48.
軽くゾロが咳き込んだ。口中に煤の味と臭いとが拡がり、少しばかり眉根を寄せる。
「誰も”いない“だと……?クソ」
噛み殺すようなゾロの呟きを聞き取ったパートナーがその背中を耐火グラブを嵌めたままの手で軽く叩いた。
「あァ、”正規に“住んでる人間は」
確かに一人もいなかったよな、と。僅かに苛立ちを滲ませた声でコーザが続けていた。
半ば以上焼け崩れたアパートメントの持ち主は出火の際にそう言っていたのだが、実際は不法入国者が大量に押し込められたように建物内に”住んで“いた。
消火活動現場の指揮にあたっていたチーフは、燃え盛る内部に飛び込んでいったチームメンヴァや救護班から無線でその事実を初めて知らされ、アパートメントの持ち主を平手ではなく拳で地面へ殴り倒していたが、それを咎めるものはいなかった。

ゾロが視線を周囲に投げ、短く息を吐いた。
ほんの数分前までは自力で脱出した者や助け出された住人、次々と現われ走り去る救急車輌やパトカーのサイレン音、外国語の悲鳴や叫び声、早速やってきた入国管理局の関係者の怒声が入り乱れ、勿論、管理局のニンゲンを一目見るなり大挙して逃げ去ろうとする被災者もいたりで、喧騒に紛れて野次馬までも入り込み、この付近一帯は一種の騒乱状態だった。雪の代わりに灰がひらひらと舞い降りる中。

「あと二分、」
「―――あァ、」
コーザが頷き、それから肩越しにまだ燻されて黒煙を上げるアパートメントだったものを見遣った。
あと二分通報が早ければ、救い出せた命は少しは増えていただろう、と声に出さずに言われたことを理解しながら。そして、名を呼ばれた気がして顔を戻せばゾロのまっすぐな視線とぶつかり。
「ナンダヨ、」と目で問い返せば。
僅かに苦笑めいた表情を浮かべたゾロが、オマエ大丈夫か、と言った。そらされない眼差しを受け止め、見詰め返し。
「アタリマエ、」
コーザがくしゃりと笑みを作って、肩を引き上げて見せていた。けれど、どこか自分の頬あたりが幽かに軋むのを自覚し。だから、続くはずの言葉を呑み込み額に落ちかかった前髪を片手で引き上げていた。


火の中から。産着とも呼べない粗末な、けれども柔らかな布に包まれた赤ん坊を一室から抱き上げてきたのはコーザだった。その同じ部屋の隅に重なるようにして抱き合いながら泣き叫んでいた子どもたち5人ほどをパウリーと手分けして両腕に抱き上げ、崩れ落ちる天井を腕半分の距離で避けて隣室へドアを蹴破り飛び込み。
振り向きざまパートナーを呼んだとき一瞬、何の包みをヤツは持っているんだ、とゾロは思ったがすぐにその包みが赤ん坊であると知った。数秒も置かずにコーザもまだ火勢の僅かながら抑えられている室内に飛び込んでき。思考より先に閃くものがあった、そして同時に異臭も嗅ぎ取る。
子どもたちは息も絶え絶えに外国語で、それでも母親を呼んでいるのだろうと知れる。
「しゃべるんじゃない、これを」
順番に使え、とゾロが酸素マスクを子どもの小さな口元に押し当てる。
充血し、それでも黒さを失わない瞳が二対ゾロを見上げてくる。それに笑って頷く。あぁ、ダイジョウブだ安心しろ、と。
そして良く通る声が炎を上げる音の中に響く。
「行くぞ、ここももうダメだ。急げおまえら……っ」
その子も連れて行くのか、とはコーザに言わずに、タイルストンがハンマーで打ち壊した壁から廊下へと走り出しながらパウリーも同時に悟ったのか、それだけを言うと崩落寸前の軋みをあげる通路を走りぬけ、非常階段を地上へと駆け下りていったのだ。

咳き込み、泣き。そして放心したように時折り体の弛緩する幼い被災者たちを無事に地上に連れ戻す。もうダイジョウブだと言葉にされ、涙と洟と煤とで汚れた子どもたちは母親を探して一層泣き始め。救護班に後を任せながらゾロがパートナーを目で探せば、少し離れたところでコーザは腕の中に抱いた、半ば焦げた赤ん坊の遺体を静かに見下ろしているところだった。そして近づいてきた救護班にその亡骸を手渡すときに、そっと少しでも損傷が見えなくなるように布で顔を半ば隠すようにしていた。
「ここは、いいところだったか……?オヤスミ、」
と唇が小さく動き。
そして、ゴメンな、と呟いていた。
ゾロが、眼にしたその光景に拳を固く握り締めた。
『ゴメンな……助けてやれなくて。ゴメンな、』
幼馴染の墓碑の前で、幾度も繰り消した言葉が不意に自分のなかに蘇り。ぐ、と唇を噛み締める。そして深く呼吸をしようと努め、自分の内に平静さを取り戻す。
視線に気付いたのか、遠ざかる救護班の背中を見遣っていたコーザがちらりと眼差しを一瞬ゾロに向かって投げ、小さく笑みを作っていた。


髪に突っ込んでいた手をそのまま下ろし、つい、とチーフの居る辺りをコーザが指差す。
「なァにサボってんだよ、ゾロ、おまえ。チーフに怒られちまうぜ」
ゾロと同じように壁に寄りかかり口に上らせたコーザの頬が黒く汚れていた。
おそらく自分も似たり寄ったりなのだろう、そうゾロが思い。まぁな、と応えていた。
「なァ、」
呼びかけられ、眼差しをあわせる。
「おれらみたいなのを、選んでくれるヒトってのは実際……」
続く言葉を一瞬捜すようにし、けれどしっくりくるものは思い当たらなかったのか、あぁ忘れてくれ、とでも言う風にコーザがひらりと手を振った。
だから、ゾロがその続きを引き取り言い切っていた。
「あァ、すげえよ」
と、ひどく単純な、簡素な言葉ではあったけれども。思ったままを口に出した。
一時の遊びでも気紛れでもなく、そのひとが確かに隣にあることを決めてしまっていることに。
冷静に考えてみれば、誰もが逃げ出すその最中に飛び込んでいく自分たちであるのだから。

「大事にしないとツキが無くなる、ってな」
「ツキどころか、上からも見放されちまいそうだ、」
そうコーザも応え、ちらりと灰の降るソラを見上げていた。
く、と笑い。ゾロが壁から離れたのとほぼ同時に、撤収を呼びかけるチーフの声が届いた。
「けどさ、」
命令を受け、並んで歩きながらコーザが言った。
「戻る場所がある、ってのはイイだろ」
ン?と半ばからかうような口調、それでも灰色の眼がふわりと笑みを過ぎらせる。

そうだな、と応えたゾロの口元にも、ごく幽かに笑みが乗せられていた。

「けど、悪魔もついてきやがるけどナ」
「ハハッ。おまえ、やぁっと腹の痣消えたもんなァ……!」
けらけらとコーザが笑い。
「ウルセエよ」
ごつ、とその後ろ頭を軽く握った拳でゾロが小突いていた。




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