*54*

 アロンソに呼ばせた医者は念のために一晩メキシコに留まるように言ってきたけれども、パトリックは笑って強張った顔をしていたロイと運転手を引き連れてニューヨークに戻ってきた。
 傷自体は縫う必要もないくらいに浅いものだった、だから医者が恐れたのは感染症の類だった。
 アロンソに死体を処理させる前に、医学の心得のある人間に死体を見せた上で血のサンプルを取って検査にかけるよう告げておいた。けれども、そうはしても結局そのサンプルの結果が出るのにはどんなに急がせても2週間かかることは解っていたし、死ぬ時は死ぬ、と腹を括っているパトリックだったから、応急処置さえされてしまえばメキシコに留まる理由などどこにもなかった。
 待たせておいたチャーター機の中で、少しだけ熱が出た。生体的なものだろう、とパトリックはロイに告げて解熱剤を用意させ、それだけで済ませた。ロイは始終固い顔をしたままだった。運転手のパウロはもっと。
「ベツにオマエらがヘマしたとは思ってねぇよ。あんな片田舎でケンカ売られるとは思ってもいないしな。団体で来るならとにかく、あんな咬ませ犬にな」
「ボス」
「シケた顔するなら、オレが死んでからにしてくれ」
 ごち、とロイの頭を小突いて、話題はそこで終えさせた。

 日付が変わる頃にニューヨークの屋敷に着いて、そのまま翌日は夜まで寝た。
 ウィンストンが一度覗きに来たが、寝たままでいたパトリックを敢えて起こそうとはせず、枕元に新しいピッチャーに入った水と解熱剤入りの痛み止めを置いていっただけに留まった。
 それを黙って飲み干して。パトリックは、ふ、とルーシャンのことを思い出した。
 具合が悪い間もずっと、ベッドに一人で居ることを拒否していたルーシャン。
 精根尽き果てるまでパトリックに抱かれ、身体は過ぎた快楽の名残に熱を持ち、食事も水も摂取できずに居て弱り果てていたのに、それでも這い出してベッドから逃れ、ソファかフロアに蹲っていたルーシャン。
 く、と笑ってパトリックはリネンの冷たいサイドに身体を転がし、また目を瞑った。
 いまなら、ルーシャンが考えていたことが、少しわかるような気がしていた―――――パトリックの気のせいかもしれないが。

 朝になり、ウィンストンがロイを伴ってやってきた。
 その頃にはパトリックはシャワーを終え、濡れた包帯を解いてシャツを着込んでおり。けれど肌蹴たままだったから、ウィンストンにじっくりと傷跡を検分された。
 パトリックはちらりと目線を上げて、冷めた目をしたままの執事を見上げた。
「かすり傷だろ、ウィンストン?」
「確かに縫うには浅すぎますが、だからといってシャワーで濡らしたらそのまま放置しておいてもいい、ということはありませんな。ロイ、消毒液と化膿止めの薬、あとはガーゼと包帯を」
「大げさだ」
 目を細めたパトリックに、執事が返す。
「そんなチャチな傷を化膿させて悪化させ、コロっと逝かれてはこちらも堪りませんからな」
 真顔で言ってきたウィンストンに、パトリックは苦笑した。
「ちぇ、遠慮無ェな」
「言わねばならぬことは、言わせてもらいますよ、旦那様」
 パトリックが苦笑したことに、それを許可だと読み取ったロイが慌てて救急箱を取りに出て行っていた。
 それには気を留めずにパトリックが乱したリネンを剥がしていたウィンストンが、それをフロアに置いてからパトリックに向き直った。

「パトリック様には一通り技を教えてあった筈ですが、どうしました?」
「ぼーっとしてたんだよ。外に払うべき腕を、逆に引いちまった」
 動作をしてみせたパトリックに、ウィンストンが片眉を跳ね上げた。
「少々鈍っているようですな。適当にお時間をお作り頂いて、特訓いたしましょうか」
 ハハ、とパトリックが笑った。
「ウィンストン、目が怖ェよ」
「大事な主人を失くすわけにはいきませんからな。この老いぼれでよければ、特訓の相手をいたしましょう」
「こんな怖ぇ老いぼれ、そんじょそこらに居て堪るか。本業辞めてからもちっとも老いぼれていないクセに」
 きら、と目を光らせたウィンストンに、パトリックは笑った。
「けど、そうだな――――――それもいいかもな」
「では、午後にはドクタ・アンソニーに一応往診に来ていただきましょう」
「ドクタ?いいって」
「よろしくありません」
「結局無事なんだから、泣かせることもないだろ?」
 言って、シマッタ、とパトリックは顔を斜めに背けた。ビシ、とウィンストンの力強い声が聞こえた。
「泣かせると解っておいて、そういう“うっかり”を為さるのですからね。たまには泣かれておきなさい」
 ドクタがお帰りになられたら特訓です、と言い残してウィンストンがリネンを抱えて部屋を出ていた。話の途中から戻っていたロイが、あちゃあ、という顔を作っていたのにパトリックは苦笑を浮かべた。

「よぉ、ロイ。オマエも一緒に特訓しとくか?」
 がさがさ、と薬や消毒液を用意しながら、うへえ、とロイが顔を顰めた。
「ご一緒には遠慮しておきます。絶対オレ、殺されますから」
「んーん?死にゃしねえだろ」
「ウィンストンさん、遠慮ないですからねえ……」
 ぼそ、と呟いたロイが、それに、と言葉を継いでいた。
「先に調べ物がありますからね。ひとまずオレはそっちを優先しておきますよ」
「あ、逃げやがった」
 笑ったパトリックに、きゅ、とロイが目を瞑って言って返した。
「ボスはみっちりウィンストンさんに絞ってもらってくださいよ。その間にオレは狩りの仕度をしておきますから」
 その一言に頭を戻して、ロイが傷の手当てをしてくれている間に、遣らなければいけないことを考え始めた。
 アロンソからはそろそろ刺客の身元などの情報が流されてくる頃だったし、それに付随して随分としなければならない事が増えていた。
 もちろんメアロンソの屋敷で行った会合の結果に合わせて、修正しなければいけない事柄などもある。
 それらを全て思い出して、頭の中で一つずつの優先順位を確認していった。
 自分が遣らなければならないこと、部下に通達しておくだけで済むもの、ロイに伝えておかなければならないことなどを考え出し、必要に応じてロイに指示を出しておく。
 そうして着替えて書斎に行けば、必要な書類などはデスクに山積みになっていて。パトリックは朝食を取りながら、仕事に没頭していった。

 書類にサインをしたり、電話をかけたり応答したりしている間にランチタイムも過ぎ。書類の山が半分近くになった所で、ウィンストンが顔を覗かせた。
「ドクタ・アンソニーがまもなくいらっしゃいます。ロイさんがお出迎えに行きました」
「わかった。水分放出予定のドクタに、補給の用意をしておいてやってくれ」
「畏まりました」
 ウィンストンが音もほとんど立てずにドアを閉めていってから一分後。ばったーん、とドアを勢い良く開けられて、パトリックは片眉を跳ね上げながらサインしていた書類から目を上げた。
「パートリックー!!!!」
 顔を見上げれば、両目からダバダバと涙を流した小柄なドクタ・アンソニーが。うぇえええ、と言いながら駆け寄ってきた。その斜め後ろではロイがドクタの鞄を持ったまま、顔に手を当てて俯いていた。
 さら、とサインをしてからペンをペンスタンドに戻し。パトリックは目を細めて童顔なドクタを見遣った。
「掠り傷だったからいいだろぉ?」
「そういう問題じゃなぁいいいいいっ」
 嗚咽と絶叫の間の子のような声でドクタが叫び、ぐい、とパトリックのシャツの胸元を掴んでいた。
「脱げ、脱いで見せやがれっ」

 意外と怪力なドクタが、びし、びし、とシャツのボタンが飛ぶのにも構わずにパトリックの胸元を肌蹴させていく。
「ドクタ、そんなにオレの裸がみたいのか?全部脱いでやろうか?けどそんなに泣いてたら見えないだろうが」
 パトリックがからかって言えば、うぇえええええん、と泣きながらドクタが目を吊り上げた。
「ボクが見たいのは傷口!!!」
「はは、冗談だ。つうかな?そんなに必死にオレを剥かなくても、ってドクタ、アンタどっから鋏出してるんだよ?」
 着っぱなしでトレードマークにもなっている白衣の胸ポケットから医療用のステンレス鋏を取り出したドクタに苦笑する。
「なんだよ、文句あるのかよう」
 泣きっ面でも口を尖らせたドクタに、パトリックはにっこり笑う。
「アンタでなけりゃ、出来ない芸当だなあ、って思って」
 ロイが朝方に巻いた包帯を遠慮なく切って、ドクタ・アンソニーの小さな手によってぐるぐると包帯が外されていく。それから真剣にパトリックの胸元に顔を突っ込みそうな勢いで傷口を検分していくドクタの後ろにずっと黙って控えていたロイと目が合い、パトリックは薄く笑った。

 はあ、とドクタが溜息を吐いていた。
「……パトリック」
「アイ、ドクタ?」
 笑ってドクタを見下ろせば、たすたす、と小さな掌に頭を撫でられる。
「後悔、してるんじゃないの…?」
 静かな声が真摯なトーンで告げてくるのに、目を僅かに瞠る。
 ドクタの後ろでは、ロイが豆鉄砲を食らった鳩のように、ムンクの「叫び」みたいな格好で固まっていた。
「死ななかったことをか?」
「ばっか!違うよ!」
 からかったパトリックに真剣にドクタは怒りを爆発させ、むんず、とパトリックのウェストをその小さな掌で掴んだ。
「こーんなに細くなって!!まさか自覚ないとは言わせないよ?!」
「昨日はほとんどメシ食えな」
「一日でそんなに変化があるわけがないでしょ!この傷の具合だったら、熱があっても微熱程度で具合が悪かっただけだろうし!!」

 小さい身体にどこにこんなエネルギィを溜め込んでいるのだろう、とパトリックが毎度関心するぐらいに率直に感情を表し、ぶつけてくるドクタが、ぐいん、とロイを振り返っていた。
「ロイ!」
「イエス、ドクタ」
 ドクタ・アンソニーの剣幕に、びしい、とロイの背筋が伸びる。
「ロイはそれでいいの?」
「ええと、なにがですか?」
 とことこ、とドクタがロイの元まで歩いていって、びし、とその足を蹴り上げた。いてええ!とロイが片足で跳ね上がる。
「このクソどっちもどっち主従関係がっ!!」
「ヘイ、トーニ。落ち着け」
「そうやって!パトリックは!いっつも“なんでもない”顔をするっ!!」
 びしい、と人差し指の先端を向けられ、パトリックは両手を上げた。
「なんでもない事だろう?」
「どこがっ」
 だし、とドクタが足を踏み鳴らす。
「寂しいなら寂しいって言えばいいじゃないか、バカマフィアっ!!」
 よろ、とよろめきながら、ロイが背後からドクタを抱え込んだ。
「ドクタ・アンソニー、それくらいで」
「ロイ、誰だって悲しいときは悲しいんだよ?マフィアだからって例外はないじゃないかっ」
 ぎらぎらと、また涙目で睨み上げられて、ロイが顔を顰める。
「好きな子に出て行かれたら、誰だって悲しいに決まってるじゃないかっ」

 ドクタ・アンソニーの声が部屋から消え。ふぅふぅ、という荒い息の音だけが響くようになってから、パトリックは真っ直ぐにドクタを見詰めた。
「悲しがってどうするんです、ドクタ?泣いて喚いて叫んで、それでどうするんです?」
 こく、とドクタが息を呑んだ。パトリックは静かに言葉にする。
「それにね、ドクタ。オレはアレを放り出したんです」
「――――――っ」
 ぐう、とドクタが歯を噛み締めた。ロイが、黙ってドクタを背後から押さえ込み続ける。
「だから、オレに悲しむ権利だとかそういうモノはないんです」
 パトリックがロイにドクタを放すように顎をしゃくる。ひくう、とドクタが嗚咽を零した。
「―――――――ううううー」
 俯いて泣き出したドクタの頭をぽすぽすっと撫でて、パトリックは笑った。
「トーニ。嫌ならオレに関わるな。オレたちは、そういうモノなんだ」
 オレたちはマフィアなんだ、トーニ。そう静かに告げれば、ぐす、とドクタが洟を啜り上げた。
「パトリックも、ロイも、いい子なのにぃ…っ」
「トーニ。オレたちは選んで、今ここにいるんだ。その意味が解るよな?」
 こくん、とドクタが頷いた。
「ボクも、選んで、ここにいる…っ」
「だったら泣いてないで、診察してくれ。いくらこの部屋の暖炉に火が入ってるからって、このままだとオレは風邪を引く」

 ぐい、と白衣の袖で涙を拭いてから、ドクタが顔を上げた。
 ロイはもちろんのこと、パトリックより年上の童顔のドクタが、ロイが床に置いていた診察鞄の中から消毒液や包帯などを取り出しながら、静かにパトリックに訊いた。
「じゃあ、あの子はどうしてるの…?」
「さあ?」
 パトリックは薄く笑って返した。
「出してやったら、アレはもうオレたちとは関わらなくていいものだ」
「だって、」
「トーニ。アレがここに居たことを知る人間は、特定できる数人だけだ。だからそっと出してやっちまえば、アレがオレたちの世界に巻き込まれていくチャンスはゼロに近いんだ」
 静かに告げたパトリックに、ドクタがまた目を潤ませ。けれど黙ってピンセットで挟んだコットンに消毒液を染み込ませていた。
「あの子は、本当にパトリックが好きだったのに。切り離しちゃったの…?」
 小さな子供が、悲しい絵本の結末を問い質しているかのようなか細いトーンに、パトリックは笑って静かに頷いた。
「オレがアレにカヴァをつけたりしたら、バレるだろ?」
 周りの敵全てに、アレがパトリックにとって意味があるものだということを、と言い切らずに言外で告げたパトリックに対して、ドクタは困った風に笑い。けれど遠慮ナシに消毒液がたっぷりと染みたコットンを傷口に沿わせていった。
「ッ」
「……因果だねぇ」
 ぼそ、と泣き笑いでドクタが呟き、パトリックは消毒液が染み込む痛みに顔を一瞬歪めた。

「ドクタ、アンタ、もしかしてオレの泣き顔とかが見たいとか?」
「泣き…?ああ、ゴメン。遠慮なくびっちゃりコットン押し付けちゃった」
 慌てて手を動かし、最後まで消毒を済ませたドクタが、化膿止めの薬を新しいコットンに染み込ませ、傷口に塗りこんでいく。
「ちっちゃい頃からずっと見てるけど、ほんとキミたちって泣かないよねぇ」
 ロイ、キミもね、と。傷口から手と目線を放してロイを見遣って、ドクタが言った。ロイが薄く笑って返した。
「物心着いたころから、マフィアですからね」
「マフィアだって、ニンゲンなのに」
 ぼそ、と呟いたドクタの頭を、パトリックはぽすんと撫でた。
「トーニ。オレたちマフィアは“ヒトデナシ”だ」
 ちら、とドクタがロイを見上げ。ロイが肯定の頷きを返したのに、はあ、と深い溜息を吐いた。
「ボクには、キミたちがとても真っ当に思える時もあるよ。キミたちの、その潔いぐらいの決意だとか―――――だから、どんなにキミたちが、ボクの知らないところでとても“マフィア”なことをしていたとしても。ボクはずっとキミたちの味方でいる」
 ガーゼを傷口に当てて、慣れた手付きで包帯を巻いていきながら、ドクタが言った。
「ボクはキミたちの友達で、それでもって信頼して貰えている良い医者でいるためには全てを知らなくてもいいと思ってる。解っていることもあるけど、でも、ボクの決意は変わらないから」
 す、と小さな茶色の目が見上げてきて、パトリックに言った。
「白と黒だけの世界じゃない。灰色が“ボクたち”にとって金色だったとしても、それこそボクたちが選んだことであって、キミや世間の “正しい”ヒトタチが決めることじゃないんだ」
 小さなアルミのフックで包帯を止めたドクタが、ふにゃりと笑った。
「あの子も、きっと思ってたよ。そんな風にさ」

「ワガママだと解ってて遠ざけたんだ。オレのエゴだ」
 パトリックが笑って言ったのに、ドクタが小さな手を伸ばして、よしよし、とパトリックの頭を撫でた。
「いっぱい騒いでごめんね?傷も診せてくれてありがとう。もう服を着ていいよ」
 ハハ、と笑って、パトリックは肩を竦めた。
「服っていっても、このズタボロのことか?」
 肩に引っ掛けていた、ボタンの飛んだ白いシャツを引いて見せれば、あ、とドクタが固まっていた。
「うーわ、ごめん!ボク、怒ると見境無くて!!」
「知ってるよ、トーニ。怒ったらウィンストンより怖いのもな―――――ロイ、新しいシャツを持ってきてくれ」
 イエス、ボス。そう言ってロイが静かに部屋を出て行き。パトリックは、しゅん、となったドクタの頭をくしゃくしゃと撫でながら言った。
「トーニ。怒ったのはアレの代わりにか」
「……それも、半分」
「そっか」
 目を細めたパトリックに、ドクタ・アンソニーは深い溜息を吐いた。
「ちゃんと、好きだったんだね。ごめんね、パトリック」
「怒られて当然のことをしていると自覚しているから平気だ」
「それってちっとも偉くないよ。暗い夜道には気をつけてね」
 とても真剣なトーンで告げてきたドクタに、ぶふ、とパトリックは吹き出した。自分の吐いた言葉の奇妙な表現力に気づいたドクタが困った顔をしたのに、パトリックは笑いながら告げて返した。
「そうカンタンには殺されてはやらないさ。ウィンストンがこれから特訓だと言ってたからな――――――ああ、そうだ。こんなチャチな傷より余程すげえ傷を拵えるかもしんねえから、消毒液と傷薬とガーゼと包帯、適当に屋敷に持ってきておいてくれ。アンクル・アルバート、相当怒ってたからなぁ……もしオレが殺されるとしたら、不肖の弟子を持った師匠であるアイツにだな!」
 ハッハ、と笑うパトリックに、呆れた顔でドクタが溜息を吐いた。
「それって、ウィンストンさん流の慰め術?」
「そうだとしたらおっかねえよ。不甲斐無い弟子を叩き直したいだけだと、オレは思いたいけどな。んじゃ、ドクタ。よろしくな。出来るだけ早くストックを持ってきておいてくれ。多分今夜からは鎮痛剤ナシで眠れないと思うぜ、まったく」




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