15.
セント・ホプキンスには、いくつかの守らねばならぬことがある。決まりごとというよりは、保身のために自ら進んで守るべき
ルールであるのかもしれないが。
そのうちの一つは、夜勤明けの「ERの神」には可能な限り努々近づかない旨。
件の外科医は院内きっての我侭王ではあったが、同じくして院内きっての「暗殺者」でもあったのだ。笑顔で、相手の心臓を
抉り取るような辛辣極まりない台詞をさらりと投げつける、それも起き抜けに。寝起きが悪い、と本人が自称するように大抵の
場合は、その犠牲者の名前すら覚醒した後の「神様・王様」は覚えていない。
そして、今まさに看護士の一人が決死の面持ちで仮眠室のドアの前に立っていた。
時計は午前8時前、常ならば慌しくなり始める時刻ではあるけれども、今日に限って救急車のサイレンの音さえしてこない。
―――それというのも……
こく、と。猫の首に鈴を付けにきた哀れな犠牲者は、腕時計に視線を落し、もう一度乾いた口内を潤そうとしていた。
淡いクリーム色をした扉をノックしようとした途端、内から人の動く気配がし、思わず床から数センチ跳ね上がっていた。
「ド、クタ。おはようございます……!」
「―――んん、」
白衣を雑に羽織り、廊下を歩きながら何事か呟いている。もう帰る、とか眠い、とかどこか子供じみた文句のようにも聞こえる。
そのまま、カフェテリアまでまっすぐに進んで行き掛け、突然その足が止まっていた。
くるり、と半歩後を追ってきていた看護士に、翠が合わせられた。
「―――ナンダ……?」
くぅ、と外科医の眉根が寄せられていく。なまじ、整いすぎた顔立ちであるから睨まれると性質が悪い。
「……すげぇ、静かじゃねえの」
時間を問わず絶えず聞こえるサイレンの音さえしない状況に、寝起きの神さまがここで気付いたようだ。
低い声が地を這い。看護士は心のなかで十字を切った。
「あの、実は、」
一気に告げて一瞬でも早くこの場を立ち去りたいのだろう。半ば以上眼を反らせながら、息継ぎもせずに目の前の外科医に
報告する。
「急患がいらしてます!即刻ERまでお越しください……ッ」
「“急患”だァ……?」
言うが早いが、外科医には応えずに看護士は向きを変え足早に立ち去り。
けれど自分の背後で、温度がマイナスにまで急速に低下した事を感じ半ば眼に涙を浮かべていた。
「“市長”。てめえ、ここで何してる」
「酷いなあ。心臓が急に痛んだ。みてくれ」
一見して贅と手間を費やしたとわかる仕立てのスーツをあっさりと着こなした男が左胸を抑えて見せた。おそらく、NYCの
住民ならば大半は知っている顔だ。
「SP引き連れてERにノコノコ来てンじゃねぇぞ、さっさと失せろ」
処置室の壁際、入り口付近に立つインカムを着けた大柄な男たちをきつい翠が見遣る。
おまえなんか見てる暇ねぇんだよ、と言い捨てはしても、またシャンクスの眉根が寄せられた。
「ウン、そう。心配には及ばない、1時間半ほどは此処のほかに救急車両は割り振っている。だからお客さんはおれだけだ、
安心して診てくれ」
「―――アホウ。なにバカしてやがる」
ごす、と額を拳で小突かれはしても、相手は笑みを浮かべたままだ。
「だからそう言わずに。今朝急に心臓の後が痛んだんだ。信頼できるモノに診て貰おうと思ってね」
「ほう?じゃあさっさとバイパス手術でも受けてみろ、紹介状ならいくらでも書いてやる」
「酷いなァ、メディカルチェックくらいしてくれてもいいだろうに」
「あのなァ、ここはクリニックじゃねぇんだよ」
「知ってるさ、ERだろう?」
「あァ、わかりゃ帰れ」
お出口はあっちだ、と。手術室の方をシャンクスが指差した。
「だから。おれは急患だというのに」
中指を盛大に立てて見せ、とさ、と椅子に座り。外科医が男の目線に眼差しを合わせた。
「リムジンでERに来るバカはいねぇよ」
「おれ?」
にこ、と相手も屈託の無い笑みで返している。
「アイスバーグ市長、ご用件は」
外科医はおざなりに聴診器を男の額に押し当てていた。
「まぁ、アレだな。顔見に寄っただけだ、おまえ捕まらねぇし」
「ご大層な身分だね、てめえも」
ぐいぐいと額に痕が着くほどまだ押し当てている。
「あー、どっかのブレックファストミーティング。キャンセルしただけだよ、心配してくれてアリガトウ」
「それで?」
デコに筋肉注射打つぞこのやろう、と本気で言われても市長は怯まない。
「おまえの気落ちした顔でも見てやろうと思ってな。珍しいし」
「どっから出たかは訊かねェぞ、そのガセネタ」
「手負いのトラの子守りをおれにもしろ、ってデンワされちまったヨ、ベンから。水臭いねおまえも。おれの方が付き合い
古いのに」
「アぁ?」
「弟離れ、出来ねェんだろ?」
にぃ、と笑ったNY市長に、見事な右ストレートが入った。
常ならばコンマ数秒で警護に動くはずのSPも、この特例には動きをみせない。何事か過去に学習済みなのだろう。
「酷いなぁ、」
僅かに乱れおちた前髪を軽く後に押しやり、ERの神様の古い友人が首を傾けて見せた。
あぁ、おまえおまけに寝起きか、と頬をハンカチで抑えてそれでもどこか納得している。
「きょう、もうドクタは終りだろ、仕事。ささっとメシ食おう」
「―――あのなぁ、」
「弟の方がよっぽど愛想が良いな。さっき連絡したなら、久しぶりだって喜んでくれたぞ?いまからサンジとブレックファスト
食う約束なんだよ、おまえも来るだろ?」
すい、と幼馴染の片眉が引きあがるのを市長はじい、と見詰め。
「リッツのブレックファストメニュウ。エッグベネディクト、キャビアを乗せて。如何なもので」
「高血圧で死ね、政治家」
にぃ、と翠が煌き。次いで言葉が綴られた。
「ほっぺにキスでもしてやろうか」
ERの元悪魔が、大層機嫌よく笑った。SPが、サングラスの内側で思わず瞬きをするほどに。
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