*18*

車に乗り込んでから、昨夜ライヴが始まる前に切っていたままだった携帯電話の電源を入れた。留守番電話が入っている、という案内と。新着メールが27通入っている、というのを見て、後部座席に放り出した。
昨夜中途半端に“客”の持つ熱気に煽られて、音に触れたかった。
音に没頭して、ココロの中を探りたかった――――――今なら新しい音が作れるから。
ヴァンのことは、頭が無意識に締め出していた。
ヴァンについて今考えることは、危険だと意識が告げてきていた。
予感がする――――ヴァンのことを考えれば、それ以外のことが考えられなくなるだろうことを。
ヴァンに捕まえられても、そうでなくとも―――――自分が変わってしまいそうなことも。

溜め息をヒトツ吐いて、エンジンを掛けた。
ウィンドゥを下げて、朝の冷たい空気を肺に取り込んだ。
朝陽が寝不足の目に厳しいことに不意に気付いて、放り出しっぱなしだったサングラスを掛けた。
それからサイドブレーキを解除してギアをドライヴに入れ、ブレーキを踏んだ。
背後で携帯電話が着信を知らせてきた。踏み込んでいた足を緩めて、一瞬通話に出ようかと考える。
けれど、今出る必要もない、と判断して、またアクセルを踏み込んだ。
不意に、「チクショウ、クソショーンッ」と怒声が響いてきて、バックミラーを覗きこんだ。
坂道から転がり出るように飛び出してくる姿を見て、足が無意識にブレーキを踏もうと頭に訴えてくる。
泣いているのが解る、あの顔は10年前に別れた頃のと同じ顔だ、と。
いまあの子を置いていったら、きっと元通りに大丈夫になる、と思い込む。
浮かせていた脚でアクセルに踏み込んで、いまならまだ大丈夫だよ、とミラー越しに呟いてスピードを上げた。
ちゃんと話してくれるって言ったじゃないか――――――届いた絶叫に呟いて返す。ちゃんと話したよ、オマエの寝顔にだったけど、と。
走って追いかけてくるコドモが、自分の名前を叫んでいるのが聞こえる―――――そんなにしたら、咽喉を痛めちまうのに、オマエ。
力尽きたようにヴァンが蹲るのがミラー越しに見えて、これでいいんだ、と思い込もうとする。
麓でカーヴを曲がって、ハイウェイに出るルートに乗ってしまえば、あの子はイノセントなままでいられる、と。

けれど。気付けば足はブレーキを踏んでいた。
ハンドルを握っている手に、無駄に力が入っているのを自覚する。
ピピピピ、とまた携帯電話の着信がけたたましく鳴り出した。
ハハ、と意味もなく笑い出す。
バックミラーではアスファルトに蹲ったまま動けないコドモが小さく映っていた。
Can I really leave my cute little thing like that there?―――――オレはオレのかわいいおチビさんを、あんな風にしたまま本当に置いていけるのか?
泣いて、震えて、絶望して……その先は…?

『―――――He did slide a little on the dark side of the World, and don't wish him there like that ever again』
“あの子は少しばかり悪いほうの世界に傾いていたんだ。またあっちの方に戻ってしまうのを見たくはないね。”
叔父がぼそりとショーンに告げていた言葉を思い出す。
『Patrick, don't you lose what you need』
先ほど告げられた言葉と―――――キミは失くさないようにしなさい、と。

けたたましく鳴り響いていた着信音が切れた。
道路の両脇に広がる森の木々の葉擦れの音が、ざぁ、と音を立てた―――――まるで泣き声のように。
ハンドルに預けていた両手に額を押し当てた。耳があの子の声を捉えようと、探している。
「気付かなかったら、よかったのに」
ぼそりと呟いて、溜め息を吐いた。
―――――あの子を愛していることなんか、気付かなければよかったのに。
あの子が置いていかれることに、気付かなかったらよかったのに。

「――――――でも気付いちまった」
賭けは、負けだ。
どこかで負けることを願っていた自分が、ココロの内側で歓声を上げた。理性は盛大に舌打ちを放った。
ぐしゃぐしゃに感情が掻き混ぜられて、不意に笑い出したくなる。
アクセルを踏みたくても足は踏み込むことを拒否し。手は合成革のハンドルカヴァではなく、少し高い体温の柔らかな手を握り締めることを望んでいる。

「…ち。しょーがねぇなぁ…」
目を瞑って、シートに頭を預けて一つ深い息を吐いた。
瞼の裏には、見えなくなっても蹲って泣いている子の姿が見える―――――もうダメだった。あの子を掬い上げて、深いキスをしたかった。
10歳も年上で、同性で、大事な従弟で、何も知らないコドモで、自分はロクデナシの甲斐性ナシで―――――そんな御託を並べて、恋愛をしたことなんか今までなかった。
誰かを抱くことに、ブレーキを踏んだことなんかなかった――――――――重要なのは、欲しいか、欲しくないか。
あの子を本当は家に連れて帰って、毎日あの子が笑顔でいるのを見詰めていきていたいと思った瞬間は、自分の人生の中で何度もあった。泣いて縋って、帰らないで、と叫ぶあの子を抱いて帰りたかった―――――――あの子を泣きっぱなしで置いていくのは、いつだって否だったじゃないか。

「Do I want him?――――――Yes」
あの子が欲しいか―――――イエス。
だったら実際にどんな風に“愛そう”と別にいいじゃないか、と頭が楽天的に答えを導き出す―――――あの子はショーンがロクデナシもいいと言った。だったら、例え“まとも”に愛してやれなかったとしても、あの子が本当に嫌になるまで試してみる価値はあるじゃないか。
ふ、と息を吸い込んでから、ハンドルを切りながらアクセルを踏み込んだ。
対向車などまだ現れもしない反対車線を使って大きくカーヴを描いて、蹲ったままのコドモが段々と大きくなるのを見詰めながらアクセルを踏む。

少し斜線幅が広くなっているところに車を停めて、外に滑り出た。
最後の数歩を歩いて、まだ顔を上げないコドモに近寄っていけば、ほんの僅か視線が上がり。けれど、顔を手で覆って泣きながら呟いていた。
「ファ…ッ、ク、ショー、ン……ッ」
拳で目元を押さえ、肩を揺らしてコドモのように泣いている。
「ショ、ンのばかやろお…っ」
置いていかれたことを恨んで、泣いている。
ふ、と片足が裸足なのが見えた。アスファルトで切り傷でも作ったのか、あちこちを擦りむいて薄く赤い煌めきが何箇所かに出来ていた。
ショートパンツから伸びた細い足の真ん中、膝にも痛そうな傷が出来ていて。
溜め息を吐きたくなる―――――こんなになってまで追いすがられるほどのニンゲンなんかじゃないのにね、オレは、と。

サングラスを外しながら少しだけ離れた位置でしゃがみ込んで、俯いたままの顔を覗きこんでみた。
「オマエ、そんなにオレのこと好きなの?」
アスファルトに爪が擦れるほどきつく拳を握ったコに訊いてみる―――――Am I worth it?
ダン、とアスファルトを殴りつけながら、ヴァンが絶叫した。
「だからッ、ずっ…っと、そう言ってるじゃないかあッ!」
ギラギラと睨みつけられて、目が離せなくなる。幾筋も零れ落ちていく涙を、指で拭ってやりたくなった。
「おれが嫌なら言って、って言った!なのに……ッ、だからって、なんで…ッだまって置いてく!!!」
『しょおお…っ、やだあっ』
泣きすぎて声が割れてしまったチビのヴァンの声が頭の中でエコーした。
おいていかないで、と泣き縋ってこようとし、母親に引き止められていたコドモの。
「うん」
そうだね。オマエのこと、抱き上げて行ってしまってももういいのに、なんでだろうね?

「ファック、ショーン…!」
睨みあげてきたヴァンが、どうしても愛しい、と今更な再確認をする。
ドキドキと心臓が鳴って、全身がヴァンが告げてくるSOSを拾い上げる。
―――――今ならもう、攫っていってしまえるだけの腕の強さも、なにもかもがあるのに。なんでだろうね?
ああ、そうか。恐かったんだっけ。自分がいままでのロクデナシでなくなってしまうことや、オマエだけしか見えなくなることや、オマエしか欲しくなくなることや、オマエだけを愛することが。
オマエにありったけを注ぎ込んで、ダメになるのが怖いんだっけか。

ほとほととヴァンの頬を流れ落ちる涙を見詰めて、静かに告げる。
「全部、オマエが棄てられるか。知りたかったんだよ」
オレは―――――捨ててやれるから。いまなら、オマエ以外の全てを。
ガツ、とヴァンに肩を殴られて。痛くは無いその衝撃に、ふと恐さが消えていった。
「もういい、あんたなんか、どっか行っていい!勝手に見つけていくから、イイ!!!」
チクショウ、と泣くヴァンが愛しくて、けれど臆病な自分はまだ不敵になれるほど自信がなくて。バカみたいに再確認してしまう。
「おとーさんも、大事なこの場所も。全部棄てられるの?」
呆れた風に、ヴァンが絶叫していた。
「あんたしか欲しくないんだって、いってるじゃないかっ」
どうして信じてくれないんだよ、と言われて、だって怖いじゃないか、とは返せずにいる。手に入れたと思って思い切り浮かれちまうのも。浮かれた後に捨てられちまってバカを見るのも。
―――――オレって本当にバカでロクでもない嫌なヤツだな、と。今更自覚して、内心で溜め息を吐く。この年にまでなって、マトモに恋愛するのが怖いって、ヒトとしてどうよ、と。
I've always wished to be your special......and am hell scared, because you believe in the ass like me, and treat me like I was special which I'm not.
オレはいつでもオマエの特別で在りたいと願っていた。だから怖いんだよ、オマエがそんな風にオレみたいなクソッタレのことを、すげえ奴を見るような目で見て、信じてくれているから。
オレは全然すごい奴でもなんでもないから。

真っ直ぐに見詰めてくる、泣いているブルゥアイズが純粋な光りを放っているから、眩しくなる。
色々余計なことを考えてしまう自分が恥ずかしくなる―――――でも訊くけど。
「差別とか、されるよ?コドモの恋愛じゃあ耐え切れないよ?それでもいいの?オレがマジでどうしようもないオトナでも、オマエは後悔しないっていえる?」
「おれは……っ、ショー、ンが…っおれといて、後悔することだけ、が…怖いのにっ」
きゅう、と哀しそうに細められるブルゥアイズにドキドキする。
思考とココロが別回路で稼動していて、感情がぐちゃまぜで。期待と不安と理性と衝動がスピンしている。
「あんたは…っじゃ…、おれが、っ、未成年じゃなくなって、どっかでオトナになって来たらあんたおれのこと好きになってくれんのかよお、」
泣いているヴァンを見詰めて、今更脳味噌が焦る、―――――安堵に喜ぶ。なぁんだ、本当にオレのこと、好きなんだ、オマエ?

漸く納得した頭は、とんちんかんなことを口から吐き出させる。青目を物騒に煌めかせているヴァンを、限界まで怒らせようかとでもしているみたいに。
「それ、待ってたら。マジでオレ、おじさんになっちゃう」
くす、と笑う。
オレって馬鹿。でもって、素直に踊らされるヴァンは、やっぱり可愛いオレのおチビさんだ。
「2ねんだろ、ばかっ」
ぎゃん、と噛み付いたヴァンに、す、と真剣な表情を浮かべる。
たったの二年とか言うけどね、オマエ。その差は大きいんだぞ?いつまでも若くあるわけじゃあないんだし。
「そしたらオレ、30だよ」
「だから?おれが50になってもチビちゃんだっつった!年関係ねえ」
いやいや、オマエ。そりゃあ思慮不足ってモンだ。考えてもみろよ、オマエが20歳のときにオレは30で。オマエが30になったら、オレは40だ。オマエがまだ元気溌剌な50の時に、オレはよれよれの60かもしんねぇんだぞ?
高齢になればなるほど、10年の差は大きいんだぞ……って、そこまでオレはこいつを放したくねえのか。重症だな。

涙をぽたぽたと零すヴァンに、確認する。
「オレが役立たずのジーチャンになっても、一緒にいてくれんの?」
ぎら、と睨んだヴァンが噛み付くように叫ぶ。
「とうさん見ただろッ!」
「それとは違うでしょーが」
や、オマエが実際に面倒見れるかどうかって問題じゃなくてだね――――――ああ、もういいよ。解った。実際にジジィになってみるまで保つかわかんねぇし。別にいいか。やってみりゃいいんだから――――――そうなんだよな。やってみなきゃわかんねえもんな。

ひょい、とヴァンの頤を捕まえた。
「役立たずのジーちゃんだったんだよっあのヒトも!おれも!クソがつくチンピラだったけど!」
うん、解った解った。間近で叫ぶな耳が痛いっつーの。
感想とは別のことを口から音にする。
「オヤジさん以上に甲斐性ナシでも恨まない?」
ふ、と。ヴァンの昂ぶっていた感情が鎮まっていった。
きょとん、と瞬いた青目に、からかいすぎたか、と一瞬だけ後悔する。
「おれはあんたをあいしてるのに」
なんてことを訊くんだ、とでも言いげな口調で、酷く静かに告げられて、ショーンはゆっくりと笑みを口端に刻んだ。
「うん、信じた」
ストレートすぎるショーンの返答に、ヴァンが一気に激昂する。
「―――――くそ、あんた、いままでおれが……ッ」
本気じゃないって思ってたのかよ、とか多分そういう方向のセリフが続きそうなヴァンのトーンに、このまま言葉の応酬をしていてもダメだと気付く。
何より、何度も噛み締めていたのだろう唇が濡れて美味そうに動いてるし―――――どうせ動かすなら別のほうがいいよな?

また泣き出しそうに涙を盛り上げさせている目を覗き込んだまま、ヴァンの唇を唇で塞いだ。
柔らかくて、想像していた通りに熱くて、むごむご、と何かを言いかけていた唇を味わいながら、ヴァンがぴきりと動かなくなるのを待つ。
きっと多分、いままでの人生のなかで最大級の感情の大嵐に目下見舞われているだろうヴァンを、まだ弱い陽光に焼け付くようにはなっていないアスファルトに押し倒す。
ああ、オマエ。おいしそうだね、と頭の中で呟きながら、真意を問うかのようなヴァンに名前を呼ばれて、もう我慢しなくてもいいのか、と思い至る。
「―――――全部攫うからな?」
オマエの身体も、ココロも、将来も、なにもかもを。
薄く唇が動いたところで、言葉はもういいや、と勝手に思う。
いまは返事が欲しいわけじゃないし―――――いや、知っておくことは大事なんだけどな?一先ずは、クワセロ―――――オレに溺れられるって、オレに示せ。

する、と頬に触れながら唇をまた合わせ。深く舌を潜り込ませて、遠慮なくヴァンの口中を味わう。
ひくん、と一瞬竦んだ身体に、飢えを補強されて。自分勝手に深い口付けを貪る―――――うん。楽しいし、気持ちいいし、オイシイし。何も問題はないね。
甘ったるい声をヴァンが洩らし。息苦しそうに唾を飲み込んでいくのに満足する――――次に餓えるための糧を得る。
ヴァンがショーンに縋ってその肩に指先を埋め。ふる、と小さく身体を震わせるようになって、ようやく口付けを解いた。
「もうオマエはぜぇんぶオレのものだからな、」
そう言って、けれどそれだけでは大パニック中のヴァンは意味が汲み切れないだろうことを知って、きっちりと宣言しておく。
「泣いても喚いても、帰さないからな」
「―――――ショォ、」

はふん、と呟いたヴァンをいつまでもアスファルトに転がしておきたくなくて、手を引いて起こす。
引き上げて、背中の小石などを落としてやり。ぼうっと見詰めて来るヴァンの従順さにまずは満足して、にぃ、と口端を吊り上げた。
「ショーン、おれ…」
まだどこか信じきっていないヴァンに、まあそれもしょーがねえよな、と思いついて。きっちりと感情をヴァンに言って聞かせる。
「愛してるよ、ヴァアン」
オレのおちびさん、大事な従弟、可愛い仔猫チャン、純粋な天使。
く、と唇を噛んだヴァンに、きちんと“欲しい”と願っていることを伝えるために言葉を継ぐ。
「多分、オマエと同じ意味で」
腕を掴んできていた指先が告げてきていたことをきちんと理解する――――――うん。オマエの全部が欲しいよ。身体も心も魂も全部。

「ショーン、もう、置いていくな、」
こつ、と恐る恐る身体を預けるようにしてきたヴァンをしっかりと抱き締めて、真意を伝えるためにヴァンの亜麻色の髪に唇を押し当てた。
「叔父さんにきちんとご挨拶したら、家に連れて帰って、オマエのことをきっちり全部攫うからな。覚悟しとけよ」
やっぱり嫌、とか言っても許してなんかやんねぇから。そう脳内で付け足して、回した腕に力を込めた。
―――――なぁんだ。抱き締めちまえば、離せるわけねェじゃん。ヤッパリ。

ドキドキと早鐘を打つように激しい鼓動が薄い布越しに伝わってくるのに笑って、その背中を撫で下ろせば。何かに気付いたかのように、あ、と言ってヴァンが顔を上げていた。
「あ、と…あの、ショーン、」
「んー?」
見れば顔を真っ赤に染めていたので、ショーンは僅かに目を瞬く。いったいなにを考えてコイツは茹蛸になっているのだろう、と。
「あ…と、あの、がんばる、おれ…その―――ごめん、」
ますます赤くなりながらそう言い募られても、ショーンにはなにが“ゴメン”で“ガンバル”のかがわからない。
わからないものは訊いてみよう、と素直に考えて、首を傾げながらヴァンのブルゥアイズを覗きこんだ。

「なにを頑張るんだ?」
う、とヴァンが口篭り。それから、もごもごと言葉を継いだ。
「ん、と―――――――や、えと。おれも、ショーンとシたいから、がんばる」
……は?
一瞬、何を告げられたのかが解らなくてショーンは瞬き。けれど直ぐに意味を理解して、にやりと口端を吊り上げた。
へえ、オマエ頑張ってくれるんだ。ふぅううん?へぇえええ?―――――お手並み拝見、といこうじゃないか。そう結論付けて、ヴァンを見下ろす。
「好きにしな、」

今度はヴァンがショーンの言った言葉の意味を理解できずに、仔猫のように見上げてくる。
それをわざとはぐらかせて、ショーンは言った。
「ドライヴは長いからな。ちゃんと着替えて、挨拶をしたらさっさと行こう」
そんなに“頑張って”くれるっていうのなら、一刻も早く美味しくいただきたいものだしな。




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