*27*
何時の間にか目に馴染んでいたロイの姿がドア口に現れたことに僅かに安堵する、ほんの微かにでも空気が変わったので。
片手に銀のトレイを持ち、まるで執事役が板について、ソファの間の低いテーブルにティーカップをさらりとセットし、また入ってきたときと同じように静かに退出していた。
始めて、もう少し居て欲しいと願いながらその背中を視線で少しばかりルーシャンが追った。なぜなら、マティスの絵を向かい合わせに奇妙な沈黙が落ちていたからだった。
ルーシャンの前にセットされた薄手のカップには、紅茶というよりは寧ろ、アクセントに紅茶を垂らされたホットミルク、とでもいったものが頼んでもいないのに淹れられていた。
それを手元に引き寄せはしても、口をつけずにいた。実際には、酷く緊張してつけられずにいた。
鮮やかな色合いの、単純な線と形で埋められた絵。
それだけが饒舌に空気を華やかなものにしていたけれども、ルーシャンにはその同じ空間を埋めるための手立ては無かった。
以前までは勝手に流れ出していた流麗なコトバは役に立たずに、流れるのに任せていた思考は酷くゆっくりと蛇行して進んでいこうとはしなかった。
手元に引き寄せたカップからの熱が、指先を静かに温めていくのに気付き。そしてまた同時に四肢の重さも意識させる。
マティスの絵を何の気紛れでこの男が持ち込んだのか、意味は知りようもなかったけれども絵の奏でようとする旋律が、あきれ返るほどに今の状況とは掛け離れていることだけはわかった。
混乱するままに出てくるはずも無い言葉を探すことは諦めて、ルーシャンがカップをテーブルに戻していた。
言葉と、そしてなによりも行動とで十二分に分からせられたことは「いま」も有効なのだろう、と思いあたった。何も当惑することなどはじめからなかったじゃないか、馬鹿みてぇ、そう思い。鮮やかなブルーの絵をちらりと一瞬見遣った。
そうだった、この部屋にこうして自分の置かれている意味は、とうに覚えこまされているじゃないか、と。
『抱きに来る』のではなくて、『抱かれるために』ここに在るのが自分だった、そう思いながらイスからゆっくりと立ち上がり、そのまま男の座るソファにまで近付くとフロアに膝を着いた。膝に手を掛け、身体を割りいれる隙間を作らせようとし。指先に触れるしなやかな生地の感触に、冬が近付いてきていることをぼんやりと思い出した。
僅かに身体を進め、合せ目に指をかけようとした同じタイミングで、髪に掌を滑らされ、ぴくりと動きを止めていた。
「ルーシャン、何を考えている?」
声と同時に、薄手のカップが下ろされる音も耳に届く。
それには応えずに、指を引き下ろそうとすれば、簡単に床から引き上げられルーシャンが瞬きした。わけがわからない、と表情で訴える。この部屋に自分がいる意味は、ひとつであるはずなのに。
けれどもルーシャンを困惑させた当人は、きゅ、と目を細め。引き上げさせた身体を、腰に手を回すと軽く抱き寄せるようにし、また絵に視線を戻していた。
ルーシャンが意味を問おうと口を開きかけたならば、声が静かに部屋に聞こえた。
「まったく芸術ってやつぁ解らん」
さらりと、どこか面白がって洩らされでもしたような独り言にルーシャンが一層、首を傾げるようにした。芸術よりあんたの行動が解らない、とでも言っていそうに。そして視線につられる様に肩越しに絵を見遣り、けれどもすぐにまた身体を無理やりに落とそうとしていた。あんたが芸術鑑賞をしている間にでも、おれにはすることがある、とでも言うように。
スーツのジャケットを押し遣り、ジッパーを引き下げようとする間に、笑い声の潜められた声が告げる。
「おい、ルゥ」
呼びかけられたことなど、あったろうか……?一瞬そう考え、けれども脚の間に顔を埋めるようにすれば。
「今日はノンビリ膝で丸まって猫やってろ」
声が耳を擽り、髪に手指が滑らされた。――――――気紛れだ、そう流すことにする。けれど。
「手癖の悪い猫。ほら、首の裏にまわしてこい」
酷く柔らかな笑い声交じりの声に、ルーシャンが顔を伏せたまま瞬きした。
腰を抱き寄せるようにされ、身体が僅かに引き上げられるのに視線を跳ね上げれば男がからかうような笑みを口許に刻んでいるのが目に飛びこんできた。
「んーん?ルゥルゥ、仔猫チャン。今日は抱っこだけだ。ほかはなぁんもねえよ」
まだ明るい室内に、どこか愉しんでいるような声が広がっていく。そして、男が自分が台無しにしたのと同じようなスーツを纏っていることにルーシャンが僅かに皮肉気に口許を歪めけれどまたすぐに困惑に眉根を寄せていた。
「―――――――なぜ、」
やっと、乾いて掠れかけた喉から声を絞り出すようにした。それが酷く心もとなく聞こえることには、ルーシャンは気付かなかったけれども。
「オレはね。オマエのプライドはいらねえけど、オマエを壊すことが目的じゃねえの」
腰を抱き寄せている所為で片腕は埋まっており。空いたもう一方の腕がすいと回されるのにルーシャンが顔を避けようとすればそれより先に、鼻先をコドモにするように軽く押され、一層ルーシャンが眉根を引き寄せていた。
「眉間も撫でてやろうか、仔猫チャン?」
困惑に塗れた表情のまま、ルーシャンが喉奥で笑った男を見遣る。
腰を引き寄せていた腕が僅かに緩み。そのまま掌が下向きに強張った身体を解すように撫で下ろされるのに、小さく首を横に振った。
「シないと、下手なままだよ」
おれがヘタクソだとさんざんからかったのはあんたじゃないか、と内心で思う。
「もうちょっとオマエに元気が出ないとな。下手通り越してヘタったままだ」
くく、と楽しげな笑い声が間近で零されるのに、ルーシャンが一層困惑した。
目的がわからない、一体。
途方に暮れ、困惑し。四肢は緊張を強いられ続ける所為で強張ったままだ。
緊張し張り詰められていく神経と、それを宥めるように柔らかで力強い掌の動きに身動きが取れなくなる。
「それ、いやだ」
両極端に放り投げられ続けて、ばらばらになる。
「そ?」
酷く軽く返事が寄越されて、手がそのままの位置に留まったことに息をヒトツ吐き。
「じゃあ寄りかかってろ」
笑うような声が告げ、背中を引き寄せられた。膝に抱き上げられたまま、半身が一層重なるようになり。びくり、とルーシャンが身体を強張らせた。背中が緊張し、じり、と背骨が痛むほどに思えた。その顔は泣き出しそうに歪み。穏やかな午後の日差しとは対極にある羽目になっていた。腕も不自然な具合に身体の横に伸ばしたままで、相手の身体に添わせることなど思いつきもしない。
「ヴェットに連れて行った猫ってこんなカンジに硬いよな」
上機嫌なままの声がルーシャンの耳朶を擽ったけれども、それが耳に心地よいトーンであることに気付くだけの余裕はルーシャンのどこにも無かった。パトリックがおそらく子供の頃に猫を飼っていたことがあるらしいことも。ただ、事態の現実離れしていることに、酷く当惑していたのだ。
*28*
息さえも潜めて身体を硬くし、緊張しているルーシャンを膝に抱えたまま、パトリックはくくっと低く笑った。
初めてルーシャンから「しよう」としたことは、タイミングが酷くずれていていっそおかしかったけれども、その心意気は奇妙に喜ばしかった。
ああ、この猫もそろそろ落ち込んでばかりはいられないか、と思い。点滴に浮腫んだ頬を、さらりと手で撫で上げた。
「あんま点滴ばっかされてンな。浮腫んでんぞ」
きゅ、と眉根をまた僅かに寄せ、顔を背けることをどうやらガマンしたらしいルーシャンのブルゥアイズを覗きこんだ。
「まだ食えないのか?ンン?」
「―――――――吐くから、」
擦れた声で応えを返してきたルーシャンの頬を、指裏でさらさらと撫でる――――――アルコールに荒れてはいなくても、ストレスに荒れているせいか、多少手触りがざらついていた。ペットショップから卸したばかりの猫や、居付いたばかりの野良猫の毛並みのようで、さらにパトリックは笑みを深める。
「なんともならねえのか?」
応え様がないからなのか、更に眉根を寄せたルーシャンを目元まで指裏で撫で、さらりと眉根の上も指先でなぞった。
「おれだって痛いから嫌だよ、」
ぽそっと返してきたルーシャンに、ハハ、と笑った。
「まあなんとか自分を騙して食えるようになりな。1ヶ月で自由の身になれることは保障してやってンだからな、その頃にバテてどうしようもありませんでした、じゃ折角の自由も満喫できないだろ?」
終わりの無い蟻地獄じゃないんだしよ、とパトリックが笑ってルーシャンの目を覗き込む。
押し黙って応えようとしないルーシャンに笑って、さらりと後頭部に手を回して頭を肩の上に引き寄せた。首が嫌がって強張ったのに、大丈夫だ、と告げる代わりに頭に唇を押し当てた。
「好きなことが出来る人生を歩んでてよかったじゃねえの、オマエ」
さらさら、と髪を指先で梳きながら、びくっとしたルーシャンに告げる。
「クソッタレな環境の中の、クソッタレな家族の一員として生まれて、クソッタレな人生を歩まなくていいなんて、それだけでもラッキーなんじゃねえの?」
右を向いても左を向いても、山のように詰まれたクソ塗れの人生じゃねえじゃん、オマエが生きてるのはさ。そう耳元で囁きながら、指先で髪を梳いた。
「最もドジ踏んで、いまはこんなところにいるけどさ。それだって期限付きのワンターム・オンリの出来事だろ。一生のことじゃねえし」
ぐ、と唇を噛み締めたらしいルーシャンの腰をぺち、と軽く叩く。
「噛むなってのに」
ただでさえ水分不足で荒れてる唇をそれ以上傷めつけんな、と告げる。
「―――――――具合がヨクナイ、って」
ぽそっと告げたルーシャンの言葉に、くくっと笑った。
「それもあるけどナ、そもそもがいいクセじゃねえだろが」
「したことないよ」
ぐっと声を尖らせたルーシャンに、じゃあすンなよ、何度も言わせるな、と告げる。
「折角キレイな容してンのにさ、いつも切れてンのは癪だろ」
肩からカオを離そうとしたルーシャンの身体を膝で軽く揺すり、体重を引き寄せる。
「ほら、腕でも回して来い」
落とされた腕のままのルーシャンに、くくっと笑った。
「強情猫」
わしわし、と項から髪を撫で上げて、また紅茶に手を伸ばした。
「いま暴れたら2ヶ月になるぜ、気をつけナ」
降りようとしていた身体がびくりと跳ねあがり。また身体が固まっていく。
「たぁまにオマエみたいにタイミングだとか状況だとかの間の悪いニンゲンがいるんだよなァ…呪いなのか、ソレ?それとも特技だとか?」
「あんたには関係ない」
声が硬く、どうやらコトバに痛みを感じたらしいルーシャンの髪を片手でまた撫でた。
「まあな。この期間が終わっちまえば、オマエからまた飛び込んでこない限りは、まるっきり他人だしな」
ぐ、と肩まで強張らせたルーシャンの項を撫で下ろす。
「どうした、仔猫チャン?そこは喜ぶ場所だろ?」
なに緊張してンだよ、と喉奥で笑う。
「仕込まれた淫売が出来上がってるだけだ」
フラットに感情を落とした小さな声が告げてきた。
「それをどう使うかは、けど全部オマエに決定権があるぜ?封じ込んで恋人を見つけて結婚してガキをこさえることも含めてナ」
「―――――――どうも、ご親切に」
ますます声がフラットになったルーシャンの項をさらりと撫でた。
「人生のオプションが増えたと考えればイイだろ。なんだってそう後ろ向きなんだオマエは?まあいいけどナ」
ごそ、と本気で降りようとしたルーシャンが紅茶のカップをひっくり返す前に、サイドテーブルの上に乗せた。
「なにオマエ、したいのか?」
ぎりっとブルゥアイズが睨みつけてきて、低められた声が言った。
「おれの意志になんの意味がある、」
そう言ってから、どうやら自分の立場を思い出したのだろう、あぁだめだ、というカオをルーシャンがした。なにをまた馬鹿みたいにムキになってるんだろう、と自問自答しているのが見て取れる。
はた、と表情がまたフラットに戻ったルーシャンがフロアに降りていくのをそのままにして、パトリックは薄く肩を竦めた。
「そんな基本的な質問の答えも知らないのか、馬鹿猫」
ぐしゃ、と遠のいていく金色の頭を撫でた。
「―――――――ないことなんて、わかってるよ」
ぐ、とカオを反らせたルーシャンのアギトを、ぐい、と片手で掴んで目を合わさせた。
「意志があってこその人間だろうが」
痛みに表情を歪めたルーシャンに、くう、と目を細めた。
「“ここ”にはそんなものいらないだろ」
「オマエがいつまでもそんなンだから、待遇がペット以下のままなんだよ、仔猫チャン」
すい、と手を離してやり、ふン、と鼻で笑う。
「どこまで甘ったれてんのやら、オマエのそのエンリョのなさには舌を巻くよ」
ジャケットの内側に手を入れて、タバコを取り出した。火を点けて、煙を吐き出す。ちらりと煙の流れるのを見遣ったルーシャンに聞こえるように、トン、と膝の上を叩いた。
「ヒトの自覚がないのなら、戻って来い、ルーシャン。オマエはオレのだろう?」
きゅ、と一瞬目を閉じたルーシャンが、屈辱を感じているかのような表情をして、ゆっくりと膝の上に戻ってきた。
腰を下ろす緩慢な動作に、ぐい、とルームウェアのボトムのウェストを引っ張り、とっとと腰を落とさせる。とさん、と軽い体重が預けられたのに、くい、と片眉を跳ね上げた。
「ルゥルゥ、仔猫チャン。オマエは一体何がしたいんだ?んー?」
諦めたような、怒ったような、困惑したようなルーシャンのカオを覗き込みながら、タバコを口に咥えた。
「絵は気に入らなかったか?」
俯いて首を横に振ったルーシャンの頭をさらりと撫でる。
「ならいい。今日の目的はアレを眺めてるオマエでもあやしてのんびりしようってことだったからな」
きゅう、とますます困った顔をしたルーシャンに、吸い込んだタバコの煙を溜め息に混ぜて零す。
「オマエはオレの仔猫チャンだろ?猫は膝に乗せて可愛がるモンじゃねえのか?」
なにかを言いかけたルーシャンが、きゅ、と口を噤んだのを見詰めながら、また新しく肺に煙を送り込む。唇を引き結んだルーシャンに視線を合わせたまま、首を横に向けて煙を吐き出す。
「そういう風に“可愛がられる”のは嫌か?」
「嫌だっていって、それが通ったことなんてないよ」
“ここ”で。そう、じいっと見詰めてきながら言ったルーシャンに、ハハ、と笑った。
「まあな。で、それはオマエにとっては嫌なことなのか、ルーシャン?」
「……感じない、そんなもの」
「それはオマエの意地なのか?それとも丸々投げ出してる結果なのか?」
トン、とティーカップの中に伸びた灰を落とした。嫌な顔をするウィンストンの表情が一瞬浮んだが、ルーシャンに灰皿を用意させるわけにもいかない。
「意地が残ってたらそれも握りつぶしてくれるんだ、」
「握り潰されるくらいの意地しかねぇの、オマエ?」
告げて、くい、と片手でルーシャンの顎を上げさせた。タバコを口に咥えて、紫煙を吸い込む。
「あんたはおれのプライドだって砕いたからね、」
片頬を吊り上げ、嫌味を言うように笑ったルーシャンの態度に、くくっと笑った。
「きのう、確かめたろ」
「砕いても、こんなにもオマエはまだ意固地だけどナ」
けどまあ、とパトリックは口端を引き上げた。
「筋の通ったヤツの意地は、オレは尊重するタイプなんだぜ?」
く、と俯いたルーシャンに笑って、パトリックはさらりとルーシャンの髪を撫でた。
ぼそっとルーシャンが呟く。筋だの意地だの何の関係があるんだ、とそう言いきったルーシャンに、ハハ、とパトリックは笑った。
「オマエ、クソ生意気だなァ」
「あんたの面を見たら涎たらして脚開くようにでもなれって言ったらなるさ」
ぽとん、とタバコを紅茶に落として、ぐい、とルーシャンの身体を引き寄せた。言い捨てたルーシャンのカオを覗きこんで、がぷ、と唇を噛むように啄ばんだ。
「ヤケになるのもなかなかイイけどな、オレを怒らすのは得策じゃねえよ」
「自棄になれるほど楽天的じゃない」
びく、と背中を跳ねさせたルーシャンを間近で覗きこんだ。
「楽天的は違う、バカが着く位にアマッタレなだけだ」
視線を外さずに告げてきたルーシャンの頬を包み込んだ。
「けど、今のオマエのほうが人形みたいなオマエより、よほどイイ」
くう、と目を細めて笑って、さら、と背中を撫で上げた。
「オレはオナニーをするためのダッチワイフが欲しいわけじゃないからナ」
歯を噛み締めたルーシャンに笑って、ぺろりと唇を舐めあげた。
「いい子だ、ルーシャン。頭のいいコは好きだぜ?」
くう、と悔しそうに顔を歪めたルーシャンの項を掌で包んだ。
「条件反射で股を開く人形なんざゴメンだ。どうせだったらタラすぐらいの気持ちで挑んでこいよ、ルーシャン?フェアなゲームじゃないが、気持ちの持ち様でいくらでもこの状況を有効活用できるぜ?頭を使えよ、カワイコチャン。バカなだけじゃあないんだろ?」
はむ、と柔らかくルーシャンの唇を啄ばんだ。
「オレを楽しませる気概を見せてみな?オレが満足したらいくらでも日数を削ってやるよ」
唇が触れる距離のままで囁く。
「オレをセックスの技術じゃなくて、気分良くさせることで日数を稼ぎナ、仔猫チャン。オレは案外オマエを気に入っているらしいからな、気分良くさせてくれれば大事に扱ってやるし、無罪放免も早めてやる。その間に与えたギフトはオマエが持ち帰ればいいし―――――そうそう悪いことばっかりじゃなくしてやるぜ?」
「あんたからの施しはイラナイ」
「いらなけりゃ捨てていけばいいさ。与えたものをオマエがどうしようとそれはオマエの勝手だからナ」
ふわ、と微笑みかけてやって、パトリックが囁いた。
「モノの価値なんて、大したモンじゃねえよ。だからオマエは、モノからヒトになれるように頑張んナ」
「あんた、アタマオカシイ」
目を見開いて、少し茫然とルーシャンが呟いた。
「そりゃそうだ。正気でマフィアの大ボスが務まるわけがないだろうが」
「自分の言ってること、わかってるのか?」
さら、とルーシャンの頬を撫でた。
「解っているさ、オレの気紛れで言ってるってこともな。まぁでもオマエにした約束を違えたりはしねえから安心しな」
少し表情を曇らせたルーシャンに、すい、と首を傾けた。
「ルゥ?」
ゆっくりとルーシャンが目を瞬いていた。
「繰り上げられたら、残りはどっかに遣られるの、」
そう言ってきたルーシャンに、ハハ、とパトリックが破顔した。
「正規な取引じゃなくて、オレとオマエの間だけのちょっとした取引だからナ。オマエが金銭的な借金のカタに連れてこられたお人形だとしたら卸しもするが、オマエはしねぇよ」
ふに、と痩せた頬を突いた。
「―――――――あんた、やっぱりホンモノだったのか、」
いまさら納得した風に言われて、ぶふっとパトリックは噴き出した。
「ロイがいうと、ジョウダンにしか聞こえない」
ぽろっと言ったルーシャンをぎゅうっと抱き寄せて抱き締めながら、笑いを噛み殺しつつパトリックが呻くように言った。
「ああ、そうか。呆れるほどに見事な酔っ払いだったもんなァ、オマエ。アレがオマエをどう言って車に乗せたか、うっかり忘れてるか?」
さら、と髪を撫でてから、すい、と頭を浮かさせた。
こく、と酷く素直に頷き、わかんねえ、とルーシャンがぽつりと言う。すい、とそんなルーシャンの顔を覗き込み、ごち、と額を押し当てた。
「オマエね、アレは実はオレよりブチ切れたら怖い懐刀なんだよ」
困った表情をしたルーシャンに、にかりと笑いかけた。
「―――――――タマ蹴った、」
ぽろっと零したルーシャンの言葉に、うぁは、とパトリックが満面の笑顔で仰け反った。
「ハッハー、ルーシャン!案外やるね、オマエ?」
ただのカワイコチャンじゃねえじゃねえかよ、と笑って、さらりとルーシャンの頬を撫でた。
「けどまあ、脳味噌ぶっ飛んでる時以外は、オススメしねえよ?躾だっつってアキレス腱切られるかもしんねぇからナ。オレとしては四肢が揃ったまま稼動してるオマエを外に戻してやりてェからナ?」
こく、と頷いたルーシャンの金色の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて、ふわりとパトリックが微笑んだ。
「風呂でも暴れないようにする、」
「んー、オマエがちゃんと自分でやれるってンなら、オマエのケアはアレの管轄からは外してやろう」
風呂場で何をしでかしやがったんだか、と喉奥で笑いながら、ルーシャンの頬を柔らかく突いた。ほっとしたように肩から力を抜いたルーシャンに、くう、と笑いかける。
「意識がブッ飛んでる時は、しょーがねえからオマエ、オレがやってやるよ。オレのカワイコチャンだしな、オマエ。そもそもはオレがケアするべきか」
視線を合わせてきているルーシャンに、くう、と目を細めた。
かああああ、と目許から頬を伝って耳辺りまで一気に真っ赤に顔を染めたルーシャンが、次の瞬間には必死に首を横に振るのに、チチ、と舌を鳴らした。
「ほ、っといてくれていい…っ」
「ほっといたら下してタイヘンだっつーの。そんなことでドクタ・アンソニーを煩わしたくないだろ?それともドクタのほうがケアするにはマシなのか?」
オレかドクタかロイの三択しかねえよ、オマエ、小悪魔だし。そう告げれば、真っ赤な顔で酷くルーシャンが困っていた。
「一番オマエにとってマシな人選を選べ」
くぅ、と笑いながら、パトリックが片眉を跳ね上げる。ルーシャンが視線を彷徨わせるのに、さらりと背中を撫で上げる。
「で、仔猫チャン。誰がイイ?」
「―――――――自分で、する、」
「だぁから。オマエがぶっ飛んでる時だっつってンの。ぶっ飛んで無ェ時はオマエにさせてやるから」
小さな声で呟いたルーシャンの身体を膝の上で揺する。
くぅ、と息を飲んだルーシャンの感度の良さに、くくっと笑い。そろっと視線を合わせてきたのに、ン?と口端を跳ね上げた。
「回答は?」
ますます困った顔でじっと見詰めて来るのに、くうう、と笑みを深めて、パトリックが笑った。
「オレでいいんじゃねえかよ、アマッタレ仔猫チャン」
さら、と頬を撫でて、トン、と唇を啄ばむ。
「だ、ってロイは……」
「んん?」
揺らいだ声を出したルーシャンの言葉の先を促す。
「直に、別のが入ってクるのはヤなんだ、」
消えそうな声で告げてきたルーシャンに、くう、と笑う。
「今度からオレだけだ。それでイイな?」
きゅう、と縋るように見詰めてきたルーシャンに、トン、と口付けた。
「とっとと元気になンな、仔猫チャン。いつでも出て行けるようにナ。この調子でオレの気分を良くしてたら、案外早く出されちまうぜ?」
安心した風に息を零したルーシャンの髪を掻き混ぜて、パトリックが目を細めた。
「最初に問答無用でオマエの頭をブチ抜いてなくてよかったよ。お陰でいまはこんなに楽しい」
少し目を伏せて、口許を僅かに歪めたルーシャンがぽつんと言った。
「オモチャが転がり込んだろ」
嫌味でなく告げられたトーンに、くぅ、とパトリックが笑った。
「オモチャだったらこんなに丁寧に扱ったりはしねえよ、バァカ。だからとっとと気持ちを立て直して、まずはきちんと美味いモンが食えるようになンな。食いたいモンがあったら、ロイにリクエスト出しとけ。ウチのシェフの腕前はそんじょそこらのモンじゃねえぜ」
くしゃりとルーシャンの柔らかな金色の髪を撫でた。
唇が僅かに開き、けれどまた口を噤んだルーシャンに、パトリックがさらりと告げた。
「ここを出る時は、誰もが振り返るくらいの艶やかな仔猫チャンになって出ていきな。世界がオマエに跪くかもしんねぇぜ。オレの居る世界じゃねえけどな」
next
back
|