ふと気付けば、パリのアトリエに戻っていた。
目の前には様々な布地のサンプルや水彩絵の具やらパールやらミンクの切れ端やらが転がっていて、ワークテーブルの大きな黒大理石の天板が埋まりきっていた。
瓶に入ったカラフルなスワロフスキィビーズが、スツールの上に置かれた段ボールの中に各色ごとにぎっしりと詰まっており、それに負けじと色とりどりの羽根が何種類も床に散らばっている。雪の結晶の拡大カラーコピーまで一緒になって落ちていて、足の踏み場がない。
記憶を辿る、最初のイメージから何度もアイデアを足して変えていったこと。そういえばデザイン画は…?

ドアが開いた音に顔を上げると、にっこり笑顔のマリエンヌが紅茶を持って入ってきた。
「おー、トキ。”おかえりなさい”」
「”ただいま”。ねぇマリエンヌ、僕今回どれくらいイってた?」
頬にキスを貰い、紅茶がソファの前のロゥテーブルに置かれた。
「ムッシュ・マッキンリィに伴われたマリカと戻って調度四日たちましたわ」
うげ、アンドリュウに連れられて戻った…?つか飛行機によく乗れたなあ…ああ、さすがにマリカ一人じゃ無理だもんな。う〜…。
「私とステファン、ムッシュ・マッキンリィに怒られてしまったわよ」
「うあ」
くすっとマリエンヌが笑った。
「美味しい餌があると解っている所にクチュリエ病重大患者を目付け役なしで放り込むんじゃないって言われました」
私たちはどちらのトキも愛してますけどね、とくすくす笑われる。
あー、やっちまった…アンドリュウと気心知れてきたのが悪いのかな、イメージの洪水にさらわれてしまった。これで貸し二つ、か?あああああ。泣きたい。もう僕二重人格確定だよなぁ、うわあんっ。
「二度と一人で出歩かせるな、とまで言われましたけどね」
ソファに移って腰を沈める。
「そんなに酷かった…?」
恐る恐る聞けば。
「ええ。昨日スウィッチが切れて眠りに落ちるまで、デザイン画を描きつつ、サンプル品を片っ端から集めさせて、もう素材の発注までやりましたわ。他にもジュエリィ・デザイナのグリフィス兄弟を真夜中に呼び付けて仕事の何点か作らせ始めましたし、調度いらしていたカール氏そっちのけでお仕事に没頭なさいました」
がっくり。
「全然覚えてないよ〜」
「その他の仕事はそっくり残っているので、ランチを食べたら始めてくださいね」
ぎあ、容赦ないなぁ…。
「ではデザイン画をどうぞ」
「あ」
「ムッシュ・ブロゥのオフィスに渡す資料の用意はできてます。連絡はアポイントメントを入れて、ロンドンまで伺うつもりでいらしてくださいね」
本人にお会い出来るかはわかりませんけど。そう言ってデザイン画を僕に手渡し、マリエンヌが部屋を後にする。僕がきっちりと”目覚めた”のを確認したので、ランチを支度しに行ってくれたのだ。

手元のデザイン画を見つめる。
一枚目。裾に刺繍ではなく、雪の結晶のパターンにレースで編んで、それを縁に飾っている。アシンメトリの丈は右側がベリーショートで、左側が地面に着く長さだ。
ベルトも刺繍はなく、シンプルに白い長い布地だ。こちらも両端に雪の結晶の刺繍が縫い取りされていて、左側に流すようになっている。
トップも長袖のカシミヤで、タートルネックの予定になっている。酷くシンプルなその首周りには、けれど豪奢な人工ダイヤモンドとイエローダイヤモンドを一列ずつ交互に配置して、計九段のチョーカーを付ける予定だ。しかもイエローダイヤモンドは出来れば単一色ではなく、上段の方は薄く、下段の方は濃くしてグラデーションを描くようにしてある。アメジストは廃案になって、変わりに二種類のダイヤモンドを使って大きな十字架が胸の中心部に垂れ下がるように指定してあった。
足首にも同じように、ただしこちらは五段のグラデーションでぴったりと添うようにアンクレットのデザインが指定されていた。ううん、いったいいくらになるんだろう…あ、イヤリングは内側がイエローダイヤモンド、外側がダイヤモンドの長く垂れ下がるクリップ式を要請してるし。ジルコニアかスワロフスキィにしたならプレタポルテのルートに乗せられるかなぁ?

しかしこれは一枚目で。二枚目はその上に着る、ロングコートとブーツのデザイン画だ。
フード付きの白いバックスキンのそれは、シルバーフォックスのファーで縁取りされ、ボタンではなく、ベルトで緩く締めるようにされていた。
ブーツも同じ素材を指定しており、剥き出しの太腿がほとんど隠れるまでの長さがある。膝下までが編み上げになっており、そこから上は大きく伸び上がって、縁取りしたファーがVを描いていた。エレガントながらも厚めのソールとしっかりとした太いヒールがどこか攻撃的なラインを醸し出している。シューレースの間から飛び出たファーのふかふかがエロティックにキュートだ。素材を選べばプレタポルテでもいけるよな、よしっ!

つうかセト氏が引き受けてくれなかったら、僕はこれをどうすればいいんだ?最新の雑誌(英語のインタビューものだったから中身は読んでない)で見たセト氏のヘアスタイルで僕、デザイン進めてるし。つか一日で全部の服を着て貰うのは無理そうだなぁ。だってこれ、白いウールをエクステンションのように付けてもらわないと、セト氏の髪に全体が負けてしまうし。メイクもシルバー系のアイシャドウに淡いパールパープルを合わせて、同系色の口紅でバランス取らせてるけど、他の服にはまったく合わないし〜。

あ、夏の”弁天”。リネンに花や鳥の刺繍をびっしりと、長い巻きスカートに極彩色で入れてある。三ヵ月かかるかなあ…よくクローディアがオオケイ出したなあ。あ、こっちがサッシュのようなベルトに金糸で刺繍なのね。で、金とプラチナの太いネックレスの先に円形の大きなイエロートパーズをはめ込んで。ワイヤーのようにブレスレットとアンクレットが巻き付くのか。ヒンドゥの神様らしく見えるけど、はめっぱなしって訳にはいかないよなぁ。ま、いいや。宝石屋に任せておけば。頼りにしてるぜ、グリフィス兄弟!
そして片腕に真紅で鳳凰を描く案には変わりなく。メイクは中国っぽく朱をメインにし。こっちは髪をストレートのロングにして緩く結わいたところに、極楽鳥の尾っぽなどを垂らす予定だ。…そういえば、インド名サラスヴァティって芸術の女神だったよなあ。うん、いいイメージ。

でもって和装。これは懇意にしている京都の反物屋と協議した結果(その記憶は鮮明だった、日本語で交渉したからかな)、浴衣ではなく着物として誂えたほうがいいということになったのだ。
帯の色指定は変わらず、ただし形としては硬くなるように内側に厚紙を入れ、コルセットのように横で紐を締めて絞り調整するように仕立てる手筈になっている。
着物の柄は木炭色の影の上に柿渋色の枝と上品な薄紅色の桃の花を描いて、金糸でポイントを入れて豪奢にする予定だ。たしか桃の花言葉は”愛の力”だし、セト氏の持つプラスのイメージには合ってるよな。
和服屋ではなくクチュリエらしいデザインとしては、萌黄色の薄い布を裏地として合わせたことかな。裾がはだけたときにきっと綺麗に映える、うん。
下着となる襦袢は絹の白で透かしが入ってる布を使い、透明感を保ちつつも艶やかに美しい印象を残すよう心掛けた。
アクセサリ類は予定通り簪だけで、素足のままがいいので足袋はなし。黒漆に金箔を散らした下駄もオプションとしてオーダに出されている。鼻緒は裏地と同じ萌黄色だ。
ホワイトフォックスのストールの使用も一応考えている。実際に反物が届いてからどうするか決める予定だ。長いそれを纏ったセト氏はさぞエレガントだろう。早く着て貰いたいなあ!

白い秋服、ノースリーヴのハイネック。細くピッタリと身体に添うウールのもの。臍丈のチャイナ風、横にスリットを入れる。ボタンは編み紐で白一色。ボトムスには綿ストレッチのブーツカット。裾の外側には金糸で薊の刺繍を入れておく。でも靴の指定はナシ。そしてズボンの上にトップと同じ素材のロングでタイトなスカートが来る。タイトな分、六箇所に尻下三センチのところからスリットを入れ、裾から上三センチから膝下三センチのところまで円形のエンブレムを押し当てて盛り上げ、切れ込みを入れて浮き彫りみたいにする予定だ。腰の両サイドにはそれぞれ二本のキャメルの革と金の金具のバックルを付けてウェストラインを絞ると同時に更にタイトな印象を。スリットとスリットの間、腿に当たる部分には金鎖を各所に三本ずつ垂らして繋いでいく。腰の周りには白いヴェロアの幅広の布を帯のように結い上げ、ふくらはぎ半分まで届くその縁にはシャンパンゴールドのフォックスのファーを取り付けて、アクセントにして。
新しくデザインしたのはヴェロアのジャケット。裾を短くして袖は長めに、襟は高めにして、帯と同じフォックスファーを縁にあしらって。チャイナ風の編み紐でインナーと合わせたボタンを。
アクセサリにはイヤリングだけ。フォックスファーの小さな球の下にシャンパンゴールドの二センチほどの真珠を付け、その下に編んだ白い紐を房にして肩口に届くまで垂らす。アクセントに金の紐を三本交じらせておくのがポイントだ。
個人的なイメージとしてはこれは戦う神。槍でも持ったら完璧だ、うん。だからメイクはシャープに。髪形はきっちりと押さえて後ろで結わかせて貰って…ストレートパーマもいいよな。その辺りは相談しよう。

デザイン画を見終わって軽く溜息を吐く。
いつも通り、全てのイメージに覚えがあるのに、細かい指定を出した記憶がない。
頭に浮かんだデザインを紙に書き留めようとあがいた記憶はあるのに、必要なものを発注までさせたことも記憶にない。
本腰を入れてデッサンをするトキ先生はばしっと厳しくてカッコイイですよ恐ろしいけど、と周りのスタッフには言われているけれども自分ではそんな自分をイメージすることすらできない。
一番近しい(と勝手に思っている)アンドリュウに相談すれば、お前みたいなの他に知ってるがなんの問題もないぞ、と妙な太鼓判を押された。仕事のプラスになっていて、プライヴェートのマイナスになってなければそれでいいじゃないか、と。
それはそうだけどさ、と思う。けどそんな自分を、仕事以外で付き合ってた人は付き合いきれないって言うし。(だから友達いないんだけどな…溜息。)
しかも仮縫いの状態でそんな恐いの降ろしてセト氏に嫌われたらどうしよう(半泣)。

また自己嫌悪と悪い予感に苛まれていれば、すい、と扉が開いて意気揚々とステファンとマリエンヌが揃って入ってきた。ぴかーっとハッピーオーラが出てる。うう、眩しい…。
「トキ、眠そうな顔してる場合じゃないですよ!アポイントメント、なんとか取れました。ちょうど今、パリ公演真っ只中だそうで、明日の夜八時から話を聞いてくれますって!」
マリエンヌが笑った。指定されたのは僕すらも名前を知っている一流ホテルのラウンジ。んん?
「一日置きで舞台に上がっているそうです。今日は本番、明日は軽いレッスンの後、夕食を食べに出られて戻られるのがその時間だとおっしゃられました」
ステファンが補足してくれる。なぁるほど。ってええ!?
「ブロゥ氏本人が会って話を聞いて下さるそうで、一時間だけ空けてくださるそうです」
あ、そうか。翌日も公演だもんな。
「そこで提案なのですが」
あ、マリエンヌ、目がキラキラしてる…?
「モデルをお願いするのに一度も舞台を見た事がないというのは、さすがに失礼な気がして。スタンディングでもいいから、いまからでも今日のチケット抑えません?」
「−−−それだーっ!!」
あああああ、なんでいままでそれに気付かなかったかな僕!?
「えええと、今からじゃ、ボックスは無理かな?みんなで行こうみんなで」
なあステファン、僕の口座から落としていいからなんとかして、と言えば。劇場に掛け合ってくれると言っていた。
「マリエンヌは行きたくて行ける人募って。あ、まだ残ってる人だけでね」
「トキ先生大好き!もちろんですわ」
ばたばたと動く二人の背中を見つめながら、心を決める。
こんなに僕のためを想って一生懸命になってくれてるスタッフのためにも、僕は頑張らないとな!弱音吐いてる場合じゃないっての!


「う〜、緊張するなあ!」
「あ、ほらほら来ましたよ…!」
重厚なエントランスを優雅に抜けて、颯爽と彼が入ってくる。
背丈が特に高いわけではない(僕より高いけど)のに、一人だけオーラが違う。キラキラとそこにだけライトが当たっているみたいだ。
初夏らしく、着ているのはぴったりとした真っ白のワッフル地Tシャツに、シンプルなストーンウォッシュのヒップハング・デニム。ベルトと靴は淡い茶のレザーで、上着には甘いクリームの麻のジャケット。サングラスも上品なスティールフレームだし……って!見惚れてる場合じゃないって!うわ、近づいてくるよ、眩しいようっ!

「ムッシュ・ミクーリャ?お待たせしました、セト・ブロゥです」
立ち上がれば、ふわりと微笑んだセト氏が優雅な手つきでサングラスを降ろし、手を伸ばしてきた。
間近で見る蒼氷色の目がキラキラ輝いていて。慌てて握手に応える。
「始めまして、トキ・ミクリヤです」
そして両サイドに居るステファンとマリエンヌを紹介する。同じようにセト氏の隣にいた、よく日焼けした若い女性を紹介された。マネージャさんらしい。
「時間が勿体ないので行きましょう」
にっこりと微笑んだセト氏とマネージャさんに促されて、トップフロアのバーラウンジに通された。
セト氏は飲まないけれど下戸というわけではないらしい。気にしないでくれ、と言われたけれども結局は全員がノンアルコールを頼み。しかしそれでもバーのスタッフたちの誰もが嫌な顔をしなかったのは、一重にふんわり笑顔のセト氏の影響だろう。顔見知りみたいだし。

用意しておいたポートフォリオを手渡して、さらさらとセト氏が目を通していくのを見つめる。薄暗い店内のロゥテーブルに置かれたアンティークランプに照らされたセト氏はとても美しい。睫の影すら繊細で、唇のラインが酷く扇情的だ。
アンドリュウは自分が写し取れる以上にセト氏は綺麗だと言ったけれど、写真には写真だけの美しさがある。生身のセト氏は間違いなく美しいけれど、アンドリュウの写真で見るよりずっとクールな印象がある。そして倍キラキラ煌めいて
「ムッシュ・ミクーリャ?」
「あ、はい」
ぱちくりと瞬く。なんか違和感が…んん?
「ムッシュはモデルとしてオレと契約したいんですよね?」
「ハイ」
頷く。そして気付く。アンドリュウのことを考えていたから頭が英語に移動しかかっていたのに、セト氏は柔らかなフランス語で喋っていて混乱しかかっていたことを。つうかセト氏のフランス語って、恐ろしく官能的だ…うわあ。
「オレはバレエダンサなので、自分を魅力的に見せることはできても、服を生かして魅力的見せることはできません」
うわた、すぱっと言い切られたよ。どうしよ…!
前にランウェイで”踊った”ことあるんだけどね、とセト氏がふんわりと笑った。
「でもウォークに関してはてんでダメだったんだよ、自分がやっぱり主役でさ」
もうかれこれ12年前になるけど、と言ってセト氏がデザイナの名前を教えてくれた。僕の師匠より大御所の一人。どうしても、と頼み込まれ、一度だけの約束でチャレンジしたらしい。
「やっぱり意識が全然違うからね、ランウェイで”歩く”ことはオレにはできないよ」
「……そうですか」
そうまで言い切られちゃうとなぁ。しょんぼり。
ぽんぽん、とマリエンヌが手を叩いて慰めてくれた。うう。

くすっとセト氏が艶やかに笑って、とん、とポートフォリオを叩いた。
「それに。ムッシュ・ミクーリャのデザインは魅力的ですけど、女性物ですよね、全部?」
「あ、の。これ全部、着てもらえたらと思ってデザインしました」
デザイン画のカラーコピーを差し出す。す、と長細い指が優雅にそれを受け取っていった。うわ、爪の先まできれー…。
じっくりとセト氏が一枚一枚を見ていく。うぅ、なんでこんなに緊張するんだろ。心臓ばくばくしてるぞ。

すい、とアイスブルーが見上げてきた。きらっと光を弾いて、心臓が跳ねる。
「…オレのイメージの基本は白でフェミニン、ですか?」
「白はそうです。でも実際にお会いしたら、ぱしっとしていますし、フェミニンということはないですよね。踊っていらっしゃる間は、噂に違わずチャーミングな王子様でしたし」
オヤ、とセト氏が片眉を引き上げた。ううん、迫力〜!
「見に来てくださったんですか」
「ハイ。スタッフ八名と一緒に。もうセト氏から目が離せなくて、踊っていらっしゃる間は見惚れてました。バレエのことはちっとも解らないんですけど、どきどきしたり、はらはらしたり。ステファンに落ち着きなさいって注意されたくらいにもう…!」
くすくすとセト氏が笑う。耳にその声が心地良い。恋人さんはきっと強い心臓の持ち主なをだろうな、毎日こんなどきどきさせられっぱなしだったら大変だろうに、って余計なお世話か。
「ありがとう、素敵な感性をお持ちの方にそう言われると嬉しいです」
「いえ、こちらこそお会い出来ただけでも舞い上がってて」
きらん、とセト氏の目が煌めいた。
「じゃあ着なくてもいい?」
「へ?」
にかあ、と悪戯っ子みたいにセト氏が笑った。うわ、うわ、はなぢでそう…すっげ可愛い。
「嘘。ムッシュが素直で可愛いからからかってみただけです」
「へ??」
にこにこにこ、とセト氏が笑っている。うーわーどうしよう、セト氏にからかわれてしまった。アンドリュウに自慢しようかな…って自慢できる事柄かな、自分。

セト氏がまたデザイン画を見ている。
「あの…?」
「ムッシュ・ミクーリャは本物指向?」
「ハイ?」
トン、とチョーカーのデザインを指差された。
「洋服デザイナなのに宝石もなさるみたいですね」
ああ、と思い当たる、イエローダイヤモンドとダイヤのデザイン。
「セト氏に着て戴くことばかりイメージしていたら結果そうなりました。借金してでも本物で作るつもりです。とはいえ人工物になりますけど。ああですけど、本物と見分け付かない程の物を使用しますけどね。確かイギリスの方に工場が在った筈です」
ステファンが会社名と社長の名前を告げた。セト氏は知り合いだったらしく、柔らかな笑みを称えて頷いた。典雅な仕種だ。

セト氏が僅かに首を傾け、ふわりと笑った。…っ、髪さらさらしてるしっ。
「ムッシュ、貴方、アントワンといい勝負になりますよ」
「え?どなたですか?」
聞くと同時にマリエンヌに耳打ちされた。有名な舞台美術監督でセト氏の父上。
知らない様子の僕に、けれどセト氏は怒るわけでもなく小さく笑った。ふわ、とそこにスポットライトが当たったみたいだ。
「すみません、無知で」
謝れば、お気になさらず、と言われた。
「オレの弟が専門外についてはとことん知識が薄いものですから、そういうタイプの人に馴れてるんですよ。それに」
言葉を区切った美人を見つめる。睫長いぜ。つか目が宝石だよう。
「それだけムッシュ・ミクーリャがデザインに打ち込まれてきたってことでしょう?」
あああ、褒められちゃったよ、顔赤くなるって。
小声でどうにか礼を述べれば、セト氏はマネージャの女性と契約書を読み始めた。英語とフランス語を用意しておいたけど、マネージャさんとは英語だ…うん?あ、そか。最初からすんごい流暢でどこか官能的なトーンのフランス語を喋ってたから気付くの遅れたけど、イギリス育ちのフレンチ・アメリカンだもんな。綺麗な英語で読めて話せて当たり前だよな。バレエだけじゃないんだ、すごいなあ…!ってアンドリュウはほとんど英語しか話さないもんな。早く気付けよ自分、つうか僕はセト氏にすんげえ気遣われているのかな…?

「ムッシュ・ミクーリャ?」
「あ、はい」
ミクーリャ…セト氏が呼んでくれるとなんか優雅に聞こえるなぁ。いいなあ改名しようかなあって嘘だけど。
「ランウェイは無理だということなんですけど」
「あ、スチールだけでいいです!服を着て貰って写真撮るだけで」
って意気込んで言っちゃったよう、むしろ即答?
「じゃあそれを明記してください。パーティ等は?」
あ、さすがアメリカンなマネージャ。契約には厳しいのね。
「スペシャル・ゲストとして写真を披露する時に一着だけお好きなのを着て出ていただければ。あ、もちろん着替えてくださるんでしたら全部着て戴いても」
「それは季節にもよりますね」
「ハイ、その通りです」
自分でデザインした癖に季節物だってこと失念してたよ、僕の馬鹿っ。

くすくすとセト氏が優しく笑った。
「あの、」
「あ、失礼。本当に可愛い方なのに、ご自分でブランドをお持ちのクチュリエでいらっしゃるなんて…すごいことだと思って」
「はあ」
褒められて…はいないよなぁ?
「契約に戻りましょうか。スチールショットだけでいいなら、着飾ることは好きなので是非引き受けたいのですが」
なにか問題でも?とマリエンヌが首を傾げる。
「ええ。撮影だけでなく採寸や仮縫い等の時に留意して戴きたいことなんですけど。出来れば実際に関わる人数は最小限に、そしてプライバシィに関して信用が出来て身元の証明がきちんとできる方だけで固めて欲しいのです」
にこお、とセト氏とマネージャさんが一緒に笑った。うわ、後光が射すってば。
「とおっしゃられますと?」
ステファンが話しを先に進めている。仕事中だもんな、うん。
「要は契約中にセト・ブロゥという個人に関して見聞きしたことについて、軽々しくメディアに触れて回るような人間が混ざっていたら困るということです。私物の持ち出し等以っての外。無事にセッションを終了し、お披露目が済むまで、セトがモデルとして起用されていることも誰にも一切口外されたくありません。知人家人恋人および実際に採寸等に関わりのない関係者およびメディア一同、例外は一切認めません」
ぱし、とハスキィな声のマネージャさんが言う。
「契約違反についての違約金もはっきりさせておきましょう」
ううん、アメリカン…弁護士並だ!若いのにすごいなあ。
ばしばしとマネージャさんが細かい部分をステファンと取り決めていくのを、半ば呆然と見守る。だって僕にはできない事だし。
僕があまりに途方に暮れた顔をしていたのだろう、セト氏がゴメンネとでもいいたそうな顔をして笑った。そして柔らかなフランス語が耳に届く。
「オレは表現者であって見せる側の人間なんだけど、見世物になるのは我慢できないんです」
”舞台”にいない時は曝されることを極力避けているのだという。
「もちろん、例えばムッシュが絶対に口外しないと信頼出来る、トラブルになった時には責任を取るつもりでいらっしゃる方には漏らしていただいて構いません。オレも恋人やシャーリィには知らせたいですし」
ふむふむ。ナチュラルに恋人さんのことはオープンにしてるのね。目がきらっきらしてるし、なんだよアンドリュウめ脅しやがって…って、んん?
「あの、」
「Oui?」
「シャーリィって?」
にっこりと艶やかにセト氏が笑った。
「アンドリュウに名前でも聞いたかな?オレの母です」
「−−−お母さんですか!」
セト氏の母上にプロポーズしたのか、すげえなアンドリュウ。つうかなんでアンドリュウと組んでよく仕事してるの解ったんだろ?あ、ポートフォリオ先に読んでたもんな。解って当然か、書いてあるし、アンドリュウが撮った写真がメインで載ってるし。

「いまだにアンドリュウのミューズだから、仕事始める前に写真にキスしてるでしょ?」
しょうがない馬鹿だよねぇ、とセト氏が朗らかに笑う。そうかアレはアンドリュウのお守りみたいなものなのか。アンドリュウも案外可愛いとこあるんじゃないか。
「エピソードはご存知ですか?」
首を傾げて顔を覗き込んできたセト氏に頷く。うひゃあ、美人だよう。目が釘付けになるって。
「この間アンドリュウに伺いました」
「ふふん。シャーリィ美人だよ。見せてあげようか」
する、とセト氏が一枚の写真をスケジュール帳から取り出した。そこにはアンドリュウが”ハリウッド・スター”と説明しただけはある程の美人が写っていた。淡いブロンドを纏め上げた、シャープな顔立ちを大輪が咲き誇っているような艶やかな笑みを浮かべた女性。セト氏にフェミニティを足し、品の良さと知的なセンスはそのままに、よりおおらかそうにして。
「それは去年の冬のシャーリィね。若い頃のはこっち。といっても、アンドリュウが撮った一枚だから、今から20年くらい前のだけど」
そういって見せて貰ったのは、エレガントなナイトドレスを着た若い女性。黒いシルクのぴったりとしたラインに身を包み、黒貂のファーを纏っている。大きく開いた豊かな胸の間には、ハリィ・ウィンストンの大粒のティアドロップが垂れ下がっていた。誰が見てもゴージャスで品のあるレディ。
「素敵でしょ?」
「ものすっごいゴージャスな人です!」
思わず握りこぶしになると、でも駄目だよ、とセト氏が笑った。
「エディに首ったけだからね、シャーリィは」
「や、別にそういう気はないですけど」
そう?と笑うセト氏を見つめる。キラキラと蒼氷色の目が真っ直ぐに見詰め返してくる。凜としているのに優しくて、なぜか溜息を吐きたくなるような眼差しだ。
「僕はあなたにずっと逢いたかったので」
ぱちくり、とセト氏が瞬き、慌てて両手を振る。
「アンドリュウのオフィスであなたの写真を見た時から、なんて綺麗な人なんだろうって思ってて。アンドリュウにずっと逢わせてくれって頼んでたんですけど、実力でなんとかしろって言われて。−−−あなたが一番、僕にインスピレーションをくれたので、一体あなたはどんな人なんだろうって思って、ずっとお会いしたくて」

ふわ、とセト氏が芸術的に口端を引き上げた。どこか官能的で…一気に引き込まれるような魔力がある。
隣でマリエンヌとステファンが息を飲んだのが遠く聞こえた。そう言えばアンドリュウが繰り返し、セト氏には一瞬どきっとさせられるって言ってたもんな。これかな?これだよな、うん、きっとそうだ…。
「実際に会ってみてどうですか?」
うー、なんだろ、試されてるのかな僕?甘い囁くような声のセト氏を見上げる。
「想像していたよりダイナミックで、僕はなんだか飲まれちゃいそうです」
正直に告げたら、ぷっとセト氏が笑った。途端に空気が和らぐ。
「貴方のイメージに合っていたかってことなんだけど?」
ぐはあっ、一気に赤面しちまうよっ。
「すいません…」
「いいえ。そういう評価は非常に嬉しいですから」
にっこり笑顔のセト氏を見詰める。
「実は想像以上にオーラと引力がすごくて。でもきっと僕の服はあなたにとても似合います。エレガントに神々しく、艶やかで美しく。着て戴いたことは決して後悔させませんから!」
身を乗り出して説明すれば、にやり、とセト氏が笑った。おお、なんだなんだ、悪戯なガキみたいだぞ?
「そういう熱意、嬉しいね。やってやろうじゃん、って気になる」
にかあ、とセト氏が口端を更に引き上げた。
「気に入った服は貰える?」
−−−へ?
「あ、ごめん。ちゃんと買った方が、貴方の才能を認めたことになるかな。なにかのイベントの時には貸し出すから、どう?」
そのかわりギャラは安くてもいいよ、とセト氏が笑う。
「もちろん、オレの本業はバレエダンサですから、スケジュールはその合間を縫ってしか組めません。恋人と会う時間はバレエと同じくらい重要なので、急なアポイントメントには応じかねます。先程申し上げたように、セキュリティを先ずなにより優先していただきたいので、今提示していただいているギャラの半分でモデルをお引き受けします。あ、あと。メディアに情報を流す場合には先にオフィスに内容と発表日時をお知らせ下さいね」
にこお、とセト氏が笑った。それでいい?と目線でマリエンヌとステファンに聞けば、深い頷きが返ってきた。揃ってきらっきらな目をしている。守銭奴気味なステファンが乗り気なのは、提示内容とギャランティが釣り合っているからなのだろう。セト氏ってビジネスマンでもいけるのかもしれない。すごいなぁ。

あれよあれよという間になんとか仮契約を結び、祝いのスパークリング・グレープジュースをマリエンヌが人数分オーダした。
運ばれてきた時に、セト氏はどこか擽ったそうに笑い。思いがけずキュートな一面を見てしまった。うわ〜、ラブリィ!

「あ、あと。ToMiKのカタログもください」
にっこお、と笑ったセト氏に目が点になる。へ?
「あの、ご存知で?」
ToMiKとは僕がメインでデザインしているプレタポルテ(既製服)のブランドのことだ。あんまりセト氏が着ていそうなイメージが僕にはなかったので、びっくりだ。
そこへ飛び込んできた柔らかな声。
「結構好きです」
ふにゃりとセト氏が笑った。ご機嫌な猫みたいで心臓にドキンとくる、確かに。うう、チャーミングだ。
「最近またああいう感じの服で遊び始めたので。こんど弟でも遊んでやろうかな、と思いついたので、今お持ちでしたら戴こうかな、と」
ちなみにToMiKのラインはギャル系パンキッシュのゴージャス版だ。男女のどちらが着ても、ちょっぴりハードでセクシィかつエレガント。下着からアクセサリ、靴からサングラスまでトータルでやっている。オートクチュールでお世話になっているスタッフとは別のチームが、それぞれのセクションで僕のオリジナル・デザインを元に遊びつつ発展してくれている。別名ファクトリィ。

マリエンヌがいそいそとカタログを取り出し。がきんちょみたいな満面の笑みで、セト氏がそれを受け取ってくれた。メルシィ、って発音が涙が出そうにかわいい。うわあんっ、心臓揺さぶられっぱなしだよう。

次回、本契約と採寸の日程を二日後の一時から五時までと決め、セト氏とマネージャさんが颯爽と帰っていった。一瞬だけバー全体が華やぐ。だってセト氏、王子だもんな。
他の客からは少し離れた角のスペースだったというのと、セト氏以外に目線を向けていなかったのとで、自分がどこに居るのか忘れてたよ。
すっかりぼーっとしている僕と、珍しく気が抜けているマリエンヌとステファンを見兼ねたのか、ウェイタが空のグラスを引き上げるのと同時に声をかけてくれた。
まだ若いけれど仕事に誇りを持っていると解る顔をしていた彼は、僕を見てにかりと笑った。そして、シャンパン等?と言ってくる。
僕はあんまり飲めない質なんだけれども、ええい、祝わずにいられるかっ!マリエンヌとステファンの顔を見遣ってから、モエ・エ・シャンドンのボトルを空けてくれるように頼んだ。気が早くてもいいよ、もう!会えただけで行幸!!
本契約が済んでからアンドリュウに報告しようかと考え、思い直して携帯を取り出した。
繋がったのは留守番電話サービスで、仮契約が済んだ事を報告する。それでもって、実際に会ったセト氏は確かに物凄い魅力の持ち主だったこと、言葉遣いは酷くなかったどころか心臓に悪そうなくらいにエレガントでセクシィだったことも。
それをアンドリュウが、セト氏の宿泊していた部屋のリビングで、セト氏のマネージャさんと三人で僕の過去の作品を見ながら受けていたなんてことを知ったのは翌日のこと。
更に写真撮影期間にあった二日間の休みは、予めセト氏の舞台を見るために空けてあった事が判明。
ずるい僕もみたいと駄々をこねてみれば、悔しかったらセトの友達になってみな、と意地悪で素敵なカメラマンに言われた。ちくしょう、確かにお互いが親友だと言い合うくらいの二人だよっ、ふん。

ひとまず僕はアンドリュウと約束の、プレタポルテでメンズラインを手掛けるためのデザインを考えている。どうせならアンドリュウにモデルやってもらえるか聞いてみよう。それ位いいよなっ?つか駄目で元々当たって砕けろ!駄目ならそれでセト氏に訴えるという手が残ってるし、なんてな。
色々やることは一杯だけど、先に楽しい事が待っている。
頑張って働いて。早くセト氏に僕の大好きなスタッフたちと作った最高の服を着てもらおう。気に入ってもらえるといいな、セト氏の恋人にも。どんな可愛い彼女なんだろ、恋人を思い浮かべてる時のセト氏、なんだかかわいらしかったしなあ。うん。
アンドリュウが撮った僕のオートクチュールを着たセト氏の写真。拡大パネルにしてアトリエに飾るの、セト氏は許してくれるかな?結婚式の時にはドレスもスーツも喜んで作るって言ったら、セト氏はオオケイしてくれるかな。
友達とは言わないけど(なにしろ僕はクチュリエ病重傷患者、とほほ)、せめてお気に入りのデザイナぐらいにはなりたいもんな。
ようし、僕は僕にしかできないことを頑張ろう。この世にたった一つの宝石をより煌めき輝かせることができるように。そしたらもっと、まだまだこれから輝くだろう宝石の原石を見付け、磨き上げることができるようになるかな、僕の作った最高の服たちで…?




FIN




さて。
これだけで、済むと思ったら大間違い!!ええ、拙宅の「ばかわんこ」がこんな美味しい話に乗らないわけがアリマセン。ヤツァ、ちゃーっかり休みもぎ取って仕出かしますよ、ある事を。
怒涛の第2部、近日公開!!(2004年12月12日現在、鋭意製作中!!)


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