25.
口を開こうとしたとき、ふ、と良い香りが漂い。
「―――あ、」
「お、美味そう」
に、と外科医が満足気に笑みを乗せ。
「趣味の範疇だな」
軽く答えるといつの間にか黒エプロンは外してきた幼馴染は、片眉を持ち上げてみせていた。
芸術の域に手が届きそうなスクランブルエッグと、搾りたてのルビィグレープフルーツ・ジュース、ベイクド・トマトと温野菜の盛り合わせ、そういったものが薄手のシャツだけでも快適な温度に保たれているコンサバトリーの卓に並べられていき、話し出す切っ掛けを探していたサンジはひとまず言葉を押しとめた。
ご馳走様でした、と言えば。
相手がいてこそ成立する趣味だから礼には及ばない、とひどく上出来な笑みと一緒にサンジは返されていた。
そして、す、と立ち上がる相手をサンジが見遣れば、異母兄が「あ、皿はシンクに置いといてくれればいいから。
今日はエレナが来る日なんだ」と椅子に座ったまま言っていた。昔からの通いのメイド。その名前を聞くだけでおやつに焼いてくれたキャロットケーキの味が思い出せるほどだ。
「じゃあ、なお更皿洗い機に突っ込んでおくべきだろうが」
一体彼女が幾つになったと思ってるんだ、などと言い残してあっさり3人分のいろいろを纏めるとキッチンへと向かう背中を一瞬だけ見やっていたミドリが今度はまたサンジにあわせられていた。
「絵に描いたような仕切り屋」
「面倒見が良いんじゃないかな」
「はァん?アレはそーとー……つぅか、コラ。あのバカのことよりおまえのことだろうが」
うん、とわずかに口ごもるようなサンジの頭をくしゃりと何度か乱していき。
「ほらほら、言ってみなって。笑わねぇから」
にーこり、と小児科医にでもいまならなれそうな笑みが今度は浮かんでいる。
「あのさ、」
「うん?」
「自分の気持ちの落としどころがわからないんだよ、なんか」
自分のなかに確かにある、好意に違いないものは、けれどあまりに漠然としている。漠然としたままに、好意ばかりが放っておいても大きくなっていきそうな予感はしている、ずっと。
夜中過ぎに「無事に」やってくる姿を認めると、安堵する。
ひどく単純なようでいて、それでも答えは見つけたくない気もしている。なにしろ、あの守護天使共、なによりそのうちの一人は天性の性質の悪さを有するらしいのだ。
―――おれってば知らない間にかなり誑かされてねェ?がサンジの自覚でもあったのだし。
気がついてみれば。
「ア、」
くう、とシャンクスの眉が片側だけ跳ね上げられる。
「やっぱり恋愛ごとの相談じゃねぇかよ」
「おまえにそれ以外の何を相談するっていうんだ、サンジの判断力は至って正常ってことだろう」
さらりとまた会話に加わるのは、キッチンから戻ってきた者であり。
ほーう?と異母兄が呟き。
―――異母兄は。
しれ、とスーツのジャケットに袖を通しながら言う幼馴染を放っておくような人間ではないから、サンジも大人しくミドリが自分にもう一度あわせられるまで待っていた。
案の定、右手を軽くひらひらと振りながらミドリがサンジに再びあわせられ。痛ぇなあ、まったく、と額を優雅に抑えた市長はちっとも気にした風も無く呟いていた。
「なんかはっきりしなくてさ。落ち着かない」
そんな様子を眺めながら、サンジがコーヒーカップの縁から眼差しを上げて言えば。
「刺さりどころが不明ってことか、」
最初に返されたどこか面白そうな声は異母兄のものではない。政治家らしく、に、とクエナイ笑みを刻んで心臓の上辺りを長い指先で突いていた。
「んー、それは、ファックするしないのボーダーってことだな?」
そこへ外科医の声が追加される。ミドリ眼は面白がって煌めいてまでいた。が、それも一瞬のことであり、どうやらサンジの言葉の裏に感づいたようだった。なぜなら見る間に纏う空気が冷えている。
「こらこら。そこのオニイサン。それじゃ愛の伝道師じゃなくて調教師の台詞じゃねぇか」
そんな相手に向かい―――更に言う方も言う方だが。伊達に付き合いが古いだけではないらしい。ギリギリで落としどころを知っているからこその軽口。
「なぁー、衝動に負けてみるのも手かな?」
サンジの言葉に、一瞬辺りの空気が俄然冴えるが、カワイイオトウトを殴るわけにもいかずシャンクスが表情で雄弁に抗議していた。『そんな子に育てた覚えはねぇぞ!』と。
自分がそもそも話を振ったことはすでに棚の遥か上にあるらしい。
「もやもやっとしたままよりもさ、いっそ」
口に出してしまえば、ひどく単純なことだったのだと気づく。
「……あーあ、」
そう言いながら異母兄が眼を細めるのをサンジは見詰め返し、なん?と眼で問う。
「なに勝手に自己完結してンだ、おまえ」
そう不満げに続ける外科医に向かい、「質問者は大抵答えを出してるモノだろ」そう言って幼馴染が小さく笑う。
「負けるより先に、そのもやもやのまま有耶無耶にしちまう、って手もあるだろ、こっちのオプションにシナサイ」
「うん?だけどおれの気の持ちようの話だろうしさ」
だからといって別にどうこうなるってわけでもないだろ?と。
にこ、といっそ無邪気な異母弟のカオをしばらくの間、外科医は見詰めていたが。
「まぁ、おれは。おまえがしあわせそうなカオしているなら、いい」
明らかに気分を入れ替えた様子でどこか溜息を吐くように言う異母兄をサンジが見つめる。
「あのなァ、ホントに愛してんだよ、覚えとけ」
くしゃり、と髪を乱されサンジも微笑んだ。
「ガキのころからそんなこと、わかってるって」
「どーだかなァ、」
にぃ、と薄い唇が吊り上げられる。
「ただ、まァこのド馬鹿に言われるまでもねぇよな、」
イキナリかなりのスピードで額めがけて伸びてきた平手を、あっさりコーヒーを飲みながら避けているのは流石の付き合い、というべきか。やはりこの「市長」も伊達に幼馴染ではないようだ。
「いまのところ、おまえが“楽しそう”なカオしてるってことだけは認めてやろう」
ひら、と指先がサンジのハナサキで揺らめかされた。
「ただー?おれがあのパブにおまえのこと迎えに行ってやってたときのカオには、はァるかに!!及ばねェがな」
覚えている。
奥のオフィスのソファで迎えを待っていると、夜中近くにドアが開けられ。走り寄れば、抱きしめられて『よう、ベイビィただいまー』そう笑うような声で言われたこと。
その後、家まで連れ帰られるときは、大抵“ダチ”のどちらかあるいは両方、たまにカノジョたちも加わってとても賑やかだった。
ふ、と意識を現実に引き戻せば、自分をまじまじと見詰めてくる翠と目があった。金色にも見える虹彩の色味が子供の頃からとても不思議でよく眠る前に見詰めていたな、と。同じミドリでもこのひとのはどちらかというと―――。
「こぉら、サンジ」
す、と翠が細められた。
「オニイチャンに惚れ直してンなよ?」
「―――わ、」
に、と、また。シャンクスは、どぎまぎと実にからかい甲斐のあるオトウトが表情をめまぐるしく変えていくのを見詰め、笑みを浮かべていた。
その笑みとやらが酷く「あまったるい」ことに、本人とその異母弟だけが気付かないってのは、まぁ昔っからこのキョウダイはヒトのことなんざ構っちゃいねェがどうしたモンかね、と。隣で幼馴染がどこか保護者めいた穏やかな風情で見守っていたことは、当人たちは全く知らないのだが。
そんなことを思いながらちらりと時計を眺め、そろそろ「議会」の始まる時間だな、と見当をつけると携帯でSPを呼び出していたのは趣味の多彩な政治家だった。
「バイトの時間までここにイナサイ、付き合え」
「うん。あぁでもバイト行く前にちょっとエージェントのとこ行くから少し早めに出るし」
ふわ、と嬉しそうに微笑むのはサンジであり。
「おー、いいよ。いくらでも送っていってやる」
穏やかにわらってみせるのは変わらず過保護な外科医だった。
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