*14*

チェックメイト、と。告げられる前に気付いた瞬間、く、とショーンは内心で小さく笑った。
頭ははっきりとしていたつもりだった。胸の内側にあったモヤモヤも全部置いてきたつもりだった。
けれど、バンガローに戻ってから一度も顔を見ることのなかったヴァンのことが酷く気にかかっていたことに、その時に漸く気付いた。また泣いていやしないか、とか。塞ぎこんでいやしないか、とか。
自分にはもう二度と、あの砂糖が溶けたような甘い笑顔が向けられないのは仕方がないかもしれなかったけれども、ヴァンには暗い気持ちで居て欲しくなかった。

けれど、ショーンにチェスで勝った叔父のあまりの喜びように笑うヴァンの顔を見てほっとした。
朝の時のように、その目は腫れてはいなかった―――――最初は多少曇り勝ちだったけれども、次第に明るい表情に変わっていくヴァンに、ショーンは胸を撫で下ろした。
たとえ、コイビトのように年下の従弟を見れなかったとしても、ヴァンが自分にとっては特別な存在であることはもう解ったから。ヴァンにはできるだけ幸せでいてほしかった―――――自分が関与していない所でも。自分が関与している所なら尚更。

だから、バンガローを出たヴァンに、ショーンは自分のレンジローヴァの鍵を揺らして差し出した。
『運転、してみる?』
『いいの?する』
ふにゃ、と笑ったヴァンの笑顔が可愛かったから、手を伸ばしてその頭をさらりと撫でた。
『リゾーリ、解り辛いんだ』
そうどこか懸命に言って寄越すのに、小さく微笑みを返した。
ほんの僅かだけ笑みを浮かべたヴァンに、今朝のことで嫌われなかったことを知って、自分の内のどこかがほっとしているのが判った。

そうしてヴァンの運転で、昨日もやってきたタウンの外れにある、確かに解り辛い場所にある本屋まで行き。店員に叔父の名前を告げれば、にっこり笑顔と共に発注されていたカタログを取り置き棚から取り出してくれた。
叔父から告げられていたバックナンバであることを確認し。代金は先に支払われていたのか、直ぐに包み始めた店員が、ヴァンと二人でいたことにふと気付いたように、ショーンにカウンタの脇に置いてあった紙を差し出した。
『興味ありましたらお二人でドウゾ。頼まれて買ったんですけど、オレ、こっちジャンルにあんまり興味なくって』
すい、とA4の四分の一の紙に刷られたチケットを見下ろし、少し奥で雑誌の棚を眺めていたヴァンを手招いた。
『どうする、ヴァン。興味あるか?』
たた、と小さい店内でも小走りに遣ってきたヴァンが、ひょい、とカウンタに置かれたチケットを覗き込み。それからショーンを見上げて、こくん、と頷いた。

『じゃあ頂いていきます。代金はおいくらで?』
そうショーンが訊けば。
『あ、別にイイです。オレも付き合いで買っただけなので』
そう店員が言って返した。
『ああ、じゃあタダじゃ悪いんで、もう数冊本を買っていきますよ』
そう言ったショーンに、くすん、と店員が笑った。
『それはちょっと嬉しいですね。じゃあそれで』
そして、包んだ本をポンとカウンタに置いて、後でお買い上げになる本と纏めてお渡しします、と言ってくるのに、ショーンは頷いた。
そして、雰囲気が多少浮上したらしいヴァンを振り返った。
『ヴァン。叔父さんはどの本なら持っていないか、選んでくれ』
ついでにオマエが欲しいものも買ってあげるよ、そう店の奥のほうにヴァンを促しながら言えば。
『おれは……イラナイ、』
す、と見上げてきながらヴァンが言った。
『ふン?そうか?』
本当に?と首を傾げて確認すれば。こくん、とヴァンが頷いた。
『でも、』
『うん?』
『ほしいものなら、いい?』
真っ直ぐに見詰めて来るブルーアイズに、もちろん、と笑みを返す。
『欲しいものがあるなら、買ってあげるよ』
『じゃあ…あんたの声がまた聞きたい。一曲でいいから』
柔らかなトーンでそう言って、じっと見詰めてくる。

まだバンドを組んでいる時も、メインボーカルではなくコーラスを歌っていたショーンではあったけれども。ほんの時々余興のつもりで、ギグで歌ったことがあった。
そして、ヴァン一人のためだけに開いたソロ・リサイタルでは、限り無く何曲も。
手の中のチケットを見下ろし、開演時間と出演者の一覧を見て。一瞬考えてから、頷いた。
『オーケイ。じゃあ少し早めに行って交渉してみて。それでオッケーが出たら、ってことでイイ?』
『ウン』
短い返事の割には、酷く嬉しそうな様子でヴァンが笑った。それから、本棚から数冊、適度な分厚さの本を取り出していた。この辺りの本は持っていないよ、と言ってくるのに全部を引き受け。
『今夜遅くなるお詫びも兼ねて、少し多めに買っておこう』
そう言って、ぱちん、とウィンクを飛ばした。
にこ、とヴァンが笑顔を浮かべ。それでもどこかいつもよりは大人しい様子に、ショーンはこっそりと苦笑した。なんとなく、いつも庇護する対象だったヴァンに気遣われている現状が、ほんの少しだけくすぐったかった。

本屋で会計を済ませるついでにラッピングも頼み。にこやかな店員が引き受けてくれている間に、店の外からセルで叔父に電話を入れた。
地元バンドのライヴチケットが入手できたから、それを見てくる旨と。それに伴って帰宅が遅くなることを告げれば、叔父は全てを見通していたかのように笑って了承し。晩御飯のこと等は気にせずに、ゆっくり楽しんでくるようにと告げられて、感謝の意を述べた。

昼過ぎにバンガローを出て本屋で用を済ませてみれば、微妙な時間がまだライヴの開始時刻まで残っていたから、ヴァンを誘って早いサパーを食べるために近場のカフェに赴いた。
そして、適度に腹を満たしてライヴ会場に赴けば。その場所は、まだショーンが高校生の頃組んでいたバンドが何度かギグをしたことのあるライヴハウスで。ショーンのことを覚えていてくれた支配人が、あっさりと音あわせ中だったバンドのメンバーに引き合わせてくれた。
ショーンのことを少しだけ覚えていたらしいそのバンドの一員が、ショーンと顔を見合わせた後に背後に静かに立っていたヴァンを見て、WAO!と大声を上げていた。

『ヘーイ!ヴァーン!ひっさしぶりじゃん!!』
ぎゅう、と抱きついたソイツに、ヴァンは『ヘイ、ひさしぶり』そう言ってふにゃんと笑っていた。
『ああ、そういえば。従兄弟同士だったっけ?忘れてたよ、ソンナコト』
けらけらと明るく笑った彼が、で?とショーンを振り返った。
『オレらに用ってナンデスカ?』
ショーンはにっこりと笑って、ヴァンと同じ年頃の元気そうなオトコノコを見下ろした。
『実はヴァンと会うのがオレも久し振りでね。長い間放っておいたお詫びに、一曲リクエストされたもんだから』
『あーあ!いいっすよう!オレらで役に立つんなら。オレもアンタの声スキだし―――――記憶が正しければ、だけど』
オレら、趣味が高じてのコピーバンドなんスよ、と笑った彼が、ヴァンが他のメンバーと挨拶しているのをちらりと見遣ってから、紙を手渡してきた。
『こんなラインアップなんスけど』

演目がリストアップされている紙を暫し見詰めてから、ふ、と思いついた曲名を述べてみる。
Radioheadの初期の頃の大ヒット・ナンヴァ、『Creep』。
はァん、とどうやらリーダーらしい、話し相手になってくれている彼が笑った。
『なんか意味のあるセレクションで?』
『いや―――――最初に浮んだのがこの曲なんだよ』
『ふぅん。や、なんだっていいっすよう。そういえば、最近のレパートリィからは抜きましたけど、この間まで良く演ってましたんで。音は全員、覚えてますし』
『さすがだね。コピーバンドとしてはとても立派な発言だ』
そうショーンが笑えば、にかりと彼も笑った。
『上に行くにはコピーばっかじゃダメっすよねえ!あ、音はオリジナルのままで平気っすか?』
『ああ。咽喉が開いてないから、少し辛いかもしれないが、平気だろう』
頷いたショーンに、うんうん、と彼も頷く。
『じゃあメンバーには伝えておきます。リハは…っと、もう時間があまりないんで。ぶっつけ本番でもいいっすか?』
『構わないよ。原曲と同じ音域なら』
『わ、さすが天才が言うことは一味違うや!んじゃ、そういうことで』
けらけらと笑った彼が差し出してきた手を握り返して、軽い握手をした。

ちら、とヴァンが振り向いた。何かを言いたそうに目線を揺らがせ、けれどずっと口を閉ざしたままの様子に、ヴァンの顔見知りの彼が首を傾げた。
『ヴァンがあんなに大人しいって珍しいっすね。まあオレらの音で盛り上がってくれれば、別にいいンすけどね!』
んじゃあまた後で、と見送られて楽屋を出て。にこにこと笑顔を絶やさない支配人に案内されて、フロアに戻った。
帰りも運転するから、と言ったヴァンに構わず、二人分のノンアルコール・ドリンクを注文し、背の高いテーブルの後ろに立った。小さなライヴハウスを客席からのんびりと眺めるのは久し振りだということに気付いて、不意に仕事がしたくなる。
結局自分は音を弄っていることが好きなんだな、と自覚しながら、いいのに、ショーン、と言ってきていたヴァンの顔を覗きこんで笑った。
『久し振りに歌うから、アルコールなんか飲んだらコントロールが下手になる』
そう嘯いて。

                                       * * *

ヴァンも顔見知りだったバンドの演奏で、ライヴハウスの中は随分と客が“温まっていた”。
ショーンが見せられていたプレイリストの順番どおりに曲が進んでいき。本屋の店員の好みではなかったけれども、このバンド目当てにライヴに来ている客は多いらしく。プレイリストの半分が消化される頃には、フロアはリズムを刻む客で溢れていた。
同じくRadioheadの『Inside My Head』を歌い終わった後に、カートだと客に名乗った先ほどの彼がMCに入った。

「突然ですがー、スペシャルゲストが、今夜一曲だけ歌ってくれるためにここに立ってくれることになりましたぁ」
キィン、と軽くハウルするマイクも、なんだか“ライヴ”らしくていいな、とショーンは薄く笑った。
「名前はぁ……あ、まあいいや。じゃあドウゾー」
中途半端なMCに呼び出されて、苦笑しながらフロアを横切っていく。ちらりとヴァンを振り返れば、親指を立ててにこっと笑っていた。

音を合わせ直しているバンドに向かって歩いていけば、ざわつく客がまるでモーゼを避ける波のように割れていった。ステージの縁までたどり着けば、カートに手を差し出されて。客席からステージに乗り上げた。
バンドのメンバーに会釈してから、ざわざわと落ち着かない客席に向き直った。
「我が侭を言って、急遽歌わせてもらうことになりマシタ。聞き入れてくれたバンドに大感謝、ほんとうにどうもアリガトウ――――two,three,four」
軽く客に挨拶がてら、バンドのメンバーに感謝を述べ。カートと支配人がショーンのことをなんて言っていたのか解らなかったけれども、酷く真面目な顔をしてキューを待っていたバンドが、ショーンのカウントに合わせて音を出した。

酷くシンプルな滑り出しに、それまでざわついていた客達が、ふ、と静まっていた。
ちらりと、テーブルから少し離れて立っているヴァンに視線を向ければ。イントロで曲を理解したらしいヴァンが、ふ、と眉根を寄せていた。
それでも真っ直ぐに見詰めて来るブルゥアイズを見詰めたまま、マイクに唇を近づけた。

『まだオマエと居た時に、
オマエと目を合わせることができなかった、
オマエはきれいな天使みたいで、
その肌はオレに涙を零させた、
オマエはこの美しい世界の中で、
一枚の羽根のようにたゆたっていた
オレが特別な男だったらいいのに、
オマエは酷く特別だから』

それまで静かだったバンドの音が、重みを増して音量を上げる。

『ケド、オレはただのロクデナシで、
なあ、オレはこんなところでなにをしているんだ?
オレはここにいるべきではないのに』

マイクを通して声が広がっていくのが解った。
静かに声を潜めた客には意識を向けずに、暗い客席に一人佇んでいるヴァンひとりだけに囁きかけるように歌う。
言い聞かせるように、あやすように、頼み込むように言葉のひとつひとつを音に乗せれば、きゅ、とヴァンが唇を引き結んでいた。
短い間奏の間に、ちらりと他の客に視線を投げる。けれども、それは直ぐにヴァンのところに戻っていく。
見詰めて来るブルゥアイズが一度も逸らされないことに薄く笑って、次のヴァースを音にする。
一瞬、ヴァンが目を閉じていた。声に集中しているかのように。だから、ショーンは声を和らげて、甘く伸ばす。

『例え傷付くことがあったとしても、
全てを手に入れてみたいよ、
完璧な容れ物が欲しい、
完璧なココロが欲しい、
オレが側にいない時には
オマエに気付いて欲しい、
オマエが特別だから、
オレも特別なヒトでありたい』

一度目を閉じる。目を閉じても、瞼の裏にはヴァンの姿が刻まれたままだ。
少しだけ声を強めて、軽く掠れる声で歌う。

『ケド、オレはロクデナシで、
なあ、オレはこんなところでなにをしているんだ?
オレは相応しくないのに』

く、と。ヴァンが手をTシャツの胸元に添えて、心臓の上を握り締めていた。
ふ、と。その仕草を見て、自分が泣きたくなったことに気付く。
吸い込む息が苦しいかのように、ヴァンが僅かに表情を歪めていた。その泣き出しそうな顔が、揺れるライトに照らされて。酷くキレイなことに気付く。
他の誰よりも――――――他の客に気付かないくらいに。
目を閉じて、キィを上げる。

『オマエがドアを走り出ていく、
振り返りもせずに、
走って、走って、走って、走って……走って』

クライマックスに向けて盛り上がっていた音が、最後のヴァースに向けて一気にトーンダウンする。
つう、とヴァンの滑らかな頬を、涙が零れ落ちていったのが見えた。
溜め息を吐くように息を継ぐ。
瞬きを忘れたかのように視線を逸らさないヴァンの、その表情を記憶に押しとどめるためにきつく目を閉じた。泣いているヴァンの姿を脳裏に留めたまま、次の音を出した。

『オマエが幸福であるためになら、
オマエがなにを望んでも…、
オマエは誰よりも特別だから、
オレも特別なヒトだったならば』

閉じていた目を開いて、真っ直ぐにヴァンを見詰めた。
目を細め、声を細く絞り出すように伸ばす。

『ケド、オレはロクデナシだから、
なあ、オレはここでなにをしているんだ?
オレはここに居るべきではないのに、
オレはここに相応しくないのに……』

ヴァンが唇を噛み締めて、また新しい涙を零したのを見詰めて首を横に振った。
伸びていた音を短く切って、マイクから遠ざかる。
ショォン…、と。縋るように唇が動かしたのを見えなかったフリをして、目を閉じた。

最後の音が消えていき、それまで静まり返っていたのが嘘のように、わぁ、と客席が一気に華やいだ。
苦笑していたカートに、サンクス、と笑いかけて。バンドにもひらりと手を振ってからステージを飛び降りた。
手拍子と視線を撥ね退けて、立ち尽くしていたヴァンの腕を捕まえて、腰を引き寄せてライヴハウスから出るように促す。

出口で支配人が苦笑するように立っていた。
真っ直ぐに自分だけを見詰めてくるヴァンが立ち止まらないように動きながら、軽く支配人に会釈してドアを出た。
背後でカートが、気を取り直してぶっきらぼうなMCを再開していたのが、ドアが閉じると同時にくぐもっていった。





next
back