*15*

空っぽの胃が内側に向かって折れ曲がっていくように思えて、辛うじて膝を引き上げて蹲るように身体を丸めたルーシャンは一人掛けのソファで口許を引き結んでいた。
無理にでも食べ物を口に運べば、身体が受け付けなかった。それは例え水でも同じことで、それさえも身体と、おそらくアタマが拒み。結局は吐いていた。元から空に近いのに、さらに何かを嘔吐するのは酷く辛くて勝手に涙が零れた。喉が焼けたかと思う。
そのまま、バスルームで倒れたままでいたかった、いっそのこと。与えられた室内着の胸元を押さえ込み、きつく眼を瞑り。呼吸することでさえ、身体のどこかが軋みをあげるようだった。
冷たい石張りの床に頬を押し当てて眼を閉じていられたのはほんの何秒かだけで、すぐに物音の途絶えたバスルームへ入ってきたロイの手が伸ばされてルーシャンを引き起こすと着替えさせながら濡れた頬や口許をクロスで拭っていき。その間にも寝室からは人の立ち働く気配が伝わってきていた。メイドが手をいれているのだろうとわかる。
俯いたきり、黙り込んでいたルーシャンの手元に水の入ったグラスを持たせると、ドクタをお呼びします、と言い残してロイがバスルームから出ていっていた。
かつ、と。グラスの底が床に当たる音が微かに響き。床に両手を着いてのろのろとルーシャンが起き上がっていた。壁を覆うほどの大きな鏡が影を映し出すのを視線を床に落として避けながら踵を引き摺るようにしてバスルームを出て行き。
そして、窓際の一人掛けのソファに身体を落としたのだった。膝の間に額を落し、そうすることは無駄だとわかっていても、せめて外界から触れる体積を少なくしようとでもいうように身体を縮めて。
とうに誰もいなくなっていた寝室はただ静かなばかりだった。
自分にはいま死を選ぶだけの勇気も気概もない、ほんとうに、あの男のいうように空っぽだ、と。そう思いながら、僅かに唇を引き結ぶ。
全身が痛むことなど、内側から切り裂かれるようなココロに比べれば酷くちっぽけで、そして。
「――――そんなものには、価値もない、」
言葉に出してしまえば、酷く真実めいていた。
肺が押し潰されそうで、息を詰め。瞼の奥がズキズキと痛んだ。
眠りも、ルーシャンからは遠く。マンハッタンのアパートメント、自室のベッドでさえもよくは眠れていなかったのだからそろそろ神経が参ってくるころだ、と他人事のように思っていた。
三日も眠らずにいれば壁が自分に向かって近付いてくる、薬など使わずとも相当酷い夢が見られるよ、そう言ってわらっていた友人は誰だったか、そんなことをぼんやりと思った。

身体は、とうに限界を越えているようであるのに。バスルームで、脚が縺れかけ右腕を手酷くシンクに打ち付けても、ちっとも痛みも何も響かなかったほどであるのに。
「けど、」
ぐぅ、と自嘲にルーシャンが唇を歪めた。“別の”ことになら吐き気がするほど感覚は鋭敏だ、と。
『気をつけろよ、おまえ。いつかとんでもない目にあう、』
友人の言葉がカットアップする、トウトツに。記憶の底から。
ありがとう、オマエは偽善者だ。そうルーシャンが友人の面影に向かって脳内で呟いた。
オマエだっておれに惚れてたくせに。
何通もの手紙、馬鹿げたパーティ、バーの梯子、友人たち。どれもがとてもつもなく遠くなっていた。とても、とおい。
「で、おれは………間抜けだ、」
オレみたいなニンゲンをちやほやしてた連中は、もっと、間抜けだ。バカども。
ぐぅ、とルーシャンが膝に額を押し付け、目を閉じていた。
「突っ込まれて、泣き喚いて、バカじゃねえの、」
ぼそりと言う。
あぁ、ほんとうにバカみたいだ、プライドにシガミツイテ。“ルーシャン・カー”であること、そのことに価値がゼロであるなら。そうまでして”自分”に固執してどうなるというのだろう。
あぁ、そうか、と今になって言葉が意味を成した。ロイ、という名前の男が諭すように告げてきたことが。
「都合の良い“肉”になってれば、いい、ってな……?」
ハ、と笑おうとし。
息が喉で掠れて咳き込んだ。しばらく咳き込み、は、と喘ぐ。それだけでも、鼓動がバカみたいに早くなった。精神と、身体が同調して軋み。悲鳴を上げ始めているのだ、と思った。

ふ、と上げた視線の向こう側で、寝室のドアが開くのが見えた。ロイと、もうヒトツ、小さな影が掠れた視界に写る。
「あぁ?!」
イキナリ、奇声が室内に響いたように思えてルーシャンが眉根をきつく寄せた。高い声が頭蓋のなかを木霊して飛び跳ねるようなイメージに。
室内をだれかが走りよってくることが奇異に思える。
そしてロイの気配が部屋から消えていたことにも気付き、ルーシャンが初めて顔を僅かに上げた。
「ひっどいカオ色だ、寒くはない?」
小柄な、白衣を着た人間、それが視界に無遠慮に入り込んできたのにルーシャンが目を一層細めた。もつれるようなクセっ毛だ、とわかる。小さな眼鏡をしていた。
「アンソニーです、ドクタです、診察に伺いました、本来なら君は入院だ」
僅かな早口、少しばかり高い声。その声のトーンを分析していたなら、医師の気楽さで右手を取られ、ルーシャンがまた僅かにぴくりと腕を引きかけた。手首に残された拘束の痕に、アンソニーが眉を思い切り顰めていた。
「なんでこんなところで座ってるかな?横になっていないと辛いでしょ?隈すごいよ、カブキメイクだよソレ?」
音が、ただの音符になってアタマに流れ込んでくる。
アンソニーが言葉を切ると、ルーシャンからの反応がゼロなことには構わずに足元に置いてあったカバンを開き中から体温計や血圧計といった道具を取り出していた。
腕を引き抜くのも酷く億劫で、ルーシャンはそのまま背もたれに身体を預け直していた。ぼんやりと窓外の明るい光だけを意識に入り込ませながら。
「はい、これ脇に挟むよ?先に体温だね」
音だけがまた意識の表面を滑っていき、腕が引き上げられる。そして、医師がルーシャンの首にぐるりと残された痕に気付き、なにかに憤慨したように言っていた。
「まったく、あのコはもう!!」
奇異な単語を使って表現されたアンソニーの憤慨は、けれどルーシャンの意識の中にまでは届いていないようだった。

手早く一通りの所作をこなしながら、常識の範疇外なほどの低体温にまた医師が何か憤慨し、図り終えた血圧の数値にもまた律儀に憤慨した。
「ほんっとうに!!本来ならキミは病院に行くべきなんだよ!」
告げられた言葉の場違いなほどの「まっとうさ」に、ルーシャンがうっすらと笑みを口許に刷いていた。
視線をまた戻す間にも、手早く袖を押し上げられ、腕に僅かな痛覚が走ったことにひくりと肩を強張らせ。注射器に赤が吸い出されていくのをじ、っと見詰める。そして、ルーシャンが、ぽそりと呟いた。
「なんの、検査」
自身で耳にしても、酷く掠れ切った声だった。
「色々。一通り、調べられるモノは全部」
「オレが、キャリアだったらあんたのボスはとっくにアウト」
おあいにく様だったね、と告げて。ルーシャンが腕をまた抱きこむようにし、膝を抱え直していた。
「あ、まだダメ。腕出して」
軽く、腕を引き戻される。
「―――――――なに、」
視線を戻せば、医師が背後から何か取り出し組み立てていた。金属製のスタンド、そして透明なパックが見えた。
「死にたくはないでしょ?折角のイノチなんだから」
そう言いながら、更にカバンからビニールパックをもう幾つか取り出していくのをちらりと認め。すう、とルーシャンが息を吐いていた。
そして、思い切り脚を伸ばし、パックのセットされはじめていたスタンドを蹴り倒していた。フロアに耳障りな金属音を立ててスタンドがひっくり返り。倒れたソレを更に蹴りつけ遠くに転がし、サイドテーブルに当たってまたチューブが長く床をのたうっていった。
物音を聞きつけ部屋に入って来たロイは、荒い息を噛み殺していたルーシャンの横を通り抜け医師に向かい短い言葉で彼の無事を確かめると、透明なパックを踏みつけようとしていたルーシャンを腕で掴み上げた。そして、そのまま引き摺るように運ぶとベッドに放り投げ、起きようともがくのを膝で軽く抑え込むようにしながら支柱に暴れるルーシャンの手足を括りつけていく。
ほんの何秒かの間の出来事にアンソニーは目をまん丸に見開き、その場に立ち尽くし唖然と見詰めていた。大人しく、為すがままだった「患者」の豹変にまだ意識が追いついていないようだった。
けれど支柱に手足を括りつけられても、まだ何とか自由を取り戻そうと腕を無理やりに引くような「患者」の様子に慌てて近寄れば。
「暴れると手首を傷めます、落ち着きなさい」
ルーシャンの腕を軽く押さえつけるようにしてロイが言っていた。
「ごめん、ボクなんか気に障ること言ったかな?ごめんねごめんね、だからそんなに泣かないで」
その隣では小柄な医師がおろおろとルーシャンを覗き込み。
「ドクタ・アンソニー。この仔猫は野良だから、そもそも暴れるもんです」
医師の動揺を押し切るようにロイが言い切っていた。

「さ、改めてどうぞ」
びん、と布のギリギリまで引っ張られる音がしそうなほどに腕が細かに震えるのをロイが押さえ込み。アンソニーは再度、点滴の支度を手早く整え、針先を浮き出た血管に通していた。それでも抗おうとする所為で血液が僅かに逆流しかけ、
「暴れるのをお止めになりませんと、オレがこうやってずっと抑えていることになりますがよろしいですか、ルーシャンさま?」
ロイの声音にまた動揺しかけた医師が、それでも赤がそれ以上上ってこないことを確かめると針先をテープで固定していく。
ぼろ、と酷く辛そうに涙をまた零したルーシャンを、唇を噛みながら見下ろし。アンソニーが点滴の終わる大凡の時間をロイに告げていた。
ぐぅ、と一度、ルーシャンの肩が強張り、そしてアンソニーがまた緊張し。けれど、きつく拳をルーシャンが握っているのに嘆息する。
「目を瞑って静かに横になっているんだよ?」
ロイに促され、ドアに向かいながらそうっと最後に告げていた自分の言葉は多分、あまり守ってもらえないのだろう、とアンソニーは自覚していた。なぜなら、腕が強張るのが見えた。あんなに緊張していたなら、痛むだろうに、と何もしてやれない自分に切なくなる。
医師が心配そうな表情で見上げてき、そのまま深い溜息を吐くのを認めながら、ロイはアンソニーを廊下まで静かに促していた。




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