December in New York










雪が降り出していた、12月のニューヨーク・シティ。
除雪された歩道は、けれど、もう新たな雪に塗れていた。
ふわりと積もった白、古い足跡の形に添って、おうとつを刻んでいる。
残された、形跡。

足跡を残すのには、躊躇いがある。
言っても詮無き事だと解ってはいるのだが。
こればかりは、長年身についた習性のせいだろう。
できれば避けて通りたい、が。

横を向いた。
サンジが首に巻いた白いマフラが雪にたなびいていた。
けれど、それを気にすることもなく、さくんさくんと足を踏み出していた。
どこか楽しげに。

カフェに残して別れてきたサンジは。
いつもどこか、引いているようなところがあった。
日向で生まれた子供に違いないのに、日陰ばかりを選んで歩いているオレの後を、黙って付いてきてくれるような。
それが嬉しい時もあった。けれど同時に疎ましくもあった。
日向を歩ませてやれない自分が、腹ただしくもあった。
そうすることを選んでくれたことを、常に感謝していたが。

別れる間際、泣きそうな顔をしていた。けれど。
笑っていた。
理解している顔で。
きっと生きて会うことは二度とないだろう。
それを知っている、眼差しだった。

きっと、今ごろ泣いているんだろう。
けれど、もうその涙を拭いてやれない。
今、隣で息を弾ませながら歩いているサンジを、愛すると決めたから。
それは、オレの役目では無くなった。

愛し合ってる人がいるんだ、とカフェでサンジが言っていた。
その瞬間ばかりは、晴れやかな顔で笑っていた。
嘘ではなく、本当に愛し合っているのだろうと解って…。
ああ、あの野良猫は日向の方に帰っていったのだと、そんな思いが過ぎった。

するり、と手を離れていった猫。
とても愛していた。
オレと今、共にあるサンジの幸せを、願ってる、と微笑んでいた。
優しい優しい野良猫。
新しい人の側で、安心して飛び回ってくれ。
最後まで、なにもしてやれなくて、悪かった。
オレも祈るよ、オマエの幸せを。

横を歩いていたサンジが、すい、とオレを見上げて。
冷たくなった手を、ぺた、と頬に当ててきた。
引き寄せる、肩を。
「冷たいな」
「こんなに外あるくと思ってなかった」
「ああ、そうだな」
身体を預けられた。

「なんで、」
雪降る道を歩く。
言葉を口にする度、白い息が空気に散る。
まっすぐ、視線が向けられた。
硬質の、宝石のような青く澄んだ目。
「だまってた?」
そうっと囁かれた言葉。
キンと冷えた空気に溶ける。
一瞬考えて呟いた。
「…なんで、だろうな」

駐車場に停めた車。
雪の上の足跡を確かめる。
誰も近づいた形跡はない。
鍵を開けた。
助手席のドアを開けて、サンジに座るように促した。
「オレも、迷ってたってことなんだろう。直前まで」
じぃ、とオレを見詰めてから、黙って車の中に滑り込んだ。
ドアを閉める。

来た道を、一度だけ振り返った。
雪で欠けたビルの映像。
2階、奥、アイツが泣いてる。
けれど。
あの野良猫は、"愛されるコドモ"だから。
アイツが言った通りに、"ゾロ"に愛されているのだとしたら。
もうすぐ、ソイツがやってきて、アイツを抱きしめるだろう。

車に目を戻して、乗り込んだ。
エンジンをスタートさせて、ウォームアップさせる。
音、異常は聞き取れない。
雪に濡れたサングラスを外して、サンバイザのスリットに差し込んだ。
冷えた車内の空気、暖房が利き始めるには、まだ時間がかかるだろう。
隣に座っているサンジが両腕を伸ばして、きゅう、と抱きついてきた。
腕を伸ばして、抱き返す。
まだ息は白い。
雪に冷えた身体が温まるまで、抱きしめていようか。

「オマエ、雪の匂いがする」
首元に顔を埋めたまま、サンジが呟いていた。
耳元に口付けを落とす。
「髪、濡れちまったな」
ふ、とサンジが息を零していた。
さらり、とまだ白い結晶が疎らに散った髪を梳いた。
僅かに濡れて、灰色を斑に帯びた金糸。
腕の中のサンジは、温かい。

「ゾロ」
く、と胸が痛くなるような、呟きが零された。サンジの口から。
「オマエのこと、あいしていいって。」
「あぁ」

精一杯、愛し合えよ、と。
ふんわりと笑った野良猫が言っていた。
そうすることが、彼の幸せだ、と言って。
柔らかく、目を細めて。
そう言ったサンジの気持ちは、初夏の太陽のように暖かく染み込んで来た。
オマエはやはり日向のコドモだな、と。そんな思いが過ぎっていった。

「……ゾロ、」
「どうした…?」
髪に口付けた。
背後で、サンジの掌が、く、と握り締められていた。
背中、掌で撫で下ろす。愛しいから、優しく。
言葉の続きを待つ。
「オマエのこと、もっと好きになってもいいか…?」
「あぁ」
きゅう、と抱きしめた。
「もっと愛してくれ」
首元に口付ける。

僅かにサンジの肩が竦んでいた。
温まった空気が、漸く車内を満たし始めた。僅かな音と共に。
ドッドッド、とエンジンの振動が、前方から足元を伝って登ってくる。
「ウン」
サンジの柔らかな声が、静かに囁きを紡いだ。
「帰ろうか」
嬉しそうに、にっこりと笑ったサンジの額に口付けを落とした。
「オマエを、愛させてくれ」
笑って告げる。

ゆっくりと腕が解かれた。
「離れたくないなぁ、」
ぽつん、と洩らされた言葉に、笑みを誘われた。
「サンジ」
す、と頤を指で触れた。
「―――ん?」
身体を乗り出して、口付けを落とす。
そうっと。
「少しのガマンだ」
笑ったまま告げた。
「うー、」

ドライヴァーズ・シートに身体を戻し、サイドブレーキを降ろして、ギアチェンジ。
ストリートの向こう、表通りか?
車4台分のブレーキ音、内3台からクラクションの鳴らされる音。
僅かに聞こえる怒声。
サンジが額を窓に近づけいていた。
アクシデントか?
いや、スムーズに流れ出した。

すい、とパーキングから車を出した。運良くグリーンライトで、すぐにトラフィックに乗れた。
「アハ!すっげ……!」
サンジを見た。
「どうした?」
目が、キラキラと光を乗せて煌いていた。
微笑む。
なにか、いいサインでもあったのか?
「派手オトコが、豪勢に無謀横断してった」

サンジがまだいるだろうカフェの下、車を通らせる。
にっこおと、ナビ・シートのサンジが笑っていた。
「ちょっとオマエに似てたぜ?」
すい、と歩道に目をやる。
捕らえた、店の中に入る、一人の男。
「…"ゾロ"、だな」
笑みが勝手に頬に刻まれた、オレの。

野良猫は、随分と華やかな男に愛されたのだな、と不意に理解した。
シルヴァグレーのポニースキンがするりとガラス戸の中に滑り込んでいった。1階のエントランス。
ちらりと2階に目をやったが、アングル的に見えないのが残念だ。
「対照的な、"ゾロ"だな」
そうサンジに笑いかけた。
サンジがふわ、と笑っていた。
「オマエの知っているヤツか?」
道路に目を戻しながら訊いた。
トラフィックは何事もなかったかのように進んでっている。
「"イカレ・ガキ"」
歌うみたいに、サンジが口にしていた。

「年下なのか」
あの野良猫には丁度いいのかもしれない。
「おれと年一緒だもん」
「…そうか」
笑った。
「あれ?や?おれより1っこうえ??」
「ということは、19か?」
若いな。
少し無謀な方が、あの猫を精一杯幸せにしてくれるのかもしれない。
対象に引き摺られるようなところがあったから。
華やかであれば、アイツも艶やかに笑うだろう。
バック・ミラ越しに、願う。
二人の幸せを。



「あ、ごめん、3コ上だよ」
「ふン?」
「つーか、そんなんどうでもいい」
少し苛付いたようにサンジが言っていた。
「確かにな」
笑ってサンジの頬を一度撫でた。
「アイツがしあわせなら、問題無い」
「そういうことだな」
ふ、とサンジが目を伏せていた。

「…どうした?」
車はEast 42nd Streetに差し掛かっていた。
レッド・ライト。車間距離を測りながら、一時停止。
「あのな?」
横断していく歩行者たちを、目で追う。
ブルー・ライト。ミラで確認、後、緩やかにアクセルを踏み込む。
「さっき、ドアのところで。サンジに会う、ってきいたとき」
ざざざ、と溶けかけた雪の中をタイヤが走っていく音がする。
サンジの言葉の続きを待つ。
「なんだろう、おれ。あー、こんな気分かな、て思った。よく言うだろ、」
「ン?」
フロント・ウィンドウ越しに見えるシティの空は灰色だ。
「言わないのかな、運命が自分を捕まえに来る、てやつ」
「あぁ」
じ、とサンジがオレを見ていた。
「選択を下した結果が、現れたと思ったんだな?」
「うん、」
微笑んだ。その感覚ならオレも知っている。

フ、と新聞で、文面を読んだ瞬間を思い出した。
3日前の、タイムズ紙。
朝刊、右端、ページ数まで思い出せる。
昨日も、今日も、載っていた。
『いま、この手には光がある 返さなければいけない光が
灯されたロウソクは取り替えられねばならない 恋人達が聖誕祭に抱擁を交わす前に
カフェインに酩酊した画家は アトリエにて天使を見るかもしれない
啓示が下されるまで待とう 聖母が幼子を産んだ時まで』
"Rowan the Cat wants to see Wolfe − 猫のロゥワンはウォルフィに会いたい"
…クエナイオトナ達も、気付いただろうか?

「直前まで言わずにいて、悪かった」
心の準備をさせてやれなかったな。
けれど。
サンジが首を横に振っていた。
「…後でオマエに見せる、アイツが載せた広告」
サンジに微笑んだ。

詩的な暗号を載せるところは、さすがだといわざるを得ない。
それと同時に、アイツに気遣わせたんだな、と、今更ながらに思い当たる。
警戒心がないくせに、用心深く在ることは自然に出来る猫だった。
そして、人一倍気遣いの上手い猫。
愛される、コドモ。

「知ってたら、家逃げ出してるかもな、おれ」
「…そうかもな」
くす、と笑った。
「だから、おれに黙ってて正解かもよ」
そうサンジが言っていた。
ああ、その可能性も、考慮してなかったとは言えないな。
「雪の中ほっつき歩いて絶対帰らないな、何日か」
「そうしたら、オレも同じことをしていただろう。オマエを探して」

アイツには、会いたくて、会いたくなかった。
確かに、僅かに繋げていた人脈は殆んどといっていいほど切り落としたから、アイツが今、どうしているか知らなかった。
前に愛したように、あのふわふわと微笑む野良猫を、愛することは無いけれど。
幸せで、なかったら。
……幸せで、なかったら。どうしたらいいのか、解らなくなっていただろうから。

「おれね、」
「ン?」
East 34th Streetで左折。
「やっぱり、ずっとどこかで。オマエにこんなに愛されちゃいけないんだろうってどこかで思ってて」
イースト・ヴィレッジ・エリアに入ってきた。
「…あぁ」
サンジの戸惑いは、そのままオレのものでもある。
それでも、この柔らかな魂を抱えたサンジを、手放すことはできなかったが。
「うれしいんだけどさ、しあわせで。同じくらい、どこか痛かった」
「…あぁ」
「だからね…?」
キリキリと、罪悪感が疼いていたのは、オレも一緒だ。
ちらり、とサンジを見遣った。
すい、と目線が合って。
サンジが微笑んだ。
笑みを返す。
「…だから?」

「もし、アイツが。少しでも幸福そうじゃなかったら、オマエにはほんとに悪いんだけどさ、」
目を細めた。
路に目を戻す。
「悪いけど、なんだ?」
「預けたもの、返してもらおうと思ってた」
柔らかな口調で言葉を紡いだサンジ。
その命を、オレは預かっている。
ハンドルを握る手に、僅かに力を入れた。

「オレはな、サンジ」
苦笑、口の端に上る。
「なに?」
「それでも、オマエを手放せなかっただろうよ」
アイツをもう一度、と願う気持ちが無かったとは断言できないけれど。
「オレは、オマエを選んだ」
その行為の結果が、どうあれ。
「オマエを手放す時は、オレが逝く時だけだ」
その時でさえ、オマエを手放す気はさらさら無いというのに。

「だぁめだね」
「ダメか?」
笑った。
「ウン」
連れて行け、とサンジがにこりと笑っていた。
「連れていくさ」
そう誓っただろう?
笑って言葉にした。
車はもう、セカンド・アヴェニュに辿り着いている。
「あいしてる、って言い直していい?あとで」
「…あぁ」
いくらでも、言ってくれ。
その言葉は、聞き飽きないから。




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