In Your Hands


 *1*

湖の表面を風が渡っていくのを見詰めながら、ヴァンが僅かに眼を細めた。
湖面を光の欠片が幾つも漣を立てながら滑っていっていたのは、もう随分と昔に思えた。
森の木々を鳴らして吹き抜ける風は何時の間にか、僅かに肌に冷たいものに変わっていて。あと少しすれば、湖の表面にまで色づいた葉を飛ばすようになる。
季節が変わっていこうとする間に学んだことがあった。一度無くしてからでないと、取り戻せないものがあること。壊れてしまったものをもう一度組み上げ直すことはとても難しいけれど、不可能でもないことも。
2年の歳月を掛けて少しずつ崩れていったものは、二ヶ月ほどの間にほんの少し足場を持ち直しているように思えた。

木製の桟橋に膝を抱えて蹲り、湖の表面に眼をやっていたヴァンは一つ短い息を吐いて、ポケットに仕舞ってあったはずのタバコを探った。
無意識に火をつけ、深く吸い込み。
息を吐き出す前に、湖の真ん中に出されっぱなしの『浮島』をじっと見詰めた。あそこには、二種類の思い出が在る、とヴァンは思った。
この間の夏のこと。
もうひとつは、もっと昔の。まだ母親が一緒に暮らしていたころのもの。
あそこの浮島によく競争して泳いでいって。10歳近くも年上の従兄に勝てるはずもないのに、ガキだった自分はいつも躍起になって追いつこうとしていたな、と。
10歳になるよりも前の、ほんのチビの頃の夏の記憶はどれも鮮やかで明るい色彩でイッパイだった。

いまはどうだろう……?とヴァンは煙を長く吐き出しながら思った。
父親がこの湖の側の家でもう一度生きていくことを選びなおし、「事故」を起こした自分を受け入れ直してくれた。そのことは、シアワセなんだろうとわかる。
18歳、なんて年は。ジンセイを全部知り尽くしている年齢なんだとチビの頃は思っていた。丁度、従兄が夏に、最後に遊びに来ていたのも同じ年だった。自分にとって従兄はありえないくらいにオトナに思えていた。もしかしたなら両親や学校の先生たちよりもよほど。
けれど、いまの自分は、と。
ヴァンがタバコを唇から落とし、靴底で踏み潰し。立ち上がった。
罪悪感で押し潰されるようなことは無くなったけれども、未だ「道」など見えていない。

「ちっともオトナじゃねェよな、」
ただのガキだ、とヴァンが小声で言ってみた。
だけど、どうせガキならもっとチビの頃の方がいいじゃん、と。
迷うことが当然なのだ、と。カウンセラーは言ったけれども、ただの気休めにしか思えなかった。
いま、思いつく楽しいことは。
それは、何もいまに限ったことでもない、とヴァンは自覚していたのだけれども、それは全て過去と関係があった。
もっと厳密に言えば、従兄と。長いこと、顔も見ていないけれど。

また一際強い風が湖を揺らしていき、その冷たさがヴァンに時刻を思い出させた。
もう一本タバコを取り出し、咥え。これでも吸い終わったら家に戻ろうかな、とまた視線を遠くに向けた。
「クソガキ」
不意に、他人の声が背後から聞こえヴァンがびくりと思わず肩を揺らした。
ほんの少し呆れたような、そのくせどこか笑みを潜めてでもいるような声に、ヴァンが弾かれたように振り向いた。
驚きに見開かれた眼に映っていたのは自分より年長の、それでもどこか見覚えのある……鈍い金色が、ちかりと秋の陽射しに反射して。
ぱ、と閃く。
不審気に細められ、まっすぐに相手を見詰めていたヴァンが酷く小さな声で言った。
「……ショーン?」
一言、名前を口に出してしまえば、10年近く時間が過ぎたとはいっても、くぅ、と笑みを浮かべた顔は記憶にあるソレと変わらずに。

あぁ、ショーンだ、とヴァンが従兄を認識する。
ふわ、と途端にやわらかな笑みを乗せると従兄に眼を合わせ、またにこりと微笑んだ。
「なんだよ、じじいになってたからわかんなかったよ」
長いこと会えずにいた従兄に言えば。遠慮なく、後ろ頭をショーンの手が叩いていった。
「あいっかわらず可愛くねーの、」
咥えタバコで、軽く笑みを乗せるようにしてショーンが言い切り。
その口調が記憶にあるものと何も変わらないことに、懐かしさと昔感じていたままの感情が自分のなかにそのままにまだ残されていることが 突然、理解するよりも先に感情が流れるままに知って、ぎゅう、と従兄の首に齧りついていた。


2*

ひんやりとした、きれいな空気をとにかく吸いたかった。
きりきりと張り詰めた会議室をクビ覚悟で飛び出し、車に飛び乗った。
携帯電話の電源を切り、アクセルを踏んで会社の敷地を出て。そのままの勢いでショーンはロサンジェルスの街も飛び出した。
早朝の混雑が漸く引いたハイウェイを走らせながら、ショーンは眩しい太陽と馬鹿みたいに澄んだ青空に顔を顰めた。
日頃から徹夜で作業することなどアタリマエの生活だったけれども、今日はソレを見たくなかった。能天気な夏もそろそろ終り、という青空は、今のショーンにとってはただただ忌々しいだけだった。

煙草を咥えて火を点け、煙を深く肺まで吸い込んだ辺りで、漸くすこしだけ頭が冷えた。
けれど、飛び出してきたオフィスに戻ろうとは思わなかった――――自分の仕事より、仕事の発注先のリクエストのほうが大事だと思うのであれば、自分がその仕事をする必要はない、とショーンは思う。
プライドをかけて仕事をしているのだから、自分が納得のいかないモノを作るように要求してくる会社なのであれば、自分は首になってもちっとも構わない、と。

どんどんとロスを離れ、大陸を横断するルートに乗っていることに気付いて、ショーンは小さく笑った。
会社が自分をクビにするにしろ、しないにしろ。今はお互い、時間を置いたほうがいい。少なくとも、会社がショーンの存在価値を見詰めなおす時間はあったほうがいい。
ショーン、という人間が作り出す音は、ショーンにしか作れないけれども。ショーン自身はあの会社にいなくたって、音は作れるのだ。
その事実をどう捉えるのかが、会社のこれからの方針を決めるだろう。
―――――だったら。ついでに溜まりまくった有給休暇をここでガツンと取っておくのも悪くない。
高速道路の案内板をちらりと見遣って、ショーンは小さく口端を引き上げた。
ヴァケイション。いい響きじゃねえか、と。

パスポートを取りに戻るのは面倒臭かった。
正直な話、ロスの空気をいまはもう吸う気にはなれなかった。
街とは違う空気がいい。海も、ここ数年車を走らせる時にちらりと見遣る以外には行ってなかったけれど、潮風も嗅ぎたくはなかった。そうすれば行ける場所は山の中、森の中、砂漠の中……。
ふ、と頭の中にイメージが浮かんだ。
森の中にあるイメージ。きらきらと光る湖面。
虫や鳥の声が、笑い声が途切れた瞬間に聴こえてくるあの場所……。

『パーット?パーティー?』
柔らかな、甘い子供の声がエコーする。パトリック、というショーンの洗礼名を愛称で呼ぶ年下の従弟の。
『ヘイ、パット』
10歳年下の従弟が、初めてショーンのミドルネームを知った時のことだ。
にかり、と実に得意げに微笑んだそのコドモを、ショーンは容赦なく湖に放り込んだ。
ざっぱん、と見事な水柱が立ち上り、すこししてからコドモの小さな頭が水面に浮いた。
なにするんだ、とでも言いたそうだったコドモに向いて自分はしゃがみ込み。立ち泳ぎしていたコドモに、ヒトコト、『呼ぶなつったろ』そう言い切っていた。
そうすれば、ショーンに懐いていた従弟は、にひゃーっと悪ガキらしく笑って、パティ、としっかり言い直していた。
自分に懐いてはいても、コドモ特有の意思の強さを持っていたあの子に、ショーンは口端を引き上げて言い返したものだ。
『出てきたら覚えてろよ、ヴァーニー』

そうした遣り取りは、夏休みに両親に連れられて、叔父と叔母の住んでいた屋敷に遊びに行く度に繰り返していた。母の妹である叔母が叔父と離婚して、疎遠になってしまうまで。
―――――もうあの場所に10年も戻っていないのか、と思い至り。ショーンは煙草を灰皿に押し込んだ。
コドモ特有の天真爛漫さと明るい笑顔を振りまいていたチビのヴァーニー、基従弟のヴァンは、今はどうしているのだろう、と。
あの森の中にある避暑地にいかなくなった夏が、大学進学の年だったから、すっかり戻ることなど考えもしなかったけれども。今頃になって、不意にヴァンのことが気になりだした。

今行ったところで、まだ彼らがそこに居る保証はなかったけれども。
「……決めた」
あの場所に、もう一度行ってみたいとショーンは思った。
あの避暑地で、のんびりと1週間ほど。仕事のことも、仕事での付き合いのことも忘れて、のんびりと新鮮な空気を吸って過ごすのも悪くはない。
やってくる案内板に視線を遣って、ミラーで確認してからレーンを変えた。
行く場所が決まり、することを決めたのなら―――――ひとまず、ショーンが迷うことは、何もなくなった。

目的地に一番近いハイウェイ・エグジットを降り。目に入った大型ショッピングセンタでクーラーボックス一杯に食べ物や飲み物などを買い込んで支度を調えた。
13歳から18歳になるまでの5年間、夏になる度に通った場所は、どうやら記憶に鮮明に刻まれているらしい。ちょっとした案内板に目を遣るだけで、自分がどの道を走るべきか、直ぐに解った。
町並みが消えて、辺りが木々だけになり。全開にした窓から入り込んでくる、ロスに比べればひんやりとした空気を思い切り吸い込めば、記憶の中にあるソレと変わらない風景が目の前に広がった。

バンガロゥを借りる前に、先ずは懐かしい場所を眺めたくて。車を停められる場所を探していたならば、ぽつん、と湖を見詰めて立っているヒトの姿が目に入った。
傾き始めた太陽を、その亜麻色に似たブロンドに溶け込ませた青年。
随分としんなりと背が伸びていたけれども、それがヴァンだということをショーンは疑いもせずに気付き。ブレーキを踏んだ。
車の中から呼びかけてみたけれども、何を思い悩んでいるのかヴァンは一向に振り向く気配が無く。ショーンは車を降りて、雑草の生え戻り始めた歩道を下っていった。

一歩一歩近付いていく度に、それが間違いなくヴァンだということを知る。
ふう、と煙が吐き出されていることにも気付いて、ショーンは小さく笑った。
そういえば、ショーンが今のヴァンの年には、自分も煙草を吸っていたけれども。“オトナ”が咎めるべきことのヒトツではあるから、掛けるべき言葉がすんなりと口をついて出た―――――クソガキ。
そして振り向いたヴァンは、随分とオトナっぽくなっていたけれども、ショーンが知っているヴァンに間違いがなく。
躊躇わずに腕の中に飛び込んできた“コドモ”が浮かべた笑顔にショーンも笑顔になって、腕の中の存在を思い切り抱き締めた。
「ヘイ、なんだよ、おっきなベイビィだな?」


*3*

ふわりと抱き締められ、一瞬ヴァンは眼を閉じるようにした。
記憶にある背丈に自分も追いついただろうと思っていたけれども、まだ従兄の方が背が高いようだった。
そしてもう一点に気付き、ぽそ、とヴァンが呟いた。
「ワークアウトマニア?」
細身だけれどもバランス良く出来上がった体躯に多少のからかいをこめて。
「そうでもない、」
とあっさりと返事が返ってくるのに、す、と視線を上げる。
「適当に暇があればジムに行ってるだけだ」
「ふぅん」
ひょい、とヴァンはそのままショーンの肩の後ろに視線を投げ、停められていたダークグリーンのレンジローヴァを見遣った。

「ヘイ、」
じいっとそのフロントウィンドウを見詰める。
「んーん?」
「誰も乗ってねェの……?」
ヴァンのブルーアイズが驚きに少しばかり見開かれる。
「なンで?」
「だって、一人でこんなとこに来んの?」
笑みを乗せたショーンの目をじっと見上げて言い募る。
「ヒトリで来るべきじゃなかったか?」
ドラマチックに驚いてみせる従兄に、くしゃりとヴァンが笑みを返した。
「だってさ、バンガロー、いっつもオンナノコイッパイいたじゃないか」
確か、ショーンの友人たちも何度か夏を此処ですごしたときは、酷く賑やかだったことを思い出してヴァンがひらひらと片手を揺らしてみせた。
「んー、実は」
「うん?」
く、とブルーアイズがショーンに合わせられ。
「急にここに来たくなって、着替えもなにも持たずに来た」
軽いウィンクと一緒に告げられた言葉にヴァンが瞬きした。

あ、でも途中でメシだけは買ってきたんだ、と言葉を続けていたショーンに、ヴァンは首を傾げ。
「あ、じゃあ。父さん、あんたの来ること知らないの?」
「思い立って、仕事場からここまで直行してきたんだって」
くしゃ、と髪を乱すようにショーンの手が頭を撫でてくるのに
「ガキ扱い無し、」
そう僅かに抗議しても、声は機嫌の良いままだった。
行き当たりばったりだよ、と続けられたショーンの言葉に、「そっか、」とにこりとヴァンがわらい。
それから勢いよく身体を離していた。
その勢いのままにショーンをおいて一気に、家に向かって走っていく。
そして。

「とーーさぁーーーん、パティが来たよーッ」
と大声で叫びながら、家への坂道を駆け上っていた。
「ヴァーニー、パティって言うなクソッタレ!!」
ぱ、とヴァンが振り向き。
笑いながら怒鳴るようだったショーンに向かって、中指を立ててみせまた一頻り大きな笑顔を作るとくるっと向き直りあとは家までスピードが一層上っていた。

走って家に近付いていくに連れて、以前の屋敷よりは随分とこ小じんまりとはしているけれども、それでも湖畔に建つ家の湖に面したテラスに建つ人影が木の間から見えてき、「とーさん!」とヴァンが声を大きくした。
静かに湖面を見詰めているようだった父親が声に気付き、視線を投げてくる様子にヴァンが手を振った。
車椅子ではなく、自分の足で立とうとしているその姿に、不意に泣きそうになったけれども。
「パットが来たんだ、覚えてる?」
テラスに通じる外階段を上りながらヴァンが言えば。
「パット……?オマエのガールフレンドにそういうコはいたか?」
僅かに記憶を探るように眉を寄せる父親にヴァンが首を左右に振った。
「違う、違う」
そろそろ追いついて来る頃かな、とヴァンが背後を振り向き。
「もう一人のパット……あぁ、パトリックか」
父親もさすがに驚いたようだった。
「そう、従兄のパティ!」
にひゃ、とチビの頃と変わらない顔で笑う息子に、ふ、と眼を細めてからテラスを歩き始め。
近付いてくる人影に向かって手を振っていた。

「パトリック!よく来たな!」
ファーストネームを呼ばないあたりが、多少は息子と重なるところはあるのかもしれなかったが。
ぺこりと頭を下げ、ご無沙汰してます、と笑いながらショーンが言っていた。
伯父にミドルネームで呼ばれることは夏に訪れていた頃から変わらなかったので。
「随分と、立派になったね」
「いきなりすみません」
テラスにやってきた甥が記憶にある姿よりずいぶんとオトナになっていることに感嘆していたけれども、甥の笑顔に笑みを深める。
「パティ、すっかりおっさんだよなあ!」
「クソガキは相変わらずだな、ヴァン」
ひょい、と脇から覗きそう言ってくる息子に「オトナには色々あるんだよ、」と口端を引き上げ、「なぁ、パトリック?」とわらいかけていた。




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