*29*

絵を「贈られた」日の夕方は、抱き上げられたままで奇妙に静かに時間が過ぎていき、結局そのまま眠ってしまったらしいルーシャンが目覚めたときにはブランケットを羽織ってソファに横になっていた。
窓外はすっかり夜半の暗さを覗かせており、そのまま、目をもう一度瞑り直していた。
なかなか訪れようとしない眠りを待つ間にも初めてまともに交わした言葉の破片がいくつも浮かび上がっては、カタチを失くしていっていた。
言葉全体の意味よりは、むしろその底にちらちらと垣間見えていた柔らかな口調であるとか、悪意のないからかいめいたもの、それが残っていた。
いままでの自分と折り合いをつけようとするから可笑しなことになるんだ、と目を瞑りながら考えていた。「此処」を「過去」からも、「いままであった自分」からも切り離してしまえばいい、と。
切り離して日をすごし「負債」を全て無くし終えた後のことは知らない、瞬間瞬間だけを考えていけばいいんだ、例えば―――
「ルーシャン」はどうだか知らないが、「記号」の自分は。喚き散らして片肘張って足掻くのをヤメテしまえばいい。
思い知らされたとおり、ファックされンのもスキだよ、悪いか。だからどうした、今までの自分と今はアタリマエのように違っていて、苦痛にばかり逃げ込むのはどこかのマゾヒストだ、それは自分じゃない。
誰かに組み敷かれることなど許すはずもなかったけれども、捻じ伏せられちまえばそれはそれでどうにでもなることだった。
馬鹿みたいだ、仕方ない。自分は快楽がスキだ、気持ちいいことは。ファックだけじゃなくて、すべて。
無理やりだろうが何だろうが、シちまえば―――すげぇイイことがわかっちまった。足掻くのをヤメテ、そのことを認めてしまえば、事態は相当ラクになるだろう。
なぜなら、マトモに目をみて話したことは今日が初めてだったけれども……他のことが入ってくるより先に捻じ伏せられて身体を貫かれていたから。宥めるように回された腕は酷く心地よかった。傲慢さと自信の混ざり合った声も不快じゃなかった。その声が模っていく言葉も、知性に裏づけられているのが如実なものだった。
だから、と眠りに落ちかけながら思考がゆらりとカタチを取った。
あの男に抱きついちまえばラクになれるんじゃないか……?
なにかが、警告めいてちかりと光ったけれども、その元を確かめる前に柔らかな腕に抱きこまれるように意識が眠りに落ちていっていた。

次に目覚めたときは、陽射しが部屋に入り込んでおり。ブランケットを足元に押し遣るとそのままバスルームまでいき、湯を張ったバスタブに顎まで長く横になって浸かり。
浴室からの音に気付いたロイがドアを軽くノックし。朝食を持ってきた旨を「いつものように」ルーシャンに告げていた。
手をつけることが無くても、毎朝決まって用意されていたソレ。
重さをそれほど感じなくなった四肢が濡れたままであることにも構わずにルーシャンが新しく「いつもの様に」用意されていた新しいバスローブに腕を軽く通し、出て行けばテーブルに朝食が置かれており。それを持ってきたニンゲンの姿は見えなかった。
これは、初めてのことだった。いつも、「いらない」と言い捨てるまでロイは少し離れた所から静かにルーシャンを見詰めていたので。
水の入れられたグラスに手を伸ばし。半分ほど飲み干し。小さく息を吐くと、ライスプディングを掬い上げ、シルヴァウェアを口許まで運び。意を決したように、一瞬躊躇った後に口にしていた。
二口ほど、ほのかな甘味を確かめ。涼やかな香りを上らせていた絞りたてのオレンジジュースに手を伸ばすことはやめていた。
いらない、という変わりに「ごちそうさま」とだけ自分のほか誰もいない部屋で呟き。またイスに戻って、窓の外では無くソファに置かれたままの絵を見ていた。
マティスを気紛れで「猫」に与える男だ、その思考を読み取ろうなど無駄なことなのかもしれない。けれど、まだ綴られた言葉は自分のなかに残っている―――足掻くのを止めてしまえば、いったい自分はどうなるのだろう。

静かに部屋に入ってきたロイはほんの少し手を着けられた跡のある朝食を見ると僅かに目を見開き。
『なにか食べたいもののリクエストがありましたら、シェフに伝えますよ?』
そう静かな声で言っていた。
絵から視線を外さずにルーシャンは首を横に振って返事の変わりにし、ロイの出て行った室内でまた息を長く吐いていた。



*30*

猫がメシを食った、とロイが笑って報告してきた。仔猫が心配で何度もウィンストンに電話をかけてきていたらしいドクタ・アンソニーに報告すれば、
『漸く緊張が取れてきたんですね?でもいきなり重たいものを食べさせてはダメですよ!胃が受け付けませんからね!!』
と至極医者然とした口調で言われたらしい。老齢の執事はからりと笑って。
『時折ドクタ・アンソニーは私どもの職業をお忘れになっていらっしゃる』
そう言っていた。
あの童顔のドクタが自分たちの生業を忘れているのは、アレの精神的自衛策の一手なんだろう、とパトリックは思い。追加の点滴をオーダしないで、清算の要請を出して置くように伝えた。
『まあお食べになられたといっても、二口ぐらいなものでしたが』
そう片眉を跳ね上げたロイに笑って、その夜は案外素直に手も快楽も抱擁も受け入れたルーシャンを限界まで抱いた。自分のどの言葉がいつルーシャンに届いたのかは解らなかったが、理解されたのならそれでいい、と泣きながら縋って果てた細い身体をバスに入れてやりながらパトリックは笑った。
ロイに自分の訪問を部屋に言うだけ言っとけ、と命令しておいたから、パトリックがルーシャンを構いに行った頃には、アレの頬はほんのりとピンク色だった。
羞恥心の表れか、バスローブは着たままだったけれども、きちんと支度はされていて――――――潤んだ目許のブルゥアイズが、覚えこまされた快楽を思い出してじっと見詰めてきていた様は、思いのほか訴えてくるモノがあった。
それがLust(欲情)であってCompassion(慈愛)でないのは、自分がニンゲンとしては壊れているモノだからだろう。
縋る指先が強請るままに快楽を与えてみるのは、餌付けするのと同じくらいに楽しみを多く覚えた。
けれども、もう快楽の深さに必要以上に警戒心を持ったり戦いたりすることは止めたらしいルーシャンが、心理的に受け入れたことで更なる快楽の深みに飛び込み、震えて涙する姿はなかなかに楽しめるものがあった。
柔らかく掠れた声が突き上げられるままに嬌声を零していくのも―――――『廊下で聞いていても多少心穏やかではいられないですね』と苦笑したロイが報告した通りに、耳に心地よいモノだった。
ぐったりとして、そのままメイドにリメイクさせたベッドにルーシャンを放り込んでから、予定していた会合で使う資料を目に通して朝を迎え。一眠りしてから、ルーシャンの頭を撫でにいった。

寝室の奥の壁に下げられていた絵が見える床の上に丸まっていた猫を拾い上げて、ソファに移動して膝に乗せた。くったりと気だるそうにしていた猫が、「……ぁ、」と惚けて瞬いたのに片眉を跳ね上げ。
「ベッドは退かして全部ラグにすっか、オマエ?」
そうからかって、身体を抱き寄せて金色の髪に口付けた。
くすん、と小さく笑った顔は思いのほか幼く、また和らいで見えたのにパトリックも薄く笑い。その日は特に話すでもなく、猫を抱いたまま半日を過ごした。くったりと預けられた体重は、グラマラスなオンナのソレより軽く。回した腕に伝わるアバラの感触には眉を顰めたけれども。
会合ついでのディナーの前の軽いティーにはルーシャンも付き合い。3口ばかり、サンドウィッチを齧ってほとんどミルクばっかりの紅茶を飲む様には少しだけ笑った。パトリックが差し出すがままに、ほんの一口ずつ齧っていく様は、鳥の餌付けを思い出させ。まあカゴの鳥には違いないか、と思えたからだった。
けれど気分が良かったのはルーシャンの部屋を出るまでで。
「ボォス、バッドニュース」
そう歌うように言ってきた割には、グリーンアイズを冷たく光らせたロイから溜息モノの報告を受け取り。ディナーは相当サイアクなテイストになるだろうと覚悟して定例報告会議に乗り込んだのだった。





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