*44*

目を開けたなら視界がベージュと白の中間めいた紙と小さな活字で占められていることにルーシャンが瞬きした。インクの独特の匂いと、薄い紙の捲くられていく乾いた音が次いで意識に入り込んでくる。
新聞……?
そんなものが自動的に届けられる筈も無く、だれかがわざわざ持ってきたのだろう、この部屋まで。気配にも気付かなかった。
また、紙の捲られる音が届き。活字に漸く焦点があってくるのをルーシャンが自覚した。
上院議員か誰かの肖像、モノクロの写真と、幾つか踊るヘッドラインと。大統領の発言も太字で紙面を飾っていた。枠で囲まれた幾つもの広告と。窓の外の現実がそのなかにはあった。すこしの間、忘れ果てていたもの。
曜日どころか、日付の感覚も定かではないことに気付いた、外界からは一切遮断されていたし自分でも敢てそのことにこだわってもいなかった。だから、紙面の上部、片隅にプリントされた日付に、ゆっくりとルーシャンが瞬きした。
11月の半ばをとうに過ぎていたことに。
そして、両親はもう手紙を受け取った頃だろうか、とぼんやりと思った。手紙を読んだからといってあのひとたちが酷く悲しむことはないのだろう、と漠然と確信する。なぜなら、あのひとたちから涙を根こそぎ、あの顛末から二年の間に自分はおそらく全て流させきってしまったから。
社会との繋がりも、退職願を一方的に送りつけたから今頃は切れているだろう。受理されないとは思えなかった。国際部の駆け出しの記者など、いくらでも挿げ替える首はあるのだし。
ぱら、とまた紙の捲られる音に、一瞬目を閉じる。
あの、優しい馬鹿な友人だけが、多分手紙を読んで途方にくれているに違いない。ビルにでも慌てて電話をしている様子が目に浮かぶようだった。そんな絵は鮮明に描けるのに、とても遠いことのように思える。

この場所に連れて来られてから、三週間は経ったことになるんだ、と不意に実感した。時間の感覚が僅かに戻りかけるのを感じ、ルーシャンが伏せていた眼をあげた。
そして、身体に知らずに馴染み始めていた左手首の重みに僅かに腕を引き上げるようにすれば、紙が大きく折られる音がし、視界から紙面が無くなっていた。その代わりに柔らかな笑みがまっすぐに自身に向けられてきたことにルーシャンが僅かに首を傾げるようにした。
起きたのか、と笑みを含んだままの声が落とされる。
ん、と短く応えた筈の声が酷く掠れて喉奥に引っ掛かるようなことに口許が勝手に笑みを刻んでいった。
さら、と前髪を撫でられ、笑みが蕩けそうになる。もう僅かに、体温の伝わるほどに添わせていた身体を引き寄せるように自分からも添わせなおし。おはよう、と呟く。
「どこも痛くないか?」
少し声が笑うようであるのに、ルーシャンが眼差しを上げた。
「もうやだ、って言ったの無視したのだれだっけ」
「んん?だれがそんなこと言ってたんだ?」
からかうような光を乗せた目元を、まだ火照っているような指先で触れてみる。
「もっと、って鳴いてたのは誰だっけな?」
「さぁ…しらないよ」
そうして、唇で指先を追いかけ。そ、っとルーシャンが唇を押し当てた。甘く啄ばまれ、また笑みを乗せる。どこか重い下肢もさほど気にならない、まだ。そして掌が腰に押し当てられ一層抱き寄せるようにされ。短く、ルーシャンが息を零した。
「ずっと、にやにやしてたろ、あんた」
頬に手を沿わせて包むようにして触れてみた、初めて。
「そりゃあナ、腕の中で仔猫チャンが可愛くにゃあにゃあ言っててみな?にやつくだろ」
触れていた掌に、きゅ、と揉みこむようにされルーシャンが競りあがる息を抑えようとしていた。

「熱があったんだよ」
唇を軽く触れ合わせる。
「いまは?」
唇を甘く押し返すように合わせながら言われ、ルーシャンが額を触れ合わせた。
「あんたが決めろ」
「別の意味で熱が上がってるんじゃないのか?」
機嫌の良い小さな笑い声が届き、熱い舌先が唇を辿っていったことにひくりと背中が跳ね上がりかける。
「ん、ん…」
する、と背中を撫で上げられ。とくり、と鼓動が響く。
「オマエが起きるの待ってたら腹が減った」
唇を食まれ、また鼓動が自分の内で聞こえる気がし、ルーシャンが短く息を吐いた。
「え…と、」
ゆら、と視線が僅かに左右し。
「……まだ、ちょっと無理かもしれない、」
そう言うルーシャンの目元から頬までが赤い。
ぷ、と短くパトリックが吹きだし。それが小さな音の連続になりやがて大声で笑い始めていた。
冷笑ではないソレを聞くのは初めてであり、ルーシャンがますます赤くなり困惑するままでいるのをきつく抱き締め、パトリックは笑い続け。む、とルーシャンが唇を不満そうに引き結び始めたころ、漸く笑いの引いていったパトリックは一度息を吐き。バァカ、フツウにブランチだ、と告げ。見詰める先で、瞬く間に頬を真っ赤に染め、何事か喚き始めそうになったルーシャンをキスで黙らせていた。

「あんた、紛らわしいんだ……っ」
そうルーシャンが漸く言えば。
「ふン?オマエがエッチなんだよ」
「あんたが限度知らずなんだっ」
「そりゃあナ。若い元気なオスだからナ?」
喉奥で笑いながら、頬を撫でられてルーシャンが瞬間、言い返す言葉を見つけきれずにいた。
「で。なにか食えそうか?カスタードとか、ポリッジとか、スープとか」
ブルーが穏やかな笑みを乗せたままで訊いて来るのに、同じブルーでも違う光を乗せていた時間のことを思い出しかけ、軽く頭を振る。
「体力使いすぎたからカスタード」
「ん。いいチョイスだ。シャワーはいっとくか?」
誰かさんがすげえから、と。いぃ、とハナに皺をわざと寄せるようにして言えばさらりと返された。
「―――――――あの、さ」
ば、とヒトツのワードで記憶が一瞬で戻り、またルーシャンが困ったように眉根を僅かに寄せていた。
「ん?」
目で促され、こく、とルーシャンが息を呑んだ。
「―――――――バスでも、けっこうなコトになった記憶が……」
あるんだけど、と確かめるように呟けば。
「なんだよ、一緒に入りたかったのか?」
にや、と性質の悪い笑みをパトリックが浮かべるのに、だから!とルーシャンが言い返していた。
「それ、返事じゃないよ、」
「カワイコチャンが裸で側にいるんだぜ?触れないわけがねえだろ?」
「カワイコちゃんって言うな、昨日から気になってたんだ」
ちゅ、と目元に口付けられながら言えば。
「かわいいんだからカワイコチャンだろーが」
「言われて喜ぶヤツがいたらお目にかかりたいよ」
そう溜息混じりに告げ。拗ねたようにとさりとパトリックの首にルーシャンが腕を巻きつけていた。
「ルゥルゥはデリケートだなぁ」
くっくと笑いながら告げられた言葉に。つきりと心臓が一瞬痛み。全ての始まりに意識が戻りかけるのをいまに押し止め。
「腕が重いくらいだからね」
そう言ってみせ、軽く引き上げた腕に絡みついた蛇に、とん、と口付けていた。
「じゃあ風呂は入れてやろうか?」
エロいことナシで、と笑って言われ。
「カスタード全部食うから、むしろシて?」
そうジョウダンとも本気とも混ぜて返し。はは、とルーシャンがわらった。その笑い声がどこかひび割れて乾いていることに、本人は気付かなかったのだけれども。ずきずきと痛み始めた心臓を誤魔化すように、にこりと笑みを乗せたままでいた。
「腹が減るから、ブランチ食ってからバスタイムでのんびるするか、」
「―――――――え?」
ぱち、とルーシャンが目を瞬いた。
「あんた、どこか行っちまうのかと思った…」
「まあ、バスが終わったらちょっと出てくるけどな。少しはのんびりさせろよ」
くす、とパトリックが笑った。
「折角カワイコチャンがカワイイんだから」





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