*49*
「降ろしてくれ、」
酷く掠れて抑揚を欠いた声が、路面の荒れを僅かに拾い上げしなやかに走る獣めいたエンジン音に紛れそうになりながら、車内に辛うじて聞こえた。
もういいから、と。
寒さに震えるわけでもなく、嗚咽に途切れるわけでもなく、ただ精彩を欠いているようなソレが続けていた。
車窓からみえる光景は、冬の気配を濃くしており。それは空気の色であるとか、光の具合やどこか慌しく行き来する歩行者のいでたちや表情からも読み取れた。
けれども、視線を窓外へずっと投げていたルーシャンの意識にはそれらは何も入りこめてはいないようだった。ぼんやりと見詰めたままでいても、見慣れた光景であるはずの鉄骨と大理石の美しい建造物が通りを告げてこない。それどころか、外界、自身がアタリマエのように泳いでいた世界がガラスを隔てたより遠く見えていた。
あたまのなかに、氷のブロックが積み上げられたみたいだ、とぼんやりと想起する。切り出した北極の氷、それを積み上げて真白の世界を透かし見るよりも遠い。
酷く自分はうろたえた、今朝目覚めてすぐに。
寝台に一人で眠っていたことに、コドモめいて当惑した。とろりと瞼を開いて、視界が焦点を結んでいく前に、ぼんやりとした金色の輪郭が見えてこないことに、ひやりと首裏に冷気が走った。半ば眠りにいたのに。
漠然とした不安に、息を潜めてゆっくりと意識を覚醒させていった。
寝室に自分のほかは誰もいないことにも気付いた。
そして、不意に理解した。自分に課せられていた時間が終わったことを。
あの瞬間から少しずつ、氷の塊りが頭の中で壁を築いていっていたに違いない。なぜなら、感情が他人のもののように遠かった、麻痺したように。泣くことも、悲しむことも、驚くことも、何も出来ずにいた。ロイから自分がもう自由になれるのだと聞かされても。
車窓に、鮮やかな黄やオレンジに色味を変えた木々が多く映るようになり、ひく、とルーシャンが膝の上で握りこんでいた拳を緩めた。
風に吹かれて梢が大きく揺れている、その音までは聞こえないけれども。街路に、掃き清めきれない落ち葉が積もっていた。
大降りの、葉。
それを踏みしめて跳ね飛ぶように歩く、赤いコートを着たこどもと手を繋いだ母親らしい姿が、しばらく窓を飾っていた。
ふ、とルーシャンが鈍く痛み続けるような頭で思った。あぁ、「ロイ」が自分の家を知っていても不思議じゃないのか、と。身上調査なんて、とっくにされているに違いないはずだった、と思い当たり、
「ここでいい、降りる」
そう短く告げた。
「そうですか?」
僅かにスピードの緩む車内で、ルーシャンが頷いた。
ありがとう、もう大丈夫、と。
まだ正午前である所為で、さほどトラフィックも多くはないなか、路肩へとクルマは停められ。エンジン音が途切れたことに、きくり、とまたルーシャンが僅かに肩を揺らした。
現実が、とん、と肩をノックしてくるのに。
一歩、クルマから踏み出せば繋がりは絶たれる。
息をヒトツ吐く間に、静かに車道へと下りていたロイがリアに回り、ルーシャンの座っていたサイドのドアを静かに開いていた。どうぞ、と平静ないつものロイの声が聞こえた。
すう、と外気が車内に混ざりこむ。冬を告げる、控えた冴えたソレ。
言われるままに、促されるままに歩道に立ち。一瞬、ルーシャンが世界を確かめるように視線を巡らせた。
ゆったりと、通り過ぎていく生活に窮してなど決していない人々と、瀟洒なアパートメントと、セントラルパークを吹き抜けてくる風と、そして―――――――
ドアの閉じられる重い音が響きルーシャンが視線を戻せば、トランクからモノグラムのプリントされたガーメントバッグと揃いの小ぶりなトラベルケースがロイに引きだされているところだった。
「それ……なに、」
傍に戻ってきたロイに問いかける。
「ルーシャンさまのために仕立てた服ですよ?」
く、と顎を引くようにすれば、しなやかなストールにそのまま埋もれそうになる、甘い白をしたソレを、屋敷を出る前にロイから首元に掛けられたことも思い出した。見慣れない、白のロングコートを羽織らされて瞬きをしていた間に。
『お送ります、』そう、真新しい服を一式もって客室にやってきたロイの言葉に、意味がわからずにいたことはあまりに鮮やかに自身の中に残っており。いま、同じようにどこか当惑したロイが返してきた言葉に、ルーシャンもまた頭を横に振った。
「―――――――いらない」
きゅ、と降ろした拳を握りこむ。
「やあでもこれ全部、アナタにフィットするようにカスタムメイドなんですけどぉ?」
僅かに眉根を寄せてロイが告げてくるのに、ルーシャンがそうっと視線をあわせた。小さく息を吸い込み、強張りかすれそうになる声を辛うじて絞り出す。
「おねがいだから……いらない、」
マティスの絵画にしても、後から送らせるとまだ「客室」にいるときに言われたときも、ルーシャンは首を横に振って、頑なにその申し出を断った。
ルーシャンの足元に置こうとしていたラゲッジを、その言葉にロイが引き上げ、「しょーがないですねえ」と溜息に混ぜて告げるとまたトランクへと戻していた。
その様子に、ルーシャンが小さく頷く。ロイの表情が視界から閉ざされる前に、苦笑を浮かべていたことを捕えて。
ほんとうなら、いま身に着けているものすべてだって、「いらない」のに。
トランクの閉まる音に、瞬きする。
リア傍から、ロイが僅かに頭を挨拶程度に下げるのが見える。
「では、ごきげんよう」
その言葉に、く、っとルーシャンが嗚咽めいて笑いを零した、極微かに。
では、ごきげんよう……だってさ。なんてシンプルな精算の言葉だろう。
まるで―――、またいつかどこかで、とでも続きそうだ。
妙なユーモアのセンス、といつだかロイの『雇用主』が彼を評した言葉を不意に思い出した。
エンジン音が再び響き、瞬きする間にも紺色の車体はトラフィックにするりと流れ込み、真っ直ぐな道をかなりの速度で遠ざかっていく。
その独特な曲線を立ちすくんだままルーシャンは目で追っていた。
何台か、そのすぐ後に別の車が混ざり、遠ざかり紛れ視界から消えていく。
その、刹那。
すう、と。世界から音が無くなった。
自分の周りに透明な円柱が空から落ちてきたみたいに。
なんで、と呟いた声は酷く遠くて、それが自分のものであるとはすぐには理解できずにいた。
なんで?と返答など寄越されるはずのない問いがぐるぐると渦巻く。
『―――――――This is who we are.(これが私たちなのよ)』
甘やかな声がエコーした、ジョーンの。
初めて腕のなかで抱き締め、愛し合えたと思えたときに、どこか涙で揺れるようだった眼差しでそれでもそう綴った唇と。
『大きな美しいお城に、あなたと私は一人きり』
俯いた自分の項を覆っていった金色の柔らかな波と。
気付けば、ルーシャンは膝を着いて道に蹲るようにしていた。視線は、どこもみてはいず、誰も捕えてはおらずに。
通り過ぎる人の誰もが一瞬足をとめ、腕を差し伸ばそうとし。けれどそのだれもが、僅かに触れるだけでもいまにもこの「まっしろなうつくしいもの」が均衡を崩すのではないかと躊躇い、声さえ掛けることが出来ずに戸惑い視線を交わしあうようだった。
ルーシャンは胸元のストールを握り締めるようにし、縋るように通り過ぎる車列を見詰め。
その瞳から、涙が一粒、盛り上がり零れ落ち。
痛みに引き千切れそうな嗚咽が極微かに漏らされる。
膝の上で握り締めた拳が震えるほど、必死になって声を押さえ込む。
一瞬、目をきつく閉ざし、唇を噛み締め。そして、不意に頭上から落とされた声にびくりと肩を揺らしていた。
「ヘイ、アンタ大丈夫か?立てるか?」
ゆっくりと静かな口調に、目を開ければ。差し伸ばされた手が視界に入る、革のグローブを着けたソレと、黒のジャンパー。目を上げた先、二の腕のあたりに紋章が刺繍されており。NY市警だ、と知れる。
答えの無いルーシャンに向かい、もう一度ゆっくりと言葉が続けられた。
「無理なら救急車を呼ぶがどうする?」
音が、少しずつ戻ってくる気がし、ルーシャンが瞬きした。その弾みにまた涙が頬を転がり落ちていく。
示されていた警察バッジが、す、と引かれていく。
警官、だ。
そうルーシャンが漸く理解し、頷こうとしたとき、視界にまた別の顔が加わり、それが笑顔を浮かべた。
「ずっとそこに座ってると寒いから、大丈夫なら立って向こうで座ろう、ね?」
最初に声をかけてきた警官に膝を着き蹲っていた姿勢から、立ち上がろうと僅かによろめいたルーシャンの腕を引き上げるとまっすぐに立たせていた。
「怪我はないか?」
助け起こした相手の目を覗き込むようにまっすぐ見詰め、最初の警官が問うのに、ルーシャンが首を僅かに横に振った。
珍しい外国車からイキナリ降りてき、取り残されいきなり蹲り不意に静かに泣き始めたなら、尋常では無いだろうと誰でも分かる。
それに……どう見ても、この『白い子』は贅を尽くされた姿形をしていたのだから。警官である自分たちが保護するのは当然の役割だろうと彼らは考えていた。
促され、道端の木製のベンチに座らされ、ルーシャンがまた首を横に小さく振った。
一人がもう一方の警官になにか言い、ラジャ、と返すともう一方はパーク傍にいつも出ているヴェンダーの方へ軽い足取りで向かっていた。
振り向き、警官がまたルーシャンに問いかけた。喋れるか、名前は言えるか、と。
視線をあわせるようにして問いかけてくるのに、ルーシャンが小さく頷いていた。
「…オフィサー、だいじょうぶです、」
そう掠れて切れかける声で告げる。
そう、おれは、だいじょうぶなんだから、そう心うちでルーシャンが呟く。
不意に、手の中にペーパーカップが滑りこまされ、びくりとルーシャンが視線をあげれば、にか、と悪戯めいて煌いた真っ黒の瞳とぶつかった。
「あったかいヨ」
雀斑の散った顔が妙に人懐こい笑みを浮かべていた。
「住所は?」
もう一人が穏やかな声で問いかけるのに、「ウェスト7thアヴァニュー、」そうルーシャンが答え、手の中の飲み物を戻そうとすれば、雀斑の警官の方からやんわりと押し戻された。「だぁめ。もってるだけでも温かいからさ」と。
ヒトツ頷き、動けないようであれば車で送るが、そう言ってきた警官に、雀斑のある方が「ザーック、」とどこかからかうように呼んでいた。
ザック、と呼ばれた警官は片眉を跳ね上げて返答にしていた。
ルーシャンが首を横に振った。ちかいから、自分で帰る、と。
けれど、あの部屋に戻りたくは無かった。
ほんとうに、どこにも向かいたくはなかった。
「気分が悪いようだったら、病院に行った方がいい」
静かな声がまっすぐに告げてくるのに、首をまた横に振る。
「エイブ、」
ザックと呼ばれた警官がもう一人に車道を顎で示し、エイブと呼ばれた警官は酷く軽い足取りで歩道へ一歩踏み出していた。
「いまタクシーが来る、近くても歩いて帰らない方がいい」
「だいじょうぶ、」
「ヘイ、」
知らず、左手首をきつく押さえ込むようにしていたルーシャンに、はっきりとした口調でザックが告げていた。
「大丈夫なヤツは、道のど真ん中で泣けたりはしない」
その口調に、ルーシャンがまた唇を噛み締め。コートの生地を通してさえ、絡み合う白銀と金の蛇の形が分かるほどに掌を握りこむようにする。
「時には、警察官を信用してくれてもいい」
僅かに表情を和らげそう告げてくる警官に、ルーシャンは難しいことをいう、と辛うじて返し。立ち上がろうとしていた。
「ハイハーイ、ちょうどソップ捕まえたよー」
また、空の天辺から落ちてでもきたような明るい声が傍で響き。警官二人に支えられるようにタクシーの後部座席に押し込まれたルーシャンは一瞬、逡巡した。
運転手に告げるべき言葉が出てこなかった。
動くことを拒否し続ける頭は、マンハッタンのホテルの名前を悉く忘れ果てたように動かず。ザックが先に告げた住所を運転手に伝えると、車をだすよう、屋根を指で弾いていた。
運転手が控えめにミラー越しに視線を僅かにあわせ、ルーシャンに「その住所でいいか?どこか他へ行きたいなら車回すぞ…?」とそう確認してきながら、ごそごそと助手席へ腕を伸ばし。シート越しにクリネックスの箱を寄越すのに、ルーシャンが瞬きした。そして、気付く。
―――――――あぁ、おれ、もしかしてずっと泣きっぱなしなのか……?と。
クルマが静かに走り出していた。
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