29. Jake
総てを差し出した。記憶も、感情も、なにもかもを、なんの制限も持たさずに。
そして流れ込んでくる総てを受け入れた。それは優しくジェイクの内に滑り込み、ゆっくりと染み渡り。ジェイクは、ほわ、と柔らかく甘い感情が優しく自分の内側の何かを抱き締めてくれるのが解った。
ふぅ、と。生まれて初めて息を吐けた気がした――――――そして重くなった四肢から自分が“解き放たれる”のが解った。
自分の心の奥深くに在った闇が、静かに自分の内側を満たすのも。
不思議と、そのことが怖くはなかった。いつも暴力的な力で持ってジェイクの持つ“殻”を突き破ろうとしていたソレは、今度だけは酷く静かにジェイクを満たしていった――――ジェイクを足元から染め上げるように。
する、となにかがジェイクから離れていった。
優しい真っ暗闇の只中に在ってさえ、それが“影”であることを知った――――――スカッドのイノチと為り、死にゆくヒトの子である自分。
それは足掻くことなく、ゆっくりと溶け出していった。ただ影である筈なのに、に、と奇妙に不敵な笑みを残して。
ぼんやりと、ジェイクはソレが消えていくのを見守った。
そしてソレが消え去った瞬間、自分が酷く“軽く”なっていることを感じた。
ヒトとして生きてきた間の記憶がなくなったわけではない、その間に考えていたことや、思い悩んでいたこと、怒り狂っていたことや、心を痛めていたこと、そういった総てがなくなったわけではない、けれど――――――不思議とそれらは遠のいていた。
真っ暗闇の中は安心した。
ジェイクはだからその中で、長く四肢を伸ばして寝転んだ。
ちか、と上の遠くのほうで、なにかが光輝いていた。そして遥か下のほうで、何かが暗く揺らめくのも。
それが本能的に何であるのかを知って、ジェイクは小さく笑った。
どちらもジェイクからは遠く、どちらもジェイクを呼んではいなかった。ただ柔らかく笑いさざめく様に、ジェイクをただ在るがままに許していた。
それらの意図をジェイクは読めなかったけれども、自分を包み込んでくれている柔らかな感情が酷く穏やかだったから、それに添わせるようにして意識を溶け込ませた。
柔らかくさざめく様な波はもう、ジェイクを煩わせたりはしなかった。
* * *
ぱしん、と何かが頭上で鳴った気がして、ジェイクは目を覚ました。
真っ暗闇の中近付いてくるソレは、殺気を放っていて酷く怒り狂っていた。
目を覚ますと同時に、無数の恨みがましい声も聞こえてきた――――――恨みがましい、ということは解るけれども、それが持つ暗闇の意味はジェイクには解りかねた。
目を瞬き、不意に自分が随分とひんやりとしたものを抱き込んでいることに気付いた。
それを見下ろせば、酷く穏やかな顔をして眠り込んでいるスカッドがいた。
頬を軽く指裏で撫でれば、ふにゃりと口許が僅かに笑みに蕩け――――――そしてジェイクは自分に何が起きたかを思い出した。
ヒカリが一筋もない、閉め切られた場所だった。それでもジェイクには、壁のほんの薄っすらとした境目であるとか、抱き込んだスカッドの睫のカールであるとか、少し凝らせばその生え際すら視得ることに気付いた。
総ての吸血鬼がその技能を持ちえているのか知りかねたけれども、自分は随分と便利なモノになったんだな、とジェイクは笑った。
さらさらとスカッドの、己のものよりひんやりとした頬に触れた。
“生前”の健康状態が今に影響しているのか、それとも自分が生まれ持っていたデーモン・ブラッドの為す技なのか、スカッドより体温の高い身体を自分が新たに持ったことを知る。
そしてその身体を巡る血が、“追っ手”の存在を嗅ぎつけ、高揚していることも。
「スカッド、起きろ。追っ手がくるぞ」
不思議と、この場所に近付いてくる敵の姿が見えているかのように解った。外が穏やかな闇に包まれた“夜”であることと、細い洞穴を通り抜ける風のような哭き声を上げているモノたちが、呪いを撒き散らしながらいつ訪れるやもしれない“死”を待ち侘びている“同胞”たちであることも。
――――――同胞。
その言葉が不思議と湧いて起こったことに、ジェイクは薄く笑った。
ヒトとデーモンのハーフであった自分が吸血鬼の仲間入りをしたということは、自分はいったい今度から何に分類されるのだろう、と思って。
『アタシたちはね、吸血鬼どもには見得ないのヨ、ジェイコブ』
いつだかデーモンのヒトリがジェイクに言った。
『アタシたちは連中を視るけどね、連中には見えないの。―――――ああ、何故かなんて訊かないで。解るワケないでしょ』
そして、軽いウィンクをしながら言葉を継いでいた。
『アナタがどちらに堕ちようとせよ、でもアナタにはずっとアタシたちが視得るわよ。だってアナタはデーモンハーフだもの、血を持つんだから同胞は視得るに決まっているでショ』
良かったわね、ジェイコブ。まだまだ沢山遊んであげられるワ。
そう言った悪魔が、その時は煩わしかった。けれど今は―――――ふつ、と湧き上がる血が悦んでいるのが解る。そうして、感情が昂るままに呟く。
飽きるまで遊んでやるぜ―――――どっちだろうとな。
悪魔だろうと、吸血鬼だろうと。ジェイクに視得るものであるならば、塵に返すだけだ。
ただし、それはもうヒトのために為すことではない。
ジェイクが何かをするのは、今はもうただヒトリだけのため――――――スカッドと二人、生きていく為だけ。
ぎゅ、と抱きついてきたスカッドが、酷く美味しそうだった。
ほわほわと柔らかで甘そうだった。だから、その喉元に牙を打ち込んで、その甘い“血”を啜ってみたかった――――――同時に自分の血を差し出しながら。
それがスカッドを“悦ばしながら”であったならば、どれだけ甘くなるのだろう、とジェイクはうっそりと笑う。
スカッドの身体を熱くしながら、火照った血潮を飲み込み、甘く柔らかな感情が押し寄せるに任せて心で浸る。きっとバカみたいに甘くって、酷く気持ちがいいに違いない。
寝起きの悪いスカッドの顔を覗きこみながら、つつい、とブルネットを引っ張った。
いまは周囲が喧しいから、ちょっと遠慮して。全部を黙らせたら、適当に心地よい場所に潜り込んで、たっぷりとスカッドを味わおう。そして同じだけ、スカッドに味わって貰おう。ヒトだった頃と違って、味は変わってしまっているかもしれないけれど―――――、
「そうか。連中を狩ってオレが熱くなってれば、それを飲んだオマエも熱くなれるもんな」
スカッドが自分に呉れた“味”を思い返した―――――あいしてる、という想いの味。
正直にいえば、その言葉の意味をジェイクは今もよく解ってはいなかったけれども。ジェイクを包み込んでしまいたい、と願ってくれていたのと同じだけ、ジェイクもスカッドの総てを包み込んで抱き締めてみたいから――――――だから、きっとジェイクの“血”が一番美味しい筈。
くう、と笑みが勝手に口端に上り、ジェイクはいつの間にか伸びていた長い犬歯を舌で辿った。
理論はよく解らなかったけれども、ジェイクが狩ったエモノの血を自分の内に取り込み、想いで味付けをすればいつだってスカッドは一番美味しい“ゴハン”に在りつけるということだ、と不意に納得する。
きっとスカッドもジェイクを“転化”させたことで疲れ、腹を空かせていることだろう。
段々と近付いてくる殺気にわくわくとしながら、ジェイクはスカッドの耳元に声を落とした。
「おーい、スカッド。腹減った」
ぱち、と間近でスカッドのブルゥアイズが開いた――――――新しい視力は、その蒼が様々な色で彩られているのを知った。複雑なピグメントで色付けされた硝子のような、スカッドの双眸。
それが、ジェイクが目覚めているのを知って、一気にふわりと蕩けていった。
「オハヨウ」
にこ、と笑顔を向けてみる―――――軽くなった魂の分だけ、気分も晴れ晴れとしていた。二度目の“生”が言祝がれていた分だけ、ジェイクの内が和らいだように。
「ジェイ…?」
甘い声が確かめるように訊いてくるのに、ジェイクは首を傾げる。
「イエス?」
「―――――――ジェイ、」
する、とスカッドの両腕が伸ばされて、ぎゅう、と遠慮なく抱き締めてくる。
「ヘイ、スカッド」
応えながら、両腕でスカッドを抱き締めた。抱き締めあうだけで、こんなにも気分がイイ―――――今なら鼻歌だって歌えそうだった。そんな場合ではなかったけれども。
「敵が来るから、また全部後でな」
血を飲みあうのも、身体を繋ぐのも―――――歓喜に浸って気持ちよくなるのも。
笑ってジェイクが言えば、スカッドが一瞬首を傾げていた。
「敵……?」
目を瞬いたスカッドに、ハンタァである自分のほうが“嗅覚”がまだ良いらしい、と気付いて、ジェイクはさらに気分が良くなった。敵を狩るのはジェイク独りで充分だった―――――スカッドが敵襲に気付く前にジェイクが狩りを終わらせて、スカッドと美味しく“ゴハン”を分かち合えばいいということだったから。
だからジェイクは自分が纏っていたリネンの裾を、ぴ、と指で軽く引っ張って笑った。
「な、オレ、トーガで戦うのか?」
「あ、」
スカッドが跳ね起き、ジェイクの腕を掴んだ。くう、とジェイクが笑みを刻む間に、スカッドは吸血鬼の移動能力を使って、身体を重ねるために縺れ込んだ部屋に移動する。
大きなアンティークの寝台の側に置かれていたジェイクの服を、スカッドが差し出してきた。
「これ、」
丁寧にスカッドに脱がされていた服を、ジェイクは笑いながら着込んでいく。
吸血鬼になってもデニムとシャツで過ごせることが、なんとなく可笑しかった。
最後に革のライダースジャケットを着込んでから、そのポケットの中に放り込んである銀弾をどうするか迷った。
足止めに使う程度でしか役に立たないモノだったから、いつしかジェイクはソレに祝福を貰う手間を省いていた。だから、ただの銀であれば、教会育ちのハーフデーモンだった自分であれば触れられるかもしれない、と思い至った。
一瞬息を止めてから、ポケットの中に手を突っ込んで、ひんやりとした銀弾に触れてみる。
焼ける音も、苦痛も何もなく、フツウに握れてしまうことに、ジェイクは首を傾げる。
スカッドが目を驚きに見開いてから、とすん、と背中に抱き着いてきた。
ジェイクは今度は足元に落ちていたナイフに手を伸ばした。聖ミカエルの聖句が刻み込まれていた部分は革製の鞘で包み込まれているにも関わらず、柄に触れただけで、ジュ、と音がし、スモークが湧き上がった。指先には火傷をした直後に感じるような、ぴりぴりとした感触が残った。
「……へえ?」
ただのハーフデーモンであったときにはなんの威力を持たなかったソレが、今の自分には随分と効力を発揮することがなんだか面白かった。
ジェイクの背中で、びく、と飛び跳ねていたスカッドは、
「へえ、じゃねえ!」
そう言って、ぱしぱしと火花を散らすようにして怒った。
「こっちは平気なのにな?」
ジェイクは掌の上で銀弾を二つ転がしてみせれば、スカッドがナイフを指さして言った。
「元が違う、それ」
酷く嫌そうな顔をしているのに、ジェイクはまた喉奥で笑った。
ジェイクもソレが持つ奇妙な力に気付いた―――――眩い青白い焔を纏っているのが視得る。
師であったヒトが、ジェイクがそれを無造作に振り回すのを面白そうに見詰めていたことを鮮明に思い出した――――――特には不思議がっていなかったところが、あのヒトの喰えない所だ、と今になって思う。
スカッドが首から下げていたチャームを取り外せないのは残念だったけれども、ナイフにも師にも世話になっていただけに、師の元に送り返そうと思い至る。随分とジェイクの手に馴染んでいたから、ただここに捨て置くのは嫌だった。
自分が脱ぎ落としたリネンでそれを拾い上げて、ぐるぐると布で巻いた。そのままベッドに投げておく。
「あとで郵送すればいいか」
そして、昔から愛用していたただのリヴォルヴァを拾い上げて、ウエストに差し込んだ。
けれど先ずは素手でどこまでいけるか、試すつもりだった。十字架のカタチにした杭は、さすがに拾う気になれなかったけれど、ただの銀であれば触れられることが解ったから、それで出来た装飾用の刀でもあれば、それで充分に役立つ筈だった―――――この古さの屋敷であれば、どこかに装飾品であったものが無造作に積み上げられて残っている可能性があった。
すっかり好戦的な気分でいるジェイクを、スカッドが苦笑しているような声で呼んだ。
「ジェイ、」
「うん?」
「あんた、エルダーを殺りまくりだ、恨まれてもしょうがねえじゃん、もー」
ぷ、と口を膨らました後に、じ、とジェイクの双眸を覗き込んでスカッドが言った。
「しょうがねえなあ、そんなにオレ見つけたかったんかよ」
ジェイクの想いを総て知った上でそう言ってくるスカッドの顔を、ジェイクは、すい、と覗き込んだ。
「オマエを傷つけたんだ、それ相応の支払いはさせるさ」
今ならイシュトバーンがスカッドをどう視ていたのかが解る。“寵愛されし者”という名の意味も―――――今更特にそれに怒り狂う程、ジェイクは最早感情的ではなかったけれども、きちんと宣言する必要がある。
「オマエを傷付けるモノを、オレは許さない」
す、とスカッドの腰を引き寄せ、瞬いていた大事なヒトの肩に、こて、と頭を預けた。
それが神であろうと、悪魔の御大であろうと、化石同然の吸血鬼であろうと―――――スカッドを傷付けるモノを、ジェイクは許すつもりがなかった。傷つけてきたモノを、そのまま許す気も。
ジェイ、と柔らかな声で呼んできたスカッドを、肩に頬を預けたまま見上げた。
「だいすきだよ、」
そう呟いたスカッドが、ふにゃ、と甘えた風に微笑んだ。
その言葉の意味を“味”として覚えたジェイクは、ぱちりと瞬いてから、くう、と笑った。
「オマエとシたのが、一番気持ちよかった」
だから、と言葉を継ぐ。
「さっさと終わらせてから、またシような、スカッド」
にか、と笑ったジェイクの既に同胞を餌にする気満々の意識を読んで、あーあ、とスカッドが笑って言った。
「休戦…は無理だな」
スカッドと自分さえ幸せであればこの世の有様がどうだっていい、とまで思い切っている“吸血鬼”ジェイクは、スカッドに意識を読まれても気にすることなく、はむ、と柔らかくその唇を啄ばんでから、にかりと笑った。
「死んでからのほうが生きてるのが楽しいってのもヘンだけどな、不思議と気分がすげェイイ」
負ける気しねぇし、と呟いてから、それまでほぼスカッドだけに向けていた意識を、殺気を巻き散らかしているモノに向けた。
く、と双眸が赤く染まり、体中に力が漲っていくのが解る―――――デーモンの力が。
じっとその様子を見詰めていたスカッドに、にかりともう一度笑いかけて、ジェイクが言った。
「スカッド、イッテキマス」
ぱち、と瞬いたスカッドに、ドアを開けながら、ジェイクがひらりと手を振って言葉を継いだ。
「あの日食い損ねたディナーなんかよりよっぽど美味いの、あとで食わせてやるから、楽しみにまっててナ」
後にしてきた部屋でスカッドが堪えきれずに笑い出す気配を心地よく感じながら、ジェイクはゆっくりと敵に向かって駆け出していった。
――――――スカッドと“生きること”を生まれて初めて楽しみながら。
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