17.
背後で燃え上がる中層のアパートメントから、地響きがする。
また内部で壁が崩壊したのだろうと、建物の入り口から走り出てきた男は見ずとも知る。足元の水を跳ね散らし、
耐火服の裾を翻しながら走り、煙を吸い込みすぎた肺が悲鳴を上げかけるのを無視した。
その目はただ一人を探し、自分に駆け寄ってきた救護班を押し遣った。
「チーフ……ッ、」
そして無線を手にしたスモーカーの姿を消防車の横に見つけ、足早に近づく。
「6階まで人命検索終了、4階の他は死亡者無しです」
「わかった、内部の様子は」
「これ以上の捜索はムリだ、階段がもう殆ど焼け落ちてる。他の連中にも撤収を」
頷き、スモーカーが無線に手を掛ける。
建物内部の隊員たちに撤収を呼びかけようとしたそのとき、無線からコーザの声が響いてきた。
『こちら74−1。7階、人命検索終了。死亡者2名発見』


背後にしてきた階段が崩落し、廊下は炎と煙に包まれた。足元の床が軋み、波打つ。
火脹れを起こした壁紙が張ち切れそうに膨らみ、いまにも弾けそうだった。明らかに有害な色をした煙が別の角から
は燻る。焼け落ち、崩落してくる廊下の照明器具を避け、ゾロがパートナーに向かい軽く腕を振った、708号室の前。
この階で検索から残された唯一の部屋だった。コーザの目が合わされたのを確かめ、走り込む。

「74−1。708号室侵入、これより人命検索を開始する」
位置と状況報告を無線に告げるゾロの声を一瞬遅れて室内に走り込んだコーザは聞く。
ぱあん、と何処かからガラス窓が吹き飛んだ音が耳に届く。パートナーの後ろ姿が室内の一番奥へ向かうのを
コーザが視界の隅で確かめ、自分は開け放たれていた手前のドアへ向かった。
また、地鳴りめいてアパートメント全体が揺れる。新しい空気を与えられて炎が舞い上がるが、それがこの階の
部屋でないことを一瞬で知り。

そして、煙のなかに見つけた。

部屋の隅で蹲る大小二つの影。ぐにゃりと崩れ折れ、目と口を大きく開き。
この情景を自分は決して、見慣れることは無いのだろうと一瞬思う。焼死体、それが幼いモノであれば尚のこと。
倒れて動かない肉を足元から舐めようとする炎から、その小さな塊りを引き離す。それでも両足の半ばほどまで肉を
焼かれていた。そしてもう一体も引き離そうとし、かくりと小さな顔が上向いた。子どもの目と自分のソレとが合う。

大きく、恐怖に見開かれた目。奈落へと開くような、酸素を求めて円く開かれた口。
命を絶たれることの不条理を問われるかと思う、そして自分はその答など何処にも持ち合わせてはいないのだ、と。
どうして、と死んだ子供が問う―――

「コーザ…っ、」

声が耳に届く。
部屋の入り口から。
「奥には何もなかった、そっちは―――」
声に我に帰り、コーザが近づいてこようとするゾロを制した。
自分以上に、パートナーが時として過剰に特定の焼死者に反応することがあることを知っていたから。
逡巡ではない、躊躇とも違う。ただ、瞬きほどの刹那ゾロは炎を睨みつけ、自分は決まってまるで死神と話す男を
目撃したような心持になる。

来るな、と手で再び制す。
―――この子どもたちは、黒髪をしている。
「駄目だ、死亡してる」
短く返しながら、コーザは無線のマイクを取った。スモーカーへ報告を入れるために。
「チーフ、こちら74−1、人命検索終了。死亡者2名発見」


コーザからの報告にスモーカーが微かに目を細める。マイクに向かい全員の撤収を呼びかけようとしたそのとき、
突如女の細い悲鳴が聞こえた。先ほどから傍らに立っていた隊員の腕に縋りつくようにしてスモーカーの方へ腕を
差し伸ばしてくる。
「子どもがいないんです、お願い助けてッ」
スモーカーが女を振り向き。
「どこにっ?」
ルッチが女を腕に抱ようにし、その顔をまっすぐ見下ろして短く言っていた。
「仕事から戻ったら、家が、私の―――」
「何号室ですか!」
腕に崩れ落ちるように女が、708号室ですと引き攣れるような声を絞り出していた。
ルッチがスモーカーを一瞬見遣り、そしてチーフの首が横に一度だけ振られるのを見た。

コーザがマイクに向かって報告をし、その同じ無線が外部の音を拾い上げてきた。叫ぶ女の声と、確かに聞こえた
『708号室』という言葉。
そして直ぐに、スモーカーが全員に撤収を命じてきた。同じく、機動員に対する放水の命令も。
マイク越しの言葉がゾロにも聞こえたに違いない、背後から急に伸ばされた腕にコーザが振り向いた。
「ゾロ、聞いたか。撤収だ」

ここには自分たちが救出すべき生存者は誰もいない。
床がまた身震いを始め、一際大きく浪打つ。一刻の猶予もままならない、既に一方の退路は絶たれていた。
残されているのは外壁を伝う非常階段、おまけにそこへ着くまでに廊下が崩落しないとは言い切れない。
けれど自分の横を抜け床に横たえた遺体にまっすぐゾロが向かうのを目にし、コーザが再度呼んだ。
「ゾロッ?」
無線からは自分たちの応答を求めるチーフの声が響き。
ゾロが死亡者―――子どもたちを床から抱え上げるのをコーザは一瞬見詰め、弾かれたようにその肩を掴む。

「なにしてる、おまえ!」
部屋の奥の床が崩落し、階下からの炎が吹き上がる。視線が交差し、そのとき、また無線からスモーカーの声が
響いた。
『74−1、応答しろ、どうした!』
炎が奇妙な陰影を映し込んだ翠が合わせられる。
例え瀕死であってもそこに生存者がいるのなら、自分たちは地獄の蓋だって開けて飛び降りる、その腕を掴み生の
縁に引き戻すためならば。けれど、もう手遅れになった遺体に対する義務は―――
わかっている、と。ゾロの強い光を弾く翠が見詰めてきた。
それでも一緒に連れて行くのだ、と言葉にせずに告げられ。片腕で一人の子どもをゾロの肩から無言でもぎ取ると
マイクに向かってコーザが叫んだ。
「こちら74−1。状況良好ッ、いまから撤収します!」


火災現場はいつだって騒然とする。野次馬と、被災者と報道陣とが集まり。絶え間ないサイレンの音と、走り回る
救護班と盛大な放水、空を覆い尽くすような黒煙。断続的に届くノイズと無線の音。舞い上がる、灰。
スモーカーが突き出されるマイクを押し退け、後にしろと一睨みし、警察関係者が野次馬を押し返し。
震えながら、まだ延焼を続けている建物を先の女がブランケットに包まれ放心したように見詰めていた。
まだ、最後まで内部に残っていた隊員が出てきてはいなかった―――74−1組。
ブランケットに包まれた女の傍らからルッチがちらりと自分を見遣ってくる視線を感じながら、スモーカーは炎が噴き
出す正面入り口ではなく、その横の細い路地を見詰めていた。無事に非常階段を抜けられたなら連中が出てくるの
はその方向の筈であり、機動員にも重点的に放水をその区域にさせていた。撤収の命を受けた他の隊員たちも皆、
その道を走り抜けてきたのだ。その内の何名かは既に救急車で搬送されていった。

喘ぎながら呼吸器のマスクで口元を覆っていた隊員の眼差しも同じ一点に合わせられていた。数秒前に建物から
撤収してき、耐火服の上から水浸しになったパウリーが声を上げる。
「まだ出てきてねぇってのか?!あいつら!」
「最後の連絡からまだ4分も経ってねぇよ、落ち着けっ」
頬に軽度の火傷を負ったルッチが短く言い。

何対もの目線が見詰める先、影が揺らいだ。
走り出てくる二つの人影、そして腕に抱いているのは―――
「私の子っ」
弾かれたように女が飛び上がり、叫び。救護班が消防士に向かって駆け寄っていった。
そしてスモーカーが、小さく舌打ちし。あのバカどもが、と噛み付くように声にしていた。




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