Desideratum
おれはどうやら、とんでもない拾い物をしちまったらしい。
ガキの頃から、目利きではあったけど。
人買にでも生まれたなら、おれはローマ帝国一の奴隷商人になっていたに違いない。
栄耀栄華を身に纏い、墓石かなんかはいまごろMETに収蔵されてて……
「おぉい、」
低く響く声で、現実に戻らされた。
「そこの雇われバーテン。お綺麗な空っぽ面しないの」
「……んだよ、てめえ。これは愛のボランティアだっつうの」
はいはい、マキノが留守の間のね、と。
カウンターにだらしねえ猫みたいに肘をついて、にやにや笑いを浮かべてやがるのは。
一応、幼馴染、ってことになるのかこいつは。薄く色ののったグラスなんかしても、意味ねえぞ。
客にメン割れてる、とっくに。まぁ、あまりにも割れないのもどうかと思うけどな、役者としては。
「ヒトがちょっと来るのが遅れたらその隙に勝手におれの身内ナンパしやがって。
油断も隙もねえのな、おまえ。むかっしからそうだ、性質悪ィ」
言いながら、世の女性が「このうえなくセクシー」とか勿体無くも欲情しているらしい手がカット
グラスを持ち上げる。受け取り、氷を砕いた。
「あ。丸いの作ってくれよ、氷、なあ」
「コーザ。おれはおまえにかける手間なんざ、これっぽっちも持ってねえの。黙れ」
「へええ、」
だから。そのネコ笑いはやめろ。
「じゃ、サンジくん。これは何かな?」
隣の、いまは空のスツールの前に置かれたグラスを指差している。
「まぁるいよな、」
いいながら、にやり。と口角を引き上げてくる。
「バイト代の一環」
「あ、そ。おまえ、ここがEU圏だったら確実に殴り殺されるぞ、」
微かに非難めいたのと同じだけの笑いの気配を込められた声。
「あいつに弾き語りのバイトなんぞさせるの、おまえくらいだ」
音が流れてきて、おれたちはバカ話を切り上げた。
「日雇いのバイト」がピアノの前にいた。
1.
「もういい。二度と帰って来るな。仮にもプロならそんなフザケタ怪我してるんじゃねえよ」
"あ、サンジ、でもよ―――"
最後まで聞かず電源をオフにし。はあ、とため息の一つでもついてみた。
あのバカ。口に出さずに悪態をつく。いくら恋人と出かけたからってピアノ弾きがゲレンデで手ェ
怪我してどうする。おまけに右足骨折に両腕にヒビだと?間抜けすぎるだろそりゃあ。カヤが面倒
見てくれはするだろうけど。あのバカには勿体ねえ女の子だ。今ごろ、コロラドの病室で幸せそうな
面晒してるに違いない「バイト」の顔を癪だからアタマから追い出した。絵じゃ食えねえからって情けをかけて雇ったら、コレだよまったくあの長ッパナのクソアホは。要領がイイのか悪いのかわかりゃあしねえ。
文句を並べながらも。床やテーブルにばらばらなようでいて「計算してあるんだから、動かさない
でね」と麗しの空間デザイナー嬢がセッティングしたキャンドルに一応全部火を灯して回り。
「クソボケッ」
ラウンジの奥にあるピアノに向かって怒鳴った瞬間、くっと喉元で押し殺したような笑い声がした。
後ろ。バーの入り口のほうから。これは。
「コーザ!てめえはそうやって気配殺すんじゃねえっつって―――」
てっきりそうだと思って振り返れば。
まるっきり別人が立っていた。
くい、と片方の眉だけ器用に引き上げて。
「"そいつ"、まだみたいだな」
そういった。微かな、アクセントが耳に残った。
―――なんつう、失態だ。一瞬、言葉を無くしていたら。
「わるい、」
「え、なにが……」
「ドアが開いてたから入ったけど。まだ準備中だったか?」
「あ、いえ。どうぞ」
なんか声まであのバカに似てないか?そんなことを思いながら業務用笑顔を浮かべてみた。
それでもすい、とおれの横を背の高い姿が抜けていき。寄り添うようにピアノの傍に立つと、
鍵盤にかるく触れた。折角の美人にあたるなよ、といって。
ちょうど、光の具合で髪色が翠に透けるようだった。この色の薄さは昔、夏を過ごした祖父の家で
目にしたことがあった。何度も。毎日、みていた色だった。あの夏の間は。
2.
オーダーをその“客”の前に置き。
まだ早い時間で他に誰もいなかった。さっきの失態もあったから、当り障りの無い話でもするかと
口を開きかけたとき。
「なぜさっき、怒ってたんだ?」
いきなり核心をつかれた。嫌味にならない程度に、面白がっている風だ。
グラスを持ち上げる手に、眼がいった。きれいに手入れされた爪を持つ、長い指。
こういう手をしている人種は大抵2種類しかいない。
役者か、音楽家ないし芸術家。
―――こいつは、どっちだ?
観察した限りでは、どちらとも取れるな、これは。
「先ほどは、失礼しました、知人かと思いましたので」
「コーザの、」
ええ、お知り合いですかと普通に流そうとした。ああこれは役者の方だったかと。が、しかし。
返ってきた意外な単語に。オウム返しなんてことを生まれて初めてした。
「―――イトコォ?!」
初めて見る幼馴染のイトコは、やはり見栄えは上等だった。
そして。閃いた。こういうのがピアノ弾いてたら女性受けするな、と美人オーナーの留守を守る
優秀なボランティアとしては考えた。さっきのあの「美人」発言からすると。この、イトコとやらは
多少は弾ける筈だ。あの長ッパナ程度にはいけるだろ。
満面の笑顔付きで。言った。
「ピアノ、お弾きになるんですか?」
10分後。
まあ弾いてみろ、冗談じゃねえやだ、そういうなって、とか相当口調が砕けてはいたが。交渉。
コーザのイトコなら遠慮いらねえし。
「なんでだよ?」
当たり前の疑問をイトコが口にした。ああ、当然か。
「バイトが、怪我して当分来られないんだよ」
ふうん、と僅かに眉が寄せられた。
ああ、ただのヒビだしそいつは別に趣味で弾いてるだけだから、といったら。
そうか、とまたもとの表情に戻った。
「適当に弾いてくれてればいいし、いる間はどれだけ飲んでも良し!許す」
くくっとイトコが笑い出した。
「聞きもしねえでいい加減な雇い主だな、おまえ」
「”ウチはルックス重視なんでね。悪いようにはしないよ”」
どっかで聞いたような台詞だ、とまた笑いを残したままグラスを空にした。
ちょうど、客が入ってきて交渉は一旦中断。
押してだめなら引くだけだから。酒とついでに食い物だな。撒き餌。
ええと。これでいいか。
「食うか?」
小振りな、白磁に香草と味見程度の鴨のテリーヌ。
「へえ、」
わらいの影が掠め。きつい印象が途端に和らいだ。まるっきりガキみたいに。
「美味いだろ」
ああ、と頷くようにした。もう一息だな。
「じゃあ、店ハネたら食事くわせてやる。バイトのオマケだこれでどうだ?」
「成立」
に、とピアノ弾きが唇端を引き上げた。
「素直で結構。ところで名前は?」
3.
「遅すぎるぞおまえ、」
近づいてくる細長い影に向かって言葉にのせ、微かな笑みが目元に刷かれた。
また、印象が急に変わる。呼びかけられた方も喜色を隠しもせず、軽く握った拳で相手の肩を
何度か小突き。
「こっちに来たなら来たってさっさと連絡しろよな、アホが」
「やっと落ち着いたところだ、いろいろ面倒なんだよ」
「で。叔父貴は相変わらず、」
ああ元気に気違いやってる、とゾロが肩をすくめた。
程よい具合に埋まり始めたシートから返されるオーダーを一通りこなしたのを見咎めたヤツが、
おれの方を向いて、にっと笑みをつくってみせた。
「なんだよ、」
動かずに答えたら生意気に、こいこい、とか言ってやがる。
「あのな、これ。おれのイトコ」
コーザが指差してくるのを、ゾロがその指を逆方向に向ける。
「うん、知ってる」
「―――は?」
「さっき。面接の時に聞いた、一通り。おまえにイトコがいるなんて初耳だよ」
「面接?」
コーザの眉根がぎゅっと寄せられた。
おまえなんだそれ?とゾロに向き直る。
バイト、とイトコから返される答えに。はああ?と益々ヤツご自慢の「オンナ泣かせ」な面が困惑顔
になる。
「バイトのピアノ弾きが怪我したらしいから。代理でおれがすることになった」
面白えだろ、と唇端を引き上げていた。
「はあああああ?」
人気上昇中の役者から、ふざけた声があがり。女性客の視線が一斉に集中したことなんぞ
おかまいなしにコーザは語尾を相当伸ばし。みっともねえから軽くアタマを殴って止めさせた。
「あ、時間か?」
「そうだな、そろそろ」
了解、そういうと。するりとスツールからゾロが立ち上がった。
「もしもし、そこの兄さん」
ジーザス、とか言いながら軽くアタマを横に振る役者。
「なんだよ」
「おまえ。悪魔のようなナンパ師だね」
「人聞きの悪いこというオトコだなおまえは」
「あいつなぁ、一流だぜ、腕」
「ん?」
「だから。おまえクラシック畑以外は知らねえだろうけど。相当イイ線いってるんだよヤツは」
「なんの」
「ジャズピアニスト。アムスにいるのが飽きたからこっち来たらしいけどな」
「ふうん。なあ、あいつ、北欧系?」
「あ?なんで」
「ん、珍しい髪色だなと思ってさ」
「あーあ、うん。母親がな、スウェディッシュ」
「ふうん、」
あいつバイトに雇うのはおまえくらいだね、とかなんとかコーザが言うのを適当に聞き流していたら。
音が、流れてきた。必ず一度はどこかで耳にしたことのあるようなスタンダード・ナンバー。それに
乗せられたのが声量のないのが逆に低く掠れるような声質と溶けて絶妙な具合の。囁くようなそれが甘いラブバラードなど歌えば、まるで愛の告白の態。いままで、こっちに集中していた女性方の視線が、うっとりと音の方へ流れていくのを認めると、ほらな、とでも言う風に、コーザがわらった。
「"何度でも、何度でも、自分に言い聞かせるんだ。君に恋をしてほんとうに幸運だったと"だとさ。
うわ、おれ台詞でもいえないぜ。どのツラさげて歌ってやがるかあのアホは!」
母親のよく歌っていた曲だったから、知っていた。"タイム・アフター・タイム"。つい、口元が綻んだ。
おれの方を見てコーザが右眉を吊り上げた。
「で。バイトは合格?」
「大合格」
「乾杯」
に。とグラスを持ち上げコーザがまたわらった。
4.
ト、と前にグラスを置いてやれば。
「おまえに禁忌がないってことはよぉっく知ってるが、」
空いたほうの手がひらひらと宙をさらい。
「いきなりなに失敬なこと言うんだよてめえは」
頬杖を突いてなにやら小難し気なカオをしたコーザがカウンターにいた。
ラストオーダーぎりぎりの時間。
「きけよ」
アパートメントの上と下、ほんのガキの頃からの付き合いだから。真剣に何か言いかけているの
だろうとはわかった。ここをからかい続けると、ブチ切れる。首の辺りとっ捉まえられて大喧嘩になるからちょっと止めとこう、と黙った。
「ま、最初がアノ女優じゃあ仕様がねえともいえるが、」
「おまえだって似たようなモンだろうが」
「―――なあ、あれって犯罪じゃねえ?いま思えば」
「ああ立派な犯罪だろうね当事考えても」
「未成年だったもんな、」
イキナリ何を言い出すかと思えばこのアホは。
「おい。14の頃からのアイの遍歴を洗いざらい辿ろうってんじゃないだろうな?そんな暇ないっての」
アホか。と呟いた。珍しく真剣な面してるからなにかと思えばまったく。大抵のケースはお互い
インプット済みで。おれはいくらでもこの役者のゴーストライターになれるぞきっと。
「おまえさ。サイキン、大人しいよな。どうかしたか?」
「あ?」
「ずっと、とっかえひっかえしてただろ、いろんなヤツのこと。それこそ、ガキのころから当り障りなく。
キレイな蝶、捕まえるみたいにさ」
「おまえもな」
「おれのことはいいんだよ、」
「あれもさ、」
コーザの目線が、ピアノ弾きの方へ流れた。
「ホクオウで育ってるだろ、それこそぜーんぜん、タブーもなにも関係なくて。中身は野生児と
いっしょだから性質悪いんだよ、おまけに外見はあんなだし」
まぁ、叔父貴も変わってるしなぁ、と最後の方は独り言に近かった。
「それが比較的、大人しくしてるからさ。不思議だなと思うわけだ」
「それが?」
「うん、不思議だろ」
「べつに」
「そうくるかおまえは」
空にしたグラスの氷を回し。にっこりとわらい。
ところできょうの夜食はなんだ?それ食いたくておれ来てンだけど。とコーザが言ってきた。
4.
バイト代に夜食も含めると最初の時にうっかり約束しちまったばっかりに。
明け方、大事にお預かりしてるバーからそう離れていないゾロの部屋まで最近は一緒に戻ってる。
1階がカフェになってる古いビルの2階と3階をぶち抜いてあるそこは、真夜中だろうが大音響出してもだれからもクレームがつきそうもないほどのブ厚い石の壁で囲まれてて。だだっ広い木のフローリングの床の真ん中に、当然のような顔をしてピアノがいて。なるほどな、やっぱりこいつはピアノ弾きなんだなと、 最初にここに来た時は妙に納得した。
こいつの前にここに住んでいた写真家は、料理が趣味だったらしく。相当良いシステムキッチンを
設えていたおかげで使い勝手が良いから機嫌よくおれもまあ作って。適当に食べて、飲んで。バカ話の続きをして、そのまま帰る時もあれば、気が向けばスペースだけはやたらある奴の住処のどこかで仮眠して、そのあと自分の部屋まで帰ったりしていた。その最後のコースに何故かコーザまでくっついてたり、その時々の気分でヤツが連れていたガールフレンドまでたまに紛れ込んで居たりもした。
女の子は大歓迎だったけどな、当然。獣じゃないから襲ったりしないし、おれは。それはまあ連中も
だけど。
ただ、コーザの言っていたことは真実だったらしく。最初の内こそ、ほとんど毎晩「バイト」に顔を
出していたのが今ではそれは2日も来れれば良い方で。なのに「バイト」の無い日もラストオーダーの頃に顔出しやがるから。ゾロが何曲か弾くと客は至極満足な様子で席を立ち。おれまでつられて気分が良くなり。何故か、戻りが一緒になる。こいつの部屋はまあ居心地も良いし、別に構わないけど。
そんな風にしているうちに。だから、うっかり。
言っちまったのかもしれない。最近になって、またみるようになった夢の話を。
夜中、目を覚ますと。ベッドの脇にヒトの影がある。小さな影で、ただ自分をみつめてくるけれどその
カオは空白で。いろんなヒトの表情が全て溶け込んで何もなくなったような。確かに自分は知っている
のに、思い出せない、そんな夢をみるから。サイキン気分が悪い、と。
「そんなにまでして思い出したいことがあるのか?」
「多分」
ふうん、と話を聞いて。器用にジンジャーを包んで蒸し上げたシュリンプボールを切り分け
ライスペーパーに薬味と一緒にきれいに巻き込み。その様子を、ああやっぱキレイな指してるな、と。
ぼおっと見ていた。そうしたら。
「ほら」
象牙のハシに挟まれて、それがカオの前に差し出された。
「……なんだ?」
「ん?餌付け」
機嫌良さそうに、透明度の高すぎるまミドリ眼がわらった。美味いから、と言って。
おれが作ったんだろ、と言いはしたが。
気にするな、と言われちまった。
降り始めた雨粒が高い窓の上から下まで滑り落ちていて、気分が良かった。
雨やんだぞ、と窓から身体を乗り出すようにして空を見上げたゾロが言った。
「じゃ、おれ帰るから」
気を付けて、と返ってきた。言葉のニュアンスの微妙に違う辺りが、違う言葉で育った人間なんだな、と思わせた。ドアの外の階段の踊り場で。じゃな、とヤツの手がひらひらと振られ。何となく、その動きを目で追っていたら、わらったカオが近づいてきて目の前でまっすぐに立てられた人差し指が左右に振られた。
「アホ。見えてる」
「そうか、」
声と一緒に、一瞬。頭ごと抱きこまれた。
「―――なんだ?」
「さあな」
とん、と離されて。
何でだか、うん、とか意味不明のことを言って。階段を下りていった。
相変わらず、ぼーっとするくらい、気分が良かった。眠かったけど。
ただ、このなんでもないような居やすさは。記憶にひっかかっていた。ずっと。
その正体を確かめてみたくなる時もあったけど。押し止めていた。同じような、気もするけど。
偶に、曖昧すぎる自分の記憶を探ろうと、フォークを口に運ぶヤツの顔をじっとみていたりした。
そうすると決まって、バカは千切ったパンの欠片とかを人の額に向かって投げてよこし。
ぎゃあぎゃあと言い合いが始まった。ただ、その逆もあって。ゾロが道に迷った捨てオオカミの如く。
なんだそりゃあと言われたが。とにかく。微妙に首を傾けて人のカオを観察していることがあり。
そんなときはおれの方から盛大な言い合いのネタを放出していた。―――多分、逃げるみたいに。
そしておれは、自分の場所へ帰っていた。
5.
ただ、今日は。
意を決したように捨てオオカミが、口を開いた。
事態が、変わった。
おまえのこと、どこかで見たような気がするんだけど、と。
部屋で。鍵盤の上を気ままに滑る指は休めずに。じっと、ヒトのことをしばらく見ていたと思ったら、
トボケタことを言いやがった。
ああ、おれ16まで子役やってたから。どっかで見たことあるんじゃねえ、売れてたし、と。
本当のことを教えてやった。12の時から4年、役者をやってた。仲の良いコーザの母親の
影響もあったのか、12になるまで一つのことだけしててさ、突然暇になって呆然としてるおれを
見かねて母親がやらせたのかもしれないけど。面白かったけど、適当に稼いで引退した。コーザの
役者バカみてて、おれにはあれだけの情熱はないなとさっさと見切りをつけた。おれ、どうもガキの
時にそれ使い切っちまったみたいで。よく真人間になれたもんだねって自分で感心するくらいだ。
「ふうん。なあ、じゃあさ。忘れられない人間っているか?おれは、おまえをみてると。どうも
そいつのこと思い出す」
「へえ?どんなだ」
急に、心臓が跳ね上がった気がした。
北の方の島の、海辺の避暑地。子供の頃、夏を一緒に過ごした。自分が偶々、父親について
その避暑地を離れたその翌日に、海へ引き込まれて戻ってこなかった、名前を聞いてもいなかった
"女の子"。いま思い返しても、あれだけ純粋に誰かを好きだと思ったことはないな、多分。
そう、ゾロが言った。
「ちょっと待て」
「ん?」
「その島、マレか」
訝しげに、ゾロの指が止まりかけた。
続けろ、と言ったから、それでも。音と、言葉は止まなかった。
すげえ気の強いヤツで。怪我で、もうピアノが続けられなくなったって泣かないで言うんだ、
そいつは。それでもどうにか頼み込んで、左手だけで弾いてもらった。その時にそいつ、初めて
いきなり泣き出して。どうしていいかわからなくて、ずっと抱きしめてた。自分の中を、どう探したら
こんなに相手のことだけを思えるのかわからなかったな。
そう言って、ゾロは別のフレーズを弾き始めた。
おれは益々混乱する頭を抑え込んだ。待て。待て待て。いまは、パニックになっている場合じゃあ
ない。あの年の、おれの記憶は曖昧だ。あまりにいろんな事が一度に起こったから。"そいつ"の
ことも顔は、はっきりとは思い出せない。ただ……
ずっと。
覚えていたのは、
「ゾロ、」
背中から腕を廻して。肩に額を押し当てた。
――――――ああ、これだ。
あのときの。おれだけに、開かれてたもの。
「ゾロ」
そう言って。もっと力を込めた。
音が、ぴたりと止んだ。
「―――おい?」
「"そのこ"はどうしたって……?」
「死んだんだよ。だから、その年からおれはピアノを弾き始めたんだ」
「それ、さ。あのな、聞いていいか?」
「ああ」
ゾロの両手は、鍵盤の上に置かれたままだった。おれの廻した腕を、解こうとはしていなかった。
あたりまえだ、だってさ、おまえ。ずっと想ってたわけだろう、"そのこ"のこと。
「おれの右手。12のとき、怪我してさ。天才とか騒がれてたんだけどな、"弾けなくなった"んだよ」
奴の肩が緊張したのを、触れた箇所から感じ取った。
「でな、ノイローゼみたくなったから。祖父のいるマレの海辺の街に夏の間、遣らされて。友達が
できたんだ、そいつも避暑に来ててさ。名前も覚えてねえんだけど。それがな、クソ生意気なガキで
英語もろくに喋れねえの、ヨーロッパ人のガキのくせしてさ。で、おれに自分のとこの言葉覚えろとか言うんだぜ。でもな、おれそいつのことすげえ好きで。もう大好きで。こっちに戻る時、あんまり悲しいから黙って帰った。それっきり、会ってねえ。でも、おれも、そいつが多分一番好きだったな、
いままでで」
雑に腕を解かれて、いきなり手首ごと捉まれて隣のスツールに引き倒されるみたいにされた。
「……なんだって?」
「それ、おれだよ。あの夏、いなくなったのは、おれの双子の姉だ」
ひとつづつ、区切って言った。聞きながら、翠の眼が何度も瞬きをしていた。
二卵性でも、おれたちは良く似ていた、まだ性別の曖昧な子供だったから特に。あのときは、
コーザもこの世の終わりかってくらいおれと一緒になって泣いてた。多分、あいつは姉さんの
ことが好きだったんだ。
「なに。おまえ、おれのこと女の子と間違えてたのか、アホだな」
「双子だなんて、知らなかった。あの事故で"おまえ"がいなくなったんだと思ってたよ」
「だから。姉だよ、戻ってこなかったのは」
「そうか、」
「サマースクールが終わって、おれと入れ替わりでマレ島へ行ったんだ。それで、その年の冬に、
祖父も亡くなって。もう、あの島へは誰も行かなかった」
「おれも、父親からその事故の話を聞いて。あそこへはもう戻らなかった」
いや、戻れなかったんだな、とゾロが小さく付け足した。
「―――おまえなのか」
「おれで悪かったな」
「なくしたものとばっかり、思ってた」
「たった一回なんだけどな、おまえあれからずっとおれの"安全毛布"だったんだぜ?」
なんだそれ、とゾロが顔を顰めた。
あれから、なにかある度に。息の根止まるくらい抱きしめてきたバカのこと思い出してたんだよ、
そう言ったら。
「なんだよ随分ガラ悪いな、でかくなったら」
ゆっくりと、引き寄せられた。熱の低い、長い指が輪郭に添って滑らされるのを感じた。
「男と女の区別もつかないクソアホが、コトバも覚えてよくも無事に大人になれたもんだな」
うちの親父も間違えてたぞ、とかなんとかゾロが言い。
「稀代のバカ親子、」
いいかけたら。名前を呼ばれた。
抱きしめてくる肩口に額をそのままあずけていた。
なあ、と。耳元から良く響く低い声がした。背中をまっすぐに降りていくような。
「死んだと思ってた初恋の相手にもう一度惚れ直す、ってのは複雑な気分だな」
「どっちにしろおまえの一目惚れだろう?問題ないんじゃねえ?」
すげえ自信過剰、と呆れた風に言ってくるが。ゾロの手は正直らしく。頭に廻したまま、指先に
髪を滑らせてる。
「サンジ、」
もう一度呼ばれて。背中に廻していた腕を伸ばして、返事の代わりに奴の髪に手を差し入れた。
「いますぐにでも抱きたい」
「ここで?」
「ここで」
「いきなり?」
「わるいか」
「おまえ、酔ってるな、」
「酔ってない」
「……ゾロ、」
「うん」
生真面目に返事を返してきて。それでも廻される腕の強くなるのを感じた。
「ピアノが嫉妬する、」
仰向かされて、白鍵の一つがおれの肘の下で音をたてた。
わらいかけようとしたら、口づけられた。
噛み殺しきれない声が、喉から出ていこうとする。
肩を直に滑る手に、シャツを落とされる。
「サンジ、」
なに、と答えるのが精一杯で、それ以上は語尾が跳ね上がりかけるから。
「おまえの言うとおりだ、」
薄くあけた眼の端に、長い指が別の生き物のように鍵盤の上を滑るのがみえた。
その指の下で、声をあげるピアノ。耐え切れないと、吐息を漏らしでもするように。
「"これ"は、おまえに嫉妬してる」
じゃ、さ。いっそのこと。この上でやろう
そう言ったら。とんでもないくらいのキスをされた。
あったかくて。アタマがどうにかなりそうで。これがずっとほしかったんだと。
そう思ったら、泣けてきた。
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公開日程の公約破りだわ、変なとこで切るわでごめんなさいーーーーっ(号泣)
シリアスなのか何なのかも混迷。私も混迷。こんな迷走邁進でも、お引取りお願いできますでしょうか、カオルさま?
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