*17*

客室の扉を開けてロイが室内を軽く覗きこむようにした。扉が開いたことさえ、むしろ自分がソファで目覚めたことに対しても、柔らかなブランケットが身体を包み込んでいたことに対してもルーシャンは何ら疑問にさえ思っていないようだった。
いっそ自分の目覚めたこと自体認識しているのかどうか怪しいものだと思わせるほどに反応が返されてこないことを予想していた通りであったから、特に慌てもせずロイは眉を片側だけ引き上げて済ませ、扉を閉め。意識が「休暇中」のままのルーシャンをそうっとしておくことに決めていた。
けれど、眠れたのだから、食事も取れるかもしれない、と用意させた朝食の存在はテーブルごと無視されていた。
デザート代わりに深皿にキレイに盛られていたジェラートが溶け出すのをブルゥはしばらくの間静かに見詰めていたけれども、終始、手を伸ばそうとはしなかった。口にするものだ、と理解しているのかも酷く怪しかった。
口許にほんの僅か、笑みの影が漂い。けれどまた椅子に深く座り直して自分の内側に意識を戻していっていた。

四肢がとろりと重いままであるようなことも、眼の奥から脳に抜けて響くようだった鈍い痛みが無くなっているだけで随分とラクに思えて気にならず。ルーシャンがゆっくりと瞬きをした。
なにかを声に出そうとして、それがひび割れているように喉が痛むことも、薄い膜を通したようにどこか遠く。
舌の上に、音が乗ったままな気がしていた。
ソレは、あまり馴染みのない音であったはずなのに、その音を唇に乗せている間はひどく「あっている」気がしていたことを、ぼんやりと思い返し。ふ、と短く息を零していた。
 扉の閉じる音を聞き、視線をゆっくりと流せばテーブルに乗せられていた「朝食」はなくなっており。時間の感覚が掴めずにルーシャンは僅かに眉根を寄せていた。
「――――やっぱり、だれもいなぃよ、」
たしかに誰かの声を聞いたと思ったのに………
ここにいるだろう、と話しかけてくれていたのは幻覚なんだろうか。
椅子の背に頭を預けるようにし、目を閉じてみる。
ふわり、と羽根の静かに落ちてくるのが見えた気がした。白く、浮くような柔らかな。
ジョーン、と声に出さずに呼びかけていた。
その、羽根の長く落ちていく軌跡をゆっくりと追う。
朧だった意識がまた揺らいで、ぱしりと断ち切られ。限界を訴え続けていた身体が、境界ぎりぎりにまで引き伸ばされたその際どい在処を眠りに引き戻していた。転寝よりは僅かに深い程度の眠りではあっても。

次に目覚めたときには窓外はもう暗くなっており、寝室には幾つか、灯りが燈されていた。そして、またテーブルの上には軽い食事が用意されているのが見えた。 椅子に蹲るように眠っていた身体をほんの少し起こし、ルーシャンが目を細めた。
陶製のカップからは、湯気が昇っているのが見えた、そして、ふ、と視線を上げた先でちょうどドアが静かに閉められていくところだった。
人が入ってきた気配よりも、出て行く気配で起きる自分が奇妙に思えて少しだけルーシャンが唇を引き上げていた。

腕を伸ばせば届く距離にある軽めの食事を目にしても空腹だとは思えなかった。むしろ、四肢が軽くなっていく気がしていた。重く、重力に引き摺られて床を這いずるように思えていたソレが。どんどん、薄く軽くなって。
細長く、息を吐き。テーブルを押し遣ることも億劫で、夕食の置かれたテーブルに背を向けるように身体の位置を変えてからまた目を瞑っていた。
眠い、というわけではなく。視覚から入ってくるモノを受け入れることをしたくなかった。なにかが、自分のなかに残されていることにルーシャンが眠りながら気付いていた。とても気持ちが良いように思えた。

それが、なにか、まではわからなかったけれども。薄まり、やがて無くなっていくだろう感覚が名残惜しいと思った。とても、名残惜しい、と。



*18*

『ここのオイシイから、買って帰ってあげなさいよ』
そうニコールに言われて、チョコレート屋でボックスを買った。
『チョコもいいけど、体調が悪いんでしょ?案外フルーツの砂糖がけなんかのほうなら食べられるかもしれないわよ』
ディナー前に別れるデートだっただけに、ニコールはショコラティエまで付き合ってくれ。お礼代わりに彼女にもボックスを買った。
『少しは甘えてくれるといいわね?』
そう笑った彼女が雑踏の中に消えていくのをちらりと見遣り、それからまっすぐに帰宅した。
 帰って軽いサパーを、ミーティングを開きながら腹に収め。9時頃に会議はお開きとなり、集まっていた幹部たちはそれぞれ店などに飲みに散っていった。
 いつものようにロイだけが部屋に残り。
『本日も一日ぼんやりされておりましたよ』
そう静かに告げてきた。
『薬の量を間違ってねえか?』
『利きやすい体質だったのでしょう。お蔭様で昼食時の点滴は楽でしたけど』
軽く肩を竦めたロイに、パトリックは苦笑した。
『まぁだ食わないのか?』
『興味がないみたいです。暴れ猫が無反応なもんで、ちょっと心配になりましたけどね。精神安定剤を打たれた翌日は、半日から一日はぼーっとすることもあるそうなんで。無理やりリラックスさせられてるんですから、まあそうなるもんなんでしょうけど』
あんまりぼんやりしているようじゃ屋敷に囲った意味が無いじゃないですか、とまっすぐに見遣ってきたロイに、くくっと笑った。
『内出血になって使い物にならなくなるよりかは、少しは休憩を挟んでやるのが適切ってなモンだろ』
ボォス、とロイが笑った。
『そんなこといって、甘やかしたいくせに』
『“ペット”は可愛がるもんだろ?』
『ま、そうですけどね?けど、アレ、愛玩動物って言えるほどにかわいいですかぁ?』
顔かたちはともかくぅ、と溜息を吐いたロイに、パトリックは肩を竦めた。
『別に可愛くなくて徹底的にファックするためだけに使ってもいいけどな?それじゃつまらないだろ』
ロイが、両眉を跳ね上げて、深い息を吐いた。
『まあボスが楽しんでるようなら、オレはそれで十分ですよ。それじゃあ今から見に行きます?』
『ン?あー、どうせグダグダなんだろ。顔見たら置いてくるさ』
だからオマエはスケジュールの調整をしておけ。そう告げて、ロイが部屋から出て行くのを見守った。

暫く電話をかけたりなどして雑務をこなしてから、ブランデーのボトルとグラスを一つ、それにアソートのボックスを持ってルーシャンに与えた部屋に向かった。
ノックはせずに昨夜と同じ様に部屋に入れば、また昨日と同じように床に蹲っているルーシャンがいることに気づき。まずは手に持っていたものをローテーブルの上に置いてから、ルーシャンを拾いにいった。
「仔猫チャン、そんなにウチのラグは魅力的か?ン?」
抱き上げて顔を覗き込みながら、二人がけのソファに向かう。ひくん、と肩が揺れて見上げてきているのに笑って、ソファの上に抱えたまま座り込んだ。
膝の上に抱き寄せて、乱れた前髪を掌で整えてやる。
なに、と小さな声が言ってくるのに笑って、さらりと頬を撫でた。
「まだ食べれてないんだってな、オマエ?」
ゆっくりと瞬きをするルーシャンの唇を親指で撫でて、僅かに眉根を寄せ、隈も薄くなり少しはマシに見えるようになったルーシャンに、にかりと笑った。
「フルーツの砂糖がけを買ってきた。それなら口にできそうか、仔猫チャン?」
片手はルーシャンの背中に添えたまま、反対側の腕を伸ばしてキャンディボックスを引き寄せた。ソファの上で片手でリボンを解き、蓋を開ける。
「食えるか?」
 はた、と小さく瞬いてから、くう、と首を横に振ったルーシャンの視線が、またボックスの中に戻っていくのを笑って見詰める。
色とりどりのフルーツにグラニュー糖が塗され、それぞれが小さな宝石のように見えなくも無いソレの上に指を伸ばす。
ルーシャンの視線がパトリックの指に当てられているのを見詰めて、どれを食べてみたいのか探り出す。
ふ、とルーシャンが重ったるい息を吐き。くってりと首筋あたりに額を押し付けてきた。
オレンジ、レモン、スミレ、イチゴ、と指を移動させていれば、鮮やかな濃いピンクの上に指が来た瞬間に、ルーシャンが無意識に僅かに身体を動かした。
迷わずそれを拾い上げて、ピュレ状に一度潰したイチゴを改めて砂糖に塗した塊であるソレをゆっくりと引き上げる。

「ほら、どうぞ」
口元まで運んでやり、トン、と唇の上でノックをする。
くう、と首元に顔を埋め、イヤ、と小さな声で告げたかのようなルーシャンに、くくっと笑った。
「平気だ、いきなり食うんじゃなくて。口の中で砂糖を溶かして、ゆっくりゆっくり含んでいけばいい」
ほら、口開けナ、と耳元で告げる。
ひく、と僅かに身体を跳ねさせたルーシャンの、意識がしっかりと戻っていないまでも感じ易い身体に、パトリックは薄く笑った。
「ルーシャン、ほら。いい子で口開きナ」
軽く身体を膝の上で揺らし、ひらひら、とイチゴの砂糖がけを揺らす。
ぎゅう、と背中に回された両腕が縋ってくるのに、とんとん、と背中を軽く撫で下ろす。
「ルーシャン、仔猫チャン。少し齧るだけなら平気だろ?試してみな」
そろ、とルーシャンが唇を僅かに開き。間近に差し出してあったイチゴの端っこの砂糖を、ぺろ、と舐めていった。
くう、と真っ赤な舌が翻るのを見詰めて、まンま仔猫じゃねえの、とパトリックは薄く笑った。
「もう少し、齧ってみな?」
まっすぐに見詰めてくるブルゥアイズに、僅かに目を細めて笑いかける。
「んん?どうした、ルーシャン?」
ふにゃ、とルーシャンが笑った。それがコドモみたいに柔らかな笑顔だったから、ますますパトリックも笑顔を深める。
「美味いか?ほら、エンリョしてないで齧れ」
あむ、と。端っこをほんの僅かだけ齧ったルーシャンに、柔らかく微笑みかける。
けほ、と僅かに咽たルーシャンの背中を、軽くトントン、としてやり。それから片手を伸ばして、ブランデーのボトルを引き寄せた。
口で蓋を開けて、腕を伸ばしてグラスに注ぎ。それをルーシャンに差し出す。
「水よりかは飲めると思うぜ。舐めるぐらいにしとけば平気だろ」
 いや、とまた首を横に振ったルーシャンに肩を竦めて、かわりに自分が一口飲んだ。
「自分で持って食うか?」
ゆら、とイチゴを揺らしてやれば、ふぅ、とまた重い息を吐いたルーシャンが、ふわりとまた僅かに唇を開いていった。笑ってイチゴを唇の上に乗せてやる。
「どうぞ」

ゆっくりと舌に乗せ、僅かにまた齧っていったのに笑ってグラスを揺らす。
そうっと舌の上で砂糖が溶け、甘みが広がっていくのを楽しんでいるかのように、とろりとルーシャンがブルゥアイズを蕩けさせるのを間近で見詰める。
こくん、と喉が上下したのを見詰めながら、グラスを傾けてブランデーを口に含んだ。とろっとした舌触りのアルコールが喉を滑り落ちていくのを楽しみながら、ルーシャンに最後の欠片を差し出した。
「オマエはこういう方が好きなのか」
ゆっくりとルーシャンの唇が開いて、イチゴを摘んでいた指ごと口に含んでいった。とろ、と舌先がくすぐるように指の腹を舐めて、イチゴを落としていき。残った砂糖を舐め取るようにてろりと辿ってから、唇が離れていった。
「上手にできンじゃねえの、オマエ」
笑って舐められた指先を舐め上げ、とろんと和らいだ表情でイチゴを味わっていたルーシャンの額に唇を押し当てた。
きゅ、とルーシャンの双眸が閉じられたことに笑って、ブランデーを飲み干し。また新たにグラスに注いだ。
「飲むか?」
とろとろとイチゴを味わっているルーシャンに訪ねてみれば、ゆっくりと瞼が開いてブルゥアイズが覗き。僅かに首を傾けてから、ふるっと横に首を振っていた。
ふ、と笑って、そうかよ、と呟き。自分でまた一口飲んでいく。それから、次はどれにする?と訊きながら、ボックスに手を伸ばした。
視線を外さずにいたならば、声にはせずに、パト…、と呟いたのに、くう、とパトリックが笑った。
「なんだよ、ルーシャン?」
ぱち、と瞬いたルーシャンに、パトリックが僅かに首を傾げた。
「んン?どうした?」
ふんわりと、酷く嬉しそうに笑ったルーシャンが、するりとまた首元に顔を埋めてきたのに伸ばしていた手を引っ込めて、代わりにルーシャンの背中を撫で上げた。

「もう少し待ってみて平気だったらもう一個食うか。つか全部オマエのなんだけどな、コレ」
とんとん、と背中を撫で上げて、柔らかな整髪料を使っていない金色の髪に鼻先を埋める。
「ルーシャン、仔猫チャン」
あやすように告げれば、ふぅ、と甘い息をルーシャンが零していた。
笑って耳元にそうっと唇を押し当てて、またグラスを口に運んだ。
これはこれで奇妙に楽しい、と自覚しながら、パトリックは薄く笑ってルーシャンの髪を撫でた。柔らかな毛足が本物の猫の毛皮のようで、パトリックはやっぱり笑った。
コレがマジで笑うところを見てみたくなったなんて終わってるぜ、と。




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