30.
雪降ったら行けんのにな、と。
ケータリングの約束のことをサンジは思い出していた。開店前のアルバイト先のパブ、真っ白の布でグラスを幾つも磨きながら。小さな音で、ここの主の昔からの趣味の一つ、小ぶりな割にはずば抜けて音質の上出来なスピーカからは低く、ジャマにならない程度の音量でニュースが流れている。
交通情報、事故のためコロンバス・アヴェニューは一時通行止め。未明に起こった火災、なかでも規模が大きかったのは古いホテルだった建物……キャスターが死傷者の数を告げる。『―--焼け跡から6名の死者を発見』。消防と警察が身元を現在調査中―――

ふ、と。ゾロが以前言った台詞を思い出した。
『負傷数?NY全体でいえば年5000件くらいだろう、確か』
尋ねたのだ、一体おまえたちはどれくらい救急にかかるんだ、と。
そうしたなら、ゾロのパートナが隣からわらった。
『セント・ホプキンスがその3分の1くらい受け持ってくれてンじゃねえ?』
そう言いながら、十字を切っていた。
『ERの神様に感謝』
『アクマがエクソシスト(悪魔祓い)してるのかもしれねェぜ』
応えながらゾロの翠目が笑みに細められていた。

流れてくる音がニュースからCMに変わり。サンジが磨き終えた最後のグラスを他の上に重ねた。
なぜ自分に口実が必要なんだろう、とどこか可笑しくも思う。立ち寄れるときの夜半であれば、ほんとんど“客”として連日カオを見せる相手に対して。けれど、また。うっすらと内心、気付いてはいる。
ちょっとした相手の“プライヴェート”ってものを自分は覗いて、何度か。そしてなぜかそれが気に入っているのだ、と。
この間の雪の朝、エージェントの家まで台本を取りに行った舞台のオーディション結果は上々で。本業がメインになってしまえばこの先、いつまでこうして俄バーテンでいられるのかも漠然としている。
異母兄やその幼馴染に宣言してしまってはいたけれども、たしかに、自分のなかであの『夜中に現れる客』はもうそんな言葉で片付けられる存在ではなくなっていた。

カウンターの内側から外へ出ようとしたとき、『準備中』のサインを出している店のドアがアタリマエのように開いた。上機嫌な異母兄上様が午後からのシフト前にカワイイ弟のバイト先にお立ち寄りだった。
「よーう、オニイチャンに美味いエスプレッソを一つ」
冷えた外気が暖房の効き始めたパブに一瞬入り込み、溶け出していく。
長い歩幅であっという間に近づくと、さっさと手袋を外した手がサンジのアタマをくしゃりと乱していった。
「ン?どうしたよ、おまえ」
金を弾くような翠、ゾロのそれより明るい色味に覗き込まれ、サンジが瞬きした。ふわりと冴えた冬の空気の匂いと、微かな移り香。この香りの心当たりは約一名。
「あのさ、」
はあ、とサンジが異母兄に向かって人差し指を立てた。
「ここまで送らせたなら、一緒に来ればいいと思うんだけど?」
主語を省くほどに、もうアタリマエであるのかもしれない。
「あー、プレスブリーフィングがあるって言ってたか。方向が同じなら使うべきだろ?」
カー・シェアリング。環境に優しくねー、などと微笑んでみせるのはERの神様だか、アクマだった。

コートをそのまま隣のスツールに投げるように置くとカウンターに軽く寄りかかり、ほらほらエスプレッソー、と途端に店内が賑やかになる。
「なぁ、」
軽く受け流しながらサンジは窓辺まで歩いていく。
「そと、雪降りそうだった?」
「や、多分ナシ」
振り向いた先、ひら、と片手を振ったのは外科医だった。そっか、とサンジが返し。
「エスプレッソ?隣にバールがあるじゃないか」
そうわざと返せば、うええええ、と異母兄が口元を捻じ曲げる。そんな様子を視界に納めて、サンジも小さくわらいながらカウンターの内側へ戻った。


「んー、雪降らねェかな」
カウンターからまた窓外をちらりと見遣り確かめれば。
怪我人が増えるだけだろ、あとは凍死者、と。デミタスカップを口元へ引き上げた外科医がスツールから歌うように言った。
「まぁね」
眼で、おかわりは?と尋ね。サンジがカップの行方をそのまま眼で追う。
「イラナイ、アリガトウ」
いいコだねえ、と微笑み。
オトウトからまた暫し、ソレ撤回しろ、と言われることさえ過保護な外科医はお楽しみらしかった。
開店前の夕暮れ時。雲は重い色をしたままだった。

「昨夜、つか今朝未明だな、けっこうデカイ火事があったのおまえ知ってる?」
どこか面白がるようにシャンクスが言葉にする。
「―――うん?ニュースで聞いたよ」
首を僅かに傾けるような相手を、翠がじいいっと見詰め。あぁこれは『何も』聞いていないんだな、と外科医が思い当たる。連中の、初黒星。
「取っておきのネタをオニイサンは知ってるけど、おまえには言わねェよ」
「何?なんで」
ふい、とカップを持っていない方のシャンクスの腕が伸ばされて、また金色を柔らかく乱していった。
「んー?おれの言うことでもねェか、っていま思ったから」
「なんだよ、ソレ」
返事は寄越さずに、ゴチソウ様、とだけ外科医は告げると多量のチップを残して立ち上がった。

「あ、もうシゴト?」
「イエス、クソガーディアン共がオヤスミ中でも神様は働く、ってな」
あぁ、とその言葉でサンジも思い当たる。ゾロたちのシフトのローテーションまで自然と自分のアタマに入ってしまっている、いつの間にか。
「終わったらまた覗く?」
オトウトから笑みで問われ、外科医がわらった。いくら何でも朝まで開けてるなよ、と言いながらドアを抜けていく。サンジの頬にからかうようなキスが一つ無理やりに残されていたけれども。
そして入れ替わるようにバーメイドのカーラが出勤してき、今日は寒いからお客は少ないかもしれないわねえ、と言っていた。
「あぁ、じゃあ。お客を呼んでおかないとね?」
そう笑うサンジに、カーラが微笑む。さらりとモバイルを手にしていたサンジが残していたメッセージが漏れ聞こえたので。

『よーう、今日はオマエ何食うんだよ』




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