。もう誤魔化すことなど出来なかった。
 疎み、毛嫌いし、呪詛してしかるべき存在であってもおかしくは無いのに。
 それでも、自分は――――――――

 諦めたくはなかった。また失くしてしまった、と蹲って泣いていたとしてももう一人をまだ亡くしてはいない。
 自身の感情にも気付かずに、マトモに言葉さえ交わさないうちに切り捨てられてしまったけれども。
「パァット、」
 嗚咽に紛れて、ただそれだけが唇から零れ落ちる。
 肩を一層、やさしい腕に抱き締められる。
 静かな、柔らかな言葉を掛けられていることはわかった。
 ちりりん、と遠くでドアの呼び鈴が聞こえ。鍵の掛けられる音がし。それからゆっくりと店主も小さな居間に戻ってきていた。
「うちのばあさんのクリームスープは美味いよ。落ち着いたら一緒にいかがかな」




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