*15*

捕まえられていた腕を、引き剥がすように強く引いてヴァンが自由を取り戻し。石畳に響く足音に唇を噛んでいた。
立ち止まり、腕から離れて。頭の中身が全部吹き飛ばされそうだ、と眩暈のしそうになるのを堪えて唇を噛み締めていた。
町外れにあるライヴハウスは、裏道に面したドアで。立ち止まらずに、まっすぐに進んでいったショーンの足音がもうかすかになっていた。
その進んでいった方向とは逆にヴァンが頭を廻らせた。
頭が酷く痛んで、同じだけ、それ以上に心臓が千切れそうになっていた。
『待ってろ、』
その台詞が馬鹿馬鹿しいと思った。
なんで待ってなきゃいけないんだろう。
逆方向に向かって歩き出した。

哀しいのか、怒っているのか、辛いのか、泣き出したいのか、もしかしたら―――笑い出したいのかもしれなかった。
音、ショーンの声が頭のなかに残っていた。追い出してやりたいのに……取り憑かれたみたいに木霊する。
ライヴハウスの裏口から、ノイズが低く漏れ出しているのを無視して、進んでいく。
外付けの非常階段の方から、ビンが落ちてきて小道にぶち当たってクラッシュする音が妙に鮮明に聞こえて。
ヴァンが唇を噛み締めた。
近付いてくる、タイヤが石畳を踏む音を無視してそのまま歩いていく。
背後からのライトが前方を照らし出して、裏道の落書きが目の前に広がった。
「ファック、」
行きどまりじゃねえか、と毒づき。横道に入ろうとしらなら横付けされたローヴァのシートからショーンの降りてくるのが見えた。

「帰るよ、」
穏やかな声が届いた。
視線を僅かに上げた先に、ショーンが立っていた。
「帰れば、おれは後からクルマ拾って戻る」
ぐ、と唇を噛み締め。眼が勝手にショーンの姿を刻み込もうとするのを押しとめる。
「そういう訳にはいかねェの、解ってるだろ」
「いく」
頑なに言い募り、拳を握り締めていた。

「ワガママ」
「ガキだから」
「ガキのワガママは許されないんだよ。さっさと乗れ」
「いやだ」
「ダメだ」
いやだ、と腕を振り下ろして抗議する。
「あんたは――――」
ぐ、と喉奥で嗚咽が引き起こされかけ、ヴァンがまた唇を引き結んだ。
真っ直ぐに、見詰めてくる相手にヴァンが語りかける言葉を一瞬無くしていた。
「そんなに嫌なら、一人でどっかに行けばいい、放っておいてくれよ」
足元がぐらつく気がする。
「放っておけるか」
「じゃあ構わないでくれよ」

引かれた腕を振り解こうともがいても、ず、と引き摺られるように車の側までいかされ、ヴァンがまた声を荒げていた。
「だから!」
「大事だって、言ったろ」
低い、僅かに怒気を滲ませた声に、ヴァンの気配が僅かにまた悔しさを滲ませたものに変わっていった。
「あんたの言葉がわからない、」
「なんで?」
だん、とヴァンが拳でローヴァのドアを打っていた。
「拒絶されて、大事だなんていわれてもわかるもんか……っ」
ぼろ、と押させていた涙がまた勝手に零れ出すのを押しとめることが出来ずにヴァンが毒づき。一瞬眼を閉じたなら、身体がぶつかる勢いでローヴァのドアに背中から押し付けられていた。

ぎゅ、と痛みに一瞬閉じた眼を開ければ、間近にショーンの顔があり。ぐ、とヴァンはそのブルーを睨み返すようにすれば。
「解れ、」
と噛み締めるように、唸るように短い言葉が洩らされていた。
そのブルーの中をいくつかの色味が過ぎったように感じたのはけれど一瞬で。
胸奥から競りあがるように、また熱い塊りがあふれ出し、それは涙になって頬を濡らしていき。
でもおれは、とヴァンが呟いていた。掠れ、震え、細いソレはけれど。
「あんたのこと、諦めるなんてできねぇよ、」
真っ直ぐに射抜かれるような眼差しを受け止めながら、嗚咽に紛れこむことのないよう、必死になって消え入りそうになる言葉を掻き集め、ぎゅう、と両手でショーンの胸元に縋るように身体を倒れこませていた。
「ショォン、できねえよ―――っ」

くぅ、とショーンが一瞬表情を歪ませ、手を離していた。
「じゃあ言われたくらいで諦めてンな」
言葉だけが、頭の上に落ちてき。腕が放され、ショーンはドライヴァーズシートへと戻っていき。
ヴァンが泣き濡れた眼でその姿を追う。
けれど視線の向けられることもなく、ヴァンは拳をきつく握り締めてから、リアシート側のドアを開けていた。
そして、膝を抱えこむようにし、その間に顔を埋め。クルマが走り出す間中、ドアを開けて飛び降りてしまいたい衝動とずっと戦っていた。

けれど、クルマが山道に入り始めたなら。
「ショーン、」
そうバックシートから声を絞り出すようにして呼びかけ。
「なに、」
「家に近付いたら、降ろして」
少し怒りを潜めたショーンの口調にまっすぐに返していた。
「湖にいきたい」
「阿呆なことを仕出かしたら、嫌いになるからな」
家の見えたころに、クルマを降り。エンジン音が再び聞こえる前に湖に向かって歩き出していた。

ひた、と桟橋に水の打ちつける音が聞こえ。風に水の匂いが混じり始め。服を脱ぎ落とすとヴァンはまっすぐに暗色をした水に飛び込んでいた。
水の中に、頭に焼きつきそうな音を全部置いて行きたかった。
そのまま息の続く限り深く潜り浮島まで泳いでいき。ぼんやりと月灯りと水の反射で奇妙にほの明るいその場所に上ると、膝に顔を埋めて、涙の止まるまでずっとその場所にいた。



 *16*

闇にまだ満ちたリヴィングのソファにショーンが座り込んで、もう1時間は経つ。
ヴァンが戻ってくる気配はない。叔父が起き出してくる気配もない。

自分が無意識にだか選んだ曲が、頭の中でリフレインする。
What the hell I'm doing here, really.
オレはここで一体何をしている、マジで?
I don't belong here――――オレはこの場所にそぐわない。元より、ここはオレの居る場所ではない。

昨日感じたよりも強く、この場所に戻ってくるべきではなかったと思う。
ソファに凭れて目を閉じれば、思い浮かべられるのは泣いていたあの子の顔だけだ。
泣いていた、傷付いていた、とてもキレイで天使のようなヴァン。
もう少しで口付けるところだった。
泣くな、傷付くな、なにも考えるな、全部寄越してしまえ――――――全部を、寄越せ。そう告げて、抱きとめるところだった。
考えナシに、衝動だけで抱き締めて、攫って……。
そんなことができる訳がない。
相手は何よりも大事なハズのオレのおチビさんだ。
ただあのライヴハウスで見た表情が頭から離れないからといって、いままでそうしてきたように、オノレの欲求を満たすために抱くことなどできない。

抱くことなど、と考えて、昨夜まで抱き締めていた細い身体の感触を思い出す。
一度触れた下半身の熱さが頭を過ぎる。
頭の中で服を脱がせて、一糸纏わぬ姿を慣れた思考回路で勝手に思い浮かべようとするのを押し止める。
オノレのロクでもなさに絶望する――――なぜ、ヴァンを抱くことを考えてしまえるのか。
側に在る時には、ただ笑っていてほしかった相手だ。笑って、喜ばせて、遊んで、一緒に眠って。ただそれだけで満たされていたハズだ――――――傷付けたくはない相手だったハズだ。
唇を噛む仕草に、酷くソソられた。泣くのを懸命に堪えているのを攻めて、甘い涙を零させたくなった。
戸惑わせて、震わせて、吐息交じりに声を上げさせたくなった――――――あのクラブハウスで一人、迷子のように佇んでいるのを見詰めて。
Just like an angel―――――オレの天使のハズだったのに。どうして……抱きたくなってしまったのだろう?
感化された?……誰に?ヴァンに?曲に?
ただ戯れに――――牽制のために選んで歌った曲に、なにを気付かされた…?

湖の畔で置いてきたヴァンが帰ってこない。
そのことに無意識に手が震える―――――そのことの意味が、自分ではまだ解らない。
オレのかわいいおチビさんが、自分の監督下にある時にキケンな目にあってほしくない―――――それは昔から思っていたこと。年上の従兄としての責任の内。
ただ。
自分が傷つけた上でヴァンが一人であることが怖いのか。それとも、ヴァンが傷付いたままでいることが怖いのか。それが解らない。
―――――ヴァンを失くしてしまうことが、いまはこんなにも怖い。
受け入れられる筈もないのに……そんな技量も責任感も自分にはないのに、抱きとめることなどできるわけがない。
喰って、捨てて、その後どうなるか気にせずにいることなど―――――ヴァン相手にはできない。

ぐるぐると思考が回る。
答えは出ている―――――どんなにヴァンが求めても、受け入れることはできない。
何故?―――――ヴァンが同性であることは、対した問題じゃない。
同性を抱くことに嫌悪感はないし、経験がないわけでもない。
血の繋がりのある従弟だから……そう、それはある。けれど、血の重さは枷にはならない。コドモを孕む可能性がないから、気にするだけの意味がない。
ただ小さい頃からのヴァンを知っているから―――――穢したくない。
I really don't want to hurt him―\―\―\because I am unworthy.
相応しくない、値しない、ヴァンが想ってくれるほどの想いを自分が返すだけのキャパシティがない。自分のような人間に引っ掛かってほしくはない。
もっとヴァンを大事にしてくれるヒトが居る筈だ―――――自分はきっと、ヴァンを大切にできない。恋人としては。
何故ならオレは…、と考えたところで、ショーンはふと気付く。
沢山の相手と身体を重ねてきたけれども。結果的に自分から手を出そうと思った同性の遊び相手の中には、どこかヴァンに似た何かが存在していたことを。

「……Oh god」
ソファで蹲り、片手に顔を埋めた。
人混みの中に一人佇んでいたヴァンを思い出した―――――自分が抱きたいと思っていた相手の気に入っていたパーツを全部合わせて体現させた姿のようだと気付いた。
背の高さも、髪の色も、潤んだ眼差しも、佇むシルエットのラインも何もかも―――――望んでいた全てだ、と。
抱いてみたいと衝動的に思ったのも、今ならその理由が解る―――――上げる甘い声を聴いてみたくなったのだ。思い通りの声を上げて甘い歌を歌うのかどうかを―――――。

カミサマ、と。吐息でショーンは呟く。オレはそこまでロクデモナイ人間ですか、と。
ニワトリと卵の問題と同じだ―――――ヴァンがオトナになった姿を想像して、自分は相手をいままで選んできていたのか。それとも、ヴァンが好みのままに育ちあがったのか――――――そして困ったことに、ニワトリが居て卵が在るんだろうと、卵が在ってニワトリが生まれてくるんだろうとどうでもいい、本当の問題は―――――ヴァンがショーンの望む全てを持ちえているかもしれない、ということ。ショーンが相手にしてみたいと願う相手が備えているべき容そのままに、ヴァンがいま目の前に在って心からショーンを求めているということ。

叔父と叔母の離婚を機に、ヴァンから離れたのはこのことに無意識のうちに気付いていた所為なのか?
それとも――――――毎年会っていれば思い出に負けて抱き辛くなるから。記憶に刻み込まれたおチビさんとは別に、ヴァンが一人の魅力的な相手として新たに認識できるようにしておくためなのか?
そこまで自分が堕ちたニンゲンだとは思いたくもないけれども―――――自分のロクでもなさが、そこまで酷いものだとは思いたくないけれども、事実自分は誰に言わせるにしてもロクでもない人間で。
「……クソ、」
震える吐息に毒吐く。
ヴァンが自分を拒絶するはずがないと思っている―――――もし、ヴァンが本当にただの憧れを恋愛と混同しているだけにしても、自分はこれ幸いとあのコを抱けてしまうだろうということに気付く。多分そうではないのだろうけれど。





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