* 1*

 ブロードウェーのネオンが赤、青、緑、黄、白、と瞬き。ぐるり、とそれが視界の中で円錐形にまとまっていき、歪んで流れ始めた。
 ぽとん、とそれの滴る音が聞こえた気がし、ルーシャンはキツク眼を閉じた。深く呼吸する。
 キューバミュージックばかりの流れる、飾られた熱帯の木で咽帰るほど濃密な匂いのする空気と、ハバナの匂い、そんなものがコンガの音に乗って溢れかえる、こんなクラブなんかに来るんじゃなかった、とカウンターから、煌びやかなステージに視線を一度だけ投げ、シンガーの赤い唇がぎらりとライトに光を弾くのに吐き気がした。
 拳をきつく握り、眉間に押し当てる。
「セニョール、ほら新しいラムだ」
 カウンターの内側から、赤の飾り襟のついたシャツを着て黒髪を撫で付けた男がグラスを引き上げた。
「ゴーストだって追っ払えるぜ、美味いシロモノだ!」
 そう言って、洒落たジョークのつもりででもあったのか、白い歯を見せて得意げに大笑いをしているのを、ルーシャンはうんざりと見遣った。
 会えるのなら、なんだっていい、と。呟く。
 なんだい?と耳に手をあててくる相手に、ルーシャンが笑みを乗せ、失せろ、と呟いた。代金をカウンターに押し遣りながら。

 ジョーン、と呟く。
 そして、それを新しく注がれたラムと一緒に一気に飲み込む。
 おれはあなたを愛してたけど、あなたは結局だれを愛してたんだろうね―――?
 白いスーツの幻、それが見える。
 暑さにうだるようななか、くっきりと際立っていたリネン。
 クセのあるトーン、書き散らされた文字。
 奇妙な季節、と誰かが言った。
 通信社のダレカか、それともゴシップ誌の三流ライターか、それか―――ロクデナシの詩人共か。
 ぐら、と視界がまた半ば閉ざされる。
 カウンターに顎を着くぎりぎりまでカオを伏せ、空になったグラスと、溶けかけた氷に透かして空が見えた気がした。水辺の。
 踊るように桟橋を歩いていたビキニ姿。
 肩に、オトコモノの仕立てのシャツを羽織って、サングラスをブロンドに高く跳ね上げて。
「ジョーン、」
 呟く自分の声が遠くに聞こえる。
「おれは、りんごは、嫌いだよ、」
 ダレだっけ、ウィリアム・テルの真似事をしようと最初に叫んだバカは。
「ジョーン、」
 遠くに見える、いとしいひとの姿に手を伸ばす。かえってきてほしいよ、と。
 頬をくすぐるようだった、ブロンド。すこしばかり、早口になって―――――

 突然、始まったトランペットのソロ、その金属の弾ける音に、びくりとルーシャンが肩を跳ねさせ、グラスに腕が当たり、それが床に落ちて粉々になった。
 カウンターのダレも、その内側のニンゲンも外側のニンゲンも、ダンスフロアに続く丸テーブルについているカクテルドレスやタキシードジャケットのだれも、なにも聞こえていないようだった。
 葉巻の匂いが急にハナにつき、ルーシャンが低く呻いたとき、物柔らかな声がダイジョウブかと訊いてきたのに、中指を立て。ぐらりとスツールから立ち上がった。
 ラテン・クラブなんかに来るんじゃなかった、と軽くアタマを振る。
 ふら、と覚束ない足取りでそのままガードマンの立つ入り口へと向かう。
 もっと別のところで、酔い潰れたかった。
 場所はどこだって良かった、眼が醒めるのが自分の家でないことも。どこかの安宿であっても、カオも覚えていない女を買ったにしても。
 意識の暗転する、ギリギリまで酔えれば場所など構わなかった。あのひとが遠い地で死んでしまったことを、認めたくなかった。あいしていたと思っていた、心の底から。あのひとをおれはどうして連れ戻せなかったんだろう―――。

 そして、明かりの差すまま、あてどなく歩くままに脚が止まったところに入り。バーを何軒か渡り歩くうちに、ふ、とアルコールに酩酊したアタマでも、いままで自分の選ばなかったエリアに立っていることにルーシャンが気付いた。
 ブロードウェーの喧騒からすこし外れて、明かりもさほど眼に喧しくない通り、このアドレスを知っている人間だけを相手に商売をしているような風情の店が連なる通りだった。
「―――――フン、」
 街灯に背中を預けて、ルーシャンが辺りを見回した。
 ぐる、と視線を回すだけで足元から回転しそうだった。
 眼を閉じて、それでも消えていかない目眩に小さく毒づき。とっくに乱れ気味だった髪に手指を突っ込む。
 おれは、なんで、こんなにカノジョのことだけ考えてるんだろう。
 あぁチクショウ、と呟く。ダレのものでもなくなってしまったいまだからこそ、余計におれはあのヒトがほしいんだろうか、と。おれの抱き締める力が足りなかったから……一度だけ抱き締めることができたのに、その間を滑り落ちてしまったんだろうか。
 あなたはエンジェルになれたのなら、おれを迎えにきてよ。
 ジョーン。
 あんたのゴーストを見る、とかあいつに言わせないでよ。

 ふら、とルーシャンが一歩を踏み出しかけ。どこかで、店のドアが開き。 華やかな笑い声が聞こえてきた、それで向きを変え。右手に踏み出した。
 すこし、灯りの届かないほうへ。そして、しっとりとした重さの木製のドアを、肩でぶつかるようにして押し開けた。

 す、と。静かなトーンが聞こえた、ジャスのカルテットが生演奏をしているようだった。
 落し気味の灯り、そして微かなトワレに混じって上質な煙草の香りがした。
 あぁ、よかった、とルーシャンがちらりと思った。とても、とてもニューヨークらしい、と。ジョーン、あなたを連れ戻せなかったのに。
 カウンターまで歩いていく。
 そうする間にも、ワンステップ低くなったフロアにはソファが並び、その先にはステージが誂られているのが見える。
「No, Toto, here ain’t no Habana, Mexico nor fuckin’Guatemara」
 馬鹿げた独り言を舌に乗せ、スツールに座る。
 ウィスキーを頼み。ピアノの音にすこし意識を合わせる。
 煙草を挟む肉感的な唇の赤と、それと同じだけ艶やかだった爪の色を思い出す。湖畔の緑とあまい水の匂い。
 ジョーン、とそうっと名前を唇に上らせる。
 そして、から、と静かな氷の崩れる音に磨きこまれたオーク材のカウンターにグラスが供されたのだと知り、ルーシャンがそうっと意識を戻していた。
 初老のバーテンダーが必要以上に感心を持たない態度で、チェイサーもその傍らに置くのに、いい店なんだろう、ここは、と思う。
 留め立てせずに、被害が及ばない限りは客がどんな状態であってもオーダーには忠実。
 あいつらが好きそうだ、とまた思い返しかけ。ルーシャンが瞼を拳で押さえた。
 ウィスキーのオンザ・ロックスの入ったグラスを僅かに引き上げ、それを一瞬だけ眉間に添わせる。
 知らず、深い、長い息が零れていく。
 タイプライターの音が聞こえそうな気がした。
 それを押し遣るように、喉の焼けるのもかまわずに一気に液体を流し込み。カウンターにグラスを戻す。
 か、とクリスタルのあたる硬質な音が妙に耳につき。視線で、すこしはなれた位置に戻っていたバーテンダーを呼び寄せる。

「同じものをお作りしますか、」
 頷けば、承りました、静かな声が返してき。何杯目かをオーダーしたときに、ふと隣からヒトの声が届き、ルーシャンが眉根を寄せた。
 独特の、マンハッタン育ちのニンゲンのアクセント。
 それが、なにかを話しかけてきていた。
 どうやら、先の二杯分くらいは、この隣のニンゲンからの奢りのようだった。バーテンダーからされたかもしれない説明はちっとも、耳に残りも、覚えてもいなかったけれども。
 誰かと飲みたい訳じゃない、アタリマエだ。あいたいひとはただ一人だけ。
 ふつ、と苛立ちが宥めていた感情から湧き起こりかける。
 猫撫で声をだすなよ、気色悪ィ、その手の声は後ろめたいニンゲンの専売特許だろ。
 ぐる、と言葉が喉まで競りあがりかけ。ポケットを探る。
 どこかにまだカネがあったはず、と。そして指先に引っ掛かった紙幣を無造作に掴み出すとそれをカウンターに押し遣る。
「じゃあ、奢り返すよ」
 呂律の怪しい所為で、常にも甘い声が酷く危うくなっていることに気付いていないのはおそらくルーシャン当人だけだ。
 それだけを言い捨て、まだ縁ぎりぎりまで満たされていたグラスを引き寄せてカウンターからふらりと細い背中が離れる。
 うるせえ、コイツ。
 どっかいっちまえ、クソ、あんたがどっかいかねぇならおれが奥にいく、そんなことを口中で呟き。
 静かにバンドが演奏を続けるフロアの方へ一歩、踏み出した。灯りが一層落とされていた一角が、ダレもいないようだった。
 す、と靴先が絨毯に埋まるような感触に、く、とルーシャンがわらった。ここで撃たれたら、掃除がたいへんだねえ、と。

 そして、何歩か進むうち、その一角に誰かがいるのがわかった。
 影が、2つほど。
 あぁ、うん、でも、隣のテーブルは空いてるね、と。
 すい、とまた一歩を踏み出し。
 あぁ、あれ?妙に遠近感がオカシイ、とぼんやりと思っていた。
 何フィートか先にあると思っていた低いソファが妙に間近にあり。またさらにワンステップ、そこへ行くにはフロアが下がっていたのに気付かなかった。
「―――――わ、」
 かくん、と覚束ない脚が均衡を崩し。上体がゆらりと流れ、倒れる、と思った刹那。
 ソファに座っていた男、男だった、その人物がふい、と振り向いてくるのが妙にゆっくりと見えた。
 けれど、倒れる身体を持ち直せるはずもなく、斜めになった腕の先からグラスが滑り落ち、液体が全てその男の胸元に吸い込まれていった。
「―――――ぁ、ごめ……」
 最後まで言う前に、床に倒れる刹那、その相手の肩にしっかりと縋ってしまい。ふにゃりとルーシャンが蕩けた笑みを浮かべた。
 ごと、と。重いクリスタルグラスが床に落ちる音が奇妙に鮮明に聞こえた。
 それだけ、なぜか周囲が静まりかえっており。なぜか、挙げた視線のすぐさきにあったステージでさえ、凍りついたようにバンドメンヴァが演奏の手を止めていた。
 そのことが、奇妙な夢のように思えて、またルーシャンは首を傾げ。
 そして、きぃん、と耳鳴りがするかと思った。
 あまりに、何もかも、音が途絶えて、いっそ痛みになった。
「―――――ぃ、た、」
 小さく呻く。
 なん……だよぉ、コレ。
 視線を、目の前にある人物にあわせようとした。
 くすんだ、ブロンド……?
「ジョーン。エンジェ……」
 自分が何を口走ったか、ルーシャンはなにもわかっておらず。ただ、無音のなかでアタマが締め付けられる幻覚にカオを僅かに歪めた。



 *2*

 The Darwichという名前のバーに逃げ込んだのは、ショーが始まってから20分後のことだった。
 ブロードウェーでデビューするのよ、とオンナが言ってチケットを渡してきたからちらりとどんなものだか見に行ったが、まるきりテイストに合わなかった。
「ロイ、帰るぞ」
 そう腹心の部下に告げて、ボックスシートを後にした。
「ボス、まだミス・キーリィは2分しか出てませんよ」
「その前にオレを何分待たせりゃ済むんだ」
「そぉれはミス・キーリィのせいじゃないでしょお、ボス?」
 真横を歩く赤毛の部下に、はン、とパトリックは口端を吊り上げた。
「そうか?」
「そうか、って。そりゃそうでしょう、ボス。まあ別にいいですけどね、ミス・キーリィにお付き合いなさるのはオレじゃないですし」
「オレでもない」
「え、まさか!」
 ロイが、ぎくん、と身体を引いた。
「まぁた切るんですか?」
「パトロンってヤツは、芸術性を見込んだ然るべき個人及び団体にするものなんだろう?」
「……要するに、ミス・キーリィには才能がおありではない、と」
 ロイがカオを顰めたのに、パトリックは薄く笑った。
「あっちの具合はよかったがな。顔とカラダとソレだけのオンナだ」
「ボスの好みはわかりませんー」
 ひら、と肩を竦める部下の頭を、ばしりと叩いた。
「なんですか、ボスぅ?」
「ばぁか」
「あ、酷い」

 シアターを出ればロイの顔つきが、軽口を叩いているまま、ふ、と変わる。
「車のご用意はいいんですか?」
「ザ・ダールウィッチが近いだろ。あそこは新装開店してからまだ覗いてないからな」
「ボスってば、そゆとこはほんっと有能デスヨネー」
 ワーカホリックデスヨネー、と奇妙なアクセントで言ったロイの頭をもう一発小突き。トラフィックの流れを見ながらレッドライトを渡った。
「ボスの悪運強いトコ、大好きっすよ」
「阿呆なこと言ってるな」
 飄々と“ボス”相手に軽口を叩くロイが、にかりと笑っているのに苦笑した。
 そうして新装開店したばかりのバーに入っていき、ものはついででマネージャーのロットヴィルを呼び出させた。
 スペースを開けさせ、周りを人払いし。改装してからの客の流れや、そのほかの地域の情報の細々としたレポートをさせ。ロットヴィルが必要としていた情報を総て提供してきたことに満足して、パトリックは新しいウィスキィを持ってこさせた。
 そして、ロイには車を支度させるよう、使いに出す。

 飄々とした部下がいなくなった瞬間、ロットヴィルがかきん、と背筋を伸ばしていた。老齢のカオに汗を滲ませ、弱った犬のように視線を伏せているのをパトリックは横目で見遣って薄く笑った。
「どうした、ロットヴィル」
「いえ、パトリックさま。オタノシミいただけていれば幸いと存じます」
「ああ、ここは静かでいい。ヒトの入りがまだ少ないのは仕方がないな」
「ええ、表に看板も出してはおりませんので」
「その割には、」
 ちら、とパトリックが、カウンターに座っていたヨッパライを顎で示した。
「ああいうのが入ってはこられるわけだ」
 ガキにはそぐわない店じゃないのか、と言えば、とはいえお客様ではありますから、とロットヴィルがしきりに恐縮した。
 ふらりと酔っ払った細いシルエットが立ち上がっていた。
 カウンターに居た男が引き止めているのを、ガキは酔っ払ったまま跳ね除けて、ふらふらとフロアのほうに降りてきていた。
 パトリックは視線を落として、引き渡されていたレポートをちらりと見下ろした。返す前にもう一度詳細を見ておこう、とページを捲っていれば、ロットヴィルがしきりにバーテンダに合図を目線と顎でしているのに気付いた。
 何をしている、と口を開きかけた瞬間、倒れかけてきたヨッパライに気付いた。引き止める間も無く、ぐにゃりとソレが傾き。ぴしゃ、とウィスキィが香った。飛沫が散ったことに、一瞬呆然となる。
 ひくう、と。酷く辛そうな呼吸をロットヴィルが吸い込んでいた。それに構わずに、とろりと耳に甘い声が、ゴメン、と酷く気軽に謝罪を述べてきて―――――とん、と捉まられる。
 その場で叩き落としてやろうか、と片眉を撥ね上げれば、ごと、と重い音を立ててヨッパライの持っていたグラスがフロアをヒットし。奇妙に伸びたチェロの音を残して、バンドすらもオトを止めていた。
 す、と。バー全体の空気が凍りついたにも関わらず、それに気付かないアッパレな酔っ払いは、ふにゃりと蕩けた笑みを浮かべた。
 ジョーン、エンジェ、なにかそういう類の言葉を呟き、くう、と顔を顰めていた。
 ぱし、と。縋られていた手を外させて、そのまま腕を引いてドン、とソファに押し遣った。
「ロットヴィル、生きているか」
 ぱしん、と濡れたフォーマルの上を叩けば、蒼白になった初老のマネージャが、慌てて合図を寄越していた。
 タオル、サーにタオルを、と、まるでベースボールの監督みたいに腕を振り回してくぐもった声で言っていた―――――ジジィ、こんなことで死ぬんじゃねえぞ、クダラネエ。そう思い、けれどふにゃふにゃと幸せそうに笑っているヨッパライに腹が立った。
 んぅ、と甘い声で呻いていたのが耳に届き、それが酷く官能的だったことに目を細める。

 静かに走って戻ってきたロイが、ボス、と小さな声で言いながらタオルを差し出してくるのを受け取る。
「お怪我はありませんか、パトリック様」
「あれが刺客なら死んでたな」
 ひくん、とロイが息を呑んでいた。いつもは飄々とした表情なクセに、この瞬間は蒼白で目を吊り上げていた――――緊張してンじゃねえよ、今更。そうパトリックは脳内で笑った。
「ああ、別にオマエを責めてんじゃねえよ、ロイ。そこは間違えるな」
 うっすらと笑いながら、ロイがタオルで拭っていくのに任せる。
「ロットヴィル、ドアマンが必要かもしれねえな?」
「善処いたします、直ぐにでも」
 真っ青な顔でアタマを下げたロットヴィルから視線を上げた。泥酔した挙句にソファでうとうととし始めていたガキを見遣って、ふン、と薄く笑う。

「ロイ」
「イエス、ボス?」
「アレにお仕置きをする」
 ぐい、と顎で奇妙に色っぽい表情で眠っているガキを指し示す。
「濡らされた仕返しには濡らして返すもんだよな?」
「――――――ハドソン、ですか」
 声を低めた部下に、パトリックが笑った。
「それが嫌だっていうのなら、支払わせてもかまわない」
「いくらで手を打ちますか」
 くぅ、と。寝息を上げたガキを見遣って、タオルを放り投げた。
「これの仕立て代とアレのイノチの値段を足したぐらいでいいんじゃねえか?」
「……恐れながら、ボス。そんな支払能力は皆無かと」
 ロイが哀れむような目線でガキを見下ろしていた。
 ふン、とパトリックは鼻で笑った。
「じゃあ一ヶ月くらい奉仕でもさせるか」
 いくぞ、と先にたって歩けば、ロイがヨッパライを立ち上がらせていた。
 さて有能なオレの部下はどうするかね、と目の端で笑って見遣っていれば、一度立たせた酔っ払いの首筋に掌を打ち込み。
「―――ぁ…?」
 そうとろりとしていたガキの気を失わせていた。
 くたりと倒れこんだカラダを肩に背負い上げて、ドアに向かっていたパトリックの後を追ってくる。

 ドア口で、必死の形相で追い縋ってきたロットヴィルと、蒼い顔のまま黙ってドアを支えたバーアテンダントに、くう、とパトリックは笑った。
「二度とこんなことにはさせるな」
「申し訳ありませんでした、パトリックさま!!」
 追い縋ってくる声を無視して、リンカーンのドアを開けて待っていた運転手のほうに向かう。
 ロイが肩に“荷物”を抱えているのを見て、運転手が慌ててカーブーツを空けさせていた。
 バックシートに乗り込めば、ぱたん、と扉が閉められ。次いでブーツにガキの細い体が落とし込まれるのをバックミラー越しに見届けた。
 急いで運転手がロイと戻って、車は黙ってハドソン・ベイに向かって走り出す。がたがた、と車が僅かに弾むのに、パトリックは薄く口端を釣り上げて笑った。

 車はあっという間にハドソン・ベイを見下ろす埠頭まで到着し。運転手とロイが車を降りて、ブーツからヨッパライを引きずり出していった。
 二人がかりで大型船が接岸できるようになっている近くまでヨッパライを引っ張っていくのを見遣りながら、取り残された車の中で、煙草に火をつけた。
 締め切った車の窓からは、なんのオトも響いてこず。遠くの灯台から長細い光が照らされてくるのが、時折車内に飛び込んでくるだけだ。
 足を投げ出し、どうやら目覚めてはいたらしいけれどもそれでも呆然と座ったガキが、その額に銃口を突きつけている運転手を見上げていた。
 隣ではロイが、さらりと説明をしているらしい。きょときょと、と辺りを見回したガキが、絶望に視線を落とすことに薄く笑った。
 一頻り、ガキが奈落の底に落ちていくのを少し離れた車内から見物し。ふい、とパトリックは薄く口端を引き上げて、煙草の灰を灰皿に落とした。
 ガキがどんな選択をするのかが、少しばかり楽しみだった。




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