幸福論


ノブに掛けていた手を離す。
ラウンジの扉がゆっくりゆっくり閉じられていくのを、俺はただじっと見つめるしかなかった。
今日二度目となる突然の退去命令に居場所を追い出され途方もなく立ち尽くし、仕方なく扉についた小窓を腰を軽く屈めて覗く。こっそりと。
普段自分が立っているべき場所に、別の人間が立っていた。
その背中を眺めながら、何故か零れる溜息。そして綻ぶ頬。
何だか嬉しいようで、少し寂しいようで。
やっぱり嬉しい。


特に何も、他に用はなかった。
そういえば料理する以外に、仕事といえる仕事は特になかったからだ。
ナミさんのみかん畑の警護…アレは最近チョッパーがやっているし。
嬉しそうにルフィと戦ってるのを見てると、俺はキッチンに引っ込んでレシピでも考えてた方が良いだろ?
いつ敵船が襲ってくるかわからない大海原の上の穏やかな時間は、なるべくムダに過ごしたくはないから。



今日は朝起きた時から何だかこそばゆかった。起き抜けにルフィから起こされるし…アイツは俺が朝食を作り始めたその匂いで目覚める奴だから、俺より早く起き上がるというのは非常に珍しかった。後で知ったことだが、どうやらナミさんに夜も明けないうちから叩き起こされていたらしい。…チッ、どうせなら俺もナミさんに叩き起こされたかったぜ。
巻きつくルフィを蹴り飛ばし、ジャケットを羽織って顔を洗いキッチンへ行くと、何故かきちんと用意されている朝食。そしてその前に、一人も洩れずきちんと座って待っている仲間。約一名、腕組みしつつまだ半分寝かけてた奴がいたけど、そんなことどうでも良かった。そんなアホよりも何よりも、俺が一番気になったのは目の前のテーブルだ。目を疑うような豪華な朝食。いつの間に?
俺が驚いて声も出せずに居ると、皆揃ってニヤニヤとこちらを見、ルフィに至っては俺に向かってモゴモゴ何か言いたそうにしていたがナミさんに両手でゴム口を押さえ込まれていた。だからナミさん、その素晴らしきポジションをそんなアホゴムでなく俺にください!
そう思ったら突然ピストルにも似たけたたましい音に襲われる。計5回。いや、4回だっけか。一人は完全に夢の中にイってたようで。あのクソ野郎。
『サンジ、誕生日おめでとう!』
ウソップが作ったらしい特製クラッカーのやたらカラフルで長ったらしいテープに巻かれながら、そこでようやく、今日が何の日か思い出した俺の発した本日の第一声。
「……朝からキッチン汚すんじゃねえよ」
照れ隠しだってこと、誰か気付いただろうか?




陽も落ちかけ、船首で暖かいオレンジ色の夕陽を眺めながら、俺は手持ちぶたさな右手を握って、開いて。そしてまた握って。
それの繰り返しに飽きて、包丁の代わりに煙草を摘む。ヒマな時のお決まりってやつで。
それでも最近は控えているつもりだった。どこでも吸いまくっていた以前よりは、ダストボックスに溜まる空箱も多少は減ってきたような気がする。
煙草を吸いながら歩くのは、あまりナミさんのお気に召さないようだしな。「サンジくんが吸ってるとサマになるから別にいいんだけど、ね」なんてナミさんなりのフォローを戴いたが、そこで喜んじゃいけない。いや、実際のところかなり喜んだけどな。
今だったら周りに誰も居ない。俺を除く皆は全員キッチンに篭って秘密のディナーを制作中らしい。
俺だけが締め出しを食らって、こんないい天気で綺麗な夕焼けを独り占めしていた。
遠慮なく胸のシガレットケースに指が動く。ポケットのライターを探しながら、俺は一本を口に咥えた。
いつもなら今の時間帯は俺がキッチンでひとり働いていて、食事だと呼ぶまで飽きることなく船首に跨っているルフィ、そしてみかんの木の下で海図を広げ記録指針と睨めっこしているナミさん、倉庫で何かコソコソと怪しい発明品を作っているウソップ、それを横から楽しそうに眺めているチョッパー。もしビビちゃんが居たなら、カルーと一緒に読書ってところだな。
ああ、俺としたことがあのクソ野郎を忘れてた。アイツはいつも倉庫の扉の横か、誰も居ない船尾か、そうでなければ甲板の適当な場所で寝転んでいる。もしくは鉄の塊振り回して飽きずに鍛錬、鍛錬、鍛錬。アホみたいに、そればっかりを繰り返すネジ巻人形みたいに。そんなに筋肉つけて何になろうってのかね。行く末は筋肉ダルマ決定だな。
炎を引っ込めたライターを手の中で弄びながら、ゆっくりと染み込ませるように肺に息を溜めた。静かに細く吐き出す白い雲。
流れる煙を攫ってくれる風はなく、波も穏やかな日だった。そんな今日ももうあと数時間でサヨウナラ。
誕生日だからといって特にこれといって変化があったわけでもないが、だからといって何もなかったわけではない。俺の仕事は朝昼晩と全て奪われて、暇はできたものの結局落ち着かず何も出来なかった。勿体無い気もするが、急に「休め」と言われてもそりゃ困るだろ。
それよりも、だ。主の居ないキッチンで、他の奴らが何をやっているのかと思うと気になって気になって仕方ない。キッチンの器具は優しく扱ってくれと言いたいが、既に朝は取れかけの鍋の取っ手、昼には割れた皿の破片を目にしている。ルフィにかかればそんな注意も無駄なんだろうと思うと、今日が自分の誕生日だってこと、疑わしくなってくるというものだ。晩飯くらいは何事も無く終わって欲しいと心から願う。
ただ、そんな今日でも、俺は笑ってばかりいたような気がする。
誰かが誰かのために何かをしてやる気持ちって、心地よくて、暖かくて。
久々に照れくさい気分を隠せず、俺は落ち着かない身体を手すりに預けて波間の向こうをひたすら眺めた。
徐々に落ちていく夕陽。そのオレンジは、ナミさんのみかんと同じ色。
何となく眩しくて、でももっと見つめていたくて。
いつもルフィがそうしているように手すりに足を掛け、一気にメリーの頭に跨った。その反動で咥えていた煙草が海の藻屑に消えてしまったが、それに気付いたのはもっと後になってからだった。
登ってみると結構不安定で、あいつカナヅチのくせによくこんなところに座ってられるなと感心しつつ、上下左右に揺れる船にしがみつくようにしっかりと手を突いて浮き沈みする身体を支える。
結構眺めが良くて、下で見ているよりは確かに視界の隅から隅まで海の青で満たされる感覚。
いつもルフィはこんなところからこんな景色を眺めていたのだろうか。
そして、いつの日かきっと叶える夢を見ていたのだろう。海を制するその時を。
誰も居ない静かな甲板でひとり目を細め、俺は下に突いていた手に力を込めた。
ジャケットを脱いで床に投げ捨て、シャツ一枚になった胸元に最後の光が落ちる。
俺も、今だけ。きっとルフィに見つかったら文句が飛び出すに違いないから。
この海のどこかに繋がっている、まだ見ぬ奇跡の海を想った。



どれくらいそうしていただろう。
後方でドアの閉まる音がした。すぐさま飛んでこないということは、ルフィ以外の誰かだろう。
コツコツと独特の靴音を響かせながら、そいつは夢に浸っている俺のすぐ後ろまで近づいてきた。
キッチンと甲板を繋ぐ階段を下りる足のリズムで、それが誰なのか一発で判っていた俺は振り向かずに胸元の煙草に手をつける。
「落ちても知らねえぞ」
「ご心配どうも、俺は泳げるからお構いなく」
ドサリと音がして僅かな振動に驚き下を覗くと、気だるそうに座り込み寝転んだゾロとばっちり目が合った。見上げてくるその目は既に半分閉まりかかっている。
「テメエも追い出されたクチか」
「どうして判るんだよ」
「え、マジでそうなのか?本当にテメエは役立たずだな…」
「黙ってろ」
図星だったのか知らないが、ゾロは不機嫌そうに俺から目を逸らすと腕を組んで目を閉じた。何だかそういうのがとてもコイツらしくて笑える。
「テメエが料理ってガラでもねえしな…ま、それを言ったらルフィもだけどよ」
そういえば、作りながらつまみ食いしてまるで役に立たなさそうなルフィは追い出される対象には入らないのだろうか。そんなことを考え、笑いながら俺は海から目を離さなかった。
緩やかな空気が、とても清々しくて気分が良い。
夕陽はいつの間にか水平線の向こうに消えていた。赤く染まった西の空が、何とも言えず目に染みる。
「ま、そんなのは別にどうでもいいが、落ちるなよ」
「テメエ、俺が落ちると思ってんのか?…それとも心配してくれてるワケ?」
「するかよ、そんなもん」
「素直じゃねえのな、つまんねえ男」
そう言いながらも思わずコイツが素直なところを想像して寒気を覚えてしまった俺は、そんなゾロをふふっと鼻で笑いつつ伸ばした足をぶらつかせる。
どうせ落ちたって、助けてくれるんだろ?
何ならいっそのこと飛び込んでやろうか。賢い俺はそんなアホな真似しねえけどな。
そうこうしているうちに煙草も短くなっていて、俺は口からそれを離すと思いきり空に向かって投げ捨てた。緩く弧を描いて海に落ちていく小さな吸殻。
見事に環境破壊なその動作を、いつの間にか立ち上がって俺の隣に並んでいたゾロも目で追っていた。
ムスッとした横顔が、俺の目線の少し下にあって。
何か言いたそうにしているけれど、その横顔だけではなにも読み取れなかった。
「なあ、今日は何の日だ」
「は?」
突然口火を切ったのはゾロだった。
「テメエの誕生日なんだろう?」
問われるように言われて、何を今更…そう思ったけれど、俺は黙って船首にしがみついていた。
夕陽の名残は消えかかっていて、既に夜の海の冷たさが徐々に訪れようとしている。
陽が落ちると急に気温が下がるということを俺はすっかり忘れていたから、床に落ちてわだかまっているジャケットが恋しくなってしまったが今更どうにもならない。
「約束だったよな。何が欲しい?」
「お前、覚えてたのか」
「当たり前だろ」
淡々と静かに、顔色も声音も変えずにゾロは俺の方を見ないで口を動かした。
今年もまた、同じ場所で同じものを見て、感じていられた喜びを噛み締め俺は頷く。そうだ、時間は違えど去年もそうやって、俺は同じことを聞かれたのだ。
俺の望んだことは、共に過ごすということ。傍にいられるだけで良いからと、そう願った。
そしてそれはすぐに叶えられ、非日常的な生活は変わらなかったが何となく傍に居る時間は以前より増えてきたような気がする。
喧嘩の後でも、気付かないうちにいつでもゾロは俺の傍に居た。
「急に言われても、わかんねえよ…テメエ忘れてると思ったし」
「悪かったな覚えてて…朝から叩き起こされりゃ、イヤでも思い出すさ」
そこで初めてゾロが笑った顔を見せた。薄暗い甲板に薄く響く声は、何故かとても心に染みて暖かくて、どこか甘い。
それだけで満足だと、そう思った。
「なんも欲しくねえよ」
「いいのか?今年もそれで」
「いいんだ、テメエがいりゃ充分だろ?金もねえのに使わせらんねえよ」
気持ちだけで充分満たされた俺の表情を見て、ゾロが口元を綻ばせる。
そう、お前が居れば他の余計なものは何もいらない。
「お前らしいな」
「そうか?」
「ああ」
流れるように出てきた潮風を真正面から受け、はためくシャツを抑えながら俺はまた笑った。つられてゾロも笑い返してくる。
そうだ、俺はいつもこんな時間を望んでいたんだ。
似合わない、誘うような目でゾロが俺を見上げてくる。それでも笑いが込み上げてくるのは隠せない。
不意に、ずっと突っ張っていた左手をゾロに取られた。その手のひらは、カサカサしているけれどとても温かい。
目で合図して、瞼を閉じたまま瞬きを止める。
ゾロから動いた下から掬い上げるようなキスは、触れるだけですぐ離れてしまうフレンチな甘さ。
それでも心臓は痺れ、身体は動けなくなってしまう。
お前の何気ない仕草に簡単にはまってしまう俺もどうかしてるけど。
こんな俺をイイと言うお前もどうかしてるぜ。
「おめでとう、サンジ」
「ああ」
なかなか言い馴れない言葉とともに、なかなか聞けない自分の名前を聞くということ。
言わせようとしてもコイツは言ってくれないから、前触れのないその罠にまんまと落ちていくのは俺ひとり。
本当は手伝いもそこそこに抜け出してお前の顔を見にきただなんて、そんなこと言われたら嬉しくてどうしていいかわかんねえだろ、クソ野郎。
代わりにもう一度口唇を寄せたら、今度はしつこく追ってくるから片目を開けて微かに睨んでやった。
照れたようにはにかんでみせやがって。
卑怯だよ、本当に。



両目を開くと妙にこざっぱりとした顔で俺の目を覗き込んでいるゾロが居た。
もうそろそろタイムリミットだろう。甘い空気をぶち破るように、俺はゾロの横を飛び越え再び甲板に降り立つ。
「…そろそろお呼びがかかるんじゃねえの?腹も減ったし、行こうぜ」
「そうだな」
落ちていたジャケットを拾って羽織り、俺はゾロと肩を並べて皆の待つキッチンへ歩き出した。
一年に一度、こんな落ち着かない日もあって良いな。
一度だけだから良いんだろうな。
きっと。




朝起きて一番に、その引き締まった腹に一発入れて蹴り起こし。
三食きちんとメシを食って食わせて、ヒマになったら一緒に昼寝して、ナミさんやウソップに呆れられるくらい喧嘩して。
夜になれば、どちらかともなく目配せしあってこっそり、でも優しく抱き合うキッチンの片隅。

いつでも、そんな「普通」を望んでいて。
そんな俺の幸福のカギは、全てゾロが握っている。



他の誰でもない、君だからそう思うんだ。
いつまでも変わって欲しくない日常を越えて、またひとつ大人になっていこう。
できることなら一緒に。
そこから洩れる笑い声を聞きながら、俺は暖かいキッチンの扉をゆっくりと押し開けた。

李花様のお話を、読むことの出来る幸せを噛み締めます。
この拡がっていく空気、というか風情は虜になるしかないでしょう。

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