*9*

 川底の泥の方がまだ軽い、と死んだように動かなかった意識が模っていく。
 夜が明けたことも、空が白んだことも、時間が過ぎたことも飛び越えてしまったように「いま」はどことも繋がっていなかった。
 眼球だけが自由に動くように思えた。
 瞼が重くかぶさるようだったことに最初は気付かずに、夜中なのかと思った。
 自分が眼を閉じたままでいることを理解できるころには、体中が重く感じられる他にも、指さえ自由には動かせない気がしていた。
 実際、身じろぎひとつ、マトモにできはしなかった。
「――――――――ぅ、」
 身体を起こそうとしても、四肢が鉛で出来たように重かった。
 体中が鈍い痛みを鼓動と同じリズムで刻み、息をすることさえ辛い。
 ろくに寝返りさえ出来ない事実に、閉じたままだった瞼を一度キツク閉ざした。死にかけた動物めいた、浅い息を繰り返す。
 なにもかもが、深さもニュアンスも軽いものも、浅い呼吸さえ眼がゆっくりと覚めていくにつれて事実を突きつけてくるのに低く呻き。その掠れ切った音に唇を噛み締めようとしていた。
 縺れ合う記憶のどれが合わさっても、大差なかった。鈍く、重い、内側から未だ鈍器で身体を押し上げられるような感覚が鼓動に共振していき、息が喉で詰まる。
 痴態、どころのハナシじゃない、あれはむしろ狂態だ、と。人工的に惑わされたとはいえ、紛れも無い自身の肉に起こったことにまた低くルーシャンが呻いた。
 ヒトの意思など乗っ取るほどであるのに、あの薬は記憶を曖昧にはしなかった。意識の残っている間に関しては。
 そう嫌でも気付かされ、まだ軽く痺れるような指先に漸くリネンを引いた。動かせた、つもりがぴくりともせず。
 記憶が空白になってから後のことは考えたくも無かった。あれだけ、“濡れて”いた自分の身体は内側に燻り続ける鉛めいた鈍さとだるさ、それが残るほかは、何の名残も留めていない。
 いま、横たわっているのは同じ寝台であるのに。
 そのことに、ルーシャンがまた歯を噛み締めるようにし、洩れかける絶望めいた嗚咽を噛み殺した。
 縫い合わされたように重い瞼を自分でも滑稽に思えるほど必死になって薄く開き。入り込んでくる陽射しの眩しさに息を詰める。
 時間の感覚などとうに曖昧であったけれども、部屋にさす陽射しと、それを作り出す影は朝のものではなかった。
 身体を起こそうとし、喉奥から溜息とも、呻き声とも、自分でも区別のつかない音が軋む体に勝手に押しだされ、アタマが時間を遡りかけるのを眼を閉じて押し止めていた。

「おや、目が覚めましたか?」
 突然聞こえた声に、びくりと肩が揺れた。
 一気に時間が遡り、ルーシャンが視線を上げたならそこに“ロイ”がいた。
「水や痛み止めは要り様ですか?」
 飄々とした口調のままに問われ、ルーシャンはそれには応えなかった。
 口許に刻まれた笑みに殺意さえ覚える。一体何時からこの男は部屋にいたのだろう、と埒も無いことに苛立つのを止めることができずに。
「喉は渇いてはいませんか?」
 ひとりになりたかった、これだけ無様な有様を曝し続けるのは耐えがたかった。
 けれど、額に熱を計るように触れられ、腕を撥ね退ける自由さえいまの自分の身体には残されていないことに瞼の奥が熱くなる。
 でていけ、とそれだけを荒れすぎて酷く聞きづらい声が綴った。割れてしまっていた。喉までが痛む。
「もう一眠りした方がよろしいですよ」

 ドアの閉じられる音のするまで寝台の一点を見詰め顔を上げずにいたルーシャンは、誰もいなくなった室内で無理やりに身体を起こし、内側から腰がへし折られそうに感じながら、立たせた片膝を抱え込み俯いていた。
 落とした視線の先に、グラスに入った水の透明な影がちらちらと落ちてくることさえ疎ましい。腕を振り上げて、それを床に叩き落し。分厚い絨毯にただ鈍い音がし、濡らしていくだけだった。
 どんなに厭わしく思っても、身体を信じられないほど深くまで貫かれたことは事実で。そのことを肉は悦んでいた、その記憶はこびりつき。
 たとえ骨が覗くまで身を削ったとしても、もう沁みこんでしまっているに違いないようにさえ思えてルーシャンが眼をキツク閉ざしていた。
『オマエの身体はどんな淫乱なビッチよりオレのを咥え込むのが好きらしいな、ルーシャン?そんなにイイか、コレは?』
 たとえ耳を塞いでも、脳に刻み込まれた音は消えていかなかった。



 *10*

 コンコン、とドアがノックされ。ボス、と声がかけられ、扉が開いた。
 パトリックは入ってくるロイに視線を当てながら、電話をしていた相手に声をかけ続ける。
「アンダーソン、例のブツはそのままアジアに横流ししろ。解るな?」
 入ってきたロイが、黙ったままテーブルに近付いてくる。
 アンダーソンが返事を寄越す間に、ロイの頬にひどい引っかき傷があり、それをロイが痛そうに擦っているのに目を細めて口端を吊り上げた。
「アジアのマーケットは広いだろう?反米に変わる前に取り込んでおけ。解るな?」
 イェス、ボス。そうアンダーソンが応えるのに頷く。
「調い次第様子を見に行く。手は抜くな」
 そう言い切って、通話を切った。ロイが眉根を寄せて、じ、と見上げてくる。
「ローイ、オトコマエになったな?」
「笑い事じゃないですよぅ、ボス。ボスの拾った野良はクスリが切れたらこの通りです」
 すい、と顎を引き上げたロイの頬に数本、首筋にも数本の蚯蚓腫れが出来ていることに、ハハ、と笑った。
「喚いて暴れて、ほんっとアレ、あのまま飼うんですかぁ?」
「けどちゃんと支度はさせたんだろう?」
「ボスの仰せですからねえ。服をひん剥いて風呂に放り込んで湯浴みさせた後に、タオルドライしてから脚を開かせて、やっときましたけどぉ。もうすぐオレ自身が使い物にならなくさせられるところでしたよう」
 じと、と恨めしそうに見上げてくるロイに、パトリックはにやりと笑った。
「ニアミスか」
「嫌な予感がして、とっさに腕でカヴァ取りましたって」
 深々と溜め息を吐いたロイに、くくっと笑う。
「失神するまでファックしたんだ、動きは緩慢だろうが」
「いやあ、窮鼠猫を噛むといいますか、火事場のバカ力といいますか……まあオレじゃあ威厳が足りないんでしょうねえ?」
「じゃれてンだよ、遊んでやれ」
「ご冗談を!」

 ぷく、と頬を膨らませたロイに、ご苦労だった、と言えば。
「ほんと、こんなところで苦労させられるとは思いませんでしたよう」
 そうロイがぶすりと言った。
「誰かに替わらせるか?」
「見目がいいですからねえ、あの野良。ちょおっと他の連中じゃあぐらっとしちまうかもしれませんね」
「アレの抵抗が続くようだったら、ニ、三人見繕って躾させてやろう」
「ボォス、余計な面倒増やさないでください」
 いいアイデアじゃあありません、とロイが首を横に振った。
「案外マジボレされて、ボスに刃向かうかもしれませんよぉ。そしたらオレ、仔猫ちゃんにその連中と、躾けがタイヘンじゃないですか」
「ふン?頭吹っ飛ばして魚に食わせりゃいいだろうが」
「野良もですかぁ?だったらとっととやっておく許可が欲しいですって」
「ルーシャンか?まあ暫く遊ばせてやろう」
「遊びで手下を惑わされたら敵いません」
 うへえ、と顔を顰めたロイの素直な感想に、くくっとパトリックは低く笑った。
「オマエは堕ちないのか?」
「ボスを裏切ってまでですか?興味ありませんね」
 ひょいひょい、とロイが手を横に振った。
「具合は良さそうですが、オンナのほうがイイです。あんな野良を相手にするのも面倒ですし」
「面倒臭がり」
「ボスほどじゃあありません」
「あんまり従順な連中ばっかりファックしてると、手管が鈍るぞ」
「面倒ごとはボス一人で結構です」
 飄々と言ってくるロイの頭を叩いて、パトリックは笑った。
「楽しんでるクセにオマエは」
「ボスの面倒を見るのはいいんですよ、オレのライフワークっすから。けど他はねえ?面倒見切れないですって」

 はあ、と溜め息を吐いたロイに、ばさ、とファイルを投げてやった。
「それじゃあオレが野良を躾けてくるとするか」
「行かれますか」
「退屈するだろうから、外でソレでも纏めとけ」
「あー、今日も廊下ですか」
 廊下でも使えるサイズのコンピュータがほしいもんです、と呟いたロイに、考えておこう、と返し。座っていた椅子から立ち上がった。
「暴れるほどにアレは元気なのか?」
 訊いたパトリックに、こくん、とロイが首を傾げた。
「どっちかっていうと、息も絶え絶え、なんですけどねえ?」
「そうかよ」
「ボス、遠慮ないんですもん。最後なんかすんげえ泣いちゃってタイヘンだったじゃないですか」
 ドアの外、廊下で万が一に備えて寝ずに付き合ったロイは、きゅうっと眉根を寄せてパトリックに訴えた。一度“愛人”が“刺客”になった事件があって以来、この腹心の部下はいつ如何なる時でも“ボス”に付き合うニンゲンになった。
「イイ声してたろ?」
 に、と笑って言えば、あははははー、とロイが空ろに笑った。
「オレの好みは従順でかわいいオンナノコですってば」
「今日は別の意味で泣くだろうな」
「あ、ボス。生き生きとしてますね。サドだぁ」
 指を指してガキが言いつけるように言い募ったロイを小突いて、ルーシャンに与えた客室の前で脚を止めた。
「適当にメシ食って、時々は交代しとけ」
「ボスは耐久躾タイムですか?あーあ、ガンバリマスネ」
「こういうのは最初が肝心だからナ」

 扉を開けて、柔らかなオレンジのヒカリに照らされた部屋をぐるりと見遣った。ドアの側で飛び掛ろうと待ち伏せできるほどには、野良猫は元気はないらしい。ひょい、とロイを振り返った。
「おい。今日も縛ったのか?」
「えーえ。そうでもしなけりゃ大変ですからねえ」
 後ろ手に括って、片足はベッドポストに繋いでおきました。そう疲れた顔で言ったロイに、ご苦労だったな、ともう一度笑ってから扉を閉めた。
 いまはまだ使用された形跡のない小さなリヴィングを抜けて、ベッドルームの扉を開ける。
 アンティークのベッドの上で、ルーシャンがびくりと跳ね上がったのが見えた。リネンが既に乱され、クッションが床に散らばっているのが見えた。
 くく、と笑いながら扉を閉めて、裸のまま括られた野良猫に近寄っていく。
「その元気があるようなら、今夜もたっぷりと遊べそうだな、仔猫チャン?」
 いまにも泣き出しそうなブルゥアイズが睨み上げてくるのに、にやりと口端を引き上げた。
「メシを食わなかったそうだな?バテても知らねえぞ」
 ぐう、と唇を噛み締めたルーシャンの側にすとんと腰をかけ。頤を片手で掴み上げた。
「昨日は酷く気分良くさせてもらった。オマエは大した淫乱だよ、ルーシャン」
 真っ直ぐに睨み上げてくるブルゥアイズに目を細め、ぺろ、と唇を舐める。
 括られていないほうの足が、ゆる、と引きあがり。酷く緩慢な動作で、それでも蹴ろうとしてくるのを捕まえ、ぐい、と足を開かせた。そのまま、ばし、と頬を叩いて、リネンに倒れこませる。
「――――――――っ、ゥ、」
「間違えるなよ、ルーシャン・カー。昨夜のは遊びだ。今日はあんなに優しくはしてやらないからな?」
 呻いたルーシャンが、ぐう、と唇を噛み切りそうな勢いで噛み締めているのを見下ろして、いきなり中心部をぎゅうと握った。
「う、ァっ」
「オマエが快楽を覚えこんだことはもう知っているからな。自分から腰を振れる様にしてやろうな?」
 身体を跳ねさせ、けれど蹲ろうとはしないルーシャンを見下ろし。一度足を放り投げてリネンに落としてから、パトリックはゆっくりとシャツのボタンに手をかけた。
「それともいきなり突っ込んでみるか?んん?案外オマエなら、それでも平気そうだけどナ」
 くく、と喉奥で笑いながら、背中と片足でヘッドボードのほうにずり上がっていくルーシャンを、シャツを脱ぎ終わるまで放置しておく。
 はさん、とシャツがフロアに落ちたところで、ぴん、とロープが張るまでに遠のいたルーシャンの片足を掴んで、無遠慮に引き摺り下ろした。
「もう片方も縛っておくか?」
 ぐう、と足を強張らせたルーシャンを見下ろしながら、ベッドサイドのドロワーに手をかけた。
「そうだな、可愛く泣けるまでは縛っておくか」
 中からロープを引き出し、それにノットを作った。ぎゅう、と口を噤んだままのルーシャンの片足にロープをかけて、淀みない動作でその端をポールに括りつける。
「暴れると折れるぞ」
 逃げようと足掻いていたルーシャンの足とベッドのポールを繋いで、それから両脚を立たせて開かせたまま、また引き摺り寄せた。ぅ、とルーシャンが声を零し。ほろ、と両目から雫を溢れさせていく。唇が細かく震え、喉が鳴り。両膝がぶるぶると震えているのが解った。

 掌で頬を捕まえ、親指で零れた涙を拭った。
「いくらでも泣き喚け。そのほうが楽かもしれんしな」
 ぐ、と無理矢理嗚咽を噛み殺そうとしたルーシャンの、叩かれて熱を帯び始めた頬をさらりと撫で下ろした。
 そのまま、後ろ手に括られ背中を強張らせたままのルーシャンの胸に顔を寄せ、見せ付けるように伸ばした舌先で小さな尖りを掬い上げ。顔を反らそうと必死になっているルーシャンのその場所に、きゅ、と歯を立てる。
 びくりと背を浮かせたルーシャンが、
「ィ…っ、ぁ!」
 そう泣いて、ひくりと背中を強張らせたのに、くく、と笑い。さら、と掌できつく握っていたままのまだ柔らかい屹立を、優しく揉み始める。
「オレはヘンタイらしいからなァ?オマエで楽しむのに躊躇はしねえよ」
 低く囁きながら、ゆったりと屹立を押し撫でる。
「オマエが早く楽しむことを思い出せば思い出すほど、後が楽だろうとは思うけどな?」
「ぅ、ぅう、」
 喉奥で呻いて、内腿を強張らせたルーシャンが、新たな雫を双眸からほとりと零していく。
「オマエ次第だぜ、仔猫チャン?」
 ぎゅう、と両目を細めて睨み上げてくるルーシャンに、片眉を跳ね上げる。
「余計な意地は張るな。擦り寄ることを覚えろ。そうしたら、可愛がってやる」
 きゅ、と先端を爪で割り開きながら、ぺろりと小さな尖りを舐め上げる。
「早くオレを喜ばせることを覚えろ。快楽に浸って身体を開くことを覚えろ。オマエに期待していることは他にはなにもない―――――解るな?」
 ぐぅう、と身体を強張らせたルーシャンの屹立を、やわやわと揉み上げる。
「理解したら返事ぐらいはするといい。ヒトであることを忘れないためにもな」




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