24.　Scud

まっくらななかにいた。光もなく、闇も無く。ただ、静かな淵に。
けれど、なにかが、そのまま薄らいでいこうと、眠りに手放すように溶け始めていた意識の輪郭を爪弾いた。
―――泣いている、と思った。ゆら、と意識が暗部から浮かび上がる。
名前を呼ばれた。その声を耳ではなく、こころで聞いたと思った、そして……
その声に心臓が痛んだ。世界中から見放されて、たったひとり取り残されて、それでも自分の名を呼ぶ声に。その声は―――泣いていた。
小さなこども、………ジェイが。
そのこどもに向かって腕を差し伸ばした、そうすることが出来たからこれは夢なのだと思った。
夢か、……どこか別の場所だと。
泣かないでほしい、と願った。その小さな…
『ジェイ、』
呼びかけた。なにを泣いているの、おれはだってここに……
泣き濡れた頬に、そうっと唇で触れた。

ほら、な……？おれ、ここにいるだろ―――ジェイ…
だいじょうぶ、もうずっといっしょだから、泣くなよ。

「スカッド、できないよ」
魂のどこかが裂けてしまいそうに、悲痛な声が。
……ジェイ―――？
高波に押し上げられるように、意識が表層に持ち上げられ、ぐらりと世界が倒れ掛かってくるかと思い、そして。
スカッドは、長く息を吐いた。
幼い、途方に暮れたこどものように、ジェイが、表情を歪ませ。拭うことさえ忘れたように頬を濡らしていた。
ジェイ、とスカッドが絶望する。“還ってきてしまった”ことに。
ほんのひと時、仮初の眠りを味わった細胞がまだ生きていることにさざめくように感じられ、スカッドは言葉を無くした。どうして、と感情が鈍る。
どうして……おれは―――

ふ、と。額に、頬に触れるジェイクの手指の温かさに刹那、凶暴なまでに衝動が高まった。落ちかかる前髪を幾度も梳き上げてくれ、そうする間にもいくつも落ちかかるあたたかな涙に濡れるスカッドの頬を拭っていく指さきに。
その、温かさに。自分にむけて放たれているジェイクの想いに。声に出して泣き出してしまいたくなった。
ジェイクを解放してやれないことが哀しく。
けれど、それ以上に、またいま、側に在れることに紛れも無く歓喜している自分に。
おれは、なんて罪深い。でも―――

「オマエを……還してやれないっ」
悲痛な、心の痛みをそのまま引きずり出したような声、ジェイクの声がスカッドに謝っていた。
あんた、なに言って……なんで謝る？
だって、あんたを解放してあげられない、罠だってわかっててあんたの側にいたいって思っちまったのは……おれだよ―――？
ジェイ、と。ありったけの想いを込めて、潰れかけた喉で声を絞り出した。
あぁ、おれの手、動かないのかな、まだ……あんたのこと、抱きしめてやりてぇのに。

「ダメなんだ、オレには……オレじゃあオマエは、」
流れ落ちる涙はそのままに、ジェイクの冴えたブルゥはいまは揺らいで、その声も同じほどに震えていた。後悔に塗れ、それでも出来なかったのだ、と謝って。
ジェイ、ともう一度スカッドがその名前を呼んだ。
なぁ、ジェイ。もう……謝らないでくれよ、おれ―――あんたにそれほど惨いこと、頼んじまったなんて知らなかったんだ、だって……あんたを解放してやらなけりゃ、とそればっかり思って。
ジェイ、あんたに謝らなくちゃいけないの、おれの方だ―――
「ジェイ、」
さっきよりは強く、その名を唇に上らせたならば、自分の声がかすれ切ったただの涙声になっていたことに、スカッドがうっすらと笑みを口元に模った。
「オマエの、願いなら、叶えて、やりて、のに……ッ」
スカッド……ッ、と。ジェイクが一層、哀しみに表情を歪ませていた。

あぁ、とスカッドが思う。
違うよ、ジェイ、おれ…あんたのこと、責めてなんかいないよ。
そのことを伝えたくて、押さえ込んでいた感情の高まり、揺らぐままにジェイクの背中に両腕をそうっと回した。力強く抱き締め返され、スカッドが息を詰め。その首元に、ぐぅ、とジェイクが顔を埋めた。零れ落ち続ける熱い涙に、スカッドが震え。強張りかける指先を、耐え切れずにジェイクの激しく上下する背中に埋めた。
ジェイク、悲しまないでくれよ、なぁ……？だって―――

「かなうことなら、おれはあんたの側にずっといたいよ、……それだけが、ずっとおれの願いだった、」
想いを言葉にし。スカッドが頬をジェイクの頭にそうっと添わせるようにした。く、と頬を柔らかなブロンドに押し当てる。
なぁ、ジェイ。あんたに、おれの秘密、教えてやるよ。そしたら―――あんた、もう悲しくないかなぁ……
「おれね……まだ三歳くらいのころに、あんたに恋して、」
言葉を綴りながら、右肩から腕まで、そうっとジェイクの身体を撫で下ろす。そして、手を。くうっと繋ぎあわせた。息を押し殺して、スカッドの言葉を一言も聞き漏らすことを恐れていたようなジェイクの。その流れ込む体温に、スカッドがほろ、と涙を零した、けれども微笑む。酷く幸福で。

ゆっくりとジェイクが顔を上げるのを待ち、微笑みかけた。泣き濡れた碧、ジェイクの瞳が、とてもキレイだとスカッドは思った。
「あんた、おれのこと引き起こしてくれてさ、」
ふる、と首を横に振るジェイクを見つめる。何かを言いかけて、ふ、と口を噤み、一瞬、記憶を探るように視線を揺らがせる様さえ、イトオシイと思いながら。そして、スカッドがそうっと言葉を継いだ。

「それだけのことで……おれあんたに恋してた」



25. Jake

スカッドの柔らかな声が綴ることに、ヒトツ、ちいさな記憶が頭を過ぎった。
きゅ、と握り緊めてくる片手が、その思い出を鮮明にさせる――――――初めて差し出した手が握り返された時のこと。小さな熱いくらいのヒトの手、握り緊めてくるその手指の力強かったこと。悲しくて悲しくて泣いていた―――――そう、あれは今見詰めているのと同じ、スモークがかったブルゥグレイアイズだった、それが盛り上がった涙の雫を地面に落っことした後に真っ直ぐにジェイクを見上げ、それから、ふにゃりと柔らかな笑みに溶けていったこと。
その後に起きたことが“辛くて”、ジェイクはその記憶を奥深くに忌々しいものとして封じ込めていたし、“気紛れ”がとんだ“トラブル”を招くと知って、二度とそんなことはしない、と決めていたけれど。
司祭館まで連れて行く間ぎゅっと握り緊められていたコドモの小さな手の強さと温かさを、ジェイクはずっと忘れていなかった。大きな丸い粒となって転がり落ちた涙のきれいさと、それが笑顔に蕩けた瞬間の甘さも。

「それだけのことで……おれあんたに恋してた」

そう告げたスカッドに視線を戻した。
「……オレは、」
こく、と息をひとつ呑んで言葉を言い淀んだジェイクの代わりに、スカッドが言葉を継いだ。
「あの街に戻ってきて、あんたにもう一度会えて。ほんとうに嬉しかった、」
にこお、と酷く柔らかな笑顔で、蕩けそうにスカッドが笑った。
「あんたが、おれの名前呼んでくれて。それだけで――――よかったんだ、」

ずっと昔にジェイクが起した大きな気紛れの現われである小さな親切が、そんなにスカッドにとって大切なことになっていただなんて知らなかった。
たったあれだけのことをしただけで―――――親切な言葉を投げかけるでもなく、涙を拭いてやるでもなく、ドアまで送り届けるでもなく、石造りの階段の下で手を離して振り返りもせずに足早に立ち去ったジェイクを慕って。
何年も経ってから、わざわざジェイクに会うために一度は去った街に戻り。ダウンタウンの不法民街に潜り込んだ悪魔を追跡中に偶然見掛けたジェイクを追いかけてきてくれ。突き放すように何度もぶっきらぼうな態度を取ったジェイクに諦めずに声を掛けてくれて―――――――そして、そのために、スカッドは……。

きゅ、と眉根を寄せたジェイクに、スカッドが優しい声で言った。
「だから、」
揺れる透明なブルゥグレイアイズを見詰めて、ジェイクがそうっとスカッドの頬を撫でた。
「だったら、オレが…オマエを、」
「ジェイ、だからね…、」
「オレが手を差し出さなけりゃ、オマエ、こんな目に、」
遭わなかったのに、と言い切れずに視線を揺らしたジェイクの頬に掌を押し当てるようにしてスカッドが言った。
「ちげぇよ、ジェイ」
溌剌としていた頃と同じトーンのスカッドの声に、ジェイクはヒトツ瞬いた。
「おれがあんたに勝手に恋して付き纏ってたんだ、あんたはおれを遠ざけようとしてくれてたじゃねぇ、すげえつれなかったし」

スカッドの言葉に、その言葉遣いに、どれだけ“気遣われた”か気付いて、ジェイクは、こつん、とスカッドの額に額を押し当てた。
「……スカッド、」
失った筈のヒトを間近に見詰めて。殺すために追いかけた日々と、拒絶されたと思い込んで最初の絶望を味わった瞬間と、スカッドに受け入れて貰えた瞬間の至福と、彼を殺した後に訪れた二度目の絶望を思い出した。
からかわれたと思い込もうとした“約束の日”のことと。何度も思い出したスカッドの柔らかな笑顔や声と。寂しくて、寂しくて、心が酷く寒かった今までの、空っぽだと思い込もうとしていた人生を思い返して――――――同じ願いに辿り着く。

「スカッド、」
真っ直ぐに見上げてくる柔らかなブルゥグレイアイズを見詰める――――――もう一度見ることが叶うなら、と何度も願ったソレ。
「側に、いてくれ」

素直になって好意を受け入れなかったことを。
何度も声をかけてくれるのが嬉しくて、誘いを受け入れなかったことを。
ジェイクはずっと後悔していた――――――後悔したことに気付くまでに、何年もかかってしまったけれど。
他の誰でもない、スカッドを……失くしてしまったことを、ジェイクはずっと後悔していたから。

「ほんとうにオレは、オマエしか、いらないんだ」
間近に見詰めて、真っ直ぐに心からの言葉を音にする。
「誰とでも引き換えにする、」
他のヒトも、モノもいらない。天上の“父”も、下界の“父”も、イラナイ。
欲しいのは、ただヒトリ。三界の中の、たったヒトリ。
「オマエだけに、オレの側に居てほしい」

I only want you to be beside me, Scud, just you and nobody else.

「ジェイ、」
少しだけ震えたスカッドの声。そしてひんやりとした手が、ジェイクの頬にひたりと触れた。
真っ直ぐに見詰め返して、ジェイクは、ふにゃ、と笑った。
「神の御許にも、永遠の暗黒にも、オレの居場所はない。もちろん、この世界にも」
自分が何であるかを忘れた瞬間など、生まれてこのかた一度もない。どれほどに呪われた存在であるのか、誰に言われずともジェイク自身が一番解っている。でも、それでも。

「―――――おれ…、」
声を揺らがせたスカッドに、ジェイクは自分がどれだけ身勝手なことを願っているか知っていて尚、願いを口にせずにはいられない。
「だけど、オマエに、オレの側に居てほしい」
どれほどの代償を支払うことになっても。
この先どれほどの痛みを味わうことになっても――――――たった一つ、願いが叶うのならば。
「オレが還るところは、オマエの側がいい」

勝手に目が熱くなって、またぽたりと雫が零れ落ちていった。
けれど構わずにジェイクは言葉を続ける。
「死なないでくれ」
死を願う程に沢山の哀しみを抱え込んだヒトに頼むには残酷なことだと知っていても、それでも願わずにはいられない。
「側にずっと、在ってくれよ」

ジェイ、と。心が痛くなる程に痛ましい声でジェイクを呼んだヒトを真っ直ぐに見詰めた。
「お願いだ、」

Scud, please.




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