*50*
病院を満たすクレゾールだかエタノールだかの匂いが、パトリックは嫌いだった。
死に損なった時のことを思い出す、ナイフ傷に銃創。意識を出来るだけ止めたままでいたかったから、麻酔ナシで手術をしたことと併せて。
『麻酔をするのはねえ、痛みのショックで死ぬこともあるからだよっ!!!』
後からそれを聞いたドクタ・アンソニーが、顔を真っ赤にして怒っていた。
『っていうか、死に損なったとか言うもんじゃないっ!!!』
『いやあな、ドクタ。オレが生きてて嬉しいっていうニンゲンより、ち、まだ死んでいなかったか、って思ってるニンゲンのほうが多いって』
笑って言ったら、ドクタに泣きながら殴られかかった。ロイにドクタが抑え込まれていなけりゃ、本当に死んでいたかもしれない。
『いてえよ、トーニ、』
『痛くてよかったね!!生きててよかったね、このバカっ子!!』
わんわんと泣くドクタに、ロイと二人で苦笑したのは、そんなに昔のことではなかったはずだ――――――疼いた古傷を掌で無意識に掌で抑えた。
ルーシャンも、触れた傷。
ガラス越しに上下する心電図のラインが、かすかに聞こえるピィン、ピィン、という音を必要以上に大きくパトリックの耳に響かせる。
朝、階段の踊り場で聞いた振り子時計のチクタクという音が、まだ耳にこびり付いて離れない。
ふわ、と鼻にシャネルの5番に匂いが香った。カツン、というヒールの音に、けれど視線はずらさずにいる。
「パパはまだ死んでないわ、ミスタ・パトリック」
耳に甘い、オンナにしては低い声が歌うように言った。
「そんなにパパを見詰めて面白いかしら?パパをそんなに慕っていたようでもなかったけど」
カツン、とヒールの音が止まって、隣に立ったオンナを振り返った。
オレンジがかった見事なブロンドに、エメラルド・グリーン・アイズ。
アルヴィーゼ・ジリアーニの実の娘の、フィリシア・クリスチャンセン。
そのドールめいた美しい顔には、実父をもう直ぐ失いそうにしている娘に相応しい悲しみは浮かんでいなかった。
「死ぬなら、このように死にかけの姿を他人に曝したくはないものだな、と思っていたところです」
意識もないまま、他人の訪問を受けるなど、死んでもゴメンだとパトリックは思う。
に、とオンナが真っ赤な唇を吊り上げて笑った。
「野良犬と同じね、ミスタ」
「ヒトデナシなもので」
軽く会釈をすれば、くすくすとフィリシアが笑った。
「素敵ね。私もこんな無様な姿は曝したくないわ。老いぼれて愛人宅で冥府を渡りかけるなんて、冗談もいいところ」
ひら、と。深紅に染められた長い爪が、空を薙いだ。
「気が合いますね」
パトリックが目を細めれば、ちらりとフィリシアが父親を見遣った。
「夫とはもう話されたのかしら、ミスタ?」
「ええ。朝方にお会いしました」
「そう――――――ツマンナイ男だったでしょ」
ふわ、と微笑んだフィリシアに、実直でよろしいのでは?と静かに返す。
「現状維持が大事だってみんな言うわ――――――――そんなの、クソクラエよ」
くう、と細まったエメラルドに、パトリックは笑った。
「貴女がジリアーニ・ファミリを解体してくださるのなら、オレが跡を浚いますが?」
ふふ、とファミリィの娘が笑った。
「欲しければ力ずくで奪うのが鉄則よ」
予定調和なんて、犬も喰わない。そう囁いたオンナに、パトリックはさらに口端を吊り上げた。
「無駄を省きたいのは、マフィアも企業も一緒ですよ、ミズ」
ひら、とフィリシアが長いブロンドの髪を肩から跳ね除けた。
「そういえばビジネスマンだったわね、ミスタ・パトリック。ウチのテリトリィには魅力が残っているのかしら?」
「もちろん」
疑いを伝えてエメラルド・アイズが細まったのに、パトリックが言葉を継いだ。
「野良犬どもが漁って散らかしたら、後片付けが面倒ですからね」
「全部を撃ち殺して独り占めする用意があるクセにね」
くす、と笑ったフィリシアに、パトリックは喉奥で笑った。
「出来うる限り、手持ちを大きくするのがオレの使命なんですよ、ミズ。無駄遣いは好みません」
「そうらしいわね、ミスタ?随分とあちこちで、逆恨みしている野良犬たちが吠えているのを耳にしているわ―――――楽には生きられないわね?」
真っ直ぐにファミリィのオンナを見詰めた。
「楽に死ぬつもりは毛頭ありませんので。あまりに煩いようでしたら、野良犬どもを駆除して回りますが」
ふふふ、とフィリシアがおかしそうに笑った。
「アナタってほんと、素敵」
「お褒めに預かりまして」
ぺこ、と頭を下げたパトリックに、またフィリシアが笑った。
「残念だわ。ミスタってば、ちっとも興味を持ってくださらない」
「ミズ・フィリシアの興味の先も、色恋とは違っていますね」
あら、とフィリシアが笑顔のまま言った。
「とてもアナタ、タイプですわよ、ミスタ?」
きら、と。呪われたダイヤのように強い煌きを放ったグリーンアイズを見返して、パトリックが笑みを返した。
「貴女は、遊びで手を出すにはリスクが多すぎる」
「本気なら?」
「ご冗談を」
間髪入れずに返したことに、くすくすとまたフィリシアが笑った。
「アナタが本気で恋をなさったらどうなるのかしらね、ミスタ?」
「さあ?」
「そうね。大事過ぎて、手元に置くことを怖がって―――――棄てるかしらね?」
それとも、とフィリシアが笑う。
「檻に閉じ込めて、世界から隠してしまうかしら?」
くう、とパトリックが笑った。
「貴女がアントニオとご結婚なさったのは、彼がどうでもいいからですか?」
ふわ、とフィリシアが笑った。
「大事よ、ファミリィにとってはね」
ピィン、ピィン、という音が、ふと落ちた沈黙の間を縫う。
フィリシアが父親を見遣ってから、こつん、と爪先でガラスを弾いた。
「愛したなら喰い殺すこともできてよ、ミスタ」
「喰い殺されることが貴女の望みですか、フィリシア?」
そう静かに告げたパトリックに、オンナがふわりと振り返って微笑んだ。
「血に塗れて生まれてきたんだもの、死ぬときもそうでないと、ね」
キン、と凍えそうに冷えて甘い声に、パトリックが微笑んだ。
「お相手は見つかりそうですか?」
「どうかしら。アナタが第一候補でしたけれど」
にっこり、と艶やかに笑ったフィリシアに、パトリックは目を細めた。
「ご期待に副えませんで」
「そうね。どうやらこの間まで空いてた場所は埋められてしまったみたいだし」
こつん、と長い深紅の爪で心臓の上を突付かれて、パトリックが笑った。
「そうですか?」
「ええ。アナタが棄てたのか、閉じ込めたのか、悩むところだけれど」
にっこり、とフィリシアが笑って、ひらりと手を振った。
「誰かの後釜に座るのも、御免ですの、私。では、ごきげんよう」
お葬式にいらっしゃるようでしたら、その時にでも。そう告げたフィリシアが、かつりかつりとヒールの音を立てて病室の中に入っていった。
長いブロンドが、ドアの向こうに消えていくのを見詰めてから、寝たきりのドン・アルヴィーゼに小さく会釈し、踵を返した。
ホールの先で、ジリアーニ・ファミリィの重鎮たちの直属の部下どもが居並ぶ中、彼らを牽制するように立っていたロイが、す、と視線を上げてきた。
「ボス」
「帰るぞ、ロイ」
足の歩みを止めることなくエレヴェータ・ホールに向かえば、ロイが直ぐに一歩後ろにつけた。
「マダム・フィリシアがいらっしゃっておりましたが」
「挨拶だけした」
あと、他愛無い会話を少々。そう言って笑ってから、エレヴェータ・ホールに立っていたジリアーニの一員がボタンを押したことに会釈した。
パトリックが先にエレヴェータに乗り込み、ロイがドアを防ぐ形でパトリックの前に立った。
そのまま無言でパーキングのフロアまで行き。運転手が直ぐに車を用意するのを待ってから、車に乗り込んだ。ロイがバックシートのドアを閉め、それからぐるりと助手席側に回り、車に収まっていた。
そして、屋敷に、と静かにロイが運転手に告げ、車が走り出した。
地下にあるパーキングから出て、陽光の下を車が走り出してから漸く、ロイが振り返った。
「ルーシャンさまはお言いつけの通りに、アップタウンの道路にお連れしました」
ロイの言葉に、タバコを胸ポケットに収めたケースから取り出しながら、パトリックが僅かに首を傾げた。
「自宅じゃなかったのか?」
「ルーシャンさまのご要望でしたので」
そうロイが言ったのに、そうか、と頷く。
「ちゃんとパトロールが2名、近くに居た事を確認してから降ろしました」
「はン」
小それでも真っ直ぐに見詰めてくるロイに、パトリックが言った。
「1ヶ月、茶番につき合わせて悪かったな」
目を細めて笑ったのに、ロイが真顔で言って返してきた。
「1ヶ月も在りませんでしたよ」
ふ、とパトリックが笑った。
「情が移り過ぎると困るからな」
その言葉に、なにかを言いたそうにロイが口を動かし。けれど、結局何も言うことがないまま、前に向き直っていた。
ちら、とミラー越しにロイの顔を眺めてから、パトリックは視線を窓の外に投げ遣った。
マンハッタンの高層ビルが冬直前の秋の陽光に照らされているのを見て、不意にそれが眩しいと思った、少しだけ。
「屋敷に戻ったら、今日はもう休む。業務は全部明日からだ、ロイ」
そう静かに告げて、タバコを口に含んだ。
イエス、ボス。そうロイが告げてきた声も、するりと沈黙に消えていった。
チクタク、と耳の奥で鳴っていた秒針の音は、けれどもう聞こえてこなかった。
変わりに、先ほど問いかけられた言葉が頭にエコーしていた。
『アナタが本気で恋をなさったらどうなるのかしらね、ミスタ?』
きゅ、と掌を軽く握り締めた――――――頭の中に一瞬浮かんだ、ルーシャンの泣き出しそうな顔が。昨夜腕の中で見せていた表情。
軽くタバコのフィルタに歯を立てた。
アリエナイ、と言い捨てて、目を閉じた。
もう、終わったことだ、と頭の中で言い足し。けれど暫くの間、ルーシャンのイメージが頭の中から消えることはなかった。
静かに涙を頬に伝わせるルーシャンの絵が。
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