*1*
ジェイクが生まれなおしてから3度目の冬がやってきた。南半球に下ることも出来たけれども、“出自”のせいか、欧州から長く離れることはなく。今年もカレンダー通りの季節を、欧州で過ごすことになっていた―――――雪の積もるハンガリー。
最も、ジェイクがカレンダーを気にすることはなかった。時間も、季節も、国も、文化も。なにもかも、ジェイクにとっては気にすることではなかった。
総てのものは尊く、遠く。
ただ一つ、ジェイクが気にすることは、スカッドのことだった。
スカッドが幸せであること。スカッドが満ち足りていること。スカッドが笑顔でいること。スカッドが温かくあること。
ジェイクがハントに出かけている時以外は、ずっと側に在る。
眠っている時は腕に抱き留め、起きている時は視界のどこかに存在が捕らえられるよう努めて側に居る。
実際に触れ合っている時間は、きっと過去の生の時に他の誰かと触れ合っていた時間の何十倍にもなっているだろう。
側に居るだけで嬉しい。
笑いかけてくれるだけで幸せになる。
声が耳に退けば、ふわりと感情が浮くし。触れてくれれば、それだけでとろりと意識が甘くなるかと思う。
身体を繋ぎ、血を交換する時は、魂が熱せられるかと思う。
たった一人を中心に自分の世界が回っていても、ジェイクは幸せだった。応えのこない至高の存在を中心に生きていた頃より、断然。
“全知全能”の意に沿って、狩りの対象を決めてはいたけれども、ジェイクにとってはそれさえもスカッドのためだった。
温かなゴハンを得るため。スカッドの腹を満たすため。
スカッドが目覚める直前の、世界がしんと静まる一瞬にジェイクは狩りに出て行き。スカッドが眠りから目覚める頃に、隠れ家に戻ってぱちりと瞼が開く瞬間を待つのがジェイクの日課だった。
晴れでも、雨でも、雪でも、嵐でも、そのルティーンは変わらない。
ジェイクは新しい血を得るために毎日狩りに出て行き。戻っては、毎日きちんとスカッドに食事を摂って貰っていた。
そうできることが、なにより嬉しくて―――――毎日欠かさずそれができる自分で在ることが、幸せだった。
そしてゴハンが終われば、二人で一緒に“散歩”に行くのも、ほぼ毎日の習慣となっていた。
相当な田舎にでも出向かない限り、闇が満ちることのない世界を、スカッドと一歩一歩踏み締めて歩くこともまた幸せなことだった。
他の“ヒト”のようにアスファルトの路地を並んで歩くことも。
同類以外は到達できない屋根の上を、手を繋いで歩くことも。
細い肩を抱き寄せて、公園の木々の中で一休みすることも。
時折、新しい服や靴を求めて、ヒトのようにショップで買い物をすることも。
人込みの中で立ち止まり、今在る世界を享受してみようとすることも。
人通りの絶えた中で立ち止まり、闇に蠢くモノドモの存在を炙り出すことも。
なにもかもが幸せで、煌きに満ち溢れている。
そしてなによりも嬉しいことといえば、スカッドも同じだけ幸せでいてくれている、ということ。
目を覗き込む時、抱き寄せた身体を貫いている時、血を分け与えながら奪っている時、側に在ってその体重を受け止めている時、スカッドの感情がいつも流れ込んでくる。
ジェイクの感情も明け渡されて、スカッドに届いていることを知っている、そしてそのことでまたスカッドが幸せになってくれていることも解っている。
側に居て、同じくらい幸福に浸ってくれていることを感じる。
心の底がくすぐったいくらいに、気分が良いまま毎日が過ぎていく。
そして、それはどこで在ろうと、何時であろうと、変わらないことだった。
しとん、しとん、と雪がアスファルトに積もっていく音が何万もの単位で耳を擽る。それを踏み締めるスカッドの足が立てる音と、自分のブーツの足音で踏み固められる雪の音も。
少しはなれた道路を走る車や、店のラジオから流れる音、笑いさざめく人の声、そんなものまで聞こえてくる。
けれども、ジェイクは少し前を歩くスカッドの肩に積もる雪を飽きずに見詰めていた。
ほとんど隣に並んで歩いているけれども、道幅のせいで少し前を歩くスカッドが零す吐息が、吸血鬼ではあっても氷点下には届かず、白く染まっているのも見える。雪が絡んだ髪が跳ねるのも。
ヒトで在った頃は、ずっと誰かの前を歩いていた気がする。
だから、厚手のウールのコートに包まれた細い肩に雪が落ちて重なっていくのを見詰めるのが、こんなにも楽しいことだなんてヒトに在らざるモノになるまでは知らなかった。
くぅ、とジェイクは口端を僅かに引き上げ、手を伸ばしてスカッドの冷たい髪に触れてみた。
す、と上げられた視線に、ぱち、と目を瞬いて。する、とスカッドの髪から雪を落とした。
「キレイだね」
くしゃ、と目元が勝手に緩められる。
笑顔っていうものは、好き勝手に浮かんでいくものだと知ったのは、スカッドと共に在る様になってからだった。
くすぐったい気持ちのまま、手を伸ばしてさらさらとスカッドの髪を梳く。
すい、と古びた街の様子を見遣って、口許をにっこりとさせたスカッドがこく、と頷くのを見詰めて、またふわりと気分が軽くなる。
くすくすと笑って、とん、と濡れて重たい髪に口付けた。
「スカッドがだよ?」
「――――――へ?」
声が驚きにひっくり返ったスカッドの顔を覗き込んで、目を細めた。
「ウン、きれいきれい」
ちょん、と額に素早くキスをして、それから街並みを見遣った。
「街並みは、うん、まあキレイかな?」
「なんだ、それ」
柔らかい声で言ったスカッドに視線を戻し。そのブルゥアイズが街並みを見遣っているのに目を細めながら、肩を竦めた。
「街並みとスカッドのどっちを見ているほうが好きかっていうと、絶対スカッドだし。風景は、特に思い入れはないからさ」
すい、とスカッドの肩の上の雪を払って、きゅう、と目を細めた。
「寒くない?」
する、と細い手指が伸ばされて、目元を隠された。そのまま、ちゅ、と唇に口付けられて、くう、とそれが勝手に引き上がっていく。
直ぐに離れた体温を惜しむことが楽しくて、またくすくすと笑った。
「冷える前に言ってな、スカッド」
ぺろ、と唇を舐める。
「温かいの、まだ残ってるし」
ふわ、と微笑んだスカッドが可愛くて、歩き出したその後ろにすぐ着いていく。
人通りのほとんどない道は、奇妙に安心感があった。
近頃はエルダーもちょっかいを出してこないから、身の回りは静かなものだった。
闇に混じる人外の存在で、気になるものはなにもなく。ただ人の営みがどこか少し離れたところで続いているのが感じ取れるばかりだった。
する、とスカッドの手が伸ばされてきて。直ぐに気付いてそれに指を絡ませる。
きゅ、と指先を握りこんで、スカッドの隣に並び。コツ、と頭をスカッドのそれに合わせれば、きゅ、と握り返されて“天にも昇る”気分になる。
「ジェイ、」
甘い柔らかな声で呼ばれて、こくん、と首を傾げて返す。
する、歩き出したスカッドの気配が、自分のそれと同じほどに柔らかい感情に満たされていることを感じ取って、ジェイクはくしゃりと目元を緩ませて笑った。
どこに居ても。それがどんな状況であっても。
スカッドが側に居て、スカッドが幸せで微笑んでくれているだけで。ジェイクの人生はどこまでも幸福だった。
すたん、すたん、と静かに雪を踏み締めていたスカッドの足音が止まり。ジェイクもまた足の歩みを止めた。
じ、と前方に耳を傾けているようなスカッドの視線の先を見遣り、ジェイクはぱち、と目を瞬いた。
「―――――スカッド?」
*2*
繋いだ先の手の温かさに、もう僅か、指先に力をゆっくりと入れて軽く引いてみる。ジェイクの微笑む気配が背後から届いて、スカッドが口許に薄く笑みを浮かべていた。
その温かさに比べれば、どれほど自分の手肌が冷たく思えるか、考えたことがあった。なぜなら、口付けるたび、抱き合うたび焼け落ちそうだと思ったから。
例えば、頬をそうっと撫でていったり、手を包む込むようにされたりであるとか。いつだってジェイクの動きには迷いがなかったから、いまでは忘れてしまいそうになっていた。ジェイクにとって、どれほど「普段」の自分が「寒そう」に思えてしまうか、など。
エルダーの子供であるスカッドにとっては、寒さなど感じもしないのだけれど、一面の雪に覆われてた街に着いたとたんにジェイクにコートを着せ掛けられた。襟と袖口に毛足の長いファーがふんだんにあしらわれ、ソレがふわふわと柔らかかった。
うわ、と笑ったなら、最後の仕上げ、とばかりにまたファーのふわふわとした帽子を被せられ。
『全身がもはもはだよ、これ』
そう言って、袖口でジェイクのハナサキを擽ってわらった。
そうしたなら、まるでクシャミをガマンしている大型犬じみた表情を一瞬浮かべて、それが頭がどうにかなるかと思うほどとてもあたりまえにニンゲンらしい表情で、息が詰まるかと思った。幸福で。
一瞬の刺激をすぐにやり過ごしたジェイクが、首元に顔を寄せて啄ばむようにするのに、今度は自分がくすぐったくなって背中に腕を思い切りまわしていた。
日の暮れた古い通りをそれからゆっくりと歩いて、低い空の稜線に紫めいた薄色が浮かびあがるころに、しっかりとカーテンを閉ざした部屋に帰って『眠った』。
覚醒するよう意識していれば眠る必要もないのだけれども、全ての感覚が鈍く、遠くなっていくなかでジェイクの存在だけを感じ続けて、意識を思い切りその存在に向けて引き伸ばして、ぱつりと千切れるように視界がなくなっていく瞬間は、スカッドのささやかな愉しみのひとつだった。
ジェイクに再会することを望んで、それでも逃げ続けていた間は、眠りに落ちる瞬間はいつもどこか底冷えするような不安があった。
ほんの数年前のことであるのに、いまは眠りに落ちることさえ『タノシイ』。
抱き寄せられて、意識が落ちたあとは。いっそう身体は冷たくなるのだろうに、ジェイクが腕を緩める気配はなくて。
眠ってしまったら、抱いていてくれなくても別にいいのに、と。ジェイクがターンオーバーしてすぐのころに言ったことがあった。『だって、冷たいだろ…?』と。
『ずっと抱きしめていれば、温かいままだろ?それに、スカッドが腕の中にいると嬉しいし』
そう、柔らかな口調で、目元に笑みを刷いて言われて。
あぁ、どうしよう、無性にキスがしたいかもしれない、と小さく葛藤していたなら、せっかく側にいるのに触れてないなんて寂しいよ?と顔を覗き込んで言われてしまって、我慢できなくなっていた。
スカッドにとって、もう月日を数えることは意味が無くなっていたけれども、季節は子供の頃に見た飾りランプめいて、『絵』をくるくると変えながら回っているように思えた。
東欧にいても、偶に、ほんの僅か指先を針で突いた程度に意識が竦む程度で。ジェイクと離れていた間に何年か過ごした国を通り過ぎるときも、悪意も、そのほかの敵意もさほど感じ取らなかった。
最初のころほど、エルダーたちも異端のこどもたちを始末しようと躍起になることは無くなっていたようだった。
雪を踏みしめながら、黒々とした幹や枝ばかりの目立つ立ち木が白く浮き上がるようなのを見遣る。
冷気が空からそのまままっすぐに地面に向けて落ちてくるように、質量のあるような寒さにスカッドがまた視線を今度は上向けた。
雪が降るのが見える。結晶の形ひとつひとつさえ。
そして、足下でその結晶が崩れていくのも感じ取れた。
不意に、石造りの建物の存在に気づいた。
広場の中央に、中世の趣のままにそびえ、窓からは蝋燭の灯りが雪に映えていた。
夜中なのに、とスカッドが思い。それから小さく微笑んだ。
自分たちにとっては意味をなくした日付であることに気付いたからだった。
真夜中に、教会でミサが行われていることも納得がいった。
聖誕祭の日だった。
意識に、流れ込んでくるいくつもの想いがある。
歓びに溢れ、金箔が塗されたように眩い。
ソレが、石作りの建物から流れ出てくるのが『見えた』気がし。スカッドが足を止めてその様に見惚れた。
暗がりに、必要最低限に灯りに照らし出されて。その尖塔から空の高みに、飾り窓から歌が、空へと還っていくさまは美しいものだった。
「ジェイ、」
そうっと呼びかけていた。
「ごめん、少しここにいたい」
天上の存在に用事は無いけれども。
「うん?――――いいよ」
きゅ、と熱く思えるほどの、温かいジェイクの手を握り締めた。
そうしたなら、ふわりとジェイクが柔らかく微笑んだ気配が届いて。次いで、背中越しに片腕で抱き寄せられた。
そのまま身体をゆったりとジェイクの胸に預ける。
でも冷えちゃうね?と笑みを潜ませたジェイクの声に、くすんと僅かに笑い。意識を拡散させる。
祈りの言葉は響かなかったけれども、歓びの歌をニンゲンたちが歌っているのが聞こえた。
「だからさ、寒くないんだってば」
そう答えて、後ろ頭で懐くようにする。
「ジェイからもらったの、着てるんだから」
それ以上に、温かく包まれて凍えることなどありえなかった。
3*
柔らかな音色が耳に届いて、抱き寄せていたスカッドが立てる僅かな音から、その音が響いてくる方へと意識を向けた。
雪の積もった古い教会からは、明るいオレンジ色の光りがステンドグラス越しに僅かに洩れ出ていて。それと同じくらいの色合いの“ウタ”がそこから響いていた。
ああ、とジェイクは思い出した。今日は、クリスマスだったか、と。
預けられているスカッドの身体をもう僅か引き寄せ、背中を黒く塗られたフェンスに凭せ掛けた。絡ませたままの指をきゅっと握り、そのままスカッドの腰に回す。
静かに道路を挟んだ向こう側の教会へと意識を飛ばしているスカッドの肩に顎を預けて、ジェイクは目を閉じた。
ヒトだった頃には、随分と神も、その反対の御大も恨んだものだったけれども。いまのジェイクは、それらの感情からは遠のいていた。
いっそそのどちらにも感謝しているといえるかもしれない―――――いま自分のあるこの現状は、ジェイクが望んできたものの中で最高の結果だったから。
敢えて感謝はしないし、もうどちらのために動こうという気はなかったけれども―――――。
すい、と頬を寄せてきたスカッドのそれにすりすりと頬を押し当てた。
「一年に1回くらいはいいかもしれないな」
ぽつ、と呟けば、なにが、とスカッドのブルゥアイズが訊いてきた。
く、と顎で教会の方向をしゃくってみせる。
「感謝しても、いいかもしれない」
呟いて、ふにゃりと笑った。
「こうして今在ることに」
きゅう、と指を強く握り締められた。ジェイ、と小さく呼ばれて、ふかふかの襟元に鼻先を突っ込んで首筋を探る。
そのままぐりぐりと鼻で柔らかな毛皮を掻き分けて、奥へと到達しようと狙う。
「く、すぐった…ってば、」
喉奥で小さく笑うスカッドに知らず口端を吊り上げ。遠くの教会のどこか厳かな音は遠のいて、甘いスカッドの声だけを捕らえる。
「…ぁ、なんか…鼻がムズムズする、」
きゅう、とわざと顔を顰めて、更にもそもそと首筋まで毛皮を掻き分ける。そして、漸く到達したひんやりとした肌に、ぐりぐりと鼻先を擦りつけた。
くすくすと笑うスカッドの甘い声に、とろん、と意識が甘くなるかと思う。
静かに遠くの賛美歌へと意識を伸ばし、昔懐かしいラテン語でミサが始まるのに笑う。
「…教会、行ってみたい…?」
「ここでも聞こえるから」
「ん」
ちゅ、と柔らかな首筋に口付けて、くすくすと笑う。
「あそこの中じゃこんなことできないから、スカッドがいいなら問題ない」
くすぐったそうに首を竦めているスカッドの指をきゅうっと握る。
そのまま目を閉じて、ミサの音を聞き取っているスカッドの邪魔をしないように、意識を唇で触れているスカッドの肌に集中させた。
しんしんと降り続ける雪が、はさはさと小さな音を立てて積もっていく音が耳に優しい。
抱き寄せたままだったスカッドの身体が僅かに動いて、ジェイクは意識を浮上させた。
スカッドの側に居るだけで幸せだから、くっついてじっとしているということに飽きることがない。気付けば何時間も経っていることだってよくあることだった。
敵の襲来がなければ(それは最近減ってきていた)、そして代謝のいいジェイクが空腹を覚えなければ、実際に何日も銅像のようにくっ付いたままじっとしていられると思う。
いまはミサの進行具合からいって、経っていてもほんの十分か二十分ぐらいなものだろうとは思うけれども。
ちら、と意識を投げやって、ミサが終わりに近づきつつあるのを聞き取る。
実際にジェイクがその儀式に参加したことはなかったけれども、何年も耳にしてきたものではあったからその工程ぐらいだったら、ミサそのものが行われている国に関わらずジェイクには判断できた。
「スカッド、ヒトがもう二十分くらいしたら出てくるよ?」
ちゅ、と首筋に口付けて言えば、こく、とスカッドが頷いて、体重を預けてきた。
「じっとここにいて、見せ付けてみる?」
「まだいる」
「ん」
目を瞑って音にまた集中しだしたスカッドに笑って、ジェイクもまた目を閉じた。
心音がないにも関わらず、その音が重なってでもいそうな具合に柔らかく口端を吊り上げ、すり、と一度だけスカッドの肌に鼻先をこすりつけて懐いた。
*4*
聖体拝領後の祈りが聞こえてきて、そろそろ閉祭の儀が始まる頃だった。
夜中を過ぎて、ますます空気が冴えてくるのが伝わる。
何百年と同じように時が過ぎていくなかに、小さな街が埋まっているようだった。教会の正門の脇には、古めかしいヴェンダーが出ていた。
街に幾つもみかけるホットワインの露店と、小さな手作りのクランツ、そしてこれは子供向けに飴細工とサンザシの飴のようで。
少し惹かれた。雪明りのせいか、ぼんやりと青白い光のなかで、その一角だけがキラキラと透明な明かりを弾いているようで。サンザシの実の鮮やかな赤が特に眩かった。
ミサが終わって中から人が流れ出てくる前に覗いて来ようかと思う。
ふぃ、と身体を浮かせてジェイの手を軽く引き寄せるようにしたスカッドは、そのまま車も見当たらない通りを横切っていった。
しばらくの間、積もっていた雪が足下で軽く沈み。
視線だけでジェイクを振り返れば、柔らかい笑みを乗せたままのジェイクの目元が僅かに細められた。
寒さに厚着をした店主が近付いてくる自分たちに向かって軽く頷いてくるのにスカッドがもうほんの僅か足を早め。
やんわりとした灯りを落とすランプが幾つも屋根の部分に掛けられており、近付いてみても灯りを受けて飴にコートされたサンザシの赤が宝石めいて煌いていた。
ほかにはウサギや羽の生えた馬や天使、猫や鳥、クリスマスツリーや星に混ざって、金色であったり柔らかな色味の飴細工が取り取りにラックに掛けられており。
ソレを覗きこんでスカッドがにこりとわらった。
サンザシの実が7つ、スティックに刺さっているモノを一つと。それから、一つだけあった金色の王冠を細工のなかに見つけて、それを指差した。
「あと、……あれも」
「いらっしゃい、寒いね」
店主がゆったりと立ち上がり、伸び上がってイチバン上のラックから目当てのものを引き出して渡してくるのに頷いて、ポケットを探る。
「480フォリントだよ、お客さん」
「ん、ありがと」
つい、と引き当てたコインを取り出してみれば、100フォリントが3枚で。
「あ、ジェーイ。あともう200ホシイ、」
すぐ隣にやってきていたジェイクを見上げる。
「いくらでも。それだけでいい?」
うん、と頷いて、まずは手に持った硬貨を店主にわたし、ジェイクが残りを支払っていくのをサンザシ飴の棒をくるりと回して待つ。
「良いクリスマスを」
そう店主に告げて、スカッドが去り際にもう一度古い建物を側で見上げた。
「おじさん、この教会はいつから建ってるの、」
「14世紀の終りだな」
「ふぅん、」
「お客さん方、さっきからずっと教会を見てたろう」
あぁ、暗いところにいたのにな、とスカッドがちらりと思い、ジェイクを見遣って微笑んだ。
「この寒いのにな、遠慮しないで中に入ればいいのに、この街の者ではなくても」
そうぼそりと言って、店主が売り物のホットワインをカップに注いでいき。立ち上る湯気が見えた。
「ほら、これを。寒いからもっていきなさい」
「――――――ありがとう」
それを受け取り。立ち上る湯気を、カップを口許にもっていき吹きやるようにした。
「いただいていきます、じゃあ」
手にした温もりが指先を温めていくのを感じ。静かに立っていたジェイクを見遣ってスカッドがまたふわりとわらった。
「もらっちゃったよ」
トン、とジェイクの方に歩き出す。
「よかったな」
「でもさ、」
「ん?」
すい、とカップをジェイクの方に僅かに差し出した。既に、温度を失っていたそれ。
「もう、オシマイ」
映画や迷信と違って、花を触ったからといってそれがたちどころに枯れることは無いけれど。
ヴェンダーから離れ、もう見えないところで、誰も踏んでいない雪の上にカップの中身を注ぎ落とした。
「主の御血」
ちり、と舌先が僅かに痺れる。
ちぇ、と小さく呟き。ジェーイ、と拗ねたようにスカッドが呼んだ。
くう、と笑みを乗せたジェイクが見詰めてくるのを、ほんの瞬きほどの間見詰めたなら、すぐにカップを落とした手をジェイクが握っていたことに、スカッドが唇をほんの少し引き結んだ。
「”上”に、怒られたよ。舌火傷した」
はい、これ。プレゼントな、と王冠の飴細工を渡す。
静かに唇が重ねられるのに、身体の緊張を解き。くたりと寄りかかる。
舌先が触れ合わされて、痺れが遠ざかる。
片腕で、背中に縋り。冷えることの無い熱を感じ取る。
「ジェイがおれをあっためてくれるもんな―――」
だから他はいいや、と呟き。飴で覆われたサンザシが背中に当たらないように注意しながら、ガマンできずに両腕を背中に回していた。
ヌバックのしっとりとした肌触りが頬に気持ち良い、と思いながらしばらく動かずにいる。
「上のヒトが見えないところでもずっとスカッドだけを愛してるよ」
そう、耳元に声が落とされ。スカッドが唇を噛んで喘ぎめいた吐息を押し殺した。
うん、と呟き。ゆっくりと身体を浮かせる。
降り続ける雪のなかで、動くものは自分たちのほかに誰もいなかった。
サンザシの実を齧ることはできないけれど、それを覆う飴を一欠けら、舌先に乗せる。
かつ、と飴の砕ける微かな音がし。記憶にまだ残る甘みがゆったりと拡がっていく。
ジェイクは低く笑いながら、スカッドの肩口に積もった雪を払い落としていた。
「ジェイ、」
するりと腕を伸ばして、片腕に巻きつける。
「はやく戻って、あっためろ」
抱き締められ、あぁこのまま溶けそうだと不意に思い当たる。
「おれはジェイをずっと愛してるから」
下の誰より、上の連中より。地上の誰より。
「歩いていく?」
「くっついてるの好きだから」
肩口に額を押し当て、ぎゅう、と腕にもっと力を込めた。
「けど、雪はもっとすきなんだ」
スカッド、と耳元で囁かれ。くすんと小さく笑う。
「後で全部蕩けるくらい、温めてやる」
うん、と囁き返し。
閉祭の聖歌が遠く耳に届いてくる。
いつだって、オレだけがスカッドを温めるのがいい、そうジェイクが呟くのが聞こえ。
抱き締める腕に力を一層込めた。
「ジェイ」
「甘い?」
頬を摺り寄せるようにしていればそう訊かれ、スカッドが首を傾げた。
唇が重なり、咽喉奥で笑う。
「ハズレ」
唇を啄ばみ返して、そう答える。
「これは、砂糖の味」
これ以上は無理だというくらいに、距離を無くしてみる。肩から腕の間を。
「スカァッド、」
「その呼ばれ方、すげぇ好き」
「いますぐ帰って確かめさせて?」
「けど、歩いて帰るよ?」
伸び上がって、ジェイクの頬に触れた。
「えー」
ほんの僅か唇を尖らせたジェイクに向かって、スカッドが微笑んだ。
「だってその方がもっと溶かせてもらえるし?」
雪の中転がっていこうかなぁ、おれ。そう続けてくすくすと笑った。
「せっかくクリスマスだし、ソリ遊びもどき」
サンザシの実を一つ、口に含んで。飴を溶かしながらそのまま歩き始める。
ころ、と口の中を転がしたときに、頬を軽く指先で押され。ヘィ、とわざと抗議する。
次いで、自由だった手を捕まえられて。身体が僅かに後方に引き戻されるのに一層わらった。
そうしたなら、手を握ったままジェイクのポケットに引き入れられ。スカッドがジェイクを見上げた。
「すげー、好き」
そう言って、きゅ、と目を細め。こつり、とジェイクが額を押し合わせるようにしてくるのに、そのまま目を伏せ。
「メリークリスマス」
そう、静かなジェイクの声が聞こえた。
祝福の為すところに天は在り、遠くで司祭の声が聞こえた。何百年も同じように、教会の扉が開かれ。灯りの中から人々が出てきていた。幾年も繰り返し為されてきたきたこと。気配を感じる。
そう初めて言葉を登らせた唇を、そうっと唇で触れて。
「ジェイが、おれの王さまだよ」
そう、スカッドが微笑んだ。
FIN*
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