*51*
タクシーから降りてきた自分に向かって、アパートメントのドアマンが何か必死に、慌てたように言い募ってくる声が遠かった、声が聞こえたと思った、あれも幻聴だったのかけれど定かではなく、振り向くこともせずロビーをまっすぐに進んでいきエレヴェータに乗り込むとルーシャンは部屋のある階のボタンを押した。
上り始める、蔦模様に組まれたエレヴェータの鉄枠をぼんやりと見遣る。
―――――――なんで、おれはここにいるんだろう……?
視界の向こう側に透明なスクリーンがかかったような気がする、そこに光の文字が点滅する、しあわせな結末、と。
ティン、と金属のベルが鳴った。
重たい音をたてて、エレヴェータの扉が開いた。
開いた先がぐずぐずと崩れていくような幻覚をみたのはエクアドルでだったっけ……?テキラーにメスカリンを混ぜたカクテルを浴びるように飲んで。
あのときは、まっさおな空から天使がくるくると螺旋を描いて真逆さまに墜落してきた、自分の隣に。『アハハ、見ろよ。天使がぺったんこだ……!』一緒に居た友人の誰かの肩を思い切り揺すり、笑って―――『あぁ、死んじまいそうだ、』そう呟いた。
自室の扉の前で、オートマチックに手がコートのポケットを探った。そして……ちゃり、と鍵が指先にあたる。
鍵を引き出し、それをしばらく見詰めた。
あのとき着ていたモノはとっくに処分されたのだろうけれど、ポケットのなかのものはご丁寧に全て戻されているようだった。
金属製のトレイに入って返されたときのことを、ふと思い返した。収監されていた施設から出所したときのことを。あのときも、感情はフラットだった。寧ろ静かに怒りを溜め込んでいた、二年という時間のロスに。
頭のなかに溢れるように流れ込み、湧き出していたコトバは、自由の身になった空の下で干上がっていた。それはいまも変わらない。灰色の壁に吸い込まれていったのか、それとも浪費してしまったのか、それもわからない。
鍵を差し込み、ゆっくりとノブを回しかけ、そうする間にも部屋の中から電話のベルが聞こえ続けていた。
耳鳴りかと思うのも一瞬で、ドアが薄く開く間にそれがけたたましく空気を震わせていた。
冷え切った空気が流れ出す、締め切られていた室内から。
ホールで、へたりこみそうになる。
脚が前に進まず、その場で崩れ落ちそうになるのを辛うじてホールの小テーブルに手を着き。ぐるりとホールを見回す、六角形の真ん中で。
右手のドアは開け放たれたままだった、白いタイルが霞んで見える。マンハッタンの景色を長方形に切り抜くバスの窓も。
ゆっくりと正面のドアに向かった、電話の鳴り続けるリビングへと。
ジャックからコードを引き抜こうとやっと鳴り止んだそれを持ち上げ、ルーシャンが頭を横に振った。それは得策じゃない。なぜなら―――
誰にも会いたくなかった。
何も話したくなかった。
ヒトの存在に耐えられると思わなかった。
バカで優しいロクデナシの友人ども。感情を押し込めてそれでも傷つき涙を懸命に堪えていた親友の顔も浮かび、ダメだな、と自覚した。
あの連中は、いまでも「愛する」「ルーシャン」を探しているんだろう、バカじゃないのか。
電話が不通にでもなれば、どこにいようとすぐにでもこの場所に駆けつけるに違いない、ほんとうにバカだ。
キッチンまで電話をコードを伸ばしながら持ち込み、冷蔵庫を開けた。手にした電話がまた鳴り始めた。それを暫くの間、見下ろす。
じりりりりん、と。耳障りなベルの音が断続的に続く。死に掛けてる息みたいだ、まるで。
鳴り続けるそれを棚に押し込み、ゆっくりと冷蔵庫の扉を閉める、黒い電話を見詰め続けながら。
扉から、尾が生えたようにコードがだらりと垂れ下がり。電話のベルが殆ど聞こえないことにルーシャンが小さく息を零していた。
息が白い。
秋から冬へ季節の移る時期に、無人であった部屋は冷え切っていた。
リビングにそのまま戻り、ソファにコートも脱がずにそのまま身体を預ける。
膝を引き寄せ、顔を埋め。腕で頭を抱え込むようにし。
なにもかんがえたくない、とルーシャンが呻いた。
瞼の裏と、眼の奥が急に熱くなり。
きつく拳を握りこんだ。
身体が震えるのは寒さの所為なのか、それとも――――――
胸奥から、喉にまで鉄の塊りが熱せられて押し当てられたかと思うほどに嗚咽が競りあがりかけ、それを必死になって押し止めようとし。
けれど、押し殺した嗚咽が音に成り切れないままに唇を押し開いて漏れ出てき。
再び味わうことになった喪失感に、ルーシャンが震えた。もう自分の内から抉れるものは何もないと思っていたのに、と。
現実感が、戻ってきたのだ、という事実が明確になっていくにつれて、それと距離を置くように透明の壁がどんどん厚みを増していく。
失くしてしまった、という事実は重力を持って押し潰してくるようで、ルーシャンが細く嗚咽を漏らした。
う、と嗚咽を零し、息苦しさから喉モトに手を掛け、どこまでも柔らかなカシミアの手触りにそれを引き毟る。
長く、ストールが床へと落ちて行き。
ほた、と零れた涙がコートの波打つように乱れ引き上げられた裾部分に落ち、吸い込まれていき。
「―――――な、んで…っ」
短くルーシャンが呻くように言葉にした。なんで、こんなに哀しいんだろう、と。
なにを、自分はまた失くしてしまったんだろう、どうして……
唇を咬み、天井を一瞬仰ぎ見る。
天使がいるなら降りてきて、首を絞めて欲しい。息が出来ないほど苦しい。
ぼろ、とまた涙が零れ落ちるのを自覚しけれども拭うことさえ出来ずにいた。
抱き締めて欲しい、と切望した。
そして、そのことに酷く絶望し。
ルーシャンが顔を両手で覆い、また肩を震わせ。
唇に上らせたいコトバはただヒトツであるのに、それさえも知らない自身に、また切れるほどきつく唇を噛み締めていた。
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