*33*

陽射しに温められた浅瀬の水、熱を吸い込んだ水の表面、戯れに手を浸したタイドポッドの奇妙に重く絡むような温かさ、そういったものに身体が浸されているように肩から先が覚束なかった。温かな何かのなかに溶け出してしまったように。長く、吐息をつきたくなるほどその温かさに安堵していた。
目を開けていると思っていた、けれどなにも実際は“見えていない”ことにぼんやりと気付く。柔らかな色合いだけが見えていたと思ったのに。
夢なのか、とぼう、と思う。
眠りにまた誘い込まれそうで、けれどももうヒトツの感覚が意識をやんわりと引き上げてくる。
柔らかな温かさに身体を添わせてみる、酷く気持ちがいい。羽根だけに包まれているかと思う。ふわふわと。自身の口許のあたりが、緩んでいるのもわかった。意識が少しずつカタチを取り始める。
温かさに溶け入りきっていなかった背中は、掌越しに柔かな温もりが伝わってきていた。
夢との境界が曖昧なままに、知らずに意識が現実に混ざり込み始め、ルーシャンが目を閉じたままで手を握り込んだ。
ゆっくりと感覚が戻り始める。
顔を胸元に押し付けるようにしていることにも漸く気付き、ぼんやりと動き始めたばかりのアタマが緩やかにその事実を伝えてくる。「ありえない」その事実に、ルーシャンはぱちりと目を開いた。
部屋は、既に明るくなっており。朝が来たことはまだ回転がどこかゆっくりとしたままのアタマでも理解できた。
パトリックの告げた通りに、明け方近くに自分の記憶は途切れてしまったけれども、そのときはまだ室内は光などなかった。
その前後は様々でも、必ず目が覚めるときは一人であったから、いまが果たして現実かどうかさえ疑わしく思えて、けれど感覚が夢ではないと伝えてくる。
僅かに身じろぎし、四肢が重く溶けだしてしまいそうなままであることにまたルーシャンがひっそりと瞬きしていた。
心内で快楽に抗うことを止め、受け入れることを選んでしまえば。そこに在ったのは以前とはまたカタチを変えた畏しさだった。
高められ続け、果てが見えない。求め続ける自分に、当惑する……思い惑うことは止めたいまでさえも。
さら、と背中を静かに滑る掌がある。それが静かに身体にリズムを落としこんでいく。そのことさえ、溜息が零れそうに穏やかに気持ちが良い。
身体を満たすその感覚は似ているような気がした、森で眠り、明け方の冷ややかな空気のなかであってもどこか満ち足りて眼が覚めたときと。
決定的に違っていることもあるけれども。

く、と目をまた瞑り、静かに視線を上向けていった。
とろ、とそれだけで身体の内側の重心が滑っていくような気がし、短く息を詰め。そのアンバランスが左に起因しているように思えて、ふ、と引き上げていた腕に視線を落とし。弾かれた光に目を細めた。見慣れないモノが手首に巻きついていた。
「―――――――な…、」
掠れ切った声が喉に引っ掛かる。
―――――――ウロボロス……?
金と銀の蛇が尾を噛んで輪になり、それが絡まる。血色の宝石の目が二対、陽射しに深い色味を煌かせて。
「………おも、」
ずしりと重い、手首が。
ふ、と記憶が巻き戻る。手首にそれを嵌められたこと。継ぎ目のない環が、掘り込まれた蛇の鱗で肌を傷つけていたいったことも。
「もう少し寝てろ、」
声が不意に落ちてき、ルーシャンがゆっくりと顔を上げた。やはり現実なのかと、驚きながら。
僅かに四肢が強張りかけ、けれどもすぐに内側から解けていく。
重なった身体は温かい、それに……酷くなにもかもが「いまさら」な気もした。取りすがる矜持は棄ててしまったし、軋みを上げていた自負心はとうに千切れている。ただのまっさらな、自分が在るだけで。
馬鹿馬鹿しかった、足掻くことが。「いま」より一瞬でも後のことは考えることを止めた、それが二日、日付が変わってしまったから、三日前のことで。
「いままでの自分」の価値がゼロだと幾度も身を持って知らされてしまえば、素のままであることしかできなくなった。
抱かれながら震えた、底の見えない悦楽が怖くなった。
想われているのじゃないかと錯覚しそうなほど、「甘やかされて」。意識が飛ぶほど。溶け落ちそうになりながら、呪詛した、刹那。あんたもおれを呪うのか、と。オカド違いなことだったけれど。

「……これ、」
なに、と腕を僅かに持ち上げて呟く。
舌先に、なにかが引っ掛かる。この後に続く言葉を知っているような気がした。呼びかけるモノ、記号。「負債」である自分は知りようもないけれど。
だから、ぼとりと腕を相手の上に落とした。せめてもの…なんのつもりかは自分でもルーシャンにははっきりとしなかったのだけれども。
体温に溶けこんだ貴金属は、冷たさを伝えない。
「はァん?」
声と一緒に、アタマをくしゃりと掻き混ぜられた。
「アタマぶっ飛んだか、しゃあねえナ。土産だよ、」
幾度も、手指が髪を乱していくのをそのまま受け止める。
「すげえ、ね…」
意匠も、その意味も。そしてそれがただの記号で偶然なことも。そして目に嵌められた宝石は、負債分を遥かに超えてしまっているだろうことも。
「オマエが退屈そうにしてるから、遊び相手に選んだだけだ。猫は蛇をいたぶって遊ぶモンだろ?」
「―――――――あんた、やっぱりオカシイよ……」
落とした腕を伸ばし、ぐ、と身体を引き上げるようにする。
「真っ当なアタマでマフィアのトップが張れるかっての」
どこか機嫌の良い声が続け。ふぅん、とルーシャンがそのまま額を預け直していた。
「でも、心臓の音はチャンとするね、」



*34*

ほにゃ、と。阿呆なことを言ってきたルーシャンの言葉の裏を探る。悪魔には心臓がないとか?そういうことか?と。
けれど、意識を覚醒させてもぺったりと“懐いた”ままのルーシャンの言葉に、なんら含むものは見出せなかった。
作家だのポエットだののお花チャンをしていた割には、唯一歩んだ道が新聞社ナわけだ、と奇妙に納得した。コレは感情だけでコトバを出していたのだろう、だからそれを捏ね繰り回すことを知らないのではないか、と。
一日をどう割り振ろうか考えていたのを瞬時に決断して、柔らかな金色の天辺にひとまず口付けた。
「その調子だとオマエ、覚えてないだろうから。もう一度言っとく。ランチ、温室まで連れてってやるから、ちゃんと食えよ」
「馬鹿みたいに泣いたことはおぼえてるよ」
とろ、と甘い声が言ってきたのに、くくっと笑う。
「泣くのもヨカッタだろ?堪えて苦しいよりはな」
「……悔しいのよりもね、」
少し小さくなった声に、くう、と笑ってさらりとルーシャンの項から背中へと掌を移した。ふ、と息が揺れたルーシャンに、静かに告げる。
「素直になってどうだ、感想は?」
すい、と視線が上げられ、僅かに目元が腫れぼったいルーシャンのブルゥアイズとかち合う。
「んー?」
さら、と目元を指先で撫でた。
「―――――――井戸、あるだろ……?」
静かな声が、柔らかなトーンで告げる。
「空のサ……、小石とか落としてもすーっとおちてくばっかりで何も音がしない、」
「ふン。ただでさえオマエ、ぼへーっとしてンのにナ?」
そうからかって、さらりとまた目尻までを指先で撫でた。
「まあいいサ。下手にアタマ使っても、オマエ要領悪そうだし。ここに居る間は、別にそれでもイイんじゃねえの?」
空っぽのほうが楽なこともあるしよ、と告げて、ふに、とルーシャンの鼻を僅かに押し上げた。
「そうだね、ここ出た後は――――」

コトバを切って手を押さえて外していったルーシャンが、ぼそっと言葉を継いだ。
「あんたの店にでも雇われるかな」
ふい、と軽くルーシャンの頬を摘んだ。
「ツマンネェ人生選んでンな、チョイスがあんのによ、オマエは」
目が、なに、と言ってくるのに、片眉を跳ね上げた。
「まあどう生きようとオマエの人生だけどナ、仔猫チャン」
「紹介状でも書いてヨ」
真っ直ぐにブルゥアイズを見詰め。くう、とタチの悪い笑みを浮かべたルーシャンの額を、べしっと叩いた。
「アマッタレ」
「“猫”だからね」
きゅ、と目を細めた後に言ったルーシャンが、くくっと笑った。
「オマエさ、堅気のほうがいいぜ。こっち転がったらロクでもない死に方しかしねぇよ、オマエみたいなのは特に」
「褒めてくれてありがとう、少なくとも“売れそう”ではあるのか」
「商品としてはトウが立ってるからな、顧客を選べばいけるだろ。そういうのはロクでもないのしかいねえから、店を通すのは勧めないがな」
「ふぅん、」
嫣然と笑ったルーシャンの髪をさらりと額から掻き上げた。
「そこまで労力を惜しんでンなよ。パトロンぐらい自分で見つけて選べ」
面倒だな、と。酷く本気で言ったルーシャンの頭を軽く小突いてから、ゆっくりと起き上がった。
「あんまり何もかも面倒くさがってンなら、余計なお世話を焼きたがるヤツに息することすら止めてもらえちまうよ、仔猫チャン」

それでもいいんだ、と。どこかぼうっとした声が言ってくるのに、ちら、と視線を投げてから、端に引っ掛けておいたローブに手を伸ばした。
あ、と言いながら、起き上がってきたルーシャンに、ローブを着込みながら視線を戻す。ふにゃ、と蕩けた笑顔をルーシャンが浮かべた。
「いまさらだけど、おはよう」
くう、とパトリックは口端を引き上げた。
「だからまだ寝てろって。昼前にはロイが来るだろうから」
手を伸ばして、金色のアタマをくしゃりと撫でた。じぃっと見上げてくるルーシャンに眉を片方跳ね上げ、ああオレって甘やかし、と自覚しながら、トンとその唇に口付けた。ふわりと柔らかく微笑んだ様子がどこか嬉しそうに見えて、パトリックはきゅっと目を細めた。
「昼飯には迎えに来る、オーケイ?」
頷いたルーシャンに、くうっと笑いかけて。ベッドから腰を浮かせた。
「あと、タバコはあんまり吸いすぎるな」
ひらりと手を振って、寝室のフロアを横切る。
ドアを閉める前にちらりと見遣れば、目を見開いていたルーシャンが居た。く、と笑って、静かにドアを閉めた。

使用された痕跡が少しだけある部屋を過ぎってドアを開ければ。ゆっくりと視線を上げてきたロイが、くしゃん、と笑った。
「いらっしゃったんですか」
「不在分ぐらいはナ」
「ずいぶんと可愛くなっておいででしたでしょ」
「ふン、まァな。裏が無ェのにゃ奇妙にこそばゆくなるがナ」
カチン、とドアをロックしたロイが、歩き出したパトリックの後に続いてくる。
「本日のご予定はどうしますか、ボス?」
「不在の間のレポートを読んでガキどものエリアを少しキレイに片付けさせるか。近頃グループの入れ替わりが激しいらしいナ?」
「なかなかリーダーたる存在が浮上してこないもので。まあドラッグの出回りはいいですけど」
「インテリ層には少しクオリティの高いものを流させろ。親が金持ちなら間違いなくコドモは落としてくれる」
「組織立てますか」
「ガキどもだけに組織は運営させろ。手助けは少しだけでイイ。ガキどもはこちらの思惑以上にシビアで残酷でエゲつない」
ボスには負けますけどね、と笑ったロイの頭をぐいっと押し遣った。
てへへ、と笑っているロイに、自室のドアを開けながら言った。
「ああ、それと。ランチは温室のほうに用意するよう、ウィンストンに告げといてくれ。二人分ナ」
すう、とロイの両目が見開かれた。
「お猫サマの分もですか?」
「たまには新鮮な空気でもやらねえとナ」
「――――――逃げ出しませんかねえ?」
ふ、と苦笑に表情を崩したロイに、肩を竦めた。
「いまならしねえだろうよ。まあ裸足であのウッドチップの上を歩いて逃げるってンなら、やってみりゃいいがな」
解りました、とロイが苦笑した。
「ついでに、じゃあボスがランチを楽しんでいる間に、オレは屋敷の連中とミーティングでもやってますヨ。コーネリアス氏の後釜、まだこれから候補を絞るんでしょうから。一応候補になりそうな連中をこちらでもピックアップしておきましょ」
うっかり仔猫チャンとボスのツーショットを見て浮かれられても面倒ですし、と続けたロイに頷いて、自室に足を踏み入れた。
「なにやら意識改革しやがった猫は奇妙にフェロモン垂れ流してっからナ。間違いが起こる確率は最低限に、っていうんなら、そうしとけ」
ドアを閉める前に、ロイのコトバが届いた。
「もちろんですよ。無駄に人員削減はちょっと勘弁願いたいところですからね、ボス」





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