*42*

支度された朝食を「眺めて」手をつけることが出来ずに、細かく砕かれた氷に浸けられていた絞りたてのオレンジジュースの入った小ぶりなグラスを引き上げ、それだけを何とか嚥下すれば、少し離れた席から静かに見詰めてきていたロイが溜息を押し殺したのがわかった。
「ほかは何も口にはできませんか?」
「……うん」
それだけを口にし、ごちそうさま、とルーシャンが呟いた。
「仕方ないですね」
そうっと溜息をこぼすと、手のつけられていない皿をワゴンに静かに乗せていき、ロイは。
「お昼には温室のほうにいきましょーね。ボスが連れてって新鮮な空気を吸わせろ、って言ってましたから」
そう言葉にして微笑んでみせた。
そしてロイが一旦出て行き、誰もいなくなった室内でルーシャンが浅く息を吐くと寝室を出て居間まで行き。まだ火の入れられていない暖炉の前にイスを引き寄せると座り、そうする間にもアタマが勝手に記憶に残る言葉を引き出し意味をもたせようとし始めるのを押さえ込んでいた。そのためにも、キッカケの少しでも少ない部屋のほうが良かった。
静かなノックが聞こえ、ドアが開き。居間にいるルーシャンを見出しすこし驚いた表情を浮かべたロイも、けれど何も聞いてはこずに。ルーシャンからタバコを強請られて、
「ほどほどにですヨ?タバコだって害がないわけじゃあないんですからネ」
そう言いながら、自分のパックから一本を引き出すと火をつけ、手渡していた。
「吸い終ったら、温室にいけるの、」
「早いほうがよろしいですか?」
「うん」
ぱち、と意外なように目を瞬いて、ではそのように手筈を整えてきましょ。と言い残すと出て行くロイの背中を見るともなく、ただ視線でぼんやりと追いかけ。一瞬、その姿が別のニンゲンに重なりかけるのにルーシャンが俯いていた。

戯れに自分を迷わせる言葉を寄越すのならまだいい、けれど。ただ気の向くままに移ろうソレをさらりと寄越し、頬を撫でていきさえすることもすべて、ただ気分任せであることを知っても尚、そのことに感情が揺らぐ自分が愚かしいとルーシャンは思った。
ヒトであろうとすることを諦め、一瞬はラクになれたかと錯覚した。けれど、そう思った先からまるでアタリマエのように気儘に柔らかに頬を撫でられ、口付けられ。困惑し、やがて『自分』が宙吊りになった。モノでもヒトでもなく。
優しい、とさえ思える手に触れられるたびに、足元に奈落へと開く穴が広がっていくように思えた。
『Yes, Joan, now I know……We ARE doomed」
そうだね、ジョーン。たしかにおれたちは呪われてるっていまならわかるよ。
赤い唇が囁いた言葉を思い出す、愛に呪われているのだ、といっていた彼女の辿った結末も。
でも、―――それならば彼女は夫の手で、死でもって呪いから解放されたのなら。ビルは最大の恩恵をやはり『妻』に齎したのだろうか、自分には与えることの出来なかったものを。
さ、いきましょうか、と。声がドア口からしたのにびくりと思考に沈んでいたルーシャンが顔を挙げ。ロイの手がシューズボックスを下げているのに少しだけ笑みを口元に上らせていた。
「あるいていけるんだ、今度は」

「ごゆっくりどーぞ。お昼もこちらのテーブルに用意しておきますので。お茶もポットで置いておきますから、気分が良い時にでも。オレは入り口で本でも読んでますんで、なにかあったら呼んでくださいネ」
温室に入れば、ロイはそう言ってにこりとし。頷くと、ルーシャンは静かに広い室内をゆっくりと見回した。前回、ここに来たときは中央付近に誂えられたテーブルの周囲にだけ気を取られており、細部までは詳細がわからなかった場所を。
緑の芳醇な匂いに紛れて、どこかエキゾティックな花の香りも混ざっていることと、かすかな水の匂いと、流れる水音にも気付いた。
木片のチップが敷き詰められ、その合間に飛び石が小道を作っていた。
丈の高い南国の木が天井近くまで伸び葉を茂らせる下を水音に誘われるままに進んでいけば柔らかな水音を立てる小ぶりな噴水があった。温室を装飾するというよりはアクセントとして置かれたようなそれは、三段になった水盤が小さな塔を作り、大理石の水盤が浅い池を作っていた。
膝をつけば、そのまま池の底を覗き込めそうな高さに設えられており、ルーシャンが大理石の縁に手を掛けて、膝を着いた。澄んだ水底にはもちろん、コインなど落ちているはずもなく、モザイク模様のブルーがゆらゆらと落ちてくる水に揺れていた。
ぱしゃり、と手を水にひたしてみる。それが予想以上に冷たかったことに小さく笑う。
ガラスの天井越しに落ちてくる陽射しも、池の底に反射し。
あぁ、きれいだな、と不意に思った。きっと、水底から光の天井を見上げたなら、とても美しいだろう、と。
いまの、鈍く熱を中心に抱えたような頭も、少しは冴えるのだろうか。もしも、その光景を目に出来たなら。
小さな泡が、上へ上へと水中をのぼっていくイメージが閃いた。
いま。よりは。きっととても気分がいいはずだ――――――――

だから。
半身を縁から乗り出して水底を覗き込み、次の瞬間には肩まで冷たい水の中に浸してみた。
ゆら、と視界が揺れる。奇妙に自分の鼓動が大きく聞こえた。
なにか、体内を滑っていくような音は、これは…血管を血が流れていく音なのかな、と思い。瞬きする。そして、水の中であるのに、ロイの酷く慌てた声が聞こえた。奇妙にエコーし低く響いて遠く聞こえるようだった。
『う、っわ、なにやってンですかっ、ルーシャン様?!』
ハハ、と水のなかでルーシャンが笑い、小さな気泡が上っていった。
さま、だって。よく考えてみたらおかしいよな。
そして、『わかんないよ』と水中で答え。また気泡がこぼれていった。
けれど気泡が消えきる前に身体を引き上げられ、空気に、ルーシャンが小さく咳き込んだ。
髪の先からも、顎からも、ぼたぼたと雫が垂れ落ち、その間にもロイが背中を撫でて咳を宥めていき。俯き、崩れかけるルーシャンの身体を支えるようにしていた。
「いまさら自殺の真似事ですかぁ?勘弁してくださいヨ」
「ちがうよ、」
頭冷やしたかったんだ、と咳き込みながら答え。死ぬならもっと効果的にやってる、と続ければしょーがないですねえ、と愚痴るように言いながら、抱えあげるようにしていた。
抵抗を諦め、ルーシャンがロイを見上げた。そして、言葉にしていた。なぁ、プールはある?屋内プール、と。
「ありませんヨ、室内プールなんて。あったって連れて行きはしませんけどぉ」
「なんだ、ありそうなのに」
「頭冷やすどころか風邪ひきますよ?いまだって十分引きそうなんですから」
ハハ、と力なくわらったルーシャンが目元を手で覆い、温室を出かけたところでウィンストンにタオルを掛けられ、びくりと肩を揺らし。また客間へと連れ戻されながらタオルで目元をきつく押さえていた。
「とっとと風呂いきますよ、風呂」
「あんたも一緒に入るとか言い出すなよ」
「オレは一緒に入りませんよ。アンタ入れますけど」
ぷう、とわざと頬を膨らませるようにして言ったロイにルーシャンが眉を引き上げて見せた。
「マフィアにぜんぜんみえないね、ソレ」
「マフィアがみんなマフィアみたいなルックスだったら、一発でみんな隔離されちゃうじゃないデスカ」
何バカなことをいってるんですか、とでもいった口調に、ふぅんとだけ返し。
バスタブに放り込まれ、顔を浸けないように「見張られ」ながら身体が温まるまで入り。
ローブを引っ掛けたままでルーシャンが居間で座り込んでいた。
冷たい水で一度は冴えた筈の頭が、未だに鈍く温いままである気がしていた。

「タバコ、」
一本をねだってみる。少しは頭がすっきりとするかもしれないと。
「ダメですよ。早く上着てくださいって」
「あつい、いやだよ」
「そんな筈がアリマセン」
まるで保護者めいて言い切り、上着をルーシャンの肩に着せかけその肌に触れ。はた、とロイが動きを止めていた。
暑いからいやだって、とぼうっとした口調で言い募っていたルーシャンではあったけれども。
「ああもう!!アンタもう熱あるんじゃないですかっ!!」
驚き呆れ、顎が落ちそうな具合に口許を捻じ曲げてみせたロイが両腕を挙げ。むしろその態度に僅かに驚きながらルーシャンがぼう、と見詰め。
「――――え?」
「え、じゃないでしょーが。ほらもう横になってベッドに入って入って!!」
と、熱に気付かずにいたルーシャンに言い募る。
あっさりとソファから引き上げられ促されるままに立ち上がりながら、ぁ、と小さくルーシャンが呟いた。
「ほんとうだ、ぞくぞくする……」
「ああああああ、もおおおおお」
ベッドに横たえながら、ロイが頭を振っていた。
急いでドアまで戻り、ウィンストンにだろう、風邪薬、と大声で叫ぶロイを見詰めながら重ねられたピローに背中を預けるように、肩まで掛けられていたブランケットから抜け出してルーシャンが息を吐いていた。まるっきり、ばかな自分に呆れ果てる。コドモじゃあるまいし、と。
「いらないよ、ばかみてえ」
「アンタはバカです、それは正論。でも風邪薬はいります、なにいってるんですか」

いまさら、何の熱だコレは。身体と精神のバランスが崩れたのが原因なら、精神に受けたダメージが遠因であるのなら二週間以上前に「こう」なっていなければいけないはずであるのに。
ピローに頬を預けながらロイに言う。
もう熱くないから平気だ、と。けれど、それにこれは多分風邪ではないんだ、とは言えずに。
「熱いです。ほんとばっかですネ?アンタの意識は平気でも、そのちっちゃな頭蓋骨の中のちっちゃな脳味噌は沸き立ってるんですヨ?」
「はははは、怒ってる、ばかみたいだ」
すう、とルーシャンがロイを指差した。
「あぁのね。オレはアンタが生きようと死のうと実はどうでもイイですけど?でもソレでボスに罷免されるのはヤじゃないですか」
室内に入ってきたウィンストンはけれど気にした風も無く薬をロイに渡し、アイスパックをルーシャンの額に乗せ、何事かロイの耳元で囁き退室していた。
「だいじょうぶだよ、死んだら道にでも棄てとけよ」
“猫”らしくさ、と続ける。
「ソレが出来るんでしたら、拾う前に処分してますヨ」
ほんっとバカですよねえ、とでも言う口調になったロイが続けていた。
「なんでいまさら捨てられる人間にボスが金をかけると思ってるんです?」
言葉に、ゆっくりとルーシャンがロイに視線をあわせた。
「さぁ……気紛れだろ」
そして、またピローに頭を預け直していた。
「まあそれもありますけどねー」
告げながらルーシャンの顎を掴み無理やり開かせながら液状の薬を流し込み、飲ませ。
「でもそれだけじゃないでしょうに」
そう告げるとブランケットを肩まで引き上げ直していた。

「では少しオヤスミナサイ」
「タバコ、」
出て行こうとした背中にルーシャンが声を掛けた。
「ダメに決まってるでしょうに。なに言ってンだか、お猫サマも!」
――――――も?と一瞬ルーシャンが眉根を寄せたけれども。きゅ、と目を細めたロイが言葉を告いでいた。
「あとでレモネードお持ちします、ホットで!」
「いらない」
ドア口にいるロイに向かって言えば。
「じゃあジンジャー・ティー!」
「いらないってば」
「ホットチョコレート!!」
「吐く」
「ちぃっ。じゃあぬるま湯だな!」
眼を瞑り、イラナイってば、とルーシャンが答えていた。そしてそのひどく悔しそうな口調が可笑しかった。
「でも一応持ってきておいておきます。それなら文句はねえな?!」
「おおありだよ、ばぁかー」
 とわざと荒げたとわかる口調に答え、眼を瞑ったまま眠りに落ちた振りをした。
そして、宣言通りに湯冷ましを置きにきたロイが退室したのを眼を瞑ったままで感じ取り、気配が遠ざかるとベッドから抜け出しソファに身体を預けていた。
ただの熱でここまで世話されるとはね、と口許を引き歪める。
ほんとうに、バカな自分にも呆れ果て。意味など見出そうとするから、こんなことになるんだ、と自分を哂った。
元より、そんなモノあるはずが無いのに。あればいい、と自分が勝手に望むからありえないことだと解っている部分が反乱を起こすんだ、ばかみたいだ。
ふ、と。この屋敷の主が言い棄てた言葉が記憶に戻った。そして、小さくルーシャンがわらった。
「そうだよな……こんな“バカ”だから愛想つかされたんだ、ほんとうだ」
ジョーンのことで泣いていた自分に向かって言われた言葉が蘇り、ルーシャンが目元を手で押さえ込んだ。
自分のしたこともわからないで、最低だ。
手の施しようがないバカでも、担保でいる間には価値があるなら。
「……愚図ってたら、その価値まで無くなる、ってナ」
あぁ、ほんとうにバカみたいだ、こんなことはもうほんとうにいやだ、と目をきつく一瞬瞑り。短く息を吐いた。

不意にロイの声が落ちてきたのに慌てて目を上げれば。
「アンタをずっと見張ってるしかないんですかぁ、オレ」
憮然とした表情にぶつかった。
「あそこは嫌なんだよ」
「でもソファはダメです」
「じゃ床で寝てる」
「身体をきちんと横たえて休ませないとだめです。そして床は冷えますからダメです」
「じゃあ。でかい方のソファに行く」
熱でどこかぼうっとした口調でもはっきりと言い募る。
「しょうがないですねえ」
溜息を吐きながら、抱き上げるようにされ。するりと別のソファに降ろされながらルーシャンがぽそりと呟いた。おせっかいだね、ご苦労様、と。
「それが仕事ですからね。ほら、きちんと布団はかけて寝るんですよ?」
しなくていいよ、とだけ答え。ルーシャンがソファに身体を丸めるようにして横になる。
「そんなわけにはいきません。それはアナタの事情でなくてオレのですけどぉ」
ふぅん、と小さく答え。そして、ルーシャンが顔を動かさずに言った。
「おれを構えばあんたのポイントになるの、」
「なりませんよー。ただ一度ボスに任された仕事ですからね?オレはきちんと最後まで遂行したいです。こんなことすらまともに出来ない、なんて思われたくないですからネ」
あぁ、ウン。たしかに、“こんなこと”程度のことだね、おれは、と。意識の裏で小さく思い。
「うん、」
とルーシャンが小さく言葉にしていた。
「だいじょうぶだよ、ちゃんとあんたの大事なボスにはペイバックするさ、」
「じゃあきちんと眠ってとっとと治しちゃってくださいネ」
そうじゃなくたってゴハンも食べれなくて体力ガタ落ちなんですからね?と僅かに柔らかい口調で痛烈に告げられる。
「そうだね、タダて飼ってるのもバカバカしいだろ、」
「まあオレが飼ってるわけじゃないんでその辺りはなんともコメントできませんけどぉ」
苦笑めいた表情が上るのを眼の端で捉え、ルーシャンが小さくわらった。
「ハドソンに沈めてた方が簡単だったかもね」





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