4.
「こら、チビ」
とす、と。
指で後ろ頭を軽く小突かれた。バラティエがどこか穏やかに凪ぐ時間帯、午餐と晩餐の間に。
「チビじゃねえ」
「おれより小っせえのに。あー…じゃあ。そこのボウヤ」
返事せずにいたならば、そこのボクー?であるとか、そこの10歳未満のお子様ー?であるとか、カワイコちゃん、
ボクちゃん、おチビさん、ちびっこ、身長140センチ未満ちゃん、ベイビイ・ブルゥ・アイズ、その他その他を浴びせ
られ。
「ああああもう!チビでいいっ」
ぎゃん、とサンジが噛み付いていた。
その様もまた、大人気ない大人をカーワイイってば、と喜ばせるだけなのだが。

「なあ、おまえさ、」
隣に少し離れて立ち、シャンクスが言葉を綴り始めていた。
「そんな眼して海ばっかり見てると、そのうち恐い悪い海賊に攫われちまうぜ?」
例えばおれとかー、とまた翠が金色の虹彩に明るい色味を移ろわせる。
何処かへ行きたい、連れ出して欲しい、行きたいところがある、ってなカオしてたらね?そう言ってまたシャンクスが
僅かに俯くようにし傍らの子供を覗き込んだ。
「攫ってってやってもいいけどな?おれだとなァ、多分べったり甘やかしちまうだろうし」
構い倒すよなァ、ちっこいものは可愛がるもンだろ?とひどくさっぱりとシャンクスが言い切っていた。
「攫われるもんか」
サンジが返す。
「お?おれの実力を知らねェな?」
とす、と指先でサンジの額を軽く小突き。
「じじいから少しは聞いた」
イカレタ小僧だが剣の腕は本物である旨、鬼とも悪魔とも同業者からは畏怖されるものであること、風評と実態との
差。
「ありゃま、そ?」
けら、と“赤髪”が笑った。ゼフのことだ、ただ事実だけを告げたのだろう、余計な脚色も風説も解釈も無しで、と
思いながら。

「それじゃあ、大げさな話になっただけだって言っても誤魔化せねェな」
どおよ、ちったぁ恐いオニーサンに見える?とからかうように両手を広げている。
あんま、結びつかねえけど、と思ったままに言葉にする子供にむかい、ただシャンクスがほんの僅かばかり眼を
見開いて見せた。
「匂いもしねえし」
匂い?とシャンクスが僅かに首を傾けた。
「ハナがいいんだ、おれ」
に、と笑って見せた子供は何の返答も寄越しはしなかったけれども、シャンクスもにかりと笑みを作っていた。
「アタリマエ、そうそいう物騒な臭ェ匂い撒き散らしたってバカみたいだろ」
ま、身だしなみー?そう言って手すりに凭れる男の服装は、大層自由奔放ではある。その立ち姿さえどこまでも
虚実と軽さを混ぜ込む。

「それにナ、」
すう、と。どこか人離れした印象を持つ金の虹彩を佩いた翠がサンジを覗き見た。
「攫われそうな眼よりは、攫いたくなる眼になった方がいいぜ?」
「そういうアンタはどうなんだよ」
「あーー、おれ?」
ひゃは、と笑い。シャンクスは長い指で自分を指差してみせた。
「おれはとっくにそンなレベルは超越しててナ?“攫われたくなる”眼ってやつになってンだ。ほぉら、観てもイイよ」
コレコレ、と笑みを乗せたままの顔が、すぃ、と僅かに寄せられる。
だァから人手が増えちゃってね、と唇が引き上げられた。
「―――手下?」
サンジが問う。
この、ひらひらふわふわしているような捕らえどころのない人間が海賊であり、ハタチに満たないようでも船長で
しかも多額の賞金首とは俄には信じ難い気がする。それでも。
「いいことを教えてやろうか、」
魚が波の間を跳ねた。
「おれに手下はいないよ。仲間はいるけどな」
そーれーにーだ、腕の良いコックは随時募集中、そう言って笑みを刻んだ。


                                  5.
「じじい、」
「なんだ、クソガキ」
その夜、最後まで厨房に残っていたオーナーから試したい味があるからおまえらは散れ、と言いつけられ早々に
コックたちもゼフを残し自室へと引き上げていき。静まり返った夜半の厨房に灯された明かりが、そうっと開いた
両開きのドアから僅かに漏れた。
「ああいう海賊もいるんだな?」
「―――あのアホウのことか」
振り向かずに、声だけが寄越され。サンジも小さく頷いた。
「あの小僧は得体の知れねェ底なしの馬鹿で、人でなしの海賊だ」
静かな動作で、ソースパンの中を料理人の手が混ぜていく。複雑に絡み合った香りが立ち上る。

昔、おれの船にたった一人であの小僧が乗り込んできてな、と低い声が続けていた。
「手下にはならねぇがおれのメシを食わせてくれ、とかほざきやがる。そもそも、なんでおれの船の甲板にヤツが
のこのこ上がれたのかもわからねぇ、手下共を叱る前に呆れちまった」
格がそもそも違ったンだろうがな、と言葉を紡ぐ背中に子供の視線はまっすぐに合わせられている。
「あのアホウの仲間もこれまた妙な連中ばかりでな。そんなに食いたきゃ一人で行け、とボートごと放り出された
らしい」
若い、ある意味滅茶苦茶な海賊は。赫足の気に入ったのだろう。
夕飯と朝飯を食わせた頃に、ゼフから知らせを遣る前に船長を迎えにシャンクスの船が来たという。
「あのバカも海賊だからな。ロクデモねえ人殺しだが、アレに殺されるには理由があるンだろうよ。
それが例え皆殺しでもな」

厨房を包むようだった香辛料の香りは何時の間にか薄らいでおり。火の落される尖った音がサンジの耳についた。
どこか満足げに料理人が出来上がったソースを見下ろし。無言で子供を呼んだ。
差し出された木製のヘラをサンジが見、次いでそれを寄越した主を見上げた。薄青の瞳が、味見してみろと語って
おりサンジもまだ熱いソースを指先で掬い上げる。
さらりと拡がる香りをそのままに残した味を子供の味雷と神経とが追いかけ始める。アコガレと焦れったさの混ざり
合った色がその蒼に幾度か過ぎるのをゼフは見下ろしていた。く、とサンジの唇が引き結ばれ、それが笑みに変わ
っていった。
「美味いだろう」
「……ウン」
「これに鹿肉でも併せるか。付け合せはおまえが考えてみろ、あのバカに試食させてやろう」
わかった、と。サンジのカオが一気に明るくなっていく。たとえ“試作品”とはいえ副菜を任せられる、という存外な
事実に喜色が隠せないようだ。
あのちっせえ頭のなかは今ごろアイデアで大騒ぎだろう、と移り変わる表情を視界に収めながらゼフは思う。

「クソガキ。そういえばてめえこんな夜中になにしてやがる。さっさと寝ねぇと寝小便でもするんじゃねえのか」
「しねえよくそじじい!」
ぎゃん、と高い声が天井に跳ね返る。
さっさと行かねえか、と返され。わかったよ!明日覚えとけよ!とこれまた精一杯の声で怒鳴り返すと廊下へと
通じるドアへとサンジは向かい。自分の背中にさらりと告げられたコトバに歩調を僅かに緩めた。

「それが皆殺しだろうが、虐殺だろうが。例え先になにがあろうがあのバカは知っちゃあいねえ、てめえの思うままに
いく。まあ、選択は間違えんだろうさ。アレの眼はそういう眼だ」
「―――め……?」
ああ、と素っ気無い返事が寄越された。皆殺しの出来る男の眼だ、と。
「アレは海賊にしか成れねえだろう」


眠りに着くまで、サンジは言われた言葉の意味をずっと考えていた。
頭では理解できた気はしても、実際自分が目にしているあの「赤いの」と、ゼフの語った男はかけ離れて思え、
また次の瞬間にはまさしく同じ男のことなのだと意識ではなく本能のどこかがそう告げてくる。
くるくると変わる表情と、波より気ままにすぐに含むカタチを変える声と。どこまでが本当でどこからが嘘との
境界なのか、そもそもあの男の言うことに意味なんかあるのか?とまで眠りながら思う、けれど。
嘘しか言わないようで、真実だけしか述べないくせに、それを性質の悪い笑みでくるんで飴玉か砂糖菓子みたいに
自分に投げてくる。

「なんなんだよ、アレは。」
くぅ、と閉じた瞼の裏側に、突き落とされて水下からみた蒼の天井が広がる。
光が揺らいでゼリィの膜みたいだった―――
膜を破って、ぼう、と水中から上を見ていた自分に伸ばされてきた白のシャツの袖が海月みたいに空気の細かい泡と一緒に拡がった、その景色が広がる。
朝のばか騒ぎの端布が、眠る前に思い出した最後の欠片だった。




                                 6.
午餐の後、デッキに長椅子を持ち出し寝そべっていたシャンクスの視界に、すい、と陽が翳った。
眼を上げることもせずに、そのまま水平線の方を眺めていれば、次いで声が落ちてきた。
「随分と気に入ってるようだな、」
赫足の秘蔵っ子、とベックマンがひらりと片手を上向けた。
シャンクスも顔を傍らに立つ男に向け、半身を引き上げ軽く座りなおすようにしていた。
「ああいうチビは好きなんだョ」
裏表の無い笑みで返す。
「そろそろ攫い時かねェ?」
そう船長が付け足し。
またあンたは思ってもいないことを、と副船長が眼を細めた。
「え?だってもうお初貰ったし」
「“何の”と一応訊くべきか?―――ったく」
苦笑交じりに問い掛ける男の唇からは相変わらずタバコが離れない。
「やー?けど舌いれてねぇし。カワイイもんだって」
悪びれる様子など皆無の相手に向かい、まったくあンたは、と。副船長が軽く嘆息した。
「罪状に、営利誘拐が含まれない内に先に進んだほうがよくないか」
す、と。片頬だけで笑みを刻み。長身の男は甲板をこちらに向かいまっすぐに走ってくる小さな影にゆっくりと目を
合わせる。
「あー、おまえガキに好かれるもんな」
「お蔭様で」
言外に含まされた意味にシャンクスが眉を引き上げる前に、なあ!これおれが作ったんだ!と。嬉々とした子供の
声が届いた。手にした銀のトレイが光を跳ね返している。

「ウチにもああいう“かわいいコックさん”がいたらおれの心がすっげええ和むンだけどね」
椅子から怠惰な猫じみた滑らかさで立ち上がりシャンクスが、子供の姿がどんどん近づいてくる姿を見つめた
ままで言った。
「ゼフが手離す云々以前に……」
「“赫足”の船が壊滅した理由だろ?予想はついてるさそれくらい。じゃあ―――」

「なあ!食ってみてくれってば!」
はあ、と息を切らせるほどの全力疾走でやってきたサンジが下からトレイを差し上げてきていた。
プレートに並べられたものは乱れた形になってはいなかった。
至近距離に近づく前から言葉を途切れさせていたシャンクスが、ひょい、とまた軽く俯くようにし、お、美味そう、と
口元を綻ばせた。その視線の先には甘すぎない果実を乗せた小さなタルトがあり。指先がそのうちの一つを摘み
上げていった。
サンジは眼を離さずに自分の作ったデザートを味わっていく「海賊」を見詰めていた。パティシエからは合格点が
貰えたソレ。翠が自分にあわせられ、今になって喉が少しだけ渇いた気がした。

「なぁ、そこのちっせえ料理人」
「なんだよ……?」
二人の遣り取りを静かに煙草を燻らせながら、副船長も見ている。明らかに、面白がっている風情だった。
「ヒトも食い物も“華”がある方がイイよな」
に、と笑みがシャンクスに浮かぶ。伸ばした反対の指先がサンジの額を軽く弾いていった。
「サンジ、おまえコレに現時点では負けてンねぇ」
ご馳走様、美味かった、と頭上で声がした、と思ったなら。あっさりと抱き上げられていた。
眼の高さの同じ位置に、金を溶け込ませた翠が笑みを乗せていた。
手から斜めに滑り落ちかけたトレイはあっさりとベックマンが引き取っていた。

「どうよ?海に出て行かねぇ?」
おれと、と続けられた言葉にサンジが叫んでいた。
「は?」
「海賊船になんざ、乗ってみねぇ?」
「バカ言うなよ、イカレ海賊!」
どうして?楽しいよ、別にすぐにじゃなくてもいいし、とにこにこと無邪気にも思える笑みを上機嫌に乗せたままだ。
「おれは…っ」
「え?いま行く?よし、ベックマン、ずらかるぞ」
声の底に明らかに冗談が流れているが、サンジは聞き取っていないようだ。そんな余裕も無いのだろう。はあ?!
アンタ何言ってるんだよ!と賑やかだ。兎のように腕の中で暴れている。

こらこら、と落ち着いた声が加わった。トレイ片手の男から。
「サンジにはまだすることが有るンだとよ。あンたも無茶言うな」
「あー、そうか。あのゼフの弟子だもんナ、まだ修行は終わってねぇか」
「当分かかるだろうな」
しれ、っとした口調とは裏腹に眼が面白がっている。
ちぇー、とでも言い出しかねないシャンクスの表情を間近で捕らえ、子供かよアンタは!とサンジもやっと言い返し
ている。

「ウソだよ」
「―――ハ?」
「いま連れてくっていったのは、嘘だよ」
にこにこと。サンジの金色の頭を片腕に抱くようにして引っ掻き回し。驚いて暴れなくなった子供を一度抱きしめて
から、甲板へと下ろしていた。
「今回は、じゃあ無しってことで」
「行くって言ってねえよ、最初から」
サンジが見上げている。
「かーわいいこと言っちゃってェ」
けら、と笑うシャンクスは取り合う素振りも見せない。

「副船長、このイカレタ船長をどうにかしろよ」
「まぁ、そう言うな。あと少しの辛抱だ」
ご馳走様、と短く言葉を追加し、トレイを手にしたまま店内へと長い歩幅で歩いていってしまう後姿をサンジは
見送り。その金色の小さな頭を、またシャンクスが片手でぐらぐらと揺すっていた。
「行くのか?」
問い掛けてから始めて、終りのあることをどこかで忘れていた自分にサンジが気付いた。
「あぁ、開店祝いも言えたしね。そろそろおれも船に戻る」
「いつ?」
ありゃ、かーわいいこと言ってくれちゃって、とシャンクスが口端を引き上げた。
「実は、もう行くさ」
そろそろ他の連中が寂しがるからね、とひらりと左腕を泳がせていた。

何か言葉を交わしながら、給仕長の開いた扉の内側から何時の間にか見慣れてしまっていた影が二つと、
ベックマンが出てき、泳ぎの練習の間はなにかと口を出していた二人は賑やかにサンジに向かって手を振り、
また来るなー、と声が届いた。
ベックマンはちらりとサンジに視線を投げて寄越し、その目許で僅かに微笑んでから仲間とボートのほうへ
向かっていた。
「じゃあな、」
蒼を捕らえたままで、翠が柔らかに細められた。
「“副料理長”、」
「へ?」

「次に来るまでにヘンなモンについて行ってンじゃねぇぞ?」
トン、と唇に何かが落ちてき、それがさらりとした体温を乗せた唇だと知った時には、怒鳴り返すべき姿はどこにも
無く。
まーたーなー!と酷く陽気な、それでいて底の見えない声が滑るように遠ざかるボートから聞こえた。
「―――シャンクスッ!あんた、…てめえ、よくも―――ッ」
おれのファーストキス!!とはいくらなんでも叫べなかったのか、ぎゃあぎゃあと悔しそうになにか船べりから
叫んでくる子供の姿に、遠ざかるボートの中でシャンクスが嬉しそうに目許で笑う。

「あーあーあー、うっれしそうだねェ、お頭」
「なあ?ありゃ相当キゲン良いな」
「鬼っていうより悪魔だよな、やっぱなあ」
「やあ、もっと性質悪ぃだろ、あんなヒヨコちゃん相手によ?」
「なぁに言ってやがら、てめえらは」
舳先からイキナリ振り向いてきたシャンクスに向かいルゥが首を傾けた。
「はん?」
「おれは海賊だぜ?」
「だねェ、ウン」
これはヤソップ。
「バラティエ一のお宝、見逃すかヨ」
「あン?―――あらら」
これもルゥだった。何か察したらしい。こそ、とヤソップの耳元に何事か囁く。
「うーはー!」
ルゥとヤソップとが笑いを滲ませながら離れて停泊中の本線へとボートを向かわせながら、軽口も手筈と同じほど
に潤滑だ。

「なあなあ、おまえら」
「「あいよ」」
「次に寄ったら攫っていくかも、お宝」
「まーたまた、」
ルゥが笑う。
「お頭、あんたじゃあのボウヤべらぼうに甘やかすだけでしょうが」
ヤソップも、なぁにを言ってるんだか、と軽く聞き流す。
そして先ほどから一言も発していない声の主を3人分の視線が捕らえるより数瞬早く、海風とは異なるロースト
された芳香がふわりと漂い。
視線の先には。ゼフから渡されたらしいポットから珈琲を注ぎ、優雅に簡易カップを口元に運んだ男が映った。
あ!と三人が三人とも、副船長を指差した。

「ほら、何してる、あんたたち。船影が見えてきたぜ」
洒落にならない深みのある声は。ただ一人のものでしかなかった。




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