*47*

こぢんまりとしたレストランの、華美に装飾的でないルーム。白い清潔なクロスがかけられた空のテーブルと黒いメタルフレームの椅子が、壁を反射する甘いオレンジ色の間接照明に照らされて柔らかな空間を作り上げていた。
対面には、甘いグレーの冬用のスーツのジャケットを脱いでサーモンピンクに白の細いストライプが入ったシャツと重い赤のメタリックなタイを締めたルーシャンだけが視界に入る。
少し首を巡らせれば、出入り口付近にロイが立っており。キッチンの方に視線を遣れば、アングル的に見えない厨房からこのレストランの主であるジェフ・ヴァリティーユが新たなプレート等を持ってやってくる。
アペレティフでミモザを飲んだルーシャンは、比較的顔色がよさそうに見えた。
オードブルのラングティーヌのムースと、温野菜のサラダを付け合せのパンと一緒に何口か食べ。カリフラワーのポタージュは比較的多く胃に収め。けれど、スズキのポワレは半分程しか口に出来ず、付け合せの手長海老とガレットを適度に食したに留まった。
そしてパトリックが鹿肉のローストを赤ワインソースで食べているのを、白ワインを傾けながら静かに見詰めてきていた。

生まれる前から家族ぐるみで付き合いがあり、実は祖父の友人であったシェフのジェフ・ヴァリティーユは、小食のルーシャンがプレートを食べきれないことに文句は言わず、ただ黙って新しいプレートと入れ替えていっていた。最初にパトリックがルーシャンのアピタイトを説明しておいただけに、特に驚きはせずに見守っていた。
そもそも、パトリックが久し振りに訪れたジェフのレストランに“ルーシャン”を伴っていく、と告げた瞬間から、何かを感じ取って観念していたようだった。
『それは誰だ?』
『誰でもない、ただの仔猫チャンだ。最後のディナーにはアンタの料理を食わせたくなってな』
そう説明したパトリックに、ハン、と高齢なシェフは笑い。
『ヨメでもアイジンでも友人でもなく、仔猫チャン、だと?』
そう言って、にか、と笑っていたパトリックの頭をべしっと引っぱたいた。
『悪さした罪滅ぼしか』
『そこまでは言わないけどナ、けどアンタの料理を食わせたくなるくらいには気に入っちまったんだ』
そう言ってジェフにレストランを貸切で予約したのがルーシャンが熱を出す前日のことで。溜息を吐いてそれを受け入れた“ジジイ”は、それでも急遽季節の素材で良いものをたった二人のために支度してくれた。
そして病院帰りにホテルで着替えてから先にレストランに到着していたパトリックが一人でアペレティフを飲むに任せ、ロイに連れられてルーシャンが遣ってきた時に、細身のスーツに身体を包んだルーシャンの姿を見て、テーブルの下でがつんとパトリックの脚を蹴り上げていた。
チビの頃から見慣れたシャープな目線で“ど阿呆”と声にすることなく告げられて、パトリックは苦笑を漏らしたものだった。
それでも、ジェフはオードブルの一口目を食べたルーシャンから、ほんとうに嬉しそうな口調で「おいしい」と言われた瞬間には目を細めて僅かに微笑んでいた。そもそもが仏頂面だからそれがルーシャンに見て取れたかどうかはわからなかったが。

メインを食べ終えたパトリックの前からプレートを退かし。一度キッチンに戻ったジェフが、マロンのアイスクリームとブランマンジェが乗った皿を、それぞれパトリックとルーシャンの目の前に置いた。
更にもう一度キッチンに引き戻ったジェフが、コーヒーのカップが乗ったソーサを二つ持って、二人の前に置く。
「まだ腹が空いているようであれば、ガトーなりタルトなり出すが?」
そうジェフが言ったのに、ルーシャンがじじいを見上げて困った風にふにゃりと笑った。
「果物のコンポートもあるぞ?」
ジェフが僅かに目を細めて笑って告げる。
「せっかく作っていただいたのに、ごめんなさい」
そう静かに告げている声が響き、くっとジェフが笑ったのがパトリックにも聞こえた。
「美味く食えるだけ食って貰えればそれでいい。気にするな」
パトリックは偏屈ジジィが珍しく素直にルーシャンを気に入ったのに目を細めながら、コーヒーを一口飲んだ。
すい、と視線が向けられたのを感じて、パトリックが見上げる。
「で、そっちのバカ坊主はどうするね?」
ルーシャンの目が驚きに大きくなったのは気にせずに、パトリックはちらりと斜めを向いて笑った。
「この間食べたシャンパンのゼリーソルベが美味かったのに」
「あれは無ェよ」
「焼いたモノは重くていらねえ」
「んじゃクレーム・ブリュレでも?」
会話をしているジェフとパトリックを物珍しげに見上げながら、ルーシャンがマロンのアイスクリームを掬って口に運んでいた。
どうやら美味かったらしく、にこっと笑っている具合が可愛らしくてパトリックが目を細めれば、ジェフが片眉を跳ね上げて深い息を吐いた。
「オマエはクレメ・ダンジュが昔からスキだったな?そっちを持ってきてやるから、一口食わせてやれ」
「やたっ」

悪ガキのように素直に、にか、と笑ったパトリックの頭をびしっと叩いて、ジェフが厨房に戻っていく。
その大柄な背中を目を細めて見遣っていれば、驚き顔のルーシャンが見詰めてきた。はた、と瞬かれて、くしゃん、と笑う。
「オレがまだ細胞片だった頃から世話ンなってる。死んだジーサンお気に入りのレストランなんだよ、ココ」
そうなんだ、とルーシャンが呟く。柔らかな雰囲気のまま、その声までどこか甘い。
「専属で家にいた人だったのかと思った」
「んや。一国一城の主だからナ。今も昔もウンと言わないんだな」
とっとと最初のプレートを終わらせて、コーヒーで口をすすぐ。
くす、とルーシャンが笑った。
「やっぱり誘われてはいたんだ」
「腕前としてはもったいないだろ。だがまあ多種多様な客に食わせていたい、ってのが夢だっていうからな。諦めるしかない」
す、と室内に視線をめぐらせたルーシャンに小さく笑った。
「前に来た時は部下の結婚式でナ。そういやプライベートで来ンのは、ジーサンが死んで以来初めてかな」
そう、と静かにふんわりと微笑んだルーシャンが、どこか寂しそうなのに、パトリックは片眉を跳ね上げた。
「足りたか?」
コン、とデザートプレートの縁を指で弾いて訊けば、
「十分以上、楽しかった。いままでのフレンチで一番かな」
そう言って少しばかり首を傾けたルーシャンに、くすんと笑った。
「それはなによりだ」
「ありがとう、ごちそうさま」
「ああ、けぇどごちそうさまにはまだ一口分早ェよ」

そう告げている間にも、ジェフが最後のプレートを携えてテーブルにやってくる。
ふにゃ、と笑ったルーシャンに、ジェフが、に、と口端を吊り上げ。そのまま空のプレート2枚と白いふんわりとしたものに赤いベリーのソースがかかったプレートを入れ替える。
添えられていた新しいデザートスプーンに真っ白いクレームダンジェを乗せて、ベリーソースをナイフで引っ掛け。そのままそれをルーシャンに差し出す。
「美味いぜ?」
手を伸ばしてスプーンを引き取ろうとしたルーシャンに、チチ、と舌を鳴らした。
「ほーら口開けナ」
少し首を傾げたルーシャンに、にかりとパトリックは笑いかける。
「あーん、ってしな」
一瞬困った顔をしたルーシャンの口の前に腕を伸ばしてスプーンの先を差し出す。
「ルーシャン?」
す、とルーシャンの手がパトリックの手に添えられ、ぱくん、と白いふわふわが口中に消えていった。ほんのりと赤い目元のルーシャンを見遣って、にかりと笑う。
「絶品だろ?」
白いふわふわをもう一口分掬って、今度はそのまま自分の口に運ぶ。フレッシュチーズの甘さと濃厚なクリームの滑らかさが舌の上で溶けて、ベリーソースと絡まる。もう一口分掬って、またルーシャンの前に差し出す。
「もう一口、いけそうか?」
ふるふる、とルーシャンが真っ赤になったまま首を横に振ったのに、あそ?と笑って、差し出した分を自分の口に運んだ。

ジェフはとっくの昔に厨房に引っ込み。ロイの存在は気にしたことがない。だからパトリックは素直に、プレートから白いふわふわをスプーンに乗せながら告げた。
「言い忘れてっけど。やっぱ見立てただけあって、似合ってるナ」
ぱち、と真顔でルーシャンが瞬いたのに、きゅ、と目を細めてパトリックが笑い、スプーンを口に運んで咀嚼してから、ぺろりと唇を舐めた。
「スーツ。ピンクのシャツも美味そうだ」
さあ、とルーシャンがまた顔を赤らめていた。にかりとパトリックが笑う。
「ま、今日ぐらい食べれてたら、オマエもあと少しで食べごろになるだろ」
最後に残しておいたコーヒーを一口飲んで、それからナフキンで口許を拭った。
その間に自分を多少取り戻したらしいルーシャンが、
「食べごろ外して損したね、じゃああんた」
そう少しばかり生意気な口調で言っていた。ふは、とパトリックが笑う。
「仕込むのも好きだしな。別に構わねェよ」
「保証書書いてくれるんだったっけ、」
ふい、と視線をずらしたルーシャンに、くすくすと笑って返す。
「いらねぇよ。オマエの存在自体が保証書みたいなモンだ」
ぼそっとルーシャンが呟いた。
「迷子みたいな顔してるってロイに言われたよ」
ちろ、と視線が合わせられる。
「迷子だろうが」
「―――――――ちがうよ、」
少しばかり悲しそうなトーンになったルーシャンに、くしゃりと微笑みかけて。ゆっくりと立ち上がってから、久し振りに自分で自分のジャケットを羽織った。
「そ?ならいいんじゃねぇの?」
ゆったりとテーブルを半周して、ルーシャンの前に手を差し出す。
なにかを言いかけ、けれど口を噤んだままじっと見詰めてきているルーシャンに、アタマでドアを示した。
「ほら、行くぞ」
自分で立ち上がったルーシャンが、隣のテーブルの椅子にかけてあったジャケットを引き上げたのに笑って、足を厨房に向ける。

「よぉ、ごっそさん。美味かった。やっぱりクレームダンジュはここのに限る」
「それだけかよ、クソ坊主」
「なわけないだろうが。また来るぜ」
出口に向かえば、ロイは運転手を呼びに行ったのか姿は見えず。ルーシャンの姿だけがエントランス近くにあった。
背後からカツカツとジェフが来ているのにかまわずルーシャンの側まで行けば、ジェフが低い声でルーシャンに告げていた。
「ちゃんと食える頃になったらまた来い」
一人で残されて、どこか寂しそうにしていたルーシャンは、ふんわりとやはり寂しそうに微笑み、ごちそうさまでした、とだけ返していた。
ロイが扉を開けて帰り支度が整ったことを告げてきて、ルーシャンが先に店を出て行った。
ガツ、とジェフが軽くアタマを小突いてくるのに、直ぐには後を追わずにパトリックは振り返る。
「大事なモンなら大事にしやがれ、ガキ」
「大事だから大事にすンだよ、ジジイ」
ポケットに忍ばせたケースからタバコを取り出して咥え、マッチで火を点けた。
「手放すのか」
「巻き込むわけにはいかないだろ。ああいうガキをさ」
「阿呆だな」
ふン、と鼻で笑ったジェフに、パトリックは肩を竦めた。
「マジになる予定なんかなかったンだよ。オレも、アレも」
「泣かせることは折込済みか、パトリック?」
静かな声で訊いたジェフに、パトリックは薄く笑った。
「巻き込まれて墓の下に収められるよりゃマシだろーが」
ぽり、とジェフがコック帽の下のアタマを軽く指で掻いた。
「クソガキなままだな、パトリック」
「いいマフィアは狡猾なガキだってジーサンが言ってたぜ」
ひら、と手を振って、レストランのドアを開けた。
ジェフがじっと見守ってくるのを背中越しに感じながら、ロイが開けたドアから車に乗り込む。

シートに座れば、する、とルーシャンの身体が添わされたのを見下ろし。グレイとグリーンとダークグリーンのストールが巻かれた首元を見詰めながら、ルーシャンの身体に腕を回した。
「冷えたな、ルーシャン?」
サイドに寄せられた前髪に露になっている額に、トン、と口付けながら言えば。ウン、とルーシャンが小さく頷いた。
「あっためてよ」
ルーシャンのセリフに、パトリックは軽く片眉を跳ね上げて。ルーシャンの細い身体を膝の上に抱き寄せた。
「熱くしてやるって」
「髪、ロイが勝手に弄るし。ぐしゃぐしゃにあんたがして」
ますます言い募るルーシャンの項から指を差し入れて、パトリックはルーシャンの唇を塞ぎながら囁いた。
「まっさらにキレイにしてやるよ、仔猫チャン。頭ン中も、何もかもナ」
すがり付いてきたルーシャンの腕の強さにほんの少しだけ笑みを深くしながら、パトリックは甘く開いた唇の間に舌を差し込んでいった。
甘いクリームとクリームチーズのフレーヴァが舌先に残っていることにどこか満足しながら、車内だと言うことを忘れて溺れようとしてるルーシャンの背中をきつく抱きしめた。
少し遠くで鳴らされるクラクションの音が、やけに遠くに聞こえていた。




next
back