世界の果て。
(無料配布部分再録)




自分が何ものであっても特に構わないとゾロは思っていた。自分というものがいつから存在しているのかも探ろうとも思わなければ、一人惑うこともなかった。
そいつは珍しいことだね、と「仲間」は一度眉を片側だけ引き上げて笑ったことはあったが。ただ、自分が世界の理から外れた存在ではあるならば、靴が濡れるのは不合理ではないかと、それだけ不服に思う程度だった。
なぜなら、自分が「境界」から出るときはいつも空が灰白い。雲が幾層も重い色を重ねて盛り上がり、シューの皮めいて歪に上へ上へと膨らんでいくばかりだ。
そして、風が吹き。
やがて雨がやってくる、地上へと。

「だから見つけ辛ェんだ」
ゾロは呟き、視線を跳ね上げた。素通しのガラス越しに、切れ目無く灰色の空を見上げる。
きちりと耳上に収まってずれることは無いけれどつい余計な動作をしてしまい、眼鏡の蔓を指の腹で押してみた。そうしたからといって、それの精度が上がるわけでもない。わかっていることだった、とうに。
ゾロが見つけなければならないのは、不慮の死を迎える人間だった。その人間のいる側に自分たちは送られるので、後は当人を見つけ出さなければならない。そして、無事に役目を終えたならしかるべきタイミング(それは大よそ自己判断だった)で境界へと戻っていく。
該当する人間を見つけるための「力」なり「特性」なりは、仲間の間でも一定ではなかった。自分たちにも能力の個体差はあるらしい。
連れて行くべき人間を見分ける標はゾロの場合は「揺らぎ」だった。人間の目には見えない、その人間が一枚上に着ている光の膜が薄く揺らぐさまが見えた。けれどその「揺らぎ」は、眼鏡を外してしまえば掴まえ辛くなる。見えない、といっそ言っても良い。
なぜ死を迎えるようになったか、という人間の持つ理由についてゾロは興味が無かったし、標のついた人間を見つけ出し速やかに事実を告げて境界へ通じるドアまで連れて行き背中を押してやる、自身が関わるのはそれだけの仕事であると思っていた。
地上で「天使」と呼ばれる連中は対峙する相手が好ましいと思う姿形を模倣する、だからその姿は様々で若い女であったりハハオヤと面差しの似ている者であったり、絵に描かれた通りの美しいものであったりする。そもそもが吉兆を告げる存在であるのだから、当然崇められ慕われ愛される。
反して、自分たちの姿は現存する記憶のある限りは変化したことは無いし、まして相手に合わせ移ろうことなどできるわけもなく。
ヒトの流れのなかに漂える程度に突出はせず、けれど対峙する人間を不快にさせない程には整っている、らしい。
そういえば、オンナの姿をした仲間は見たことが無かった。
境界から地上へ出でいく期間も様々であるから、地上の時代に合わせて着ている衣装は変わりはするがそれだけだ。それに地上に出たからといって存在に関する要素には何ら変化は生じない。
「死神……!」
とイノチの終わりを告げた相手に指差され驚愕に顔を歪められても、レンズ越しにゾロは静かに見詰め返すだけだった。
厳密に言えば自分たちは死神などではない、そんなものは存在しない。
自分たちは、不慮の死を人間に仲介して引き渡すのが役割であり、人間が想像するように総ての人間の死を司り見取るわけではない。運の悪いタマシイが納得するように促してやるだけだ。
「そうだな、あんたの命はもう終わりらしい」
となにを言われようと、ただ告げて。
そして、目の前に開き掛ける扉の前に引き出してやり。ドアの取っ手を回してやりながらその背中を押してやるのだ。
扉の向こうに人間がなにを見るのかゾロは知らないし、仲間の誰も知らないと言う。ただ、一人だけ別の返事を寄越した仲間はいた。
「おれ、いちど内側を覗いたことがあったけどさ、ヒトの肩越しにね。ただの霧にしか見えなかったな」
そう言って、にかりと雀斑の散った頬を笑みに引き上げていた。
その仲間と違って、ゾロは霧の向こうになにがあるのか気にはしなかった。
送り届けたものが行く先は、おそらく自分とは関係のない場所だ。

いまにも灰白一色に塗り込められ雲の境も曖昧になりそうな空をゾロは見上げた。すれ違う人間たちは傘を手にし、それを開こうとしている。何色もの傘が開いていていく様は、ゾロは好きだった。あの透明なビニール傘はつまらないけれども。
まだ雨は降り出さない、と空気の匂いから感じ取ってゾロは足を速めた。
薄曇の空の下に、人が足早に行き交っていく。道路、信号機、店舗、何台もの車の列、そしてその同じ風景に重なるように扉が見えた。
境界へ通じる扉だ、けれどゾロの探しているものではないと一見して感じられる。いま探しているのは、境界へと「戻る」扉だ。
地上に送り出された「仕事」の成果が達せられないと、戻るための扉は見つけられないことになっている、と随分と昔に聞いたけれども、そのときは半信半疑で聞き流していた。
偶にすれ違う仲間たちは、ゾロの様子を見て面白そうに眉を引き上げていた。ゾロは、いたって飄々と地上を彷徨っているのだ。必死になって戻るための扉を探すわけでもない、任務を遂行しようとしているわけでもない。
死を宣告した人間をすぐには導いていかずに地上においているのだった、もう1年近く。サンジという名前の若い人間だ。
ぱつ、と最初の雨の一滴がゾロの靴先に当たった。これも、いつものことだ。




な感じで続いていきますー。