*31*

冷たい水の入ったグラスを持ち上げてみて、その表面に雫が浮き上がっているのを見詰め。やがてそれが重力に添って伝い落ちていくのをルーシャンが視線で追っていた。
水の模様がテーブルに透明な影を落し、それが光につれて揺らいでいた。
それを見詰めながら、鮮やかな黄色のスクランブルエッグが湯気をあげているのを見遣り。スプーンを突っ込んで掬い上げ。けれど口許には運ばずに、掻き混ぜるだけにしていた。
イメージしたときには、食べてみたいかもしれないと思ったけれども。目にして、匂いを嗅いでみたら勘違いをしていたようだった。
添えられていた、こんがりと焼かれたトーストだけを一口齧り。ローストされた輪切りのトマトをフォークに乗せ、それを食べてみた。それから、コールスローをフォークで二掬いほど。胃が驚き始めたのが解って、それ以上は止めにした。
長く息を吐く、喉が締め付けられそうになることを宥め。口許をルーシャンが引き締めていた。
『ボスはお忙しいので。いつもいらっしゃるとは限りませんし?』
そう、此処に連れてこられた最初の日だか翌日にロイにいわれていたことを思い出す。
とはいえ、終日、この屋敷の主の姿を見ないことはいままでなかった。姿を直接みることはなくても、『此処』にいた気配はなにかしら残されていたことが日常だった。

昨日は、けれど。
朝食を運んできたロイの表情からしても常とは違っていた。僅かに纏う空気が冴えたものに成り代わっていた。なによりも飄々とした軽快さはナリを顰めていた。本質を覆っていた薄い膜が剥げ落ちたように。
あぁ、とその姿をソファから見遣り、ルーシャンは思っていた。あのときのマフィアがあそこにいるね、と。ハドソンベイで、ヒトに銃口を突きつけていた―――ような、それとも銃を突きつけていたのは別の誰かだったか……?
冴えた色味が透けて見えそうで、ルーシャンはその肩の辺りをじっと見詰め。その日の朝食に出されたチキンスープ、それは半分ほど飲んだ。用意された献立に、病気のガキじゃあるまいし、と内心でわらったけれども。

けれど午後になっても、屋敷の気配は妙に静まりかえったままで。
殆ど手を着けなかった昼食が片付けられ、夕食が運ばれてきても、ロイの表情はますます研ぎ澄まされていくようだった。ただ朝に見せた険しさはこの頃には消えうせていて、表情は逆に硬質な膜で薄くコーティングされなおしていた。
主のことには一切触れずに一言二言、酷くこの男のものらしい言い回しで言葉を部屋に残し、ドアの向こう側に消えていく姿にルーシャンが僅かに首を傾げていた。
『いま、ごゆっくり、って言ったよな……?』
けれど、寝台で横になる気にもなれずにソファにブランケットを持ち込み、朝になっていた。
朝食の乗ったトレイを押し遣り、ルーシャンが室内を見回した。
ロイの表情を思い出す、昨日より悪くなってないか?アレ。
何もせずとも、約束の日にちに近付いていくことを素直に喜べない自分に対してもルーシャンが内心で首を傾げていた。
なんでそんなことを自分が思うのか、理由がわからない、……わかりたくなかった。本来なら快哉を叫ぶべきだろう、なにもせずに済むのだと。

出口の無い思考がただ円を描いて行き場がなくなり、ルーシャンが溜息を吐いた。
いつのまにか、朝食が片付けられていた。
そして、思考を遮断するように絵を見詰め。新しい色と音階を見つけている間に、昼を過ぎ。ここに置いておきますよ、と静かなトーンでロイに声をかけられたことに、ひくりと肩を揺らしていた。
ソファからゆっくりと立ち上がり、用意されたテーブルにつき。目の前のオリエンタルな陶器に盛られたヌードルを僅かに首を傾げてルーシャンが見詰めた。
キンイロと赤、その彩りに飾り立てられていたレストランの光景が一瞬、目の前に広がり。
小さくアタマを振ると、耳に長く残る艶やかな笑い声を押し遣った。
燻らせていたタバコの甘い味と。ランタンの下で輝いていたブロンド。それが、ゆっくりと現実の絵と重なり、溶けていっていた。
象牙の箸を手に取り、けれど何度か空を掴むだけで、胃が締め付けられた。
「―――――――食いたくない、」
 陶製のポットに入れられていた渋みの少ないチャイニーズティを小さい碗に注ぎ、温かなそれを二杯ほど胃に流し込み。アタマの芯までが鈍く重いような気がしてきた。
何かがオカシイ、と自分の状態を哂う。
これじゃあまるで………?
そこまでを考え、ルーシャンがイスから立ち。内側からは開けられない窓の方へいっていた。
代わらず、晩秋に相応しく色味を変えた木々と、芝草の緑が目に入ってくるだけで。季節感のほかは、ここが何処でるのかのヒントはまるっきりない景色だった。
アメリカ中の、どの街からの物でも大差ないほどの、存分に手入れされたもの。落葉樹の種類で、アメリカ大陸の位置を測るほど自分は木に夢中ではないし、と。
ソファに戻り、鈍い頭痛がまだ残っていることに眉を顰め。無理やりに目を瞑ろうとした。
昨日も、眠れなかったから。

静かにドアが開き、閉じる音が聞こえたけれども。ルーシャンは身体を動かさずに、じ、としていた。
自分の内側をそろりと探ってみる、この漠然とした『間違っている感じ』は一体何なのだろう、と。
胃が締め付けられるようなままで、頭痛がする。
肺までが重いかもしれない。空気が重いのか……?
眼の奥が熱くて、重苦しい。
なんだろう、これは。
アタマと身体が懸け離れ初めて、反乱でも起こしてるのか?それとも、同調し始めて。
ぐ、とルーシャンが唇を意識せずに噛み締めた。
意識が飛ぶほど、高められて突き上げられることは……苦痛であるし、そうじゃないとも言えた。
何かが振り切れそうになる。焼け落ちて、どろりと身内で熱い塊りが湧き上がって。その中心に、信じられないほど高められて、引き込まれる。高波に呑まれる様に。地面の裂け目に落ちていくように。
だめだ、とルーシャンが目を開いた。
このまま、自分の内側を探り続けていたなら、きっと何か飛び出てくる、と。
作家になった親友、ロクデナシのビル、あいつの言う……口を開く心臓。

ルーシャンがまた室内を見回し、いま一番欲しているものに突然気付いた。
思考を逃がす道具。嗜好品、あれだけいつも手放ずにいた―――――――
酷い渇きにも似たシグナルを脳がいっせいに送り出していった。
ゆっくりと立ち上がり、逡巡し。寝室をほぼ、初めて自分から抜け出し。居間に向かう。
両開きの扉にまで近付き、当然開くことのできないソレを小さくノックした。
外側から扉の開かれるのを待っていれば、す、と静かに片側だけが廊下に向かって僅かに開かれていった。
「どうしました?」
必ずそこにいるはずだ、と確信していたグリーンアイズが覗いた。冴えた色味は僅かに驚き、そして和らいでいった。先に纏っていた硬質な膜が取りはずされたように。
「タバコすいたい」
ぽそ、とかすれた声でルーシャンが告げれば。
「わかりました。ブランドはどこのにいたしましょう?」
笑みを表情に乗せたロイが返してくるのにルーシャンが視線をあわせ、言葉を継いでいた。
「あんたは吸わないの、」
屋敷に連れてこられて以来、直接ルーシャンが顔をあわせるのはロイとパトリックの2人しかいなかったにもかかわらず、これが初めてまともにロイと交わした言葉になった。
「オレですか?吸いますよ」
その事実もさらりと受け止め、変わらない口調でロイが返していた。
「じゃあ、それでいい、わけて」
す、と背の高い男をルーシャンが見上げた。
「最後の一本なら、盗らないけど」
少し、口許を引き上げ、ルーシャンが笑みを刻んだ。
ロイの目が少しだけ事態を面白がるように煌き。ジャケットのポケットからゴロワーズのパックを引き出していた。
パックの中身をちらりと確認し、それからまた視線をルーシャンにあわせると。
「どうぞ中に、」
そう促し、ルーシャンを室内に戻らせると自身も続き。取り出したタバコをルーシャンが引き抜くのを確かめると、マッチの火をその穂先に宛がっていた。
僅かに目を伏せ、ルーシャンがそのどこか甘い硫黄の匂いにうっすらと笑みを乗せ。ふわ、と煙が昇ると、視線をロイにあわせた。
「吸ってる間、中にいてくれよ」
ぱち、とロイが目を瞬き。一瞬、ルーシャンの行動の真意を伺うように目を細め。けれども、この『子猫チャン』が色仕掛けを図ってくるほどスレていないことを思い出し、刹那、研がれた表情を和らげていた。
いいですよ、と笑みに混ぜて答え。
「オレのことがお嫌いかと思ってました」
そうからりと笑い、言葉を次いでいた。
「立っているのもナンですから、ソファへどうぞ?いま灰皿をお出ししましょう」

ルーシャンをソファに促しながら、自分は戸棚のヒトツに近付き、鍵の掛けられた引き出しの中からクリスタルの灰皿を持ち出していた。
「それで、アタマ割るって?だから鍵つきか」
くく、とルーシャンがわらい、ソファに背中を預けていた。そして、テーブルに灰皿を置いたロイに視線をあわせると。
「あんたのことは嫌いじゃないよ……大嫌いだ」
そう言って、長く煙を肺に落とし込んでいた。
「まぁそれもしょーがないですねー」
明るく笑い飛ばすロイにちらりと視線をあわせ。その姿が向かいのソファに腰を下ろし、長い脚を組むのを見遣った。そして、目をまた伏せると、ゆっくりと紫煙を味わう。
向かい側からは、先までの研ぎ澄まされた冷たい空気は流れてこなかった。「ただのロイ」だ。何を言ってもいうことを聞いてくれもしない、ニーサン。飄々としたクワセモノ。
「お飲み物をあとで何かお持ちしましょうか?ゴハンのリクエストも受けつけますよ」
応えられるリクエストに関してだけ、穏やかに問いかけてくる声にルーシャンが首を横に振っていた。
「今日はお食事が進んでいらっしゃらないようでしたから」
そう言葉が続くのに、ソファの背にもういちど深く座りなおしたルーシャンが、僅かに首を傾げた。
「あとからこれワンパックちょうだい?」
「あまり吸いすぎますと、ご気分が悪くなりますよ。匂いがキツく残るとボスが嫌な顔をしますし」
飄々と、返され。
「火事にあった、って言う」
ルーシャンもさらりと口答えするように返していた。とろりとどこか溶け落ちそうな口調であったことには自覚はないようだったけれども。
はは、とロイの笑い声が静かに響いた。
「ダメですよ、火事にしたらオレが焼き殺されちゃいます」
あっさりとした口調が続けた。
「なので、適度にお声がけください。一々お持ちします」
す、とルーシャンがどこか焦点の甘くなったブルーアイズで見詰め。独り言のように呟き、くるくすとわらっていた。「スペイン師団に捕まって火あぶり」、と。
そして、改めてロイに眼差しをあわせ。
「面倒、あんたがじゃあ中にいればいいんだ」
そう歌うように呟き。短くなったタバコを灰皿に押し当てると、ソファに背を預けたまま軽く伸びをし。欠伸を噛み殺すような表情になる。
けれど、「ひと」のある気配に緊張が緩んだのか、瞼が静かに降りてき。そのままソファに蹲るように身体を倒し、眠り込んでいた。
「大嫌い、なんでしょーが」
そう苦笑するようにロイが言い。あぁほんとに猫みたいですね、と不在の「主人」に内心で語りかけながら寝台からブランケットを持ち出し、すう、と静かに眠る「お猫様」に掛けてやり。
確かに人任せには出来ないか、と。奇妙に幼さとそれだけではないモノの交じり合う寝顔を見るともなしに視界に入れながら、午後をソファで座って過ごす羽目になるロイではあった。





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