*46*

水の入ったグラスを手元に引き寄せて、指を水滴が濡らしていくのも構わずにそのまま口許まで運び、ルーシャンが細長く息を吐いた。
時計の音さえしない静かな居間には人気が無く、分厚いドアは外界の音を遮断しており扉の外で何が起きているのか推測することは不可能だった。
実用というよりは装飾のために誂えられたような書棚には幾冊も美術品めいた本が並んではいたけれども、それを引き出そうと思ったことはこの部屋に「在る」ようになってから一度も無かった。その古い革に刻印された背表紙の金文字を眺めながら、グラスを傾けていき。半分ほど飲み干したソレをまた卓上に戻していた。
喉元まで幾度も出掛かった言葉がある。
押し殺すたびに内側が重くなっていく気がする。静かに溜め込まれていく重み、それは最初の数日間に感じていたモノとは違っていて、ましてやその後に訪れたちょっとした精神的な自殺未遂とも違って。
トン、とグラスの縁を指先で弾いた。
『なまえ、よんでくれよ』
そう自分は言った。ソレは確か、今日が初めてじゃなかったはずだ、と思いながら。
あの声で、自分の名前を呼ばれるのが「すきなのだ」といつから自覚したのか、わからない。
気紛れで物柔らかな口調で呼ばれることも、スキであるし。そのたびに、僅かに自身の内側が軋んで行くのも薄っすらと感じてはいたけれども。
どういう扱いをされているのか、探るのを止めて少しはラクになった。
ただ、その口調がすきなことだけを意識してみれば簡単だった。そのほかの余計なことを考えずに。
けれど、例えば、とルーシャンがまた息を短く零した。
自分は、名前を呼ばれることが好きだけれども。ベッドの中でも、外でも変わらずに。だけれど、と思考がぐるりと一回転する。
オレの仔猫チャン、と自分のことを呼ぶ男は、あたりまえのようにルーシャンから名前を尋ねられないことを捉えているように思えた。
あんた、なまえは、と。幾度も言葉になりかけた問いかけは押し殺しすぎて磨り潰されているけれど。それでもさっきのように時間を過ごせば、また息を吹き返しそうになる。
ただ、それを望まれてはいないのだろう、と切れ切れになりそうな意識で思った、あの男の腕の中で幾度も。
『飼い猫』から話しかけられたいなど思わないだろう、といまも思う。
誤解するな、と自戒して強張っていたのは数日前までだったけれども。それも止めてしまった。
誤解もなにも、自分はそもそも……定められた期日の間、此処にあることを望まれているだけで。
望まれている間は、素直にあるがままに感情を明け渡した。齎されるモノをそのまま享受し、取り繕うことを止めて。
そう在ればあるほど、一瞬夢想する、そう、夢想したのだ、この自分が、とルーシャンが口もとを僅かにひき歪めて小さな口調を作った。
唇に上らせるなまえを知っていたなら、どれほど甘美だろう、と。

「―――――――救いようがないね、」
終りを暗に提示されて、やんわりと促されて。そのことに愕然とするような『バカ』だ。
「この後」のことを考えてみようとした。一人で残されてから。
笑ってしまうほど、その先、が見えなかった。ただの空白でいっそ笑った。水を持ってきてくれたロイが、『おや、ゴキゲンですね?』と薄っすら微笑むほど、一人で大笑いしていたから。
そうだよ、おれって空っぽだねェ、と声に出さずに返事した。
スゲエ、オカシイ。これじゃあ、まるで―――――――
ふ、とコレに似た感情は覚えがある、となんとなくカタチが遠くに霞んで見えた気がした、刹那。
けれどそれを捕まえようとする前に、コン、とドアがノックされ。捕まえられそうだった感情とその記憶が霧散した。
にっこりと笑みを乗せたロイがドアの向こうから優雅なスタンスで入ってくるのが視界に入り。その一歩後ろに三日前に見た顔があった。
「―――――――ぁ、」
そいえば、と思い当たった。午後には仕上がった服を持ってくる、と言われていたことを。
実際、興味は無かったけれども。この屋敷の主の気紛れには付き合うことを決めていたのだからイマサラ異議を唱えたところで何にもならない。
「ごきげんよう、気分はいかがかな?」
そうキングスレーが穏やかなトーンで語りかけてくるのに、曖昧な返事を戻しながらルーシャンが思考を切り上げるとソファから立ち上がっていた。
「わるくはないですよ、」
よくも無いけど、と思いながら。





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