屋敷に戻るなり、ロイが顔を出した。ウィンストンがバスの支度を整えるのを制して、ロイに報告するように告げる。
「ドクタ・アンソニーが仰るには、入院させて体力を回復しなければいけないとのことですよ?」
「猫か?」
「ドクタにとっては人ですから」
暴れられて食って掛かられて相当怯えさせられてましたけどね?と目を細めて笑ったロイに、にやりと口端を引き上げる。
「暴れたか」
「そりゃもう。点滴を打つ際には、スタンドを蹴り倒してばっちりと」
ドクタは目がまん丸で、たいそうお可愛らしかったですよ?と笑ったロイに、ふン、と鼻を鳴らした。
「他は」
「体温が低め、血糖値、血圧、共に低め。栄養失調になりかけで、ストレスが激しいそうです。いまのところ、性病を含めクリーンなようですが」
「ふン」
「このまま不眠と栄養失調が続きますと、健忘症の症状が現れてくると」
まっすぐに目を見詰めてきたロイに、肩を竦めた。
「アレにとっては忘れたいことばかりだろうな」
「トラウマになりますから、ボスの顔を見るだけで暴れだすかもしれませんよ?あとは、ええと、多重人格とか?」
「いままで回りに甘やかされすぎなんだよ、アレは」
ぱし、と言い切ったパトリックに、ロイが小さく首を横に振った。
「誰もがボスみたいに生き抜いてくる人生を歩んではいないです」
「ローイ」
片眉を跳ね上げる。
「オレがアレを引きずり込んだんじゃねえよ。アレが堕ちてきたんだ、こっちに」
不公平でシビアで不条理なのが人生ダロ。そう告げたパトリックに、ロイが小さく微笑んだ。
「オレは正直な話、ボスさえ幸せでいてくれれば何も問題はありません。ボスの仔猫チャンの幸せには関知しませんよ。ですけど、ボスがあのヒトに煩わされるようなことがあれば……オレとしては排除して差し上げたくなるじゃないですか」
「ロイ」
手を伸ばして、自分より二つばかり年下の部下の頭を撫でた。
「たかだか猫だ。熱くなるな」
「イェス、ボス」
「たまにはオマエもきちんと休め。アレは今部屋で薬でアタマ飛ばしてンだろ?」
「精神安定剤が効いて、ぼんやりとされています」
静かに告げてきたロイの額に唇を押し当てた。
「今夜はもう何もしねえよ。アレが寝てンのを見たらオレも寝る。だからオマエはもう休め」
「パトリック様」
「ニコールにも言われた。甘やかすのも手だってな」
「そうして差し上げても、覚えてはいらっしゃらないかもしれませんよ?」
間近で見上げてくるグリーンアイズに、ふ、とパトリックは笑った。
「猫相手に感謝とか期待してねえよ。アタマ撫でるだけだ」
「……わかりました」
す、とアタマを下げたロイに、にかりと笑いかける。
たまにはオンナのとこにでも顔を出してスッキリしてこい、と言い足し、帰るよう促す。
失礼します、とロイが鮮やかなオレンジのアタマを下げてから部屋を退出していくのを見るとはなしに見送り。上がってきていたレポートの幾つかに目を通した。
ウィンストンに作らせたウィスキィのオンザロックが一杯空になった頃に、ふ、と猫の面を拝みにいってやろう、と思いついた。
「ウィンストン」
執事に声をかける。す、と一歩進み出たウィンストンに視線を合わせた。
「猫の部屋にジェラートを。ヴァニラでいい」
「畏まりました。旦那様の分は如何致しましょう」
「いらねーよ。どうせアレも全部は食えないだろうしな」
「少量を深皿に入れてお持ちいたします。旦那様が向かわれたら直ぐにお支度しておきましょうか?」
「そうだな、持ってきておいてくれりゃ、適当に食わせてみるさ。余計なトッピングとかいらねえからな?」
「畏まりました」
「先に行っている」
アタマを下げたウィンストンに手を振って、書斎を出て。猫が隔離されている部屋に向かった。ノックはせずに奥の角部屋の、本来なら客間に使っている部屋に足を踏み入れた。
小さなリヴィングを通り抜けてベッドルームの扉を開ければ、ベッドの上には乱れたリネンがあるばかりで。パトリックは片眉を跳ね上げて、ぐるりと部屋の中を見回した。ヒトの気配はまだしていたから、朦朧とした意識のまま窓から抜け出したということはないとわかっていた。
窓際に置かれたソファも空で、毛足の長いカーペットの中をゆっくりと歩いていく。ふ、と見遣れば、大きなキングサイズのベッドの端っこに、ちょこんと凭れかかっている金髪の頭があることに気づいた。決してそうではないと解ってはいるものの、遊び疲れた仔猫のようだと一瞬小さく笑った。
ゆっくりと近づいて、入り口からは死角になっているベッドの裏側まで歩いていった。ぼんやりと見開かれたブルゥアイズ、隈がいっそう酷くなっている顔を、片足だけ立てた膝に預けた腕の上に乗せているルーシャンの側にしゃがみこむ。
「ルーシャン、そんなところで蹲ってンな」
そうっと囁くように言えば、ぼんやりとしたままの視線がゆっくりと向けられたことに、薄く笑う。ほんの僅か、まるでパトリックが誰だか解っていないかのように細められた目を見詰めて、そうっと手を伸ばして痩せた頬を撫でた。
「ルーシャン、辛いか?」
触れられるままでいることに、この猫は優しい手に触れられ慣れているのだろうと思い至って、ダニエルが告げてきたことを思い出した。
「ほら、上がれ。床になんか懐いてンじゃねえよ」
両手を差し出して、すい、と抱き上げた。
きゅう、と眉根を寄せた猫の体重がずいぶんと軽くなっていることに軽く目を細める。
抱き上げられることが嫌だったのか、ぐ、と力ない手が胸を押してくるのに、小さく息を吐いた。
「なんもしねぇよ。大人しくベッドで寝ナ」
リネンに降ろしてやれば、ぐう、と無言で腕が無気力に突っ張り、そして傾いだ身体のままフロアに戻ろうとするのに、溜息を吐く。
「床が好きなのか?ベッドが嫌いなのか?」
コン、と軽いノックと共にメイドが入ってきたのに頷き。ソファの側のテーブルにディッシュを置くよう顎で指し示した。
無言で指示に従ったメイドが部屋を後にし。ベッドからゆっくりとした動作で降りようと足掻いている猫を再度抱き上げた。
「わかったわかった。しょーがねえな。せめてソファな?それならいいだろ?」
ぐう、と腕を押しのけようと足掻いたルーシャンを無視して、抱き上げたまま窓際のソファに向かった。そして抱き上げたままソファに腰を下ろし、膝の上に抱え上げてやる。
「ほらほら、怯えてンな。なんもしねーよ。ナ?」
「おり…、」
ぼうっとした声が、ガサガサに罅割れていることに、アタマをぐしゃぐしゃと撫でる。
「横になれ、いいから」
床に足を着こうと足掻くルーシャンの身体をさらに抱き寄せて、ソファの上に両足が乗るようにしてから横たえた。アームレストの側にクッションを集めて、枕代わりにしてやる。ぅ、と顔を歪めたルーシャンの前髪を、膝の上でさらさらと撫でた。
「泣くのか?泣くなよ。声も出ねえクセに」
ぼと、と幾つもクッションを落としていくルーシャンの目を掌で覆った。
「大人しくしとけ、バカが」
ぐう、と身体を起こそうとするルーシャンを、元通り膝に落としなおした。
「なんもしねぇよ。だから大人しく横になってな、ルーシャン」
うぅ、と唸るルーシャンの頬を、さらさらと撫でてやる。
「ひでぇ手触り、オマエ」
ますます野良だナ?とからかうように囁いてやる。カオを背けようとするルーシャンに溜息を吐いて。両手を離してもう好きにさせるか、と手を離した。
不意に、ぼうっと髪を見詰めてくるブルゥアイズに、軽く片眉を跳ね上げた。
「なんだよ、バカ猫」
ごそ、とソファから降りようとし、床にへたり込む様になったルーシャンの身体を足の間に引き寄せた。視線が合わさったままなのに、僅かに目を細めて笑った。
「そんなに床が好きなら、そこにいな」
セットされない前髪が額に張り付いているのを指で退かして、さらさら、と梳いてやる。ブルゥアイズがパトリックの頭に沿って視線を合わせているのに、ナンダヨ?と僅かに笑った。
「アレン?ウィリアム?ジャック?」
くぅ、と目許が悲しげに歪んだルーシャンの耳をそうっと指先で撫でた。
「ジョーン?」
ゆっくりとルーシャンの喉が上下したのに、はァん、と笑った。“作家”ウィリアム・バロウズが誤射して殺したという“妻”のジョーンに、本当にこの猫は惚れていたらしい、と。ジョーン・ヴォルマー・アダムス、きっとそのオンナは自分と似たような髪色をしていたのだろうな、と、見上げてくるブルゥアイズがますます悲しい色を乗せ、フロアに着いた手が毛足をきつく握り締めていくのを見て理解する。
ぐら、と。一度ルーシャンの首が傾き。けれど、ほと、と涙を零して、酷く掠れた囁き声でルーシャンが呟いた。
「…ごめん、ごめんね」
ひゅ、と喉を鳴らしたルーシャンの頭を開いた膝の間に預けさせ、さらさら、と明るい金髪を指先で梳く。
「謝ってどうなる」
静かな声でパトリックはルーシャンに問う。
「謝ってりゃ生き返るのか?なかったことにできるのか?」
ごめん、と更に呟くルーシャンの悲しい声に、パトリックは小さく息を吐いた。
「ごめん、むかえにいったのに、ごめ……、」
ひく、と喉を鳴らしたルーシャンの頭を、さらさら、とパトリックは撫でる。
「嫌だって言ったンだろ。自分の意思で残ったンだろうが。だったら、事故はてめェの責任範囲外だ」
「うで、はなして…ごめ、んなさ――――、」
ひぃっく、と嗚咽を洩らしたルーシャンの頬を撫でて、零れ落ちる涙を拭ってやる。
「悲しくて泣いてるバカを放置できるかよ」
ぼろぼろ、と新たな涙が焦点の合いきらないブルゥアイズから零れていく。
「棄て、てくなんて、思って―――――な…、」
嗚咽交じりに訴え、それでも涙で煙るような双眸に、パトリックは小さく笑った。
「解ってたンなら、今更後悔するようなことになってねェだろうが。それより今だよ、オマエ。そんな風にアルコールに浸かって生きてて、なんの意味があンだよ?んん?」
拾った当日の、悲しみに溢れた目を思い出してパトリックは鼻を鳴らした。
「ジョーンは死んで、オマエだよ、ルーシャン・カー。オマエもこのまま死ぬのか?あァ?」
ぐ、と嗚咽を喉に詰まらせたルーシャンの目尻を指先で拭う。
ますます苦しそうに声を押し殺しては、ほろほろと涙を零していくのに、パトリックは小さく息を吐いた。
「いっそ殺して欲しいなら、やってやるぜ?それでオマエの人生が終わってイイってンなら」
そうっと頬を掌で包み込んで、じっと双眸を覗き込む。
「ウィリアムとジャックと……ああ、アレンは本を出して、昇華してってるらしいが。オマエはどうなんだよ?全部抱えて死ぬのか?」
「ベイビィ、……ごめん、ごめんね―――、」
ほろ、と零れた涙はそのままに、親指で頬を撫でる。
「無駄死にすることに謝ってンのかよ?」
ジョォン、と。引き絞るように名前を呟いたルーシャンの額に、とん、と口付ける。
「オマエがそんな風に生きても、オンナにとっては迷惑だと思うぜ、ルーシャン」
まあオマエのチョイスだけどな、と告げて、目許にも口付ける。
ずる、とソファから離れようとしたルーシャンをもう一度抱き上げて、ソファの反対側のアームレストに頭を預けるように横にさせる。
「少しはちゃんと考えナ、バカ猫が」
ぐ、と身体を起こそうと足掻いたバカ猫の額を突く。
「横になれ。起きててどうすンだよ。そもそもがぐらっぐらじゃねえかよオマエ。あァ?」
ぱし、と腕を払おうとしたルーシャンに、くくっと笑う。
「オマエはお花チャンでもキレイな蝶でもネェヨ、乱暴でオレサマな野良猫だもんナ?」
する、と顎の下を撫で上げて、間近でカオを覗き込む。
「てめェはこのまンま、死なねェよ。負けず嫌いが」
ぺろ、と罅割れた唇を舐めてやる。泣き濡れたブルゥアイズがぼうっと見上げるのを見詰め返して、とん、と柔らかな口付けを落とす。
「オマエがジョーンの分まで生きろ、バカ猫」
ぎゅう、と眉根を寄せたルーシャンの髪を撫でる。
「1ヶ月経ちゃ、またフツウの生活に戻れるって解ってンだからよ。こんなトコで屈してンな、オマエらしくもない」
「棄ててなんか、ない…、」
ぼうっと呟いたルーシャンに、はン、と笑った。
「メシも食えなけりゃ、睡眠も取れないのにか?アルコールにでろんでろんに酔っちまわなけりゃ、オンナがいねえことから逃げられもしなかったクセに」
オマエはどう生きてンだよ?と優しく頬を撫でながら訊く。
「あなたを、棄ててなんか……、」
呟く口調の呂律が怪しいことに、くう、とパトリックが笑った。
「知ってるよ。オマエはジョーンを棄ててねえよ。あっちがオマエを棄てたンだよ。オマエがそういう、情けないガキだから」
きゅ、とルーシャンが眉根を寄せていた。
「自覚無ェのか?」
からかうように優しくパトリックが問う。
「オマエが置いていかれたンだよ、ルーシャン。オマエが空っぽだから」
ぐら、と脚がパトリックをけり落とそうと暴れたのに、くくっと笑ってその泣き顔を撫でてやる。
「悔しいか?ルーシャン?」
ますます悔しげに表情を歪めたルーシャンの髪を撫でる。
「悔しかったらどうすンだよ、オマエは。んん?泣いて酔っ払って暮らすのか?ア?」
腕が床のほうに伸ばされるのに、笑って耳元で囁く。
「そうやって現実から逃げて暮らすのかよ?痛いことから全部逃げて生きるのか?ご大層な人生だな、ルーシャン?」
ひぅ、と。細く長い嗚咽をルーシャンが零した。いっそ死んでしまいたい、とでも言えそうに悲しいソレに、パトリックが笑った。
「だから、オマエ。どうしたいのか言えよ」
さらさら、と濡れた頬を撫でる。
「オマエはこれから、いったいどうしたいんだよ、ルーシャン?」
手から顔を背けようと足掻くルーシャンから手を離した。
「このまま死ぬってンなら面倒だ、一発で終わらしてやるよ。ミイラが屋敷にあンのも、ウザいしな?」
立ち上がって離れて、ルーシャンを少し離れた場所から見下ろす。
「どうする?」
「おまえなんかきらいだ、」
ぼろぼろ、と泣き出したルーシャンに、ハ、と笑う。
「オマエに事実を突きつけるからか?そりゃ結構なことだ」
嫌われるなんてのは日常茶飯事で、寧ろ殺したいくらいに恨まれてる自覚はあるぜ?とコトバを告ぐ。
「けど仕方ないだろ。オレはそういう生き方を選んだんだからよ」
ぐしゃぐしゃ、とルーシャンの髪を掻き混ぜる。
「オマエはただ流されてるだけじゃねえの?」
「……あんたの望むようにはスキじゃないって言ったのに、」
呟いたルーシャンの隣に座って、ふン、と鼻を鳴らす。
「じゃあなんだよ」
誰と喋っているのか、もう朦朧としてわからなくなっているだろうルーシャンに付き合ってやる。
「なんで付きまとう、」
揺れる声に、ひょい、と片眉を跳ね上げる。
「迷惑か?」
「影が―――――…、いつだって、」
掠れた声に、ルーシャンが殺したディヴィッド・カメラーに告げているのだと憶測をつける。チクショウ、と揺れる声に、ハハ、と笑った。
「ルーシャン、それはな?オマエの思い込みだ。どこにも影なんか無ェよ」
一人殺したぐらいで影が見えてりゃ、今頃オレの周りは真っ暗だ、と内心で笑い。けれどそんな小さなことに捕らわれてまだ生きているルーシャンを、少しだけ哀れに思う。
「もうあっち側に逝かせてやンな、ルーシャン。オマエが捕らわれてたって意味が無ェよ。死んだら人間、ソレまでだ」
ぐう、と喉奥で嗚咽を押し殺したルーシャンの顔を覗き込む。
「だから生きてる間にできることをできるだけやって生きるンだろうが」
さら、と。ルーシャンの頬を伝った涙を指先で撫で下ろした。
「オマエはさ、まだ生きてンだろ。生きてみろよ」
とん、と頬に口付ける。
「どんな泥沼に落ちてたって、生きてる間は這い上がれる」
ぃやだ、とぽつりと呟いたルーシャンの目許にも唇を滑らせた。
「ぃやだ、だれもいない、いやだ、」
コドモのように恐ろしく素直な声で呟いたルーシャンの身体を、ゆっくりと抱き寄せて抱きしめる。
「だったらここに居て、オマエを抱きしめてンのは誰だ?」
とん、と柔らかく耳元にも口付ける。ひく、としたルーシャンの背中を、掌でさらりと撫で下ろす。
「オマエが腕を伸ばしたら、ここに抱きしめることのできる体があンじゃねえかよ。違うか?」
「だって、だれも――――」
消え入りそうに細い声に、なんだよ、と言って返す。
「オマエ、オレにどうしてほしい?言ってみな?誰も、ってことは、誰だっていいってことだろ?だったらオレにしとけ」
「ここ、だれも……いなぃよ、」
咽喉を鳴らしたルーシャンの耳に口付ける。
「“パトリック”」
嗚咽を零したルーシャンの頭を掌で包み込む。
「パトリックって、オレの名前を呼べよ」
くた、と首元に頭が預けられ、ほろほろと涙が首元を濡らしていくのが解る。
「うそだ、」
「嘘じゃねえよ」
どこか驚愕に彩られ、けれど同時に悲しそうな声をルーシャンが上げたのに、くく、と笑った。
「嘘でどうすンだよ。ほら、黙って腕回せよ、バカ猫。ずっとハグしててやっから」
する、と耳の後ろに口付けを落とす。かたかた、と小さく震え始めた身体を、ただぎゅうっと抱きしめる。
「なんもしねえよ、ほら。ルーシャン、腕を伸ばしてみな?」
震えが収まらないルーシャンの髪をさらさらと撫でる。がっちりと身体を固めたガキの頭に唇をそうっと押し当てた。
「オマエの側に誰もいないってンなら、オレが貰ってやるから。腕を伸ばせ、ルーシャン」
う、と。悲痛な声が間近で零された。
「おねが……よして、」
ぐら、と揺らいだ声に、腕を放してやる。
「止してやるよ。しょーがねえなあ、ルーシャン」
笑ってソファに背中を預け、少し距離を置こうとしたパトリックの指先を、キュ、とルーシャンが握りこんだ。
「ん?手でも繋いでて欲しいってか?」
かすかに震えているルーシャンに、小首を傾げて口端を吊り上げた。
「なんもしねえよ、ルーシャン」
くう、と手首を握り締めてきたルーシャンに笑って、ぐい、と腕を引いて抱き寄せた。
「怖いなら、オマエがオレに抱きついてろ」
腕は背中に回さずに、体重を引き寄せた姿勢のままでいる。
「オマエがオレに抱きついてンなら、怖くないだろ?」
きゅ、と口元を強張らせ、まだ震えたままのルーシャンの様子に、アームレストに肘を預けて頬杖をついた。
そろ、と。ゆっくりな仕草で腰に掌が押し当てられるのに、口端を吊り上げ。けれど動かずに居る。息を細く零したルーシャンが、そうっとほんの僅かだけ、身体を添わせてきたのに、小さく息を吐いた。
「子守唄は簡便しろよ。だいたいオレは音痴なんだよ」
「――――――――――ぅで、」
消えそうな声に、腕がどうした?と優しく訊き返してやる。
「さ、っきみたいに、」
揺れる声が小さく綴る。
「プリーズ、」
「ルーシャン、仔猫チャン。もっと身体を添わせてこい」
優しく告げながら、そうっと掌で腕を撫で上げ、背中まで辿らせていく。
「そんなんじゃ片腕しか回せねぇよ?」
こく、と息を呑んだルーシャンが、そうっと体重を預けてきた。
「プリーズ、パト……―――――、」
静かな声がそうっと告げるのに、頬から手を外してさらりとルーシャンの柔らかな金髪を撫で、それから背中へと腕を回してやった。そのままそうっと力を入れて抱きしめる。
ほわ、と。ルーシャンが表情を緩ませていた。強張ったままだった身体から強張りが抜けていき。胸元に落とされていたルーシャンの頭が重たくなっていく。
漸く和らいだ表情で眠りに落ちたルーシャンを抱えたまま、パトリックは小さく苦笑を洩らした。
「なンだよ、オマエ。カワイイ顔しやがって」
けれど、その和らいだ顔を見詰めていることがちっとも不快でなくて、パトリックはそうっと目を細めた。
「いつもそれくらい可愛けりゃ、酷くなんかしねえのによ。バッカだよなあ、ルーシャン」
髪の毛に口付けてやりたくても、身体を動かせば起きてしまいそうな気がして、パトリックはソファの背もたれに体重を預けきった。
くう、とさらに抱きついてきたルーシャンが、どこか酷く幸せそうなことに苦笑を洩らして、パトリックは目を閉じた。
「しょーがねえなァ。いいコでいたら、早めに許してやるとするか?」
そうっと扉を開けてロイが覗いたのに、顎で出とけ、と命令をする。
ぱち、と目を瞬いたロイが、Oの形に口を開き、なにやら頷いたのに、唇だけでファック、と言い捨てる。
あちゃ、と顔を叱られた子犬みたいに顰めたロイが、トン、と時計を叩いてジェスチャした。それが、早朝に起こしにくる、という意味だと知って、パトリックは頷いた。
きっと起きたらルーシャンは何一つ覚えておらず。それなのにパトリックに引っ付いて眠っていることに困惑するよりは、一人で目覚めたほうが幾分かマシだろう、と考える。
すり、と額を押し当ててきたルーシャンの背中をそうっと撫で下ろして、ロイがそうっと扉を閉めていったのは見遣らずに居る。
ふんわりと安心しきった顔を、きっとものすごく久し振りに浮かべたルーシャンを見詰めて、パトリックはダニエルを思い出して小さく笑った。
「馬鹿ばっかじゃねえのか、作家どもはよ」
コレが愛しいモノならば――――――きっちり可愛がれるだけのモノになればいいのに、中途半端に優しいのだろうデリケートな若者たちの姿を思い浮かべた。
「オマエも。物足りなきゃ探せよ。オレなんかよりいいヤツが、どっかに転がってるだろ」
ふぃ、とダニエルのにんまりと笑って鼻の下を伸ばした顔を思い出して、はぁ、と溜息を吐いた。
「May be not(違うかもしんねえけどよ)」
さら、と細くなった背中を撫で下ろして、パトリックはそれでも小さく笑った。きゅ、と縋るように立てられた指が、やっぱり猫のようだと思ったから。
「ルーシャン、仔猫チャン。バカやってないでさっさと元気になれ」
もういいから、と思う。
「元気になったら、出してやるから」
ああ、オレってば甘やかしじゃねえの、と喉奥で笑って、目を閉じた。
ルーシャンの添わされた身体が側にあることが心地よいことに深く息を吐いて――――それから、浅い眠りに意識を手放した。
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