*17*

桟橋で眠っていたなら、風に揺れる波が橋桁にあたって静かなリズムを刻んでいた。頬に当たるゴムの感触に、浮き輪を枕にしていたんだっけ、と思い出す。
陽射しが肩にあたって、そこがじりじりとするのに起きだしたいような、もう少し眠っていたいようなキモチでまどろんでいたなら、ぱしゃん、と水音が一際高くなった。
そして、風が強く湖の表面を揺らしていく音が響き、おや、と眼を瞑ったまま思っていた。晴れていたはずなのに、みんなでボートに乗って湖の対岸まで移動して……ぱしゃ、とまた水音が聞こえ。遠くの遠雷まで聞こえてきた。
夕立の前の、遠い………え?
嵐なんて来ていたっけ……?ちがう、これは――――ゴロ、と暗色をした雲の――――

がば、と。ヴァンがベッドから跳ね起きた。
突然、意識が引き戻され一瞬思考が空白になった。ただ、酷く自分の鼓動が競りあがっていることはわかった。
そして。
「―――ショーン…?」
暗い室内を見回し。そこには誰もいなかった。
きっちりと閉められた自室のドアと。
起き上がった傍らの空間は、すっかり冷たくなっていた。
「な……」

また、音が静まり返った暗がりから聞こえてきた。雷などではない、低いエンジン音。
「クルマ、って――――――くそっ」
ファック、ショーン……!あんた―――ウソつきやがった!
頭のなかで罵声がぐるぐると回り始め、ヴァンがベッドから飛び降りると側にあった靴に適当に足を突っ込みリヴィングに走り出ていった。
灯りの落とされたキッチンには微かにヒトのいた気配が残っていた。テーブルの上には本のラッピングの切れ端と。
忙しなく、ほんの一瞬ほどでそれだけの情報を掻き集め、ペンを掴むと父親あてにそのラッピングの裏に殴り書きでメッセージを残し、ドアを蹴破る勢いであけるとそのままうっすらと夜明けの明るさを乗せ始めたなかに飛び出していった。
「なんで…ッ黙って置いてくんだよっ」
喚き散らしたくなる、けれどそれはあの嘘つきなヒデェヤツを捕まえてからだ、と坂道を走りながら毒づき。石に足を取られかけて突っかけていただけの靴が片方脱げ落ちてしまったことにも構わずに走る。

「ファック、ショーン……ッ」
聞こえるはずもないと知っていても、叫ばずにいられない。ここが山の中じゃなくてダウンタウンのメインストリートだろうと同じだ、と。
「あんた、黙って置いていかないっていったじゃないかっ」
右足に、ずきりと鈍い痛みが走ったことにも構わず、どうにか坂道を走りおり。ショーンのローヴァが停められていたスペースにたどり着く。
は、と息が押し潰されそうな肺からせり上がり。けれど僅かにリアのライトが遠ざかっていくのが見えた。

「だから、なんで、あんたはッ!」
チクショウ、クソショーンッ、そう叫び。
自分の頬が濡れていることなどどうでも良く。一瞬止まっていただけで、またすぐに湖畔に沿った道を走り始めていた。
「置いてくなって言ったじゃないかっ」
全力で追いかけても遠ざかるローヴァに向かって叫ぶ。
「ちゃんと、話してくれる、って、いっ、たじゃないかあッ」
頭がぐらぐらする。
哀しすぎて悔しすぎて、心臓がパンクしそうだ。
バックミラーに映っているだろうに。犬でも鹿でもなく、自分だってこともわかっているのだろうに。
「ショオオオン……ッ、」

喉が割れそうだ、構うもんか。いま声が届かないなら、もう声なんてイラナイ。
「騙すなんてひでえよッ!」
ひゅ、と喉が乾いた音を立てる。咳き込み、それでも進もうとし。
ローヴァはスピードを緩めることなく、その距離は拡がるばかりで。
「ファック、ショーン!!!」
流れ出す涙を止めることなどできなかった。
あぁだめだ、あのひとはオレを置いていくんだ、と。
絶望する。その事実を見せ付けられて、体中の力が抜けてしまったようにヴァンは思った。
そのまま、地面に膝を着き、両手を着き。陽射しを吸い込む前のひやりとしたアスファルトにへたりこむ。

息が出来ない。
全身が震えるようなのは、どうしてだろう。
心臓が耳まで競りあがって、こめかみが割れそうに痛い。
「ショー…ンッ、」
拳を地面で握り締め、嗚咽を漏らし。う、と声が揺れる。

不意に、タイヤが滑る音が聞こえ。それが少し近付いてきた。
そして、重たいドアの閉じられる音と。
ぐらぐらする視線を、辛うじて地面から上げれば。酷くゆっくりと踏み出される脚が見えた。
瞬きする。
そのまま。視線を徐々に上げていけば。
少し離れた位置に停められたローヴァから、歩いてくる姿が眼に入った。
「幻覚まで見える、」
ぅ、と嗚咽を漏らし、拳を眼に押し当て。喉が勝手に鳴るのを止めようと必死になっても、無駄だった。
まるでなにかの発作のように、息がマトモに吸い込めずに肺が引き絞られるだけのように切れ切れで。

「ファ…ッ、ク、ショー、ン……ッ」
ぼろぼろと馬鹿みたいに涙がただ流れるばかりで。
哀しいのか、といわれれば。怒っている。
怒っているのか、と探れば―――哀しくて死ねそうだった。
家からの全力疾走と、湖畔をずっと走ったことに心臓がいまになって盛大に文句を言い始め、言葉なんか出せず。おまけに酸欠めいて幻覚まで見えている、と。
ヴァンはアスファルトを爪で引き掻くようにし、拳を握り締めた。
「ショ、ンのばかやろお…っ」
バカヤロウ、と呟けば。ヴァンの頭の側に人影が落ちてき。
幻覚がサングラスを取ってみせ、ひょい、とその前にしゃがみこんだ。
視界に足がはいってき、ヴァンがカオを僅かに上向けた。

「オマエ、そんなにオレのこと好きなの?」
このあまりなせリフは、幻覚が言うはずもない。なぜなら、ファンタジィはもっと優しいものだ、だったらこれは―――――――
「だからッ、ずっ…っと、そう言ってるじゃないかあッ!」
だん、と地面を思い切り殴りつけ、ヴァンが文字通り泣き叫んだ。
「おれが嫌なら言って、って言った!なのに……ッ、だからって、なんで…ッだまって置いてく!!!」
「うん」
流れ出す涙でカオが見られずに俯いていたかおを声に向かってまっすぐにヴァンが上げた。
精一杯睨みつけるようにしても、涙が止まらずに、ヴァンが毒づき。拳で目元を抑えながら、震える声を絞り出す。

「ファック、ショーン…!」
言葉を告ぐ間にも、頬が濡れていく。
「全部、オマエが棄てられるか。知りたかったんだよ」
とても静かな声が慰撫するようにヴァンの耳に滑り込んできた。
その言葉に、思い切りショーンの肩を拳でヴァンが突いた。
「もういい、あんたなんか、どっか行っていい!勝手に見つけていくから、イイ!!!」
チクショウ、と涙の止まらないままに噛み締めるように言う。
「おとーさんも、大事なこの場所も。全部棄てられるの?」
僅かに上体が揺らいだだけのショーンが覗きこむようにして問いかけてくるのに、ヴァンがまた睨むように視線をあわせていた。
「あんたしか欲しくないんだって、いってるじゃないかっ」
どうして信じてくれないんだよ、と歯噛みする。
「差別とか、されるよ?コドモの恋愛じゃあ耐え切れないよ?それでもいいの?オレがマジでどうしようもないオトナでも、オマエは後悔しないっていえる?」

「おれは……っ、」
ぐ、とヴァンが嗚咽を飲み込み。揺らぎそうになる声を抑えようと小刻みに息を肺に取り入れていく。
「ショー、ンが…っおれといて、後悔することだけ、が…怖いのにっ」
ぎゅ、と地面に手を着いて身体を起こそうとし。
「あんたは…っ、」
ぼろ、とヴァンのブルーアイズから涙が転がり落ちた。
「じゃ…、おれが、っ、未成年じゃなくなって、どっかでオトナになって来たらあんたおれのこと好きになってくれんのかよお」
目元を手で覆うことも忘れて、ヴァンが泣いていた。それでも。必死に言葉を綴る。
「それ、待ってたら。マジでオレ、おじさんになっちゃう」
「2ねんだろ、ばかっ」
くす、と小さく笑ったショーンに向かってヴァンが真剣に怒っていた。
「そしたらオレ、30だよ」
真顔になったショーンに、ヴァンが瞬きした。
「だから?」
嗚咽にジャマされながらも、言葉を継いで。ショーンは、と唇に上らせていた。
「おれが50になってもチビちゃんだっつった!年関係ねえ」
悔しさをありありと滲ませる声で。
ほた、と顎を伝って涙が地面に落ちていく。

「オレが役立たずのジーチャンになっても、一緒にいてくれんの?」
「とうさん見ただろッ!」
「それとは違うでしょーが」
「役立たずのジーちゃんだったんだよっあのヒトも!おれも!クソがつくチンピラだったけど!」
そう声を荒げるヴァンの顎をひょい、と捕まえ。ショーンが顔を覗きこんでくるのにヴァンがまた瞬きをした。
「オヤジさん以上に甲斐性ナシでも恨まない?」
ヴァンの眼が見開かれた。そして、僅かに首を傾げるようにする。
「おれはあんたをあいしてるのに」
酷く静かにそう言葉にする。

くぅ、とショーンが笑みを作った。
「うん、信じた」
「――――くそ、あんた、いままでおれが……ッ」
一瞬だけあっけにとられたように黙り込み。けれどもすぐに罵声が続きかけたところを口を唇で塞がれ、ショーンの喉奥に言葉の続きが落とされていく。
突然のことに意識と身体の繋がりが効かなくなり一瞬身体の固まったヴァンの背中に腕が回され、びくりとする合間にもヴァンの背中がアスファルトに着いていた。
浮かされた唇の、僅かな隙間が酷く熱く思え、ヴァンが瞬きした。
見上げるすぐ先にはショーンの顔があった。

「ショ…」
その双眸が煌くようであるのに、ヴァンが言葉を失くして見入り。
「――――全部攫うからな?」
落とされた囁きに返事をする暇もなく。
逃げねぇもん、と上らされるはずだった言葉は唇の間に押しとめられていた。
噛み付くようにあわせられた唇の熱さにぐらりと背中が沈むかと思い、ヴァンが地面を掻き。整いかけていた息が惑うようにせり上がり、深く口付けられてぞくりと背骨に添って痺れが辿り落ちていき、ヴァンがきゅっと眼を瞑った。
諭すように、思い知らせるように重ねられたときとは違って。
息を零すことさえ出来ないかと戸惑う。唇と舌とでファックしてるみたいだ、と視界が反転しかける。

「――――――――っ、んっ」
耳に響いた甘ったるい声が先を強請るようで。それが自分のモノだと気付いて躊躇う。
貪られ、きつく絡み合わされる濡れた熱さに喘ぎ。
喰われる、と錯覚する。あぁくそう、すげえ、ぃい。ショォン、と言葉に出来ずに震える指で背中に縋り。唇を舐められ震える。
震えかける息を、きれぎれに吐けば。声が届いた。

「もうオマエはぜぇんぶオレのものだからな、」
ゆら、とブルーアイズがショーンを見上げる。その、宣言するようなトーンに何かを問いかけるように。
「泣いても喚いても、帰さないからな」
そう言葉を足され。
「――――ショォ、」
呼びかける間にも。ぐい、と腕を引かれて立ち上がる。
まだ。どこかぼうっとしたような眼差しでヴァンが見詰めていれば、背中をショーンの手が払っていき。視界に、唇を引き上げるショーンの表情がいっぱいになる。
「ショーン、おれ…」
「愛してるよ、ヴァアン」
そう囁かれ、思考が急停止する。
けれども。言葉の欠片すら逃したくはなくてヴァンは腕に縋るようにすれば。
「多分、オマエと同じ意味で」
そう続けられていた。

「ショーン、」
ぐ、と腕を掴んでいた指先に力を込める。
言葉にしたいことがあふれ出しすぎ、名前のほかはなにも言えなくなる。
「もう、置いていくな、」
首元に顔を押しあてて、やっとそれだけを訴える。
「叔父さんにきちんとご挨拶したら、家に連れて帰って、オマエのことをきっちり全部攫うからな。覚悟しとけよ」
ふわ、と幸福感に頭の先まで包まれていたような世界が、そのキィワードで突然現実味に溢れてき、「あ、」とヴァンが視線を上向けた。
「あ、と…あの、ショーン、」
「んー?」
さあ、とその目元が赤くなってしまっていることに気付く余裕はヴァンにはなかった。
「あ…と、あの、がんばる、おれ…その―――ごめん、」
かあ、と頬まで赤く染まる。

「なにを頑張るんだ?」
意味が素直に追いきれず、首を傾げるショーンにヴァンがますます口ごもった。
「ん、と―――――――や、えと。おれも、ショーンとシたいから、がんばる」
オンナノコとしか遊んでいないことは、どうやってカヴァーしよう、とうろうろと可笑しな方向へ思考が流れかける。
「好きにしな、」
す、とショーンの口もとが吊り上り。どこか、動悸が上りそうな笑みを乗せるのにヴァンが瞬きした。
「ショォン?」
どきどきと勝手に心臓がうるさいのを無視して辛うじて言葉にする。
「ドライヴは長いからな。ちゃんと着替えて、挨拶をしたらさっさと行こう」





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