27.
「―――…ろ、ゾロ」
自分を呼ぶ幼馴染の声が聞こえる。そしてどこかから空気の漏れるような微かな音と。そして―――
“爆ぜる”音。
これは夢であると知っている、けれど
ぐらり、と眩暈がし。
昔、よく遊んだ裏庭が見える。古いアパートメント同士の隙間に作られていたソレ。
青々とした芝と黒い鉄のフェンス。石造りのベンチにはチェスをする見慣れた老人が二人と―――

「―――ゾロ、」
自分を呼んで笑みを浮かべる子どもがいる。
見えはしないが夢のなかでは自分は大人の姿だ、なぜなら視線が高い。けれど子どもは自分を見上げては来ずに、変わらないまっすぐな目線でわらう。
「遅いよ」

「早くチェン・イーのところへ行こう?遅いと型を教えてもらえなくなるよ」
他意なく差し出された手を、“持つ”。1才ほどしか年は違わなかったのに、自分はいつもオトウト扱いをされたのだ。
夢のなかでもそれは変わらずに。

手の触れたせつな、ソレが。自分の触れる先から燻ぶり始める。

喉奥で張り付いたような声で、それでも必死に告げようとするが声は乾ききって出てこずに。

「やだな、どうしたの?ゾロ」
きゅ、と。
指を4本分纏めて握られる。以前のままの癖。
ぽ、と。
爪の先から炎が点る。

そして振り向くようにした子どもは輪郭が炎に縁取られて
黒い髪は熱に舞い上がり
踊るように焦げ
眼窩からとろりと沸き立つように―――




跳ね起きていた。
ベッドのスプリングが軽い軋みをあげる。
うるさいほどの鼓動が自分のなかから聞こえた、耳元。競りあがる鼓動と逆に、背骨から冷える。
何秒かきつく眼を閉ざし、ゾロはどうにか一つ深い息を吐いた。
明け方前、静まり返った自室に吐く息が僅かに白い。

あぁ、また調子が悪ぃんだな、と。この建物の暖房のことをちらりと思い。夢が自分から少しずつ乖離していくのを感じ取る。

ベッドから抜け出して階下まで水を取りに行く。
明け方前にベッドから抜け出したからといって、抗議してくる誰かが隣にいるわけもなく。
なぜなら、ここはゾロの自宅であり。この男はどこか冷めたところもあるのか、己のテリトリーには限られた人間しか入り込ませないのか。

暗がりでも足取りは変わらず、階段をそのままの歩調で下りながら、ふいとサンジのことを思い出していた。
『なんだか目が冴えた』 
とわらっていたカオは―――。あぁ、コーザの結婚式のあった日だ、泊まらせたのは。
夜中に起きて、他人の部屋の明かりのスィッチの場所などまったく見当もつかず、下のキッチンまでおっかなびっくり慣れないスティールの階段をまっくら闇のなかで下りていったことを。サンジは朝になってみれば、笑みを乗せて自慢していた。

『慣れればいいじゃねェか、』
そう言ったのだったか、自分は。

水を取り出し、軽いモーター音をたてる冷蔵庫にそのまま背中で凭れ掛かった。
長い間、見ることのなかった夢。
幼馴染の子ども。
折り重なろうとする無数のイメージを追い払う。
いまの自分は、戦う術を知っている。
そして、なくすことも。
けれど、諦めることだけはしない。なぜならそれは―――
す、と喉を滑り落ちていく冷たさに、思考を短く押しとめる。知らず、詰めるようにしていた息をゾロは長く吐いた。

明け方前の静けさに自分の思い出すことといえば、この部屋にいたサンジの言動の端々で。
現にいまも投げた視線の先は、『なぁー、皿は?』と見当違いの棚の扉を開けていたときその姿のあった位置であったりした。
あぁ、とゾロは思い当たる。
自分がオンナを家に呼ばないのはそういう残像がほんの僅かの間でも“ここ”に留まるのが嫌なのか、と。
そして、なにかがアタマのなかでクリックしたような気がする。自分のいつもみていたい顔が、あの厄介な外科医のオトウトだ、ということを抜きにしても。

自分のなかに居着いた感情がどの方向へ向かうのだかいまは未だ微妙である気も、あるいはとうに決まっているのだ、という気もする。
腕に抱きしめるのは、きっと気分が良いだろう、と思うほどに。
そして、突き放されることがなければもっと幸福なのだろう、と素直に思えるほどに。
片手に水のボトルを持ったまま、ふぃ、とゾロは2階へと向かった。


空が明けきるまで椅子に座っていた。
冬の朝に陽が雲を縫って差しきることはないけれども、ぼんやりと明るくなってき始めるまで。
テーブルの灰皿には吸殻がいくつか残り、ゾロはシルヴァを手の上で何度か軽く弾ませた。高い壁の上部に掛けられた、まだこの場所が倉庫として使われていた頃からそのままの古い金属のフレームをした素っ気無い時計。
それを眼差しで確かめ、シャワーを浴びることにした。今日のシフトは午後からであり、何をするにも早朝過ぎた。

そしてまだ水滴の残るまま着替え終え、エスプレッソを淹れる手筈を整えスィッチを押したときに、ドアブザーが来訪者を知らせた。

「だれだ?」
こんな早朝に訪ねてくる人間のあてなど直ぐには思い浮かばない。
ぶ厚いドアに作られた覗き穴の歪んだレンズを通した視界、その真ん前にいたのは―――

「―――サンジ?」
開けられたドアに、笑みを浮かべているのはつい先ほどまでゾロの頭のなかに居着いていた本人だった。
「お、いたな!おはよう」
する、と朝の冷えた空気を纏うままで部屋のなかに滑り込み。
「ウン。きょう、外すっげえ寒っ」
おはよう、と返せばそんなことを言ってわらう。
自然と手を伸ばし、髪に残っていた小さな氷の粒じみた雪片を払い。ひや、と冷気がゾロの指先に伝わってくる。
「あぁ、雪降ってンのか?」
気がつかなかった、と呟く。
「ほんの何秒か前から降り出してる」
僅かに蒼を見開くようにしていたサンジが、にかりと笑った。

「おまえ今日、シフト午後からって言ってたろ?昨夜」
差し出されたエスプレッソのカップを受け取りはしてもコートを着たままのサンジにゾロが片眉を引き上げてみせる。
「デンワすれば良いじゃねぇかよ」
そう言ったが、ふ、と思い当たる。サンジも、にぃ、と笑みを乗せたまま蒼を面白そうに煌めかせていた。
「おれも最初そう思ったんだよ、けどな?」
「―――そういや、知らなかったな」
「だろう?あんまりいっつも夜中にカオみてるからさ、」
すっかり知ってるもんだって思い込んでたよ、とサンジがわらいながらカップ越しに眼差しを投げてくる。

「朝ゴハン食いにいかねェ?」
「雪のなかわざわざ?」
ゾロの声がからかい混じりに和らぐ。
「そ。雪だからこそ出歩く、用事はついでに済ませたし」
ほら、と片手に持っていた薄い冊子をひらひらとさせる。何だ、と翠に問われてサンジが少しばかり首を傾けて見せた。
「見てわかんねー?」
「あぁ、ナンだよ」
ありゃ、と呟き。また蒼がきら、と光る。

「オーディション用のホン」
あぁ、とその一言で思い当たる。サンジのエージェントも確かこの界隈に自宅があるとか言っていたな、と。
「それを取りに行ったのか、」
バカだな、おまえ。と遠慮なしにゾロが言えば。
「んー、カノジョにも言われた。けどさ?寒い朝っぱらから歩くのって楽しいだろ?」
にこにこにこと窓から外を見やり、雪の様子を確かめながらひどく楽しそうに言っている姿をしばらくゾロは眺めていたのだが。

「―――10分待て、着替える」
諦めた風にゾロが言い、部屋の奥へ向かう。犬とガキとオマエくらいだろうな、いま外に行こうってのは、と付け足してはいたが。
おーい、とサンジが呼びかける。
「モバイルのナンヴァはー?」
「メシの後」
返された言葉に、オーケイ、と満足気なのはサンジだった。
「次にまた朝から雪降ったら朝ゴハンのケータリングしてやるよ」
「止せ、荷物持ってオマエ転びそうだ。外階段の所で」
笑い声混じりに戻ってきたゾロは。
こういうところだけ異母兄を思わせるサンジが立てた中指を握りこむと、『お行儀がヨロシクナイ』とわらって見せていた。




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