*19*
窓辺の椅子に片膝を引き上げるようにして座り、腕で膝を抱え込むようにしルーシャンが窓外に視線を投げていたけれども、その眼は実際には芝草の緑も、すでに殆どオレンジに色を変えていた落葉樹も映してはいなかった。
嵌め殺しに近い窓は、内側から開けることなど受け付けず。
華美になり過ぎない調度品に飾られた部屋は、そもそもが客用寝室であるのだろうと見当をつけていた。ただ、「客」を信用しきってはいない作りであることにいまは気がついた。
もしかしなくても、自分の知らない隣室とも隠し扉ででも繋がっているかもしれないよな、と。暇に任せて全部の壁をノックしていけば、音の違う場所があるに違いない、とぼんやりと視線を動かさずに思っていた。
そして、その壁を模した扉の向こう側に立っている長身の男をイメージして、ルーシャンが僅かに口許を笑みにも似たカタチに歪めていた。
なにひとつ、言うことを取り合おうとしないソレ。
昼過ぎに目覚めたときも、まるでそのことをどこかから見てでもいたかのように扉を開けて現われれると、放っておいてくれと言葉にしたことは見事に無視をしていた。
馬鹿馬鹿しいほどあっさりと裸に剥かれて浴槽に放り込まれて、憤慨して見上げてきたルーシャンに向かって開口一番言うことが『オハヨウございます』だった。確かに、意識がはっきりとしたのは今朝眼が覚めてからだった。あのアンソニーとかいう医師が来てからの記憶は、ぼんやりと霞んで遠いままでつかみ所がなかった。
『ゴハンはどうします?食べない?あそうですか』
出て行ってくれと言ったことに対するロイの返答は噛み合わず。バスタブで入水自殺でもされたらカナワナイ、とでも言う風情で当たり前のようにバスルームに残り、逆の工程で新しい服を着せ付けるとルーシャンの髪も乾かしてから、用事が済んでしまえばあっけなくロイは出て行っていた。
浴槽の中で、身体に残されていた僅かに薄らいでいた痕を眼にした。手首にくっきりと残された戒めの痕は、まだ暗い色を残し。それを眼にすると、痛みが走った、身体ではなく、自分の内に。いくつも、無数に体中に散らされた痕がある、それが落とされるたびに喘ぎ、自分のなかのなにかが甘い溜息を吐いて死んでいくようだったことも思い出し。
貪欲な身体を持っていたのだと知った。
求めることばかりにでなく、与えられることにも自分は酷く貪婪に快楽を求めていたのだ、と知らされた。知りたくはなかった。
貫かれ、穿たれ。涙を零し、悲鳴を上げながら、身体は内臓を、体内を抉られ擦られ突き上げられて、不自然な滾りを体奥に受けて、声を上げて達していた。喜悦に焼き落ちるかと思った、なにもかもが。
ふ、とルーシャンが重い息を吐き、それから眼を閉じていた。ほんの少しの間、身体を湯の中に伸ばし、腰奥がまだ重いように感じることに唇を噛み締めていたのだった。
視線を、いまは窓外に投げたままでいた。
喉を冷たい水が滑り落ちていくのが伝わる、そしてそれがすぅ、と鳩尾まで落ちていくのを。
くく、とルーシャンがわらった。身体が妙に、『軽い』のは胃の中身が空だからなのかな、と。
チャイナのゼン・マスタァみたいだ、と連想した。ヒトの身体から内臓が無くなっちまえば、相当『軽い』のだろうに、と言ったとか言わないとか。
自分の場合は、と考えた。手足は重いから、腹のあたりだけが軽くても意味ねぇや、と。
視界の隅に、ソファの側のテーブルの上に暗い赤色をしたベルベットの箱があった。見覚えの無いソレの蓋を開けてみれば中身は、砂糖漬けのフルーツだった。
意識の辛うじてあるうちには、それの持ち込まれた記憶は無かった。きっちりと色つきの小石のように並べられたなかに、空になったスペースが二つほどあった。蓋を戻し、それ以上考えることを辞めた。
訳がわからない。
けれども記憶は空白であるのだから、いまここで煩悶しても馬鹿馬鹿しい。
目覚めたときは、寝台に横になっていた。ベッドに入った記憶さえ無い。辛うじて覚えているのは、フロアに蹲っていたところまでだ。
ふ、とルーシャンが視線の先で、手を開いていた。
床に蹲って、握り込んだ毛足の長い絨毯の感触はまだ残っていた。
それよりもさらに鮮やかに残っている、妙に現実めいていた夢の名残と一緒に。何枚も何枚を幕を通したように遠く、現実味のないイカレタ脳が紡ぎ出したイメージの切れ端。
酷く、安堵していた。夢の中で、自分は。
腕に抱きこまれて、その温かさにふにゃふにゃとわらっていた気がする―――バカみたいだ。
逃げ込んだ夢の先に、欲しがるものがよりによってソレかよ。
柔らかな笑みの気配が自分を包む腕や温かさからも伝わってきて、そのことにも安堵していた。
同じような感覚は、覚えがあった。まだ、『自分たち』が幸福だったころに似ていた。自分が、何かを間違ってしまうより以前と。
けれど、似たような種類の想いではあっても。今日、目覚めたときにはまた朝が来た、と絶望することは無かった。記憶を揺らす夢を見たあとにはいつも朝陽とセットになって訪れていた絶望めいたものが薄らいで消えそうに思えた。
「―――――――まぁ、それよりもヒデェのがくるしな」
く、とルーシャンが無理やりに笑おうとしていた。
薬で頭が緩いままでいる間は、自分にファックの価値は無いらしい、とふぃ、と思い当たり。あのベルベットの箱は、と視線を僅かにめぐらせた。
昨夜から部屋にあったものなのだとすれば、あの男が持ち込んだのだろうか、と。
「―――――――わかんねぇ」
ぽつりと呟き。ジョーンと同じ、明るい金の髪を思い出した。
突然、何の脈絡も無く。
なぜ、それに触れたことがある、と思ったのだろう、ジョーンよりは遥かに短い髪を掌に滑らせた感覚があるのだろう。―――触れたことなど、無いはずであるのに……。
窓外の光が、知らない間に夕方のそれに変わり始めていることに気付き、ルーシャンがまた僅かに眉を引き上げていた。この部屋にいると、自分のなかで時間の感覚がますます可笑しくなっていく、と。
眠らずにすごし、その間に二度ほど精神的には死んで、生き返って。 自分以外の何者にもなれるはずもないのに、ソレさえ見失って。
あぁ、違うな、とルーシャンが呟いた。
「死に放し、ってほうか。“ルーシャン・カー”は粉々になってミンス・ミートみたいにぐちゃぐちゃになっちまったなら、“オレ”っていまナンダ?」
あぁ、ばかくせえ。これじゃビルと変わらねぇよ、と。そう呟くと視線を窓から引き剥がし。 膝の間に額を落とすと、ルーシャンが眼を伏せていた。
「タイプライターのキィがヴァギナに見えてきたらオレもオシマイだ、ハロー・ビル、今日の詩はなに」
呟くように言葉にし、ルーシャンが窓から視線を床に落としていた。
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