Eight

戻ったら、街に霧が出ていた。

霧笛の音が聞こえてきて

頬にあたる冷たさに、ここに戻ってきたことを実感する。



ガレージに車を入れ、先に降りてトランクからいつのまにか増えてしまった荷物を取り出すヤツを手伝おうと俺も後ろにまわった。
ちゃり、と身体を動かすたびにかすかにヤツの耳元から鳴る貴金属の触れあう音や、微かに香るトワレの匂いや体温の高さもここ何日かで自分の中にインプットされていたから、自分が急に抱きすくめられていることに気付くのが遅れた。
「な、」
回される腕に力がこもる。
わからねえ、と。
そう、聞こえた。噛みしめるような声は。ゾロの。
始まりと同じくらい唐突に、身体が離れた。

「俺は、」
「言うな」
遮り、歩きだした。肩に残された手の熱から、深い翆から自分を引き剥がすために。「普段」に戻るために。

鍵を取りだす自分の手がいまになって震える。
ハ、バカみてぇ。
ドアを開ける前に、よし、と誰にともなく呟いた。


何日も閉め切っていたリビングの窓を開け、みたくもないテレビをつけ冷蔵庫からペリエのボトルを取り出したころに、ゾロが入ってきた。俺の部屋とビビの部屋に荷物を放り込みそのまま戻ってきた。
「いるか?」
「サンキュ、」
俺の差し出したグラスを受け取り、あ、って顔になる。
「うん、ライムが切れてんだ」
「ああ、買いにいかねーとな」
そう言ってゾロはソファに落ち着き。
少し離れて座った俺は黙って煙草を一本吸い終わり。もどかしい沈黙のまま、俺はまた次に火を点け。
ヤツはテレビが流し始めた古い白黒映画を眺めていた。「会議は踊る」。
気付けば、エンドクレジットが知らない間に流れ始めていた。

「じゃあ、俺もう寝るから」
グラスを残して立ち上がった。
「ああ、俺はもう少し起きてる。オヤスミ」
ヤツは言って、少しだけ笑みをつくる。
「なあ。おもしろかったよな、良い休みだった」
俺は、おまえからそんな表情をもらってもいいんだろうか。
「俺もだ、」
静かな声。

また行こうな、と締めくくれない会話は
近付き過ぎてあやふやになった距離の分だけ、中途半端だ。
部屋へ戻るとき目に入ったのは。テレビ画面の白っぽい光が消され、窓の外の暗がりを睨み付けるみたいにしていたゾロ。


部屋のドアの前で初めて、カギが付いていれば良い、と思った。
何よりも不安定な自分自身のために。

眠らないほうが良いし、どうせ眠りはやってきやしないこともわかってた。だから薄闇のなか、ヘッドボードにもたれるようにして窓から何もない外を、透けてくる月をみていた。

やがて閉じた目に浮かぶのは、砂浜
海岸に残してきた「作品」
泡だらけにしたバスタブに浸かりドアを開け放したままで、海を眺めながら外にいるヤツと朝からバカ話をしてたこと
気が向いた時にさらさらと描かれる落書きが、いつも紙ナプキンに残されてたこと

穏やかだった時間
わらうときに翆の瞳が少し細められること
そういった全部を封印しよう

ゆっくりと思考が止まり

意識が薄らぐ

波音が、きこえればいいのに



「眠れない、」
ザマぁねえな、小さく続く声でそれが妨げられた。

「そっちで眠っても良いか、」
開けられたドアの脇からするその声に突然覚醒する、半身を起こし。
「だめだ」
「サンジ、」
「出てってくれ」
「信用できないか、俺が」
「違う。だけど、」

「おまえのこと、嫌いにさせないでくれ」
「きらう・・・?」
声と一緒に、ゆら、と影が動いた。

「サンジ、俺は」
「俺は。ビビがっ、」
声を遮って影に向かって続ける。必死になって。自分に言い聞かせるように。
「大事だ-------おまえより」

「おまえは、残酷だな」
低い声が返す。近づいてくる。たのむ、やめてくれ
「てめえの方が、よっぽど酷い、」
身体が震える。
「どうしろっていうんだよ、」
ちくしょ、声まで。

ヤツの温かな手が触れて、初めて自分が泣いているのに気付いた。
手はそのまま頬をたどり、目元の涙をぬぐいとり。
唇で触れられた。
その優しい暖かみと甘さに、全身が縋ろうとする。

「ぞ、ろっ。頼むからッ」
必死の抵抗で、やっと声を絞りだす。
「おれに、触れるな、」
「横にいるだけだ、」
ヤツの額が、こめかみのあたりにそっと押しあてられる。
「いさせてくれ」

それだけで、身体から緊張が抜けかける。
「いやだ、」
頼む、おまえに縋りそうになる。
だから、出ていってくれ。祈るように身体を硬くして
叫び出しそうになる衝動を押さえ込む。

ここは、日常の場所だから。

一度でも触れたら、縋ってしまえば、忘れるなんて出来ないから。



きっとおまえのことを、腕を

全部を

欲しがる自分がいるから。


月を取れと泣く赤ん坊のように

火花を欲しがる誰かのように

だから。

おねがいだ、手 伸ばさないでくれ


これ以上



俯いたまま。口の中に血の味がひろがる。
吐息が肌をかすめ。

「―――わかったよ。でもな、」
おれは、自分の思ったようにしか動けねえぞ、と。小さく続けられた。


掌が髪をすべり、数瞬、とどまって。全神経が憶えてる

おまえの熱。



ドアがそっと閉じられ、おれは息ができなくなる。





ゾロ。






なんで、おまえなんだろう


腕は、差し伸べられていた腕はほかにもあったんだろうに



膝を抱くようにしてベッドに蹲る。どれくらいそうしていたのか、耳にまで慣れてしまった排気音が夜の底に響いた。



自分がなにをしようとしていたのか、なにがしたいのかわからない。



でも、わかっちまったことは。



深刻になるでもなく、憐憫をみせるわけでもなく。ヤツからの、ただ。差し伸べられた腕と、体温を分け与えられただけで。

それが、なによりも救いになった。


泣き叫ぶ自分の声が、確実に薄くなり消えていっていた。


自然と、眼で追うようになっていたのか。

その姿を探しでもするようにみていたのか?


いつも―――?

オマエのことを


「そんな切なそうなかおするなよ」
からかうようだった声。

「おまえは、あいかわらずほんとに自分のことわかってないな」

「あいつにだけ、無防備なカオみせて」



おれのことを、ズルイってビビが泣いて訴えたのは。

ビビに向けられていた笑みが、ふと流れてくるようになったのは

冗談めかしたキスの誘いと。


どちらが先かなんてきっと問題じゃない。


ビビが変わり始めたのは……いつから?



あのとき。

花の檻にでも捕まえられたのか

連れ出してやるつもりだったのに、おれが引き込んだのか?



おまえのこと



どうして、なんて泣いていたのは

もうずっと、ずっとむかしのことだったはずなのに



また、おれはないているのか




なんで、こんなことになったんだろう、って。






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