*55*

 窓を押し上げ、冷え切った外気と一緒に通りを過ぎていく車列の音が上ってき、ルーシャンが視線をそのまま投げていた。建物の間から継ぎはぎめいて切れながら覗いた曇り空へと。
 雨は降りそうに無かった。音が嫌でラジオもテレビも消したままでいたので天候がこれからどうなるのかもわからなかった。新聞は、開かれもしないままドア脇に積みあがるままでいた。
 空気に、微かに雪の匂いが混ざっている気がした。そして窓を開けたままキッチンへと向かい。コーヒーを淹れる支度を始める。何も考えずに、習慣通りに身体が動いていくのに任せて唇にタバコを挟み込み、深く息を肺に落しこみながら。
 コーヒーとタバコ、そして果物を少しとデリの老夫婦がこれだけは持っていきなさいと譲らなかったサンドウィッチの具材にすぐなりそうなモノが冷蔵庫には入っていたけれども。それを取り出す気にはなれずにいた。
 あの小さな店で堰が切れたように泣き出したのは、あの老夫婦が誤解していた理由とは違っていた。
 近しい人、あの口ぶりからすれば多分肉親、それも母親、を亡くしたのだろうと察して言葉少なに、それでも酷く真摯に慰めようとしてくれていたことを思い出す。
 キッチンの空気にコーヒーの香りが漂い始め、温かい液体をカップに注ぐ。そして、灰をシンクにトン、と落としていた。

 両親は健在ではある、自分から切り離してしまったけれども。
 彼等にとって、自分は死んでしまった息子よりも遠い存在であるのかもしれなかったけれども、それが辛いとは思わなかった。身勝手な理屈ではあっても。
 あのとき、泣き出していた訳は。
 自分が何を願っているか、望んでいるか、思い知らされたからだった。
 そんなことがあるわけが無い、と無意識に押し込めて顧みずにいた感情に気付かされた。
 ほんとうにバカだ、と悔しさと情けなさとで息が詰まりそうになり、それでもただ一人だけを自分は欲していた。どうしようもない、と。
 訳がわからずにいた、気紛れに情を掛けられたかと思えば次の瞬間には立場も忘れそうになるほど柔らかに抱き留められて、誤解するなと自戒していたのも無駄になった。
 だから、セントラルパークの側でロイの車から降りたときは思考がとまったままだった。その状態はあの、いまでは場所さえも曖昧な屋敷に与えられた部屋にロイが現われ、そのまま促されるように玄関まで「歩いて」いき、静かに佇む執事の姿をぼんやりと見詰めたときも、ずっと。
 恋心を自覚した、その途端に何もかもが終わった。
 だから、あのデリでもう一度それに気付くまで自分の中で殺していたのだろうと。

 立場を忘れた愚かさも、届かないモノに手を伸ばそうとする愚行も、追いかけようとする愚挙も、諦めることに比べれば遥かにマシだと思うようになった、世界の「こちら側」に戻されて4日の間に。
「そもそも、おれにはまだ“プライド”が再生されてない」
 呟き、ルーシャンが唇に笑みを浮かべようとして出来ずにいた。それは泣き顔めいて歪んだものになる。
 疎まれて切り離された訳ではない、ということは本能で解った。あれだけ濃密に、ただ一人だけに向き合えばそれくらいはわかる、と自負からも矜持からでもなく、ただ素直にそう思えた。
 新しいタバコに火を着け、また窓辺にルーシャンがゆっくりと戻り。窓枠に凭れて、色づいた葉にトーンの混ざり合う木々の向こう側に拡がる景色に視線を向けた。いかにもマンハッタンらしい風景、ビルの屋根から蒸気が立ち上り、曇り空に混ざっていくそれ。

 生きている人間ならば、見つけることは出来る。
 その姿を見ることも―――あの傲慢な表情で、ただ見下ろされることになるだけかもしれなくても。
 部屋に蹲り、壁に向かって呪詛を吐くのは自分のスタイルじゃない。
 コーヒーを飲み干し、窓を引き下ろした。
 電話口で病気の犬だか獣めいて呻いた声が頭のなかでエコーした。新聞社に居た頃に何度か使った情報屋のソレ。
『あんた、生きてたのかよ……!』そう、ルーシャンからの連絡に心底驚いたことを隠し切れずにいた声も。そしてそれがウレシイ驚きであったことも。
 どうやら自分は本当に死んだと、ある程度の筋の連中には思われていたんだな、と知った。そのことを別に咎める気もしなかった。確かに、選択肢の一つにはソレもあったのだし、と。
 選ばずにいたのはプラスかマイナスかは他人の知ったことでもない。
 約束の時間間近になり、ルーシャンがタバコを押し消し。ホールへと向かっていた。

 伸し上がることよりは、犯罪と法の隙間を縫って口座に給っていくグリーンノートの幻でファックしてるんじゃないか、と踏んでいた情報屋のマックスはルーシャンの探している相手というのが『赤毛』と聞いたときに視線を抜け目なく一瞬左右に動かし、ファーストネームは『ロイ』だと告げた瞬間に即座に断ってきた。一切の情報を拒否する、と。
 その態度はあまりにもあからさまで、ルーシャンはむしろ呆れた。
『おれはもう記者じゃない、これはプライヴェートだ』
 そう言えば、ますます眉根を寄せて、断る、と言って来た。『フリーで書いてこいって上が言ったんだろう、』と疑ってかかった。
『マックス、おれはとっくに社は辞めてるンだよ。それに、“ロイ”がウォール街にいるとも思ってない』
『ストップ。あんたの目的も、理由も、聞きたく無い。ルーシャン、悪いことは言わない。“そっち”に首を突っ込むなよ?市長のスキャンダルだとかおエライさん方の不祥事ネタなら代りにいくらでもやるよ、あんたになら』
『“ロイ”は、』
 そうもう一度問えば、急に押し黙り周囲に視線を投げるとおれには関わりがない、とだけ言い残し半ば逃げ出すように信号を無視してトラフィックの中を通りを走って渡りきっていた。

* * *

 マックスがあの有様で逃げ出したことから、幸先はあまり良くないだろうことは想像がついた。けれど、あれから5日以上経っても殆どなにも新しいことは得られずにいるとは予想していなかった。
 クリーニング屋から戻ってきたてなほどにクリーンなサイドに正面を向いているようなアップタウンのホテルのカクテルラウンジやバーに始まって、ブロードウェーの奥まった通りにあるグレイゾーンに向いているラウンジにしても、ダウンタウンの、肥ったネズミが排水口から覗くようなエリアにある場所まで出向き訊ねても、なにひとつ、現時点でルーシャンの知っていること以上のものは出てこなかった。
『赤毛の男を知ってるか?』ここでまず、大抵のニンゲンは瞬きを神経質そうにし始め。
『ロイ』、この短い単語で反応を示したニンゲンはそれ以上ルーシャンが言葉を告ぐのを押しとめようとした。どこの男だ?と続くはずのソレ。頼んでもいないのに纏わり着いてくるのは見当違いの「お誘い」ばかりでそのことにも静かに苛立った。「断り方」は以前にも増して苛烈に怜悧ではあったけれども。
 ロイ個人を探しているわけではないことはもう伝わってでもいるのか誰一人、口を開こうとしなかった。
 異様な事態だ、とルーシャンが思っていた。これだけ徹底して『緘口令』を引きやがって、どこの独裁者だよ、と。
 ぶるぶる、と黙って口を引き結びただ首を横に振り続けたダウンタウンの『小屋』の店主を見詰めながら、ルーシャンが僅かに奥歯を噛み締めるようにした。
 おれが探しているのは、ソレのボスの方なんだよと言えば、こいつらは一体どうするのだろう、天国でも拝んで祈り出すのだろうか、と。ただ、最後の日に教えてくれた「こども時代の呼び名」で問いただす気にはなれなかった、あの男がその名前で血の繋がった家族のほかのだれからも呼ばれたことはなかったのだろうし、それが通り名になっているとも思えなかった。そして……この期に及んでまで、ただの感傷であるのかもしれなかったけれど、唯一、その呼び方だけが個人的に残すことを許された繋がりでさえある気がしていたから、自分とパトリックのほかのだれにも、そのことを広めたいとはルーシャンは思わなかった。

 『裏』に繋がっているラインから情報の断片さえ手に入れることは難しそうだった。だからといってあっさりと引き下がれるはずもなく、また諦める気もないルーシャンであったから、もう一度正規のルートを辿ることにした。取材の基礎だ、と思い至り苦く内心で笑いながら。
 マンハッタンの画廊でマティスを扱える店は限られている。
 文化部にいた元同僚に電話し、生きていたのかどうしているのだと大騒ぎするのを話半分に聞き流しながら手に入れたい情報だけを記憶に残した。マティス、それも大作を扱える画廊はニューヨークの中でもメトロピクチャーズかアンドレア・ローゼンだということ。
 なかでも個人の経理している画廊は、前者だけだったので、あの青色の絵は『メトロ・ピクチャーズ』が出所なのだろうと見当をつけた。
 顧客、それも上得意の情報をあっさりと吐くとも思えなかったけれども何かしらのヒントは手に入れられるだろうと思っていた。
 血と暴力の匂いの纏わりつく『裏』の住人たちよりは、堕としやすいかもしれないしな、とも。
 自宅のアパートメントから、歩いてほんの数分の距離にある画廊に接点が残されていたことにいっそバカバカしくなる。
 そして、魂の抜けたように通りに蹲った自分も大バカだ、と今になって歯噛みしたくなる。あのネイヴィーブルーの車、あれはきっとロイのものだ、そのナンヴァさえ覚えていればこうも苦労はしなかったのに、と。
 登録ナンヴァーが分かれば、陸運局に電話さえしたならあっさり個人情報は手に入ったろう。その程度のノウハウはあった。

 溜息を押し殺し、夕刻前にアパートメントを出て画廊に向かった。
 雪片がいつ降って来ても不思議はないほどに灰白の雲は低く、それをルーシャンが僅かに見上げた。
 79thストリートとマディソン、教えられたアドレスに向かってまっすぐに向かう。
 黒のトイプードルが赤い綱を着けられて散歩していくのを追い越し、知り合いでもないのに犬の主人らしい着飾ったご夫人がなぜ息を呑んだのか、ルーシャンは一瞬いぶかしんでいたけれども、目的の画廊が近付いてきたことに意識をあわせていた。
 予想していた通りの、古い戦前からの豪奢な建物の一階に厳格なまでに上質な佇まいで窓が切り抜かれていた。とても小さな、それでもビザンティン期のモノだと言われてもメットのキューレイタでさえ納得しそうなイコンが飾られ。
 く、とルーシャンが口許を吊り上げていた。まったく、どこまで嫌味な男なんだろうね、と。マフィアにしては趣味が良すぎやしないか?と溜息混じりに。
 ハーストみたいに、馬鹿馬鹿しいアメリカンアイコンを作ってでも居るほうがよほど可愛い気があるのに。
 そんなことを思い、重たそうなガラスと真鍮のドアを開けさせるためにひっそりと壁と同化していた呼び鈴に押しかけたそのとき、
「あんれ?こんなところに天使がいるー」
 陽気な、どこか気の抜けたような声が突然背後からし、ルーシャンが振り向いた。こんな知り合いはいない、と思いながら。
 そうしたならば、黒髪で雀斑の印象的な男が満面の笑みで立っていた。
「今日は少しは元気そうだね、ルーシャンさん?」
 ――――――だれだ……?
 不審が表情を臆すことなく浮かべたルーシャンが眉根を寄せていく。
 ひょい、と男が自身を指差し、そんなルーシャンの表情を気にした風もなく明るい声で綴る。
「2人組のポリスメンの片割れー」
「――――――悪いけど、知らない」
 そう言って向き直ろうとすれば。
「今日は真白じゃないんだね、天使のルーシャンさん」
 その言葉に、ルーシャンが一層眉根を寄せていった。白、の言葉に時間が遡りそうになった。こちら側、に放り投げられた日に。
「相棒とずっと心配してたんだよー、」
 そう言って屈託なく笑う顔にやはり見覚えは無かった。この男だけではない、あの日のことは何もかも、曖昧で記憶さえあやふやだ。
「――――――――警官、」
 ルーシャンが呟いた。やはり記憶には残っていない。なにも。
「そうそう!ウンウンウン、パトロールのエイブだよ。相棒はザック。無愛想なヤツでごめんねー?」
 無愛想もゴメンもなにも、記憶に無い、そもそも。

 何歩か近付いてき、そのまま気軽に手を差し出してくるのには答えずにいた。視線をそれでも外さすに居る。
 そうしたならあっさりと手を引き戻した相手が、ギャラリィでお買い物?と言っていた。
 警官、の言葉が今になってクリックした。
「あんた、じゃあ…」
 息をヒトツ小さく呑みこむ。
「んーん?なになに?なんでもいいよー、訊いて訊いて」
「あのときの車、ナンヴァ覚えてるか?」
「天使を落っことした紺色のサーブ?ナンバまではちょっとね。距離があったし」
 どしたの?と表情が僅かに引き締まる。
「サーブ、の持ち主。あんたなら確定できる……?」
「できるよ、何かトラブルだったのなら。調書に書き込まなきゃいけないけど」
 トラブル?と訊いて来たエイブが言葉を続けていた。
「――――――そいつを探してるんだ、合意だったから誘拐にはならないと思う」
「……うーん、なんだかコンプレックスな関係?持ち主、どんなニンゲンだったか覚えてる?」
 頷く。
「どんなヤツ?なにか酷いことをされた?」
「……覚えてる、けど――――――」
 一瞬、逡巡する。
 その僅かな躊躇いを見逃さずに、エイブがすい、と通りの反対を指差していた。
「他人に訊かれたくない内容だったら、オレの車、そこにあるけど?」
 ルーシャンがまた僅かに躊躇いを隠せずにいたならば、エイブはホーススキンのコートの胸ポケットから警察手帳を覗かせ、「ハイ、ID」とあっさりと笑みを乗せていた。
「おせっかいだね、あんた」
 ルーシャンがまっすぐに視線をあげれば、笑みと一緒に、だってポリスマンだもん、と胸を張るような相手に、ルーシャンがまた僅かに眉を引き上げた。
「ただのナンパじゃねぇの」
「んー、痛いとこ突いてる。でも困ってるヒトを放っておけないのも本当。なんだったら窓開けっ放しでもいいよ?叫んだら誰にでも聞こえるようにさ」

 促された方に歩き出しながら、視界の隅に笑みを捕え。
「酷いどころか…」
 そう半ば独り言めいて呟き。ドアを開けられ、助手席に滑り込む。
 ドアの閉じられる音がし、視線を窓外に投げる間に、ドライヴァーズシートにエイブが乗り込み。真っ直ぐに向き直ってきたのを視線を合わさずにいても感じ取った。ゆっくりと向き直るようにすれば、窓を言葉通りに降ろしているのに、バカかよ、と呟いた。寒いじゃないか、と。
 そ?じゃあ、となぜかいそいそと窓を戻していくエイブがふにゃ、と柔らかにわらうのに肩を竦める。
 視線を向けたまま、エイブが口調を変えずに切り出していた。サーブの持ち主に騙されちゃった?と。
 違う、とルーシャンが首を横に振った。
「おれが探してるのは、そいつの“ボス”」
「……うううん、っと。あまりステキな響きじゃないんだけど」
 素直に困った顔を浮かべたエイブが、言葉を継いでいた。
「犯罪絡み?個人的な報復?」
 酷く鋭いニンゲンなんだな、とルーシャンがエイブを内心で評した。
「報復?報復かな……散々泣かされて放り出されたから」
「……“ボス”に?」
 目を大きくして確認するエイブに、ルーシャンが僅かに首を傾けた。
「最初から、そういうディールだったけど」
 だから犯罪じゃないだろ、と呟く。
 ちょっとまって、と動作で示すように片手を突き出し。
「それって、警察官が聞いたらちょっとマズイ話?」
 そう確認してくるのに、
「おれは最初から“警官”には話してないよ。エイブ」
 ルーシャンがほんの微かに声を揺らす。
「Oh,(あっらー)」
「たまたま、声を掛けてきたどっかのニーサンに話してるンだ」
 要は、とルーシャンが続けた。
「あのサーブを運転してたバカの所在か、あのクソったれの“ボス”の名前だけでも分かったらあとは勝手に自分で何とでもするだけの話なんだ」
「ええと、ルーシャンさん?ちょっと無謀って解ってる、そのシンプルなプランが?」
「もちろん」
 あっさりと答え、あまつさえ。ふわりと笑みまで浮かべる。
「MGMのシャチョウにデモテープ持っていくぐらい無謀なことって……わかってるんだろうねえ」
 はは、とルーシャンがわらった。
「それでスクリーンデビューした女優をしってるよ」
「オプティミストー、」
 あっけに取られたように呟くエイブに、ルーシャンがちらりと肩を竦めた。
「そう?じゃあお世話様」
 そう言って、ドアハンドルに手を掛けていた。

 がちゃ、とドアが開かれる音とほとんど同じタイミングで考え込んでいたエイブが顔をあげルーシャンを見詰めてきた。
「こうしよう」
「なに」
「街のタダのオニーサンじゃあちょっと荷がちょっと勝ちすぎるから……だから、教えてくれるヒトのところに、連れて行ってあげる」
「情報屋ならみんな尾っぽ巻いて逃げたよ」
「街のタダのオニーサンは、そんなショボいヒトタチは相手にしません。紹介するのは、オトモダチ」
「マフィア?」
 ひゃあ、とわらったエイブにルーシャンが眉を顰めた。
「あ、その単語避けてたのに!」
「あいつらはなにも教えてくれない」
「近からずとも遠からずかな、筋が違うけど。まあでもオトモダチだから、相談内容、ちょっとガブちゃん好きそうだし。イケると思う」
「イタリアン……?」
 す、とルーシャンが首を傾ける。あいつらは少なくとも違ったけどな、と。
「ン。陽気で変わったオニーサン。これ以上はちょっと言えない。ケド、キミが放り出されたところよりはよほど安全なところだよ」
「サーブのバカも陽気なのっぽでバカだよ」
 性質悪いに決まってるね、エイブに答えれば。
「保証は出来ないけど、多分唯一応えてくれるヒトだね」
 そう告げ。どうする?とルーシャンを見上げてきた。じゃあ用心しなきゃいけないってのもわかるね?と言い足しながら。
「おれは、」
 ふわりとルーシャンが微笑んだ。
「怖いもの知らずのバカ、らしいから。どうだろう」




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